43. 勉強会 前編 ~断ったはずだった2~
張り詰めていた空気が、ようやくほどけた。
教室のあちこちで止まっていた息が、一斉に吐き出される。
リサはしばらくその場で固まっていた。
男子生徒が引き、周囲の視線からも"結論が出た"という空気が広がっていく。
そこでようやく、肩から力が抜ける。
次の瞬間にはもう、リサは勢いよくミオへ飛びついていた。
「ミオぉぉぉ……っ!」
「わ、っ……」
ぎゅうっ、と。
細いミオの体が、リサの勢いに押されてぐらりと揺れる。
マサキは目を見開いた。
抱きつかれたミオは、まるで小動物が大型犬に捕まったみたいだった。
それくらい体格差がある。
リサは女子の中でもかなりスタイルがいい。
手足が長く、腰の位置も高い。
モデルとして目立つ理由が、制服の上からでも嫌になるくらい分かる。
一方でミオは小柄で華奢だ。
胸元も控えめで、肩幅も狭い。
同じ"可愛い"でも、方向性がまるで違う。
リサが"目を奪う美少女"なら、ミオは"目を離せなくなる美少女"だった。
「ありがとー……ほんと助かったぁ……」
リサは安心しきった声で言いながら、さらにぎゅっと抱きしめる。
「う、うん……」
ミオは少し困ったように笑った。
でも、嫌がってはいない。
むしろ慣れている感じだった。
教室の空気が一気に緩む。
「うわ、普通に抱きつくんだ……」
「あそこ仲いいなー」
「てか保坂さんも可愛いよな」
「分かる。系統違うけどどっちも強い」
そんな声が周囲から漏れる。
マサキは何も言わない。
ただ、視線の置き場がなかった。
リサの長い髪が、抱きついた勢いでふわりと揺れる。
さらさらと流れる髪先がミオの肩へ落ち、甘いシャンプーの匂いがするような錯覚を起こす。
「やっぱミオが一番安心するんだよねー」
そう言って、リサは頬を緩めた。
さっきまで男子生徒相手に貼り付けていた笑顔じゃない。
力の抜けた、本当に安心している顔。
その瞬間、マサキは胸の奥が少し軽くなる。
けれど。
その直後だった。
抱きつかれた勢いで、ミオのプリーツスカートがふわりと浮いた。
短い裾。
その下から、一瞬だけ白い太もものラインが覗く。
マサキの視線がそこへ吸われた。
(見る場所、違うだろ……っ)
慌てて上へ逃がす。
それが完全に裏目だった。
座っているマサキの目線。
そこへ、ちょうどリサの胸元が入る。
「やっぱミオちゃんはすごいなー。よしよし」
機嫌よく笑いながら、リサが身体を揺らす。
そのたび、薄いブラウス越しの柔らかな膨らみが大きく波打った。
ミオの華奢な身体へ押しつけられるたびに形が変わる。
丸みが潰れて、戻って、また揺れる。
制服の上からでも分かるくらい、弾力のある質量だった。
(……いや待て)
近い。
目の前だ。
ブラウスの生地が引っ張られて、ふくらみの輪郭がやけに鮮明になる。
リサはこういうことを無意識でやる。
だから危ない。
本人はたぶん、何も分かっていない。
男がどういう目で見るか、どう意識するか。
いや、分かってないわけじゃないのかもしれない。
でも少なくとも、マサキ相手には警戒が薄い。
それが余計にまずかった。
柔らかそうだとか。
でかいとか。
そういう単語が脳裏をよぎるたびに、マサキは必死に自分を止める。
普段から意識しないようにしているのに、こういう不意打ちだけは避けられない。
リサが身をよじるたびに、胸が遅れて揺れた。
押されて、形を変えて、また戻る。
(無理だろ……)
なのに視界へ入る。
動く。
しかも目の前。
美少女二人が密着してる状況で、冷静でいられる男子高校生なんかいるわけがなかった。
マサキはごくりと唾を飲み込む。
思ったより大きな音が鳴った気がした。
(……今の、バレた?)
一気に血の気が引く。
(いや、違う。何が違う? いや違わないけど、違うだろ。目の前にあっただけで——)
思考がまとまらない。
(バレた? バレてない? どっちだ)
終わった。
いや終わってない。
でもたぶん終わった。
そんな風に一人で沈みかけていた時。
「ふっ」
小さな笑い声。
マサキは顔を上げた。
ミオと目が合う。
抱きつかれたままの姿勢で、ミオは少しだけ口元を緩めていた。
からかうでもない。
引くでもない。
ただ、
"まあ、男の子ならそうなりますよね"
みたいな、静かな納得の笑い。
その視線が妙に逃げ場をなくす。
(違う。自分の目の前にあっただけでオレは悪くない)
必死に心の中で弁解する。
だが、そのタイミングでリサが顔を上げた。
「なにー?」
きょとん、と。
無防備な顔。
マサキは即座に目を落とした。
「……別に」
短い返事。
けれど耳まで熱いのが、自分でも分かった。
◇ ◇ ◇
教室の空気が、ようやく少しだけ緩み始めていた。
さっきまで張り詰めていた視線も、ざわつきも、少しずつ別の話題へ流れていく。
けれどマサキだけは、まだ全然落ち着けていなかった。
そんな中。
ミオが、小さく手を叩くみたいに言った。
「そーだ」
おっとりした声。
でも、その一言には、どこか"考えがまとまった"響きがあった。
◇
ミオはちらりとリサを見る。
さっきまで笑顔を貼りつけながら困っていた親友。
(リサちゃん、松前くんと一緒だとちゃんと勉強してくれそう)
ミオは知っている。
リサは気分で動く。
やる気にも波がある。
けれどマサキが絡むと、妙に頑張る。
テストも。
宿題も。
話題も。
"マサキと一緒"が理由になると、リサは面倒くさがって投げない。
それに。
さっき、リサが最後に見ていたのは、ずっとマサキだった。
助けを求めるみたいに。
縋るみたいに。
(ほんとに好きなんだねぇ)
ミオは内心で静かに結論づけていた。
だったら。
勉強も進む。
リサも嬉しい。
ついでにマサキの成績も上がる。
なら合理的だ。
ミオの中では、かなり自然に話が繋がっていた。
だからそのまま、何気ない調子で口にする。
◇
「テスト勉強、2人まとめてわたしがみてあげる」
「え」
リサがぱち、と目を丸くする。
マサキは一瞬遅れて反応した。
「……オレは、自分のペースでやる方がいい」
反射的だった。
だが、その返答を聞いたミオは、すぐには喋らなかった。
(そういう感じなんだ……)
小さく瞬きをしてから、静かにマサキを見る。
机の上は、整理されすぎているくらい整っていた。
問題集。
ノート。
シャーペン。
消しゴム。
全部が揃いすぎている。
置き方に無駄がない。
耳には片耳だけイヤホン。
完全に拒絶するなら、両耳にする。
でもこの人はそうしない。
片方だけ。
最低限、人の声が入る余地を残している。
しかし、「人が苦手」とは言わずに「自分のペースでやる方がいい」と言った。
本音を、そのまま出さない。
一度、論理へ変換してから喋る。
(なるほど)
ミオは静かに理解した。
そこまで整理したあとで、ミオはようやく口を開いた。
「……そうですか」
声は小さい。
でも妙に落ち着いていた。
「私はテストの結果も出てますし、教える立場として問題ないと思います」
さらりと言う。
嫌味がない。
事実だけを置いていく。
「私なら、次のテストで結果を出させることもできます」
マサキはわずかに眉を動かした。
自信満々、という感じではない。
ただ、"できるから言ってる"響きだった。
学年トップ。
その肩書きに説得力がありすぎる。
ミオはさらに続ける。
「さっきの方の言い方を借りるなら——」
一拍。
「松前くんが1人でやる前提のままで構いません」
マサキの思考が止まる。
「無理なら途中でやめてもいいです」
さらに止まる。
「この提案は、最初から無理を前提にしていません」
止めを刺された。
「では、そういう形で」
話がまとまりましたよね、みたいな静かな締め方だった。
(……待て)
マサキは混乱した。
(それ、3人で勉強する流れになってる?)
しかし、条件だけ見るならかなりいい。
学年トップ。
教えるのも上手そう。
分からないところを聞ける。
1人でやるより合理的だった。
(条件としては、かなりいい)
そこは否定できない。
だから余計に困る。
マサキはじわじわ頭を抱えたくなっていた。
そもそもマサキは、女の子と長時間一緒にいること自体に慣れていない。
教室で少し喋る程度ならまだいい。
でも放課後。
隣同士。
何時間も同じ空間。
それだけで、かなり神経を使う。
しかも今回は、よりによって。
(なんで、2人とも女なんだよ……っ)
問題がリサだけで済まなくなる。
リサは、もう別格だ。
明るくて。
華やかで。
教室の空気を変える側の人間。
笑うだけで周囲の視線が集まる。
今も、ミオへ身体を寄せた拍子に、ふわりと長い髪が揺れる。
動くたびにブラウス越しの胸元がやわらかく形を変える。
マサキは目を前へ戻した。
(だから危ないんだって……)
派手さはない。
声も小さい。
なのに、なぜか目に入る。
小柄で。
少し幼さの残る顔立ち。
華奢で、守ってあげたくなる雰囲気。
リサは最初から別世界だ。
だから自分で線を引ける。
でもミオは違う。
同じ学校にいて、同じ部屋にいて、少し頑張れば話しかけられそうな距離感。
手が届きそうに見えてしまう。
だから余計に危なかった。
しかもミオは、マサキに合わせて条件を調整してくる。
否定しない。
押しつけない。
でも、逃げ道だけは綺麗に塞いでくる。
(少し優しくされる。否定されない。それだけで……勝手に勘違いする)
やめろ、と思う。
ミオが特別な意味で接してるわけじゃない。
ただ、頭がいいから相手に合わせているだけ。
多分それだけだ。
でも、それでも危ない。
簡単に好きになってしまいそうだった。
しかも厄介なのは、ミオ本人に"追い込んでる自覚"が薄いことだった。
声は小さい。
圧もない。
表情も穏やか。
なのに、気づくと包囲が完成している。
(……これ、勝てないやつでは?)
◇ ◇ ◇
「……それ、保坂さんにメリットなくない?」
口に出した瞬間。
リサが「え?」と小さく声を漏らす。
ミオは少しだけ瞬きをしてから、静かに答えた。
「メリットですか、ありますよ」
落ち着いた声。
否定されたというより、"確認された質問へ返答している"みたいな温度だった。
「人に教える時って、自分の中で整理し直すことになるので」
ミオは自分のノートを軽く持ち上げる。
「"分かってるつもり"だったところも確認できますし、知識の定着には結構効率いいんです」
そこまで言ってから、ちら、と隣のリサを見る。
「それに……リサちゃん、わたしだけ相手だと気が抜けるので」
「問題文読んでる途中で別の話し始めたりしますし」
「そんなことないよー」
リサがむっと頬を膨らませる。
けれどその抗議には、あまり説得力がなかった。
そもそも今も、さっき助けられた安心感からか、かなり機嫌が戻っている。
リサはマサキの机へ軽く身体を預けるみたいに身を乗り出した。
長い髪がさらりと肩から流れ落ちる。
その拍子に、ブラウスの胸元がわずかに引っ張られた。
(……見るな)
マサキは目を問題集へ戻した。
なのに、一回視界へ入ったものは頭に残る。
薄い生地越しでも分かる柔らかな丸み。
机へ寄りかかったことで押し上げられるライン。
しかも本人は、多分そこまで意識していない。
マサキ相手だと特にそうだ。
「松前くんがいた方が、たぶん集中続きます」
ミオが話を戻す。
「松前くんは、一人でやるより効率よくできると思います」
小柄な少女。
落ち着いた声。
柔らかい雰囲気なのに、話の芯だけは全然ぶれない。
「どうですか?」
静かに問われる。
マサキは眉を動かした。
「いや、今のはおかしい」
ミオが小さく首を傾げる。
「保坂さんに勉強教えてもらって効率上がるなら、なんで如月は成績悪いんだ?」
「う」
リサが固まった。
教室の何人かが吹き出しかける。
だがミオは全く崩れなかった。
「リサちゃんは、勉強そのものがあまり得意じゃないんです」
さらっと言った。
「集中も長く続くタイプじゃないですし、仕事の方へ負荷が寄る時期もあります」
「モデルの撮影とか入ると、そっちでかなり体力使っちゃうので」
リサはうんうんと小さく頷く。
けれどミオは容赦がない。
「教えれば誰でも同じように伸びるというわけではないんですよ」
マサキはわずかに押される感覚を覚える。
「オレだって成績上がらない可能性はあるよな?」
「ないですよ」
即答だった。
ミオの視線が、マサキの机へ落ちる。
整ったノート。
細かく区切られた問題。
「まず、文字が全然崩れてません。形を維持できてます」
細い指先がページ端を示す。
「ここ……計算ミスしたところ、消してないですよね」
「印だけつけて、"なぜ間違えたか"を横に書いてある」
「これ、自分の癖を把握しようとしてる人のやり方です」
マサキがわずかに黙る。
そこまで見られるとは思っていなかった。
「余白の使い方も上手です」
「後から補足を書き足せるように、最初から空けてありますよね」
「詰め込みすぎてないので、見返した時に視線が迷わないです」
「難易度ごとに自然に分けてるのもいいです」
「基礎から応用へ順番に積み上げてるので、理解の流れが綺麗です」
そこで少しだけ声が柔らかくなる。
「ノートって、頭の中が出るんです」
「これは、かなり完成度高いです」
その言い方だけ、少し嬉しそうだった。
「基礎ができてる人のまとめ方なので、伸びる土台はもうあります」
「だから、一人でやるのが悪いというより——」
ミオは静かに言い切る。
「そこに私が入った方が、たぶんもっと効率よくなります」
「なので、その部分は心配しなくて大丈夫です」
(……説得力、あるな)
マサキは内心で呻いた。
しかも。
(……可愛いな)
思ってしまう。
静かで。
落ち着いていて。
騒がしさとは距離を取るタイプなのに、必要な時だけ絶対に外さない。
なのに、中身は驚くほど強い。
(……無理だろ)
こんなの。
リサとセットで両側にいたら、神経が保たない。
(……いや、一回だけなら大丈夫か)
マサキは小さく息を吐いた。
「……分かった、やる」
「ほんとに?」
リサがぱっと顔を上げる。
その動きでまた胸元が揺れて、マサキは目を前に向けた。
「その代わり」
マサキは先に釘を刺す。
「合わないって思ったら、その時点で帰る」
「はい、それで大丈夫です」
ミオはあっさり頷いた。
「勉強って、無理した状態で続けても、あんまり頭に入らないので」
「合わなかったら、その時点でやめましょう」
「最初は、試すくらいの感じで大丈夫です」
柔らかい声だった。
けれど気づけば、全部まとまっている。
三人で勉強する流れ。
マサキが逃げにくい条件。
リサが一番安心できる形。
全部。
大人しいはずの少女が、静かに作り上げていた。




