野外活動 当日 ~自分だけ許されるはずがない3~
リサの理屈は、かなり自分に都合がよかった。
しかし、マサキにはそこまで都合よく読み取れない。
別の意味で考える。
(如月さんが喜ぶこと……)
謝罪だけでは足りない。
怖がらせた。
水もかけた。
着替えまでさせた。
なら、何か埋め合わせをした方がいいのかもしれない。
「如月さんはなにされたら嬉しいんだ?」
その質問が、口をついて出た。
リサは、その質問を聞いて顔を上げた。
目が、マサキの目を見つめる。
さっきまで泣きそうだったくせに、その目だけは急に元気を取り戻していた。
甘える口実を手に入れた子供みたいである。
「いまぁ?松前くんがぎゅってしてくれたら嬉しいよ」
答えは早かった。
考える時間がほとんどなかった。
最初から、それを言うつもりだったみたいに。
マサキは固まる。
その言葉。
その視線。
そして、まだ自分の腕の中にいるリサの距離。
意味は分かる。
ただ、完全に理解すると、自分の中で何かが大きく壊れそうだった。
(………触るのか)
抱き止めている。
すでに触れている。
それなのに、さらに「ぎゅってして」と言われた瞬間、今までの接触が急に別のものへ変わる。
事故対応ではない。
防御でもない。
慰めでも、たぶんギリギリ足りない。
リサが自分から求めている。
そこに気づいて、マサキは少しだけ腕に力を入れた。
「こうか…?」
ぎゅっ。
その抱き方は、まだ慎重だった。
力を入れているのは分かる。
けれど、遠慮が先に出ている。
必要以上に触れようともしないし、確かめるように手を動かすこともない。
ただ、言われた通りに、少しだけ強く抱き止めただけ。
その不器用な加減が、いかにもマサキらしかった。
「っ」
リサは、小さく声を漏らした。
驚いたわけではない。
ただ、本当に抱きしめられた、と思った。
さっきまで怖かったのは本当。
水を浴びたのも、前髪が崩れたのもイヤだった。
でも、それを理由にしてマサキから離れないでいる自覚も、リサにはちゃんとあった。
マサキが強く拒まないことも分かっている。
自分が少し甘えたら、困りながらも受け止めてくれることも、もう分かっている。
だから、少しだけ要求を大きくした。
一度でいいから、ちゃんと抱きしめられてみたかった。
「いいか?」
マサキが不安そうに聞く。
その声がまた、ずるかった。
抱きしめているくせに、自分の方が悪いことをしているみたいな声を出す。
リサはマサキの腕の中で、少しだけ息を吸った。
「もっと強く」
答えは、その一言だった。
マサキが断りにくいことくらい分かっている。
今の状況で、リサを強く突き放せないことも分かっている。
それでも、言った。
怖かったから。
安心したかったから。
それに、少しだけ、欲張った。
マサキはその要求に応える。
(加減がわからん)
迷った末に、腕へもう少し力を込めた。
ぎゅうっ。
抱き方は、やっぱり真面目だった。
変に触れるわけでもない。
距離を詰めることに慣れているわけでもない。
ただ、リサを潰さないように気をつけながら、言われた分だけ力を足している。
優しすぎるくらい遠慮がちで、でも逃げない。
それが、リサにはたまらなく嬉しかった。
「うぅー…最高ー」
リサは、思わずそう漏らした。
抱きしめられ方に満足した、というより。
マサキが、ちゃんと自分のお願いを聞いてくれたことに満たされた。
わがままを言っている自分を、困りながらも受け止めてくれた。
それが、今のリサには十分すぎた。
その声とその言葉に、マサキの中でまた別の感情が芽生える。
(こういうの、オレでいいのか……? 下心ないとか思われてる……?)
疑問と不安が浮かぶ。
けれど、今はその感情を考えている余裕はなかった。
リサは満足そうに力を抜いている。
マサキの腕の中で、さっきよりずっと落ち着いた息をしている。
なら、今離す方が悪い気がした。
マサキはただ、彼女を抱きしめているだけだった。
◇ ◇
ざわめきから少し外れた場所で、マサキは一人で炭の片づけをしていた。
他のメンバーは洗い物やゴミ拾いをしている。
そのとき、背後から足音が止まる。
「……松前」
振り返ると、池沢が立っていた。
さっきよりも明らかにテンションが低い。
いつものように軽く笑うわけでもなく、ふざけてごまかすわけでもない。
目線は少しだけ下がっていて、立っているだけなのに、肩の位置が妙に重たく見えた。
「なんだ」
マサキは短く返す。
池沢は一度だけ言い淀む。
珍しく、言葉を選んでいる感じだった。
「……如月さんのことなんだけど」
その名前が出た瞬間、マサキの目が少しだけ動く。
池沢は続ける。
「今、俺のこと完全に避けてる。さっきから謝ろうとしてるんだけど、近づくとすぐ離れるし、目も合わせてくれない」
マサキは黙ったまま聞いている。
池沢は軽く頭をかいた。
けれど、その仕草にもいつもの雑な勢いはなかった。
どう言えばいいのか分からないまま、手だけが動いているように見えた。
「このままだと、学校戻ってからもずっとあの感じだろ」
少し間を置いてから、低く言う。
「……お前から、なんか言ってくれないか」
マサキは表情を硬くする。
「オレが?」
「お前なら話せるだろ」
その言い方には、変な頼り方の不器用さが混ざっていた。
池沢は続ける。
「俺が近づくと逃げるしさ。正直、詰んでる」
池沢が最初から近すぎたのは事実だった。
眠っているリサに、あの距離まで顔を寄せた。
マサキから見ても、明らかに近すぎた。
ただ、そのあと池沢の姿勢を崩したのは自分だ。
止めるためだった。
距離を取らせるためだった。
軽く押しただけのつもりだった。
けれど結果として、リサの目の前に池沢の身体が落ちるような形になった。
リサが驚いた。
怖がった。
泣きかけた。
(そりゃ、あんなことがあった直後ならそうなる)
そこには、自分の動きも混ざっている。
でもふと思うのは、リサがマサキには許したことを、池沢には許せない。
その差がどこにあるのか。
マサキは、これまでにも事故で何度かリサに触れてしまっている。
そのたびに、リサは怒らなかった。
困ったような顔をしたり、少し照れたりすることはあっても、最終的にはいつも平気そうにしていた。
マサキは、それをずっと、リサが周りの空気を壊さないようにしているだけだと思っていた。
リサはそういうことができる。
人前で変に騒がない。
相手を責めすぎない。
笑って流して、その場を丸く収めようとする。
だから、自分が許されているように見えるのも、ただリサが気を遣っているだけなのだと、そう処理していた。
でも、池沢には違った。
(わざとじゃないなら許すんじゃなかったのか……)
自分と池沢で何が違うのか。
リサが何を許して、何を拒んだのか。
けれど今、それを考える場面ではなかった。
「これはさ、距離縮めようとかじゃなくて……ただ、印象悪くしたくないだけっていうか」
目の前にいる池沢は、いつものように茶化していない。
調子のいい言葉でごまかしてもいない。
ただ、謝りたい相手に近づけず、どうにもならなくなっている。
マサキは池沢のことが好きなわけではない。
むしろ、余計なことばかり言うし、距離の取り方も雑だし、できれば関わりたくない。
助けてやりたいとも思っていない。
ただ、自分にも原因がある。
池沢が近づきすぎた。
それを止めようとして、自分が動いた。
その結果、リサをさらに怖がらせた。
そこに自分の動きが入っている以上、完全に知らない顔をするのは違う。
それだけだった。
池沢を見ると、まだ顔が重い。
口元だけで何かを取り繕おうとしているが、うまくいっていない。
謝りたいと言っているのも、たぶん本当なのだろう。
マサキは炭ばさみを持つ手を止めた。
助けるつもりはない。
池沢のために動くつもりもない。
ただ、このままにしておくと、自分のせいが混ざったまま残る。
それが、少しだけ引っかかるだけだ。
「……1回だけだぞ」
池沢が顔を上げる。
マサキは淡々と続ける。
「それでダメなら、あとは知らない」
池沢は少しだけ驚いた顔をした。
断られると思っていたのだろう。
少なくとも、すぐに頷かれるとは思っていなかったはずだ。
マサキが池沢を助ける理由はない。
リサが怖がった原因も、元をたどれば池沢の距離の近さにある。
ただ、自分にも原因がある分だけ、最低限動く。
そういう返事だった。
池沢には、そこが少し引っかかった。
もし立場が逆なら、自分はたぶん同じようにはしない。
相手が女の子なら、少しは格好をつけて引き受ける。
頼られて悪い気はしないし、うまくいけば印象もよくなる。
でも、相手が男なら話は別だ。
面倒なら断る。
引き受けるにしても、貸しにするか、条件をつける。
少なくとも、何もなかったみたいに淡々とは受けない。
なのにマサキは、そこを分けていないように見えた。
相手がリサだから動く。
女の子だから優しくする。
そういう分かりやすい形ではない。
リサにも、池沢にも、必要なところだけ手を出して、必要以上には踏み込まない。
それが親切なのか、責任感なのか、ただの性格なのか、池沢にはまだよく分からなかった。
ただ、自分ならたぶんそうはしない。
それだけは、少し分かった。
池沢は、短く笑う。
「助かる」
◇
少し離れた場所で、リサはゴミ拾いをしていた。
しゃがんではゴミを拾い、袋へ入れる。
単純な作業だった。
考えなくてもできるはずなのに、さっきから何度も手が止まる。
(……さっきの)
思い出すのは、目を開けた瞬間の距離だった。
近すぎた顔。
覆いかぶさってくるような影。
息が詰まって、身体の方が先に動いた感覚。
あれは本当に一瞬だった。
でも、怖かった、という感覚だけが、変に残っている。
マサキに抱きしめてもらって、ようやく落ち着いたはずだった。
あの腕の中は、ちゃんと安心できた。
少し強くしてと言ったら、本当に少し強く抱きしめてくれた。
それを思い出すと、胸のあたりがじわっと温かくなる。
リサは、拾いかけた小さな紙くずを指先でつまんだまま、無意識に周囲を見た。
(松前くん、どこ…)
少しだけ見えたら落ち着く気がした。
近くにいると分かれば、それだけでさっきの感覚が薄くなる気がした。
そう思って視線を動かすと、少し離れたところにマサキがいた。
見つけた瞬間、リサの肩から少しだけ力が抜ける。
けれど、すぐ隣に池沢も立っていた。
リサの手が止まる。
(なんで池沢くんと喋ってんの…?)
胸の中が小さくむくれた。
さっき怖かった。
マサキに抱きしめてもらって、やっと落ち着いた。
だから、できれば今は、マサキには近くにいてほしい。
そんなことを言える立場ではない。
分かっている。
分かっていても、少しだけ面白くない。
(……もう)
リサは視線を落とし、拾った紙くずを袋へ入れた。
ぽい、というより、少しだけむすっと押し込む。
自分でも、子供っぽいと思う。
それでも、気持ちはまだうまく片づいてくれなかった。
リサはもう一つゴミを拾いながら、ちらっとだけまたマサキの方を見る。
(こっちこないかな)
そう思ってから、慌てて目を逸らした。
(こっちこないかな、じゃないし)
誰に言い訳するでもなく、心の中で小さく否定する。
それでも、ゴミを拾う手はさっきより少しだけゆっくりになっていた。
◇
足音が近づいてくる。
リサはゴミ袋の口を握ったまま、少しだけ顔を上げた。
さっき遠くに見えた二人が、こちらへ来ている。
先に見えたのはマサキだった。
「松前くん」
声が、思ったより弾んだ。
彼の方から来てくれるのは珍しい。
それだけで、胸の奥に残っていたざわつきが少しだけ薄くなる。
でも、リサはすぐにその後ろへ視線を動かした。
マサキの肩越しに、池沢がいる。
分かっていたはずなのに、近くまで来ると、やっぱり身体が先に反応した。
さっき戻りかけていた落ち着きが、また少し後ろへ引っ張られる。
リサは無意識に一歩だけ下がった。
ゴミ袋の口を握る指に、力が入る。
マサキが来たことは嬉しい。
でも、その後ろに池沢がいることまでは、まだうまく受け取れない。
(……なんで連れてきたの)
口には出さない。
けれど顔には少し出ていたらしい。
マサキが、その動きを見て小さく息を吐いた。
責めるようなため息ではない。
どう言えばいいか、一度考えるための間だった。
マサキは一拍置いてから、静かに口を開いた。
「謝りたいって言ってる」
その言葉に、リサの表情がさらに硬くなる。
「……いらない」
即答だった。視線は池沢の方を見ないまま、地面に落ちている。
マサキは小さく息を吐く。
「如月さんがそれだと解決しない」
リサの指先が、袋の口を握る力を少し強める。
「許す気ないもん」
声ははっきりしているのに、どこか震えを押し殺しているようにも聞こえた。
マサキはそこで一度視線を伏せる。
言葉を選ぶような間が落ちる。
池沢を庇いたいわけではない。
あいつが近づきすぎたのは間違いない。
眠っているリサに、あの距離まで顔を寄せた。
リサが目を覚まして驚いたのも、怖がったのも、当然だと思う。
それでも、マサキには引っかかるものがあった。
リサは、自分に対してはそういう反応をしたことがない。
野外活動中、池沢がそういう目でリサを見ていた。
その視線に苛立ったはずなのに、自分も同じ目でリサを見た。
池沢と同じ男で、同じように目を向けて、それでも自分だけ許されるのは違う。
さっきだってそうだ。
自分からリサに触れてしまった。
そのときマサキは、「怒っていい、殴ってもいい」と言ったのに、リサはそうしなかった。
怒鳴らなかったし、突き放しもしなかった。
だからマサキは、リサはそういうことをちゃんと分けて考えられる子なのだと思っている。
今回の拒否も、咄嗟だったからだと思う。
目を覚ました瞬間に池沢が近くにいて、びっくりして、怖くなった。
だから今は避けているだけで、話せば分かるのではないかと思っている。
同じ男で、自分が平気なら、池沢も完全にダメとは言い切れないのではないか。
そう思ったまま、マサキは口を開いた。
「あのさ……如月さんて、オレには平気で近づくだろ」
その一言で、リサの動きが止まる。
リサは顔を上げた。
目がまっすぐマサキを見る。
「だって、それはぁ…」
言いかけて、何も言えなくなる。
マサキも最初は、何度かリサを拒んでいた。
距離を詰められるたびに「離れろ」と言っていたし、避けようとする動きもあった。
それでもリサは、少しずつ近づいた。
隣に座って。
手を引いて。
肩を寄せて。
さっきだって、怖かったのを理由にして抱き付いた。
マサキが強く拒まないことに、甘えた自覚はある。
それを、同じだと言われた気がした。
自分もマサキにしてきた。
マサキの言っていることも、筋が通っていると理解している。
(……正しいとは思う)
リサは小さく唇を噛む。
たしかに、マサキから見たらそう見えるのかもしれない。
自分だけはよくて、池沢はダメ。
そんなふうに言っているように聞こえるのかもしれない。
でも、それだけで片づけられる感じじゃない。
同じ距離でも、同じじゃない。
近づかれる怖さも、逃げられない感じも、相手が誰かも、全部違う。
リサはようやく、喉の奥から言葉を押し出した。
「男と女は違うじゃん。力も体格も、あたしはかなわないんだから、あんなんされたら……普通に怖いよ」
マサキにはその言葉が、思ったより重く残る。
力。
体格。
逃げられない感じ。
全部、言われれば確かにそうだ。
(実際、オレは如月さんだったら力で押し戻せるし、走って逃げ切れた……同じ枠で考えるべきじゃない)
マサキは、リサなら話せば分かると思っていた。
けれど、それはマサキが男の側から見ていた話だった。
目を覚ました瞬間、逃げ場のない距離に男がいたときの怖さ。
力で押し返せない相手が、自分の上に落ちてくるように見えた瞬間の感覚。
それを、マサキは持っていない。
想像はできる。
でも、同じ場所には立てない。
理解したふりをするのも違う。
分かったつもりになるのも違う。
許せるか許せないか。
そういう理屈で揃えられる話ではなかった。
少なくとも今のリサに、それを求めるのは違う。
マサキは、ほんの少しだけ間を置いたあと、低く口を開いた。
「怖かったって言ってる」
その言葉は、リサではなく池沢に向けられていた。
池沢の肩がわずかに揺れる。
マサキは続ける。
「今は無理だと思う」
短く、はっきりと。
マサキは続ける。
「謝りたいのは分かるけどな。謝るのはいいけど、タイミングの方が大事だ」
その言葉に、池沢の目がわずかに動く。
静かに区切るように。
「相手が聞ける状態じゃなきゃ意味ない」
リサの指先の力がほんの少し抜ける。
袋の口を握っていた手が、わずかに緩んだ。
許せと言われる話だと思っていた。
話くらい聞けと言われると思っていた。
でも、マサキはそう言わなかった。
その代わりに、怖かったことをそのまま池沢へ渡してくれた。
池沢は、しばらく何も言わない。
ただ視線を落としたまま、考えている。
マサキは最後に、短く言い切る。
「今じゃない」
それで、終わりだった。
「……分かった」
池沢が、低く、抑えた声で頷く。
リサの方へ向きかけた視線が、途中で止まる。
それから、マサキの方を見た。
さっきまでの強引さは、もうない。
その変化を、リサははっきりと感じ取った。
マサキはそれを確認するように一瞬だけ視線を動かし、それから池沢の方へわずかに顎をしゃくる。
「行くぞ」
短く、それだけ。
「……ああ」
低く返して、マサキの横についていく。
2人分の足音が、ゆっくりと離れていく。
リサは、その場に残されたまま、動けなかった。
少し遅れて、ようやく息を吐く。
(……行っちゃった)
遠ざかっていく距離。
(ちゃんと引いてくれるんだ…)
池沢は、もう追ってこない。
距離を詰めてくる気配もない。
さっきまで何度も感じていた圧が、嘘みたいに消えている。
その事実に、胸の奥の強張りが、少しずつほどけていく。
リサはその場にしゃがみ直す。
手元の落ち葉に視線を落としながら、小さく息を吐いた。
さっきより、ちゃんと呼吸ができる。
(……もう、あんま怖くない)
そう思えたことに、自分で少しだけ驚く。
さっきまであれだけ身体がこわばっていたのに、今はちゃんと力が抜けていた。





