42. 勉強会 前編 ~断ったはずだった~
放課後前の教室は、いつもより落ち着きがなかった。
来週から始まる期末テスト。
黒板の端には試験範囲が雑に書き残され、教室のあちこちでは「数学終わった」「英語ムリ」みたいな声が飛び交っている。
その騒がしさから半歩だけ外れた窓際で、マサキは片耳のイヤホンをつけたまま問題集を開いていた。
因数分解の応用問題。
途中まではいけた。
だが、そこから手が進まない。
(……分からん)
シャーペンの先を止めたまま、式を睨む。
頭の中で何回か展開してみるが、どこかでズレる。
そのとき。
「松前くーん」
耳に入った声だけで分かる。
マサキは顔を上げた。
「……なに」
机の横に立っていたのは如月理沙だった。
制服のスカートを軽く押さえながら身を屈める。
その動きで、さらりと長い髪が肩から落ちた。
やっぱり目立つ。
教室の中にいても、空気がそこだけ違うみたいに見える。
顔立ちが整いすぎていて、何気なく笑ってるだけなのに視線が集まっていた。
しかも本人はそれをわりと無自覚にやる。
「テスト勉強偉いね」
「……普通」
「あたしまだ全然手もつけてないもん」
そう言いながら、リサはマサキの机を覗き込む。
近い。
実際は多分そこまででもない。
教科書を見るなら普通の距離だ。
でも、マサキの側からすると普通じゃない。
身を乗り出した拍子に胸元がゆれて、視界の端が勝手に反応する。
(見るな)
問題集へ目を戻す。
「放課後、一緒に勉強しない?」
マサキの手が止まった。
(……なんでオレなんだ)
リサは机に手をつきながら、返事を待つみたいにマサキを見る。
マサキは口を開いて、
「……いや」
それ以上は言わなかった。
説明しかけて、やめる。
リサは気にした様子もなく続けた。
「分からないとこ教え合ったりさ。1人でやるよりは効率いいと思うんだけど」
「如月って、成績よかったっけ」
「ううん全然。中の下って感じかな」
あっさり言う。
(なら、わざわざオレじゃなくていいだろ)
マサキの成績は中くらい。
少し上、くらいではあるが、誰かに教えられるほどじゃない。
しかも数学は今まさに詰まってる。
自分が教えても、大して伸びない。
だったらもっと出来るやつに聞いた方がいい。
合理的に考えれば、それだけだった。
なのに。
(隣でやるとか、無理だろ)
問題に集中できる気がしない。
隣にリサがいる。
それだけで、意識がそっちへ引っ張られる。
ノートをめくる音とか。
髪が触れる距離とか。
甘い匂いとか。
そういう細かいもの全部が、頭に入ってくる。
勉強どころじゃなくなるのが目に見えていた。
「できない同士がやっても、効率悪いだけ」
マサキがそう言うと、リサは露骨に口を尖らせた。
「えー」
頬が少し膨れて、視線だけで抗議してくる。
その顔すら普通に可愛いから困る。
「じゃあさ、教えてほしいとかじゃなくて」
リサは机の横に軽く寄りかかる。
スカートの裾が揺れて、細い脚がちらりと視界に入った。
マサキは前を向く。
「ほんとに、隣でやるだけでいいから」
「……」
「ただ一緒にいるだけ。ダメ?」
その言い方は、ずるいと思った。
教えてほしい、ならまだ断りやすい。
効率が悪いで終われる。
でも、"隣にいたい"みたいな言い方をされると、急に形が変わる。
(それ……あんま意味ないだろ)
意味がないから困る。
理由がない誘いほど、断りづらい。
「他当たってくれ」
短く返す。
リサの表情が、少しだけ止まった。
「……なんで」
マサキは椅子を引こうとして、手だけ動かして止まった。
(これ以上、断り続けるのしんどいな……)
変に近づけば、また周りが勘違いする。
最近増えていた。
リサへの軽い誘い。
馴れ馴れしい絡み。
「松前が普通に話してるなら、自分らでもいけるんじゃね?」みたいな雑な空気。
あれが嫌だった。
リサは、そんな軽く扱われていい人間じゃない。
自分みたいな、教室の隅にいるようなやつが隣にいることで、周りの基準が狂う。
だから距離を取る。
それが一番マシだと思ってる。
「集中できなくなる」
短く落とす。
リサが一瞬だけ目を丸くした。
「……邪魔しないし」
声が少し弱くなる。
「喋りすぎないし。ただ隣でやるだけ」
マサキは答えない。
誰かと勉強する意味が、そもそもよく分からなかった。
今までずっと一人だった。
静かな方が楽で。
自分のペースで出来て。
余計なこと考えなくて済む。
だから。
隣に誰かがいることで、何が良くなるのか分からない。
ましてそれがリサなら、なおさら。
絶対に、普通ではいられない。
マサキは問題集へ目を落とした。
けれど、さっきから因数分解の式は一文字も頭に入ってこなかった。
◇ ◇ ◇
教室の空気が、少しだけ変わった。
リサがまだマサキの机の横に立っている、そのタイミングだった。
「如月さん、よかったらオレが教えてあげようか」
声をかけてきたのは、クラスでも有名な男子だった。
成績上位。
テスト順位はいつも一桁。
教師からの信頼も厚い。
周囲が一瞬ざわつく。
「……今のタイミング、ずるくね?」
誰かが小声で言う。
別の男子が苦笑した。
「あれ断れなくない?」
リサは一瞬だけ目を丸くした。
だが次の瞬間には、もういつもの笑顔ができていた。
ふわっと口角を上げる。
柔らかくて、愛想が良くて、誰も嫌な気持ちにさせない笑顔。
男子が勘違いするのも無理ない、とマサキは思う。
可愛い。
目立つ。
距離が近い。
しかもリサは、それを悪意なくやる。
だから面倒になる。
マサキみたいな、教室の端にいる人間と普通に喋っているだけで、周囲は勝手に都合のいい解釈を始める。
(……オレ程度でもいいなら)
そう思った男子が、以前より明らかに増えていた。
リサはそれを、たぶん気づいてない。
「えー、めっちゃ優しいー。ありがとー」
明るい声。
けれどマサキには分かった。
これは"断る時の顔"だ。
リサは肩にかかった髪を軽く払う。
その動きでブラウスの胸元がわずかに引っ張られた。
マサキは問題集へ目を落とす。
「でも今回は教えてもらうっていうより、ちょっと静かにやりたい気分だったりするんだよね」
やんわり。
空気を壊さず。
相手を立てたまま距離を取る。
リサはこういうのが上手い。
「嬉しいんだけど、気持ちだけ受け取っとくね」
(……なんで断るんだ)
マサキは思う。
誰かと一緒にやりたいだけなら、こいつの方がいい。
頭もいい。
説明も上手い。
実際、成績を上げるなら自分なんかよりよほど意味がある。
理屈だけなら、そっちの方が正しい。
(なら、そっちでいいだろ)
なのにリサは断る。
男子生徒はそこで引かなかった。
「別に教えるとかじゃなくていいよ」
声色が軽い。
押している感じを消している。
「同じ範囲やるだけでも効率は変わるし。分からないとこ出たら、その時だけ聞いてくれたりでいい」
さらりと条件を変える。
断られた部分を避けて、別の形に組み替えるように。
リサの笑顔が、ほんの少しだけ固まった。
男子生徒は気づかない。
いや、気づいていて進めている。
「1人でやる前提のままで構わないよ」
追い詰めている自覚がないみたいな、穏やかな声だった。
その言葉に、周囲がまたざわつく。
「今の流れ強くね」
後ろの席の男子が小さく吹き出す。
「もう断れなくない?」
「如月さんどうするんだろ」
教室の空気が、少しずつ傾いていく。
"親切な提案を受ける流れ"へ。
◇
リサは笑顔を崩さないまま、目線をわずかに下げた。
(やっぱ頭いい人って苦手だなぁ)
逃げ道を残しているようで、残していない。
否定せず、条件だけを上書きしていく。
(あたしもやってた……)
ふと、自分が松前くんへ言った言葉を思い出す。
"隣でやるだけでいいから"
(あたし、今それされてる側だ)
◇
「えー、ほんと優しいよね。ありがたいんだけど、今回は本当に大丈夫だから」
それでも、まだ断る。
けれど男子生徒は止まらない。
「じゃあ、こうしよう」
さらりと続ける。
「最初は隣でやるだけ」
一拍。
「合わなかったら、その時やめればいい」
さらに逃げ道を用意する。
「それでいい?」
(……やりづら)
リサの笑顔の奥に、わずかな困り顔が混じった。
断っている。
でも強く拒絶できない。
"感じのいい如月理沙"を、周囲が期待している。
空気を悪くしない。
相手を傷つけない。
愛想がいい。
その像に、自分自身が縛られている。
「んー……ほんとに気持ちは嬉しいんだけど……」
リサが言い淀む。
その瞬間だった。
「うん、無理なら途中でやめてもいいんだよ」
即座に返される。
断るための余白が、また埋まる。
マサキの指先が止まった。
(……もう無理だろ、これ)
周囲も完全に男子生徒側へ傾いている。
親切。
合理的。
しかも押しつけがましく見えない。
だから厄介だった。
マサキは椅子を引きかけて、止まる。
(オレが断ったせいだ)
胸の奥が重い。
自分みたいなのがリサの隣にいると、周囲が勘違いする。
マサキが近くにいるほど、連中は変な希望を持つ。
だから離した。
これ以上巻き込みたくなかった。
なのに。
今、目の前で困っている。
しかも原因は、自分だ。
マサキは小さく息を吐く。
「……もう十分だろ」
教室の空気が止まる。
マサキは男子生徒を見ないまま言った。
「断ってる」
一瞬の沈黙。
だが男子生徒は、むしろ予想していたみたいな顔をした。
「いや、そこなんだけど」
静かな声だった。
「松前くん、さっき断ってたよね」
周囲が息を呑む。
「誰かとやりたいって言ったのは、如月さんの方で」
理路整然としていた。
「それを断ったのは松前くん」
逃げ場を残さない話し方。
「その上でオレが代わるよって提案してるだけだから、そこに口を挟まれる筋合いはないと思う」
マサキの喉が詰まる。
正論だった。
少なくとも周囲から見れば。
でも。
(それと、これは話が別だ)
リサは困っている。
それだけは分かる。
男子生徒の理屈が正しいかどうかなんて、そこには関係ない。
視界の端で、リサが小さく唇を結ぶ。
その顔を見た瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。
マサキは奥歯を噛む。
自分に止める資格があるのか、分からなくなる。
「……それはそう、だ」
短く認める。
男子生徒は小さく頷いた。
「少なくともさっきの流れ見てた限りだと、一緒にやる相手を探してるようには見えたよ」
そこで一度、周囲を見る。
「だから今ここで止める理由は、ちょっと違うと思う」
その言葉に、周囲の空気がさらに揺れる。
「言われてみれば確かにそうだよな」
誰かが呟く。
別の女子が小さく首を傾げた。
「でも如月さん断ってた感じだよ?」
すると男子が返す。
「けどさ、あいつの方が正論っぽくない?」
声が混ざる。
マサキは動けなかった。
自分が拒絶した。
その事実だけが、重く残る。
だから今さら守ろうとする資格なんて、本当はないのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎる。
そしてその沈黙が、リサから最後の逃げ道を奪っていた。
リサはまだ笑っている。
けれど机の端を掴む指先だけが、少し強くなっていた。
その視線が、ふとマサキへ向く。
縋るみたいに。
助けを求めるみたいに。
――自分を突き放したくせに。
それでも、一番分かってくれるはずの相手を見るみたいに。
◇ ◇ ◇
教室に落ちた沈黙は、妙に重かった。
誰も次を言わない。
いや、言えない。
空気そのものが、どこへ着地するのか探しているみたいだった。
マサキは机の端を指先で押さえたまま、動けずにいた。
(……まずい)
理由は説明できない。
でも分かる。
如月理沙は、今かなりやりづらそうにしている。
笑っている。
いつもの、誰にでも向けられる愛想のいい笑顔。
けれどマサキには、その笑顔が少し硬いのが見えてしまっていた。
そんな空気を、小さな足音が割った。
ぺた、ぺた、と遠慮がちな音。
教室後ろ側。
そこから、小柄な影がゆっくり前へ出てくる。
マサキはそちらを向いた。
保坂美緒。
学年トップ。
成績優秀。生徒会。全校集会で前に立つ側の人間。
でも、マサキの第一印象はそこじゃなかった。
(……ちっちゃいな)
最初に浮かんだのは、それだった。
背も低い。体つきも華奢。
リサみたいな目を引く派手さじゃない。
けれど、不思議と目に残る。
白い紙みたいな雰囲気がある。
守られる側に見えるのに、妙に落ち着いている。
そのミオが、珍しく視線を泳がせながら前へ出た。
「あ……あのっ」
小さな声。
けれど、教室は静かだったせいで、はっきり届いた。
ミオは胸の前で手を軽く握る。
「リサちゃんには、わたしが教えるので大丈夫です」
一度息を飲み、続ける。
「間に合ってます」
ざわっ、と空気が動いた。
「学年トップ来たのかよ……」
「保坂さんだよな?」
「全校集会とかで前出てる子」
「如月さんと仲いい子だ」
「てかあの2人並ぶと絵になるんだよな」
確かに、と思う。
リサはモデルみたいに華やかで、教室にいるだけで空気が変わる。
その隣にいるミオは、小動物みたいな静かな可愛さを持っていた。
系統は真逆なのに、並ぶと妙に収まりがいい。
男子生徒は少しだけ目を細めた。
「如月さん、今回は……教えられること自体は望んでないみたいだよ」
ミオはすぐには返さない。
一瞬だけ考えてから、静かに聞き返す。
「望んでない、っていうのは」
「一緒にやる相手を探してるだけ。教えられるのは今回はいいって、そう言われた」
「それは、誰でもいいって意味じゃないと思います」
即答だった。
男子生徒が感心したみたいに眉を上げる。
「じゃあ、誰かとやりたいっていうのは、どう解釈してるの?」
ミオは焦らない。
ゆっくり言葉を整理する。
「安心できる形でやりたい、だと思います」
そこで一度区切る。
「誰でもいいを前提に組み立てるのは、少しだけ飛ばしすぎです」
マサキは目を細めた。
(……論点戻した)
男子生徒はずっと、
『誰かと勉強したい』
という一点に話を寄せていた。
条件さえ満たせば成立する、そういう組み立てだ。
でもミオは違う。
『安心できる相手とやりたい』
に戻している。
「なるほど」
男子生徒は頷く。
「誰でもいいわけじゃない、って前提は分かる」
そこで言葉を継ぐ。
「でもそれって、逆に言えば条件次第では誰かとやる意思はあるってことだよね」
リサの肩がぴくっと揺れた。
(またそこ拾うの……)
リサの顔にそう書いてある気がした。
男子生徒は止まらない。
「如月さんの条件って何だと思う?」
ミオは少しだけ考える。
「……無理をしないことだと思います」
「それなら成立してるよ」
男子生徒は即座に返す。
「今の提案は、最初から無理を前提にしてない」
(話、ずれてる)
マサキは眉を動かした。
成立しているかどうかの話ばかりになっている。
でもリサが困っている理由は、そこじゃない。
ミオは小さく息を吸った。
「……でも」
教室が静まる。
「成立してるかどうかと、安心できるかどうかは別です」
マサキは無意識にミオを見た。
(強いな)
声は小さい。
でも、一歩も引いていない。
男子生徒は少しだけ目を細める。
「……なるほど。安心できるかどうかは、主観だよね」
(まだ続くのか、これ)
マサキは内心で息を吐いた。
感情論に持ち込まない。
だから厄介だった。
「だからそれを理由にすると、判断はずっと曖昧になる」
男子生徒は冷静に続ける。
「逆に言えば、誰かとやるかどうかを決める基準としては弱い」
ミオはすぐ返した。
「弱くても、それが本人の基準なら十分です」
ミオはそこで終わらなかった。
小さな声のまま、静かに続ける。
「本人が嫌だと思うものを、"基準として弱いから"で押し切っていい理由にはならないので」
教室が静まる。
男子生徒は何も返さない。
マサキはじっとミオを見ていた。
ミオの言葉は感情論じゃない。
だからこそ、重かった。
"本人が安心できるか"という数値化できない軸を、ちゃんと論点として置いている。
それを否定すれば、今度は"本人の感覚を無視して押してる側"になる。
だから、これ以上進めない。
男子生徒もそれを理解したらしかった。
「……まあ、負けだね」
小さく笑う。
「学年トップ相手だと、こっちは分が悪い」
教室の空気が一気に緩んだ。
「あー、終わった感じか」
「まあそうなるよな」
「保坂ちゃん来た時点で決まりみたいなもんだし」
男子生徒は最後にリサを見る。
「さっきの提案は、なかったことにしていい」
それだけ言って引いた。
ようやく空気がほどける。
なのにマサキだけは、全然落ち着かなかった。
(……オレのせいだ)
自分が距離を引けば引くほど、リサは別の誰かに囲まれる。
でも、自分みたいなのが近くに居続ければ。
『松前程度で隣にいられるなら』
周りはそう勘違いする。
マサキは机へ目を落とした。
なのに。
リサはミオの肩越しに、ちらりとマサキを見る。
助けを求めるみたいに。
責めるでもなく。
ただ、"分かってくれてたよね"と確認するみたいに。
その視線から、マサキは逃げられなかった。




