48. ショッピング 後編 ~オレは勝手に勘違いしていた~
ステーキ店の入口の前で、リサの足が止まった。
腕に触れていた温かさが、ふっと離れる。
「……は」
短い声だけが、その場に落ちる。
マサキは隣を見る。
リサは自分の袖をつまんで、何度も整えていた。
目は落ちたまま、動きだけが落ち着かない。
(……やばい)
さっきまでの勢いが、頭の中で巻き戻る。
腕を引いたこと。声を上げたこと。近すぎた距離。
「……ごめん、ちょっと待って」
リサは小さく咳払いをして、背筋を伸ばした。
マサキはその変化を見て、わずかに眉を動かす。
「行きましょう、松前くん」
口元にそっと指をあて、優雅に微笑む。
マサキの目が横に動く。
「……如月、情緒不安定か?」
「違うの……女の子としての振る舞いを思い出しただけ」
リサはそのまま店へ入り、案内された席に座る。
椅子に腰を下ろす動きは丁寧なのに、どこか固い。
短めのスカートから伸びる白い脚を軽く揃え、背筋を伸ばす仕草が妙に大人びて見えた。
メニューを開く。指が一瞬止まる。
作っていた形が、すでに崩れ始めていた。
「あたし女の子だからレディースセットがいいかな……」
言いながら、目だけが落ち着かず揺れる。
壁のポスターに吸い寄せられる。
『店長おすすめ! 熟成厚切りステーキセット』
マサキはそれに気づき、小さく息を吐く。
(……分かりやすい)
マサキはメニューを見ながら、軽く言う。
「オレはこっちのサーロインステーキするか」
言いながら、目をメニューから外す。
壁のポスターへ流れる。
「あー…でも、こっちの厚切りステーキも気になるんだよな」
指先でメニューの端を押さえたまま、目は戻らない。
リサの目が一瞬だけ動く。すぐに逸れる。
「如月がそっち頼んでくれたら味見させてもらえるんだけどな」
マサキは目を外したまま続ける。
「1人じゃきついだろうから、もし残したらオレが食ってやるし」
コップに手を伸ばす動きが一拍遅れる。
(……バレてる)
小さく息を吐いて、肩の力が抜ける。
「うんっ、あたしこの厚切りのにする。一緒に食べよー」
声の調子が戻る。自然な明るさだけが残る。
マサキはそれを見て、コップを持ち上げる。
途中で一瞬止まる。
(……なんでこんな可愛いんだ)
目を外すのが、少し遅れた。
◇ ◇ ◇
鉄板の上で脂が弾ける。
香ばしい匂いが広がっていく。
運ばれてきた厚切りステーキとサーロインステーキを前に、リサの瞳は子供みたいに輝いていた。
「はい、こっちあげるね。もっと食べたかったら言ってね」
リサは手際よく肉を切り分ける。
代わりに、マサキの皿から差し出されたサーロインを、本当に嬉しそうに口へ運んだ。
「女の子だから」と意地を張っていた面影は、もうない。
美味しそうに頬張る横顔を見ながら、マサキも自分の肉を口にした。
店内はほどよく賑やかだった。
鉄板の音に空気が紛れて、さっきまでより落ち着いている。
けれど。
マサキの胸の奥には、小さな棘みたいに引っかかったものが残っていた。
ショッピングバッグの中の「浴衣」と「水着」。
(……結局、誰と行くんだろうな)
自分が選んだものが、リサにとって夏の思い出になる。
本当なら嬉しいはずだった。けれど。
それを"誰に見せるのか"を想像してしまう。
リサが水着姿でプールにいる姿。白い肌が日差しに光る。
大きくて柔らかそうな胸が水着に包まれ、歩くたびに揺れる。
細い腰。滑らかな太ももの線。
勝手に想像が膨らんでいく。
自分が選んだ水着を、リサが他の誰かに見せる。
その想像だけで、奥歯に何か挟まったみたいな居心地の悪さが広がった。
聞きたい。
でも、それはリサのプライベートを必要以上に探ることになる。
自分はただ、買い物の男避けとして付き添ったクラスメイトに過ぎない。
マサキは水を一口飲んだ。
ナイフへ目を落としたまま、できるだけ普通を装って口を開く。
「如月は……夏休み、夏祭りとかプール行くのか」
精一杯、世間話のふりをした。
今の自分に踏み込める範囲は、ここまでだと思い込みながら。
「うん、行くつもりだよ」
リサは短く答える。
そのままステーキを一口運び、幸せそうに目を細めた。
迷いのない即答。
「……そうか」
マサキはそれ以上踏み込めなかった。
(行くつもり……それはそうなんだが。だから、誰と……)
"一緒に行く相手"を限定しない返事が、余計に想像をかき立てる。
地元の友達か。モデル仲間か。あるいは――。
誰が隣にいてもおかしくない華やかさが、今は少しだけ遠く見えた。
(それとなく聞くにはどうしたらいい……?)
マサキは次の言葉を探す。ステーキを飲み込む。
それから、絞り出すように聞いた。
「と、友達と行くのか」
リサは水を一口飲む。
「んー……友達っていうか……まだ誘えてないんだよね」
マサキの手が止まった。
もう約束しているものだと思っていた。
リサはじっとマサキを見る。それから、目を逸らした。
「一応、準備だけしておきたいなって……。せっかく買ったから、無駄にしたくないって思ったら誘えるかなって」
真剣に迷いながら、楽しそうに選んでいた姿が頭をよぎる。
あれだけ気合いを入れているのに、誘う勇気が出ない。
(……そんなに誘うのが難しい相手なのか)
その"誰か"は、リサにとってそれだけ特別なんだ。
そう思った瞬間、喉の奥がチリッと痛んだ。
「如月に誘われて断るやつなんていないと思うけどな」
慰めじゃない。本音だった。
リサは鉄板の肉を見つめたまま、小さな声を落とす。
「でも………その人、人混み苦手って言ってた」
マサキの手が止まる。
(……人混みが苦手?)
聞き覚えのある言葉だった。確か、買い物に誘われた時。
断る理由として、自分で口にした気がする。
「……」
マサキは無言でリサの顔を見ようとした。
けれど、リサは頑なに鉄板を見つめたまま。
耳の先が、じわじわと赤くなっていく。
(まさか……いや、自意識過剰だろ)
理性が否定する。でも。
心臓だけは、どんどん速くなっていく。
(いやいやいや、違う。勘違いするな。人混み苦手なんてわりと誰でもそうだろ)
必死に言い聞かせる。けれど思考がまとまらない。
同時に。
もし自分以外に"その誰か"がいるなら。
そいつに無性に腹が立ってきた。
(……確定じゃない。勘違いして恥かくのは御免だ)
マサキは一般的な言い回しを選んで、できるだけ遠回しに言葉を返す。
「相手が如月なら、話は別だろ。多少の混雑くらいどうってことないと思うけどな……」
ただのアドバイス。自分にそう言い聞かせる。
「でも松前くんはさぁ、断ったよね。あたしが1人で行くって言うまで……来てくれなかったじゃん。説得力ないよ」
「いや、あれは……」
マサキは、自分の不用意な発言を呪いたくなった。
リサは唇を尖らせる。少し投げやりで。
でも、不器用なくらい真面目な空気のまま、マサキは言葉を絞り出した。
「あれは……だから、イヤだったわけじゃなくて……オレだと力不足だと思ったから」
ぽつりと漏れた本音。
情けなさに耐えきれず、目が泳ぐ。
モデルとして華やかな世界にいるリサ。
その隣に、自分みたいな地味な男がいていいはずがない。
そうやって勝手に線を引いて。傷つかないように壁を作っている。
リサは目を丸くした。半開きの唇のまま、マサキを見る。
その目が、まっすぐすぎて痛かった。
耐えられなくなって、逃げるみたいに言葉を重ねる。
「そもそも、オレの話は関係ないだろ。オレがその……夏祭りとかに、一緒に行くわけじゃないんだから」
動揺をごまかそうとして吐き出した言葉。
思ったより冷たく響いた。
"自意識過剰だと思われたくない"
その一心の虚勢だった。
けれど。言った瞬間、空気が静まる。
「……そっか。そうだよね。関係ないかぁ」
リサの顔から、さっきまでの明るさが消えていく。
目を落として、フォークでポテトを小さく転がす。
うつむいた横顔が、どこか小さく見えた。
それを見た瞬間、マサキの胸が鋭く痛んだ。
(……今の言い方、最悪だろ)
"関係ない"なんて突き放したかったわけじゃない。
ただ。自分が誘われていると確信するのが怖くて、逃げただけなのに。
リサの弱々しい姿を見て、マサキは覚悟を決めた。
まだ"勘違い"の可能性はある。
けれど。ここで黙ったままの方が、絶対に後悔する。
そんな予感だけは、はっきりしていた。
マサキはコップの水を一気に飲み干す。
喉に張りついた躊躇いを、無理やり流し込む。
「もし……そいつに断られたら、オレが一緒に………違う」
言葉が途切れる。目が揺れた。
「いや、オレと一緒に……行くとか」
声がうまくまとまらない。
"代わり"みたいな言い方になった自分に、さらに苛立つ。
リサが欲しいのは、そんな妥協みたいな言葉じゃない。
「……え?」
リサが小さく顔を上げる。
瞳には、まだ戸惑いと悲しみが残っていた。
マサキはテーブルへ少し身を乗り出す。指先がテーブルにつく。
「そうじゃなくて……!」
声が少し上擦る。
「オレと、行ってくれないか。夏祭りも、プールも……」
耳が焼けるみたいに熱い。
心臓の音が喉元までせり上がってくる。
必死に押さえ込みながら、マサキはリサの目を真っ直ぐ見た。
「……マジ?」
呆然とした声が漏れる。
リサは数秒動かなかった。
それから、急に目が泳ぐ。
「あ……ごめん。松前くん、気を遣って言ってくれてるんだよね」
声が弱い。
「今の、あたしが落ち込んじゃったから……本気じゃない……よね?」
自分に言い聞かせるみたいに、言葉を繋ぐ。
その遠慮がちな態度が、マサキの胸をさらに締めつけた。
「如月が、冗談にして流したいなら……それでも、いい」
リサが小さく息を呑む。
そのあと。肩が震え始めた。
「だ、だってぇ……松前くんが誘ってくれるなんて……そんなんあり得ないし……」
「オレは、冗談のつもりはないし……これは同情でもない……」
リサは頬に手を当てた。熱を確かめるみたいに。
じわじわと、顔全体に喜びが広がっていく。
濡れていた瞳が、一気に光る。
「……うんっ、行く! 絶対行く!」
リサは弾かれたように身を乗り出す。
満面の笑みで、大きく頷いた。
◇ ◇
ステーキ店を出てから。
二人の歩幅は、目に見えてゆっくりになっていた。
フードストリートの賑やかな音を抜ける。
視界の先には、ショッピングモールの大きなガラス戸。
そこを出れば、駅へ続く広場がある。
今日の"理由"は、そこで終わってしまう。
(……出口、見えてきちゃった)
リサは肩に掛けたショッピングバッグの紐を、強く握った。
指先が白くなるほどに。
夏休みが始まれば、学校で顔を合わせることもなくなる。
今日みたいに、自分から無理やり理由を作らない限り。
マサキに会う口実は、どこにもない。
(まだ帰りたくないよ……でも、「昼まで」って約束だもんね)
マサキが譲ってくれた時間。
それを分かっているからこそ、わがままを言いたくなかった。嫌われたくなかった。
リサは精一杯の笑顔を作る。
出口の手前で足を止めた。
「今日は、本当にありがとう。松前くんが来てくれて、すっごく助かったよ」
少しだけ目を落とす。
「……じゃあ、ここで」
「……おう」
マサキはポケットに手を入れたまま、短く返した。
その反応に、リサの胸がちくりと痛む。
やっぱり。彼は早くこの人混みから抜け出したいんだ。
そう思い込んで、一歩前へ出る。
◇ ◇
けれど。
マサキの心の中は、リサの想像とは真逆だった。
(……このまま帰すのか? オレ)
明日からは夏休み。
一度離れたら、次いつ会えるか分からない。
その不安が、人混みへの苦手意識を塗り潰していく。
自分から「昼まで」と言った手前。
今さら"まだ一緒にいたい"なんて格好悪くて言えない。
でも。ここで黙って見送ったら、絶対後悔する。
それだけは分かっていた。
マサキは出口へ向かおうとするリサの背中を見る。
喉の奥で言葉を探す。強引に引き止める勇気はない。
だから。"偶然"とか、"ついで"みたいな形にするしかなかった。
けれど、焦るほど理由が浮かばない。
ただ。リサの背中だけが、少しずつ遠ざかっていく。
「……っ」
思考より先に、体が動いた。
「あ……」
リサが小さく声を漏らす。
気づいた時には。
マサキは後ろから、リサの細い手首を掴んでいた。
反射的に強く握りすぎたかもしれない。
マサキは慌てて力を緩める。けれど、指先だけは離せない。
リサは肩を揺らし、ゆっくり振り返った。
困惑。それと、期待が少しだけ混ざった目。
「……松前くん?」
マサキの顔が真っ赤になる。
掴んだままの右手へ目が落ちた。
あまりにも無様で。言い訳もできない行動。
頭の中は真っ白だった。
引き止める理由なんて、何一つない。
でも。この手を離したら終わる。
その感覚だけが、マサキを動かしていた。
「……オレの……買い物……」
絞り出した声は、自分でも驚くほど支離滅裂だった。
本当は、買いたい物なんて何もない。
でも。そう言わなければ、リサをここへ留めておく理由がない。
(買い物……?)
リサが不思議そうに首を傾げる。
マサキは震える声で続けようとした。
「……」
続かない。何を買うのか。どこへ行くのか。
言葉が喉の奥で詰まる。
自分の不器用さに絶望して。
マサキが目を外しかけた、その時。
「うん、いいよー」
短い声。でも、はっきり届く。
マサキが顔を上げる。
リサは、掴まれたままの手首を少し引き寄せた。
ぱっと笑顔を向ける。
「あたしもまだ帰りたくなかったから」
真っ直ぐな言葉だった。
マサキの手から、ふっと力が抜ける。
嘘だと見抜かれているのか。それとも、リサも同じ気持ちなのか。
どちらにしても。
二人の前にあった出口の自動ドアは、もう視界の外へ消えていた。
「じゃあ……」
「うん」
◇ ◇
特に何を買う予定もないまま、ショッピングモールへ戻ってきた。
けれどマサキは、具体的な店も商品も一つも言えない。
ただ目だけが落ち着かずに泳ぐ。
そんな様子を見て、リサは全部察したみたいに自然な声を出した。
「あ、2階まだ見てないから、そっち行ってみたい」
「……そうだな。そうする」
マサキは救われたように短く返す。
リサが先を作ってくれるおかげで。
無理やり捻り出した"買い物"っていう嘘が、ちゃんと二人の目的地になった。
エスカレーターの前まで来たところで。
マサキの足がぴたりと止まる。
「……あ」
リサが不思議そうに振り返る。
マサキの目はエスカレーターの傾斜へ向いていた。
そのあと。すぐにリサの短めのスカートへ移る。
(……待て、これやばいだろ)
立っているだけなら、"可愛い"で済んでいた。
でも。エスカレーターの高低差を想像した瞬間、頭の中に警告みたいなものが走る。
リサが一段上に立つ。その後ろに自分。あるいは、知らない男。
スカートの短い裾から、白く滑らかな太ももが見える光景が頭に浮かぶ。
柔らかそうな曲線。細い脚のライン。
段差を上がるたびに視界へ入る。
(……見えるだろ、普通に)
喉の奥が熱くなる。
(周りの奴らの目が……)
無防備に晒される足元。
特に、すらりと伸びた太ももを想像しただけで落ち着かない。
「松前くん? どうしたの?」
「……エレベーター使う」
「え、2階だよ? すぐそこなのに……」
「如月が……その、スカートだから」
言いづらそうに言葉を落とす。
マサキは返事を待たない。そのままエレベーターホールの方へ向かった。
あまりに真っ直ぐで、不器用な指摘。
リサは一瞬きょとんとする。それから。
自分のスカートの裾をそっと押さえた。
「……あ……そっか。ありがと」
顔が少しずつ熱くなる。
そんな目で見てた。それ以上に、ちゃんと気にしてくれてた。
リサは少し俯きながら、マサキと並んでエレベーターへ乗り込んだ。
密室。
リサは自分の心臓の音が聞こえてしまいそうで落ち着かない。
一方のマサキは、黙ったまま階数表示を見つめていた。
チン、と電子音が鳴る。
二階へ着く。
扉が開いた瞬間。
リサは自然な動きで、隣にいるマサキの手へ自分の手を重ねた。
指先をそっと絡める。
その瞬間、マサキの身体がびくっと跳ねる。
繋いだ手の位置が少し下がった時。
マサキの手の甲が、リサの太ももへ軽く触れた。
スカートから伸びる柔らかな肌。
しっとりした温かさが、直接伝わる。
マサキは一瞬、息を止めた。
滑らかな感触。指の隙間から染みる体温。
思わず手を引きそうになる。
でも。リサがそのまま指へ力を込めた。
だからマサキも、諦めたみたいに握り返す。
壊れ物を扱うみたいに慎重に。
二人は手を繋いだまま、ゆっくり歩き出した。




