44. 勉強会 後編 ~逃げられなかった~
放課後の学習室は、教室よりずっと静かだった。
ページをめくる音と、遠くの椅子を引く音だけが、ときどき響く。
窓際の席へ三人で座ると、マサキは落ち着かなくなった。
向かい側には保坂美緒。そして隣には如月理沙。
配置がよくなかった。
ミオは鞄を膝の横へ揃えて置いてから、頭を下げた。
「よろしくお願いします」
ぺこっ、と控えめな動き。声も大きくない。
近くで見ると、睫毛が長い。肌も白い。制服の着方まで整って見える。
学年トップという肩書きも相まって、"優等生の美少女"という言葉がそのまま似合った。
「えっと……よろしくお願いします」
マサキも少し遅れて頭を下げる。
すると隣で、リサも慌てて姿勢を正した。
「お願いします」
その動きで、ふわりと長い髪が揺れる。
甘い匂いがすっと流れてきて、マサキは無意識に肩へ力を入れた。
脚は細いのに、身体のラインは驚くほど女の子らしい。
しかも本人は、その破壊力にあまり自覚がない。
距離を詰めたり身を乗り出したりを自然にやる。
だから危ない。マサキみたいな耐性の低い人間には特に。
「松前くん、今日はなんでも聞いてくださいね。せっかくなので」
ミオが柔らかく笑う。真正面。
位置的にも、自然と視線はそっちへ向く。
だからマサキは、ほとんど無意識にミオばかり見ていた。
すると隣のリサが、少し目を細めて、どこか納得のいかないような表情になった。
でもマサキには、理由まではわからなかった。
◇
「ではまず、松前くんの得意なところと苦手なところを教えてください」
ミオがノートを開きながら言う。
マサキは固まった。
(いや、そう言われましても……)
自分を分析して言葉にする。それがまず苦手だった。
得意。苦手。急に聞かれても出てこない。
マサキが黙ったままノートへ目を落とすと、ミオは少し困ったように瞬きをした。
(難しいかぁ……)
でも、そこで「答えてください」とは言わない。
代わりに、聞き方を変えた。
「じゃあ、聞きますね」
責める感じがない。答えやすい形へ整理し直している。
「英単語とか、歴史の年号とか。暗記は得意な方ですか?」
「……得意な方」
「公式は覚えられます?」
「覚えるだけなら」
「数学の解き方も、形で覚えるタイプですか?」
「多分そう」
「小テスト系では点取れていますか?」
「それは取れる」
ミオは頷きながら、テンポよく続ける。
「じゃあ、ここ」
問題集を指さした。
「"なんでそうなるか説明してください"って言われたら?」
「……できない」
「応用問題で、どの公式使うか分からなくて止まることは?」
「ある」
「なるほど」
ミオが息をついた。納得したような顔。
「覚えたものを正確に当てはめるのは得意なんですね。だから、小テストや基礎問題は安定してます。ただ、本当は解ける問題でも、少し形が変わると止まってしまう。覚えた形と一致しなくなるので」
(……確かに)
マサキは少し眉を動かした。かなり当たっている。
見たことある形なら解ける。でも、少し崩されると急に分からなくなる。
ミオは続けた。
「暗記が得意なのもあって、"問題ごと"覚えてしまってますね。でも、それを"考え方"へ変換できるようになると、一気に伸びると思います。高得点の問題だけ落としてるタイプなので、点数が伸びきらないんだと思います」
「……なんで分かる?」
思わずマサキが聞く。
ミオはきょとんとしてから、笑った。
「いま、松前くんが自分で教えてくれたじゃないですか。ちゃんと答えられていましたよ」
その言い方が、どこか柔らかかった。
マサキはノートへ目を落とす。
(……やばい)
こういうのに慣れていなかった。
目の前の少女は、マサキが詰まったところを責めない。
答えられなかった部分を、"答えやすい形"へ変換してくる。
しかも、分からないところを見つけても、「ダメですね」ではなく、「ここを変えれば伸びます」で返してくる。
(……こんなの、勘違いするだろ)
自分みたいな、教室の隅で黙ってる側の男子に。
可愛い女の子が。真正面から目を見て。
「ちゃんと答えられてましたよ」なんて言う。
破壊力が高すぎた。
マサキは誤魔化すようにノートへ目を向ける。
でも、耳だけ熱くなっていくのが自分でも分かった。
◇ ◇
「じゃあ、まずここからやりましょうか」
ミオがノートを引き寄せる。
細い指先。白い肌。さらりと落ちる黒髪。
派手じゃない。でも、近くで見ると整っていた。
「ここ、因数分解の応用ですね」
ミオはマサキが教室で一人で止まっていた問題を指さした。
「たすき掛けでもいいんですけど……ちょっとやりにくい形なんです。これ。……AC法といいまして」
「AC法……」
聞いたことはある。でも、正直ふわっとしか分かっていない。
ミオはマサキの表情を見て、説明の速度を落とした。
「えっと、こういう形のときは、まずAとCを見ます。今の問題だと、x²の係数が1で、定数項がこの数字ですよね。だから、この"真ん中の項"を、A×Cになる組み合わせで分解します」
さらさらとノートへ式を書きながら続ける。
「……掛け算でいうと、"2つの数を探す"感じです」
横でリサが「おぉ〜……」と感心した声を漏らす。
その動きで、長椅子がわずかに揺れた。
マサキの視界の端で、リサの長い髪が揺れる。
机へ身を乗り出したせいで、薄いブラウス越しの柔らかなラインが意識に入ってきて、マサキは問題集へ目を戻した。
(今そっち見るな……)
ただでさえ脳の処理が追いついていない。
目の前では可愛い女の子が丁寧に勉強を教えてくれていて、隣にはスタイルの良い美少女が覗き込んでくる。
環境として終わっていた。
「で、その2つを使って、真ん中の項をバラします」
ミオはマサキが止まっているのを見て、一度手を止める。
「たとえば……この場合だと、こういう組み合わせになるので」
さらさら、と数字を書き足す。
マサキが今どこで引っかかっているのか、確認しながら進めているのが分かった。
「……ここ、分かりにくかったら」
ミオは少し考えるように目を動かしてから、言い換えた。
「"積がC、和が真ん中"って考えても大丈夫です。焦らなくていいので、まず条件だけ探す感じですね。それで形ができたら、あとは整理できます」
マサキは式を見る。分からない。
でも、完全に分からないわけじゃない。さっきより少し見えている。
「……ここ、みんな最初は混乱するので」
ミオが笑った。
「引っかかって大丈夫ですよ」
(……優しい)
頭がいい人間特有の、話が速すぎて置いていかれる感覚がない。
ちゃんと、マサキが止まっている位置まで降りてきて話している。
しかもそれを、嫌そうな顔一つせずにやっていた。
マサキは問題を見つめながら、息を吐く。
「悪い……もう一回、いい?」
「はい。じゃあ、ゆっくりやりますね」
即答だった。嫌そうな声もない。
ミオは再びノートへペンを走らせる。
「まず、"真ん中の数字を分解する"って考えで大丈夫です。先に、"かけてこれになる2つの数"だけ探してください。それが決まったら、その2つで真ん中を作ります。で、最後にまとめるだけです」
マサキはじっと式を見る。少し考える。
さっきより、形が見える。
「あ……」
「うん」
「……分かった」
ミオの目が少し柔らかくなった。
「感覚つかめました? このへん、一番引っかかりやすいところなので。手が止まったら、また教えてくださいね」
その声は穏やかだった。
押しつける感じがない。でも、ちゃんと隣に立ってくれている感じがする。
マサキは無意識に、肩の力をわずかに抜いていた。
(……なんか)
勉強を教わっているだけなのに。
女の子が、自分に合わせて話してくれている。
理解できる速度まで下りてきてくれる。
それが、思っていたよりずっと嬉しかった。
◇ ◇ ◇
ページをめくる音。シャーペンの走る音。遠くで椅子が引かれる音。
そんな中で。マサキの精神だけが、完全に追いついていなかった。
「手が止まりましたね……」
ミオが問題集へ目を落とす。だが、すぐに首を傾げた。
マサキの手元に置かれた問題集は、向かい側から見ると完全に逆さまだった。
しかも次の問題は、さっきより難しい。
ミオは数秒だけ、そのまま逆さで解こうとした。
「……」
真面目に考えている。だが。
「……ちょっと待ってくださいね」
呟くと、ミオは席を立った。
そのまま、マサキとリサが座る長椅子の方へ回り込んでくる。
「ここ、失礼します」
そして。マサキのすぐ隣へ座った。
リサ、マサキ、ミオ。三人が横並びになる。
(……いや、近っ)
マサキの脳内で、何かが警報を鳴らした。
元々、長椅子はリサと二人で半分ずつ使っていた。
一人分しかないわけじゃない。
でも、三人で座るには明らかに狭い。
小柄なミオだからギリギリ成立しているだけだった。
「次はここがポイントで……」
ミオは完全に"教えるモード"だった。
近いことを気にしている様子が、一切ない。
ノートを開き、マサキの問題集へ身を寄せる。
さらり、と髪が揺れた。シャンプーの甘い匂いが、ふっと近づく。
(いや、近いって……)
「ここ、さっきのAC法の続きで……この形ですね」
細い指が式をなぞる。白い指先。小さな爪。華奢な肩。
距離が近すぎて、説明よりそっちが脳へ入ってくる。
(いや待て、今それどころじゃないだろオレ)
「ここで、さっきの"積と和"を使うと……」
ミオが続ける。マサキは必死に式を見る。
(積と和……積と和……)
頭の中で復唱する。
(近い近い近い……)
全然入ってこない。
ミオがノートへ書き込むたび、肩が少し触れそうになる。
そのたびに神経が跳ねる。
「……ここ、分かりづらいですか?」
「いや、分かる……分かるけど」
分からないのは数学じゃない。この状況だ。
(落ち着け……ただ教えてもらってるだけ……しかも反対側にもいるから、下がるわけには……)
マサキは横目でちらりと後ろを見る。
すると。
(近っ)
リサが、かなり近い位置にいた。
長い髪。大きな瞳。整いすぎている顔。
しかも今は距離が近いせいで、リサ特有の甘い匂いまで意識へ入ってくる。
ただ、その表情だけは少しむすっとしていた。
(……なんで怒ってるんだ)
「あの、すいません……」
ミオが言った。
「こちら側、かなり狭いので……もう少し奥へ寄ってもらえませんか?」
マサキが目を落とす。
確かにミオは、かなり端へ追いやられていた。
今にも椅子から落ちそうな位置だ。
「わ、悪い」
慌ててマサキが後ろへ下がる。その瞬間。
「きゃっ」
柔らかい感触。背中がリサへぶつかった。
「もー、松前くんたら」
リサが唇を尖らせる。
ただ、その声には少し楽しそうな響きも混ざっていた。
「わ、悪い……!」
マサキは慌てて身体を前に移動する。だが。
「……っ」
今度は前へ出た肩が、そのままミオの頭へぶつかった。
距離が近すぎる。逃げ場がない。
ミオの身体がぐらりと揺れる。
「お、落ちます……っ」
ミオが少し焦った声を出した。
けれど椅子の端へ追いやられているせいで、下がる場所がない。
結果的に、マサキへ寄るしかなくなっていた。
白い指で身体ごと、ぐっとマサキの上半身を押す。
「もっとそっち行ってください……狭いです……!」
(いや無理だろ……!)
後ろにはリサ。前にはミオ。完全に挟まっている。
「リサちゃん、なんでそんな広く使ってるの? こっち狭いんだけど」
ミオが珍しく不満げだった。
「仕方ないじゃん。ミオちゃんがあとから来たんだもん」
「問題集が逆さで見えなかったの」
「えー、ほんとぉ? 松前くんの隣、座りたかったんじゃないの?」
(なんだその煽りは)
マサキの脳内で警報が増えた。だが。
「リサちゃんと一緒にしないで」
ミオが即答した。しかも少しむきになっている。
そのまま、ぐいっとマサキの肩を押す。
「もうちょっとそっちです……!」
「いや、だから後ろ――」
「落ちそうなんですっ」
ミオは完全に余裕がなかった。
長椅子の端。半分浮いたみたいな状態。
そのせいで、腕だけでは押しきれない。
結局。ぐっと身体ごと近づいてきた。
(近っ……!)
細い肩。柔らかい制服越しの感触。
ミオは逃げ場がないまま、体重ごと押し込む形になっていた。
だが押す力は意外と弱い。マサキの身体は簡単には動かない。
ミオがさらに身を乗り出す。
(いや待て待て待て……!)
ミオから離れようと、マサキが後ろへ少しだけ下がる。
結果。
むにゅっ。
「……っ!」
二の腕へ、柔らかい感触。リサだった。
後ろへ押されたせいで、自然と身体が密着している。
しかも今度は、一瞬じゃない。
逃げようとしても、前からミオが押してくる。
(やばい……! 当たってる当たってる……!)
制服越しでも分かる。柔らかい。
しかも押し返されるたびに、むに、っと感触が変わる。
リサは一瞬だけ目を丸くして——それからぱちぱちと瞬きをした。
頬が緩んで、目がどこか嬉しそうになっている。
「……ふふ」
笑ってから、わざとらしくマサキの背中へ寄りかかった。
「もー、なにするの? 松前くんったら。そんな勢いで来たら、びっくりするんだけど」
「わ、悪い……!」
逃げるように前へ動くと、そのままミオ側へ押し込む形になった。
「……っ」
ミオの身体がよろける。
「ちょっと、もう……! 狭いって言ってます……!」
ミオは完全に椅子問題へ集中していた。
ぐっ、と今度は腕だけじゃなく、身体の横から押してくる。
華奢な身体が密着するたび、マサキの肩がぐらつく。
(いや、おかしいだろこれ)
後ろにはリサ。前にはミオ。しかも二人とも可愛い。
「ねぇ、ちょっとくっつきすぎなんだけど。ミオちゃん離れてよ」
「だったらそっちが詰めて……っ」
両方から押されている。マサキは完全に中央で固定されていた。
背中へ当たるリサの柔らかな感触。前から伝わるミオの体温。
しかも匂いが違う。
リサは甘くて華やかな香り。ミオは石鹸みたいな柔らかい匂い。
その二つが狭い空間で混ざる。
(なんで挟まれてんだよ……!)
理性が悲鳴を上げる。でも。
(柔らかいし)
押し返そうとしても、力が入らない。
(いい匂いするし)
頭では思う。
(やめろって……)
でも身体が動かない。
本能が、このままでいいと言っている。
理性は「離れろ」と叫んでいる。でも本能は。
(このままでもいい)
とか思っている。
終わっていた。
完全に終わっていた。
◇ ◇
さっきまでの混乱が、ようやく落ち着き始めていた。
「ごめんなさい……」
リサがもう一度、言った。
さっきの軽い雰囲気とは違って、声のトーンが落ちている。
マサキは一瞬、返事に詰まる。
(いや、オレの方がまずいだろ……)
背中に当たった柔らかい感触の残りが、まだ微かに神経に残っていた。
さっきのは事故みたいなものだと頭では分かっている。
それでも、何も考えずに結果的に接触を生んだ自分が気持ちよくない。
「いや、オレも……あの、止めなかったし」
言いづらい。
本当は"止めるべきだった側"だと分かっているのに、本能で逃げてしまった。
(如月に対しても、保坂さんに対しても……)
リサは一瞬だけ目を伏せて、それからいつもの調子に戻そうとするみたいに笑顔を作った。
「リサちゃん、遊び始めると止まらなくなるので」
「ミオちゃん、それあたしだけのせい?」
「……半分くらいは」
「半分なんだ」
ほんの少しだけ、張り詰めたものが緩む。
ミオはそこで一度だけ時計を見る。
間を置いてから、マサキの方へ目を向けた。
「松前くん」
「……はい」
声を出した瞬間、さっきまでの圧迫感が少しだけ蘇る。
近すぎた距離の記憶が、まだ頭の端に残っている。
ミオはそれに気づかないふりをしたまま続けた。
「さっきので集中力を切らしてしまっていたら、ここで終わりでも大丈夫です」
一拍。
「無理をさせたくありません」
その言い方は、責めるものじゃなかった。
確認でもない。評価でもない。
ただ、線を引くための言葉。
マサキはすぐに首を振る。
「え、いや……その、ほんとに気にしてないし」
言いながら、自分でも少し無理をしているのが分かる。
気にしていないと言い切るには、さっきの距離は濃すぎた。
それでも続ける。
「さっきの説明、すごく分かりやすかったから。むしろ、こっちからお願いしたいくらいで」
言い切ったあと、少しだけ沈黙が落ちる。
ミオはすぐに表情を崩さず、でもほんの少しだけ力を抜いた。
「……なら、よかったです」
◇
さっきの距離は、自分から作ってしまったものだ。
勉強のためとはいえ、あそこまで近づいたのは言い訳が必要な行動だった気がする。
でも、マサキは何も言わない。からかわない。変に茶化さない。
ただ受け取って、必要な分だけ返す。
それが、今は救いでもあった。
ミオはノートへ目を戻す。
「じゃあ続き、やりましょうか」




