41. ゲームセンター 後編 ~密着2~
曲が終わっても、リサはまだマサキの足の上に座ったまま。
動くに動けないまま、その位置だけが妙に現実として固定されている。
リサの体温と重みがそこに残っていて、マサキはそれをそのまま感じていた。
(……今さら「どけろ」とか「離れろ」とか言うのは違うだろ)
頭の中でまず浮かんだのはそれだった。
さっき自分がゼロ距離で手を重ねて、背中に触れて、リズムまで一緒に作っていたことを思い出す。
(どの口が言うんだ、それ)
そう思った瞬間、「距離を戻すための正論」が全部使えなくなる。
リサをどかす理由はあるのに、言葉にすると全部ブーメランになる気がした。
かといって、このままも違う。
わざと乗せているみたいに見えたら、それはそれで別の意味で終わる。
(このままでもいい気がしてるのが一番まずい)
ただ、それを認めると判断がさらに壊れる。
これ以上気まずくするのは避けたい。そこだけははっきりしていた。
声をかけるのは無理だった。
今この空気に言葉を足すと、全部が変な方向に転がる。
一瞬だけ考える。
(黙ってどかすしかない)
結論はそれだった。
マサキは何も言わないまま、リサの腰に手を回す。
「……」
リサの身体がかすかに反応するのが分かる。
力を入れすぎないように注意しながら、支える。
(……ここでいいか)
軽く持ち上げる。
ぐっと、というほど強くない。
ただ位置をずらすための最低限の動きだった。
「……」
リサの体が、ふっと浮く。
「っ?!」
声にならない息が漏れる。
(ひぇ——)
視界が一瞬ぶれる。
足が床から離れる感覚が、遅れて頭に追いつく。
完全に持ち上げられている。
(うそでしょ!?)
そのままマサキは静かに足を抜くようにして、リサの位置を調整する。
支えを外すと、リサの両足はとん、と床に戻った。
一瞬、時間が止まる。
リサはその場で動けないまま立っていた。
(今のなに……!?)
心臓が一気に跳ね上がる。
さっきまでの恥ずかしさとはまったく種類が違う。
もっと直接的で、強い衝撃だった。
(え、待って……松前くんって、そんな力あったっけ……?)
頭が追いつかない。
身長はほぼ同じくらいで、体格も特別大きいわけじゃない。
それなのに、さっきの動きはあまりにも簡単だった。
(軽く持ち上げられたんだけど……!?)
耳まで熱くなる。
顔の火照りが引かないまま、リサはその場でうつむいていた。
(いや……)
(いやいやいや……)
さっきの密着とは別の意味で、心が落ち着かない。
「近いから恥ずかしい」ではなく、「この人そんなことできるの?」という方向で思考が崩れている。
見た目は普通で、むしろ静かで、力を見せるタイプでもないのに。
さっきの一瞬だけは、やけに現実離れしていた。
(なに今の……かっこいいんだけど……)
そう思ってしまった瞬間、さらに頬が熱くなる。
リサはそのまま、しばらく動けなかった。
◇
少し経ったあとも、リサはその場でマサキの腕を見ていた。
さっきまで自分の手の上に重ねられていた、その腕。
今はもう離れているのに、そこだけ妙に現実感が残っている。
触れられた感覚だけが、置き去りにされていた。
(そんなに太いわけじゃないし、むしろ細い方なのに…なんで?)
見れば見るほど分からなくなる。
力を入れていたようにも見えなかったのに。
そのとき、背後からユヅキの声が落ちる。
「いやー、最近の子はすすんでるね」
リサは振り返らず、目だけで刺すように返した。
「うるさい」
短く切った言葉は、いつもより熱を帯びて弱い。
ユヅキはそれを見て、面白がるように肩をすくめた。
マサキは横でそのやり取りを聞きながら、眉をかすかに動かす。
(……すすんでる?)
意味は掴めなかったが、今は深く考える余裕もなく、そのまま頭の隅に押しやった。
リサはようやく現実に戻ったように、鞄へ手を伸ばす。
「お手洗い行ってくるから、荷物持ってて」
そう言って中を軽く整理し、ポーチだけを取り出す。
残りの鞄はそのままユヅキに押しつけた。
「ちょっと行ってくるね」
そして、マサキの方を見た。
何事もなかったように軽く笑う。
さっきの空気を誤魔化すような、いつもの顔。
にこっと、自然に。
けれどその奥に、さっきまでの熱がまだかすかに残っているのが分かる笑顔だった。
リサはそのまま足早にトイレへ向かう。
マサキからは見えない距離に出た瞬間、表情が崩れた。
「……っ、やば……」
思わず声が漏れる。
(さっきの……なに……!?)
個室に入ってドアを閉めると、リサは壁に背を預けたまま動けなくなる。
一度しゃがみそうになるほど、足から力が抜けていた。
頭の中で、さっきの感覚が勝手に再生される。
——ふっと浮いた瞬間。
——腰に回った手。
——抵抗する間もなく、位置を整えられた自分の身体。
(持ち上げられたんだけど……普通に)
乱暴さは一切なかった。
力でねじ伏せる感じでもない。
ただ「そこにあるものを正しく戻しただけ」みたいな、異様な自然さ。
(あれ……抱きしめられた気がした……や、違うけど……でも……)
リサは両手で頬を押さえる。
まだ熱い。さっきのゲームの熱とは別の種類で、頭が冷えない。
(身長は同じくらいなのに……)
見た目は変わらない。むしろ細身で、静かな方なのに。
それなのに、あの動きは異常なくらい迷いがなかった。
(なんであんな簡単に……)
「力が強い」という単純な話じゃない。
必要なことだけを、最短で、当然みたいにやった感じだった。
そしてもう一つ。
(どけろ、とか……言わなかった)
その事実が、遅れてじんわり効いてくる。
普通なら言うはずだ。
「どいて」「離れて」って。
でも松前くんはそうしなかった。
黙ったまま支えて、持ち上げて、自然に位置を戻しただけ。
(なにそれ……)
リサは鏡を見る。
赤い顔がそのまま映る。
思考が少しずつ別の方向にずれていく。
(てゆーか松前くんの膝、めっちゃ堅かった)
あの一瞬、座るみたいに乗ってしまったときの感触。
柔らかさとは逆の、ちゃんと支えられる硬さ。
(男の子っていうより……男の人じゃん……)
落ちないように支えるための、安定した強さ。
その差が、今になってじわじわ効いてくる。
(……やば)
リサはゆっくり息を吐いた。
頭の中から、さっきの光景がなかなか消えない。
そして最後に、ぽつりと本音が落ちる。
(……かっこよすぎでしょ、あれ)
◇ ◇ ◇
「お手洗い行ってくるから、荷物持ってて」
そう言うと、リサは鞄の中を少しだけ整理し、ポーチだけを取り出す。
そして残りの鞄をそのままユヅキに押しつけた。
「ちょっと行ってくるね」
リサはマサキへ視線を向ける。
そして、さっきの緊張を隠すように、にこっと小さく笑った。
さっきまでの動揺が嘘みたいに柔らかくて、普通の女の子の顔だった。
リサはそのまま人混みに紛れていく。
マサキはユヅキと二人になった。
初対面に近い距離感の相手と残されるのは、正直あまり得意ではない。
肩の力を抜く場所が見つからないまま、筐体の前に立っていた。
(きまず…)
ユヅキが軽く笑いながら口を開く。
「でさ、どうなの松前くん」
「なんですか」
声は小さい。
周囲の音に紛れるくらいの音量だ。
ユヅキは少しだけ肩をすくめて、軽い調子で続ける。
「好きにならない方が無理じゃない?」
マサキは一拍遅れて、眉をひそめる。
(なんの話だ?)
頭の中でようやく「リサ」という単語に繋がるまで数秒かかった。
ユヅキはそのまま、筐体の方を見ながら言う。
「普通に可愛いでしょ、リサ」
その言葉を聞いて、ようやくマサキの中で繋がる。
(如月の話か…行間が読めなすぎる)
「…はい」
短く答えると、ユヅキが目を細めた。
「…あれで付き合う気ないの?あの距離感でさ」
マサキはすぐには返せなかった。
「…ないですけど」
言葉にしたあと、自分でも少し違和感が残る。
正確には「あり得ない」だが、それを説明するほど器用でもない。
ユヅキは軽く笑う。
「ないのにあれやってんの?」
マサキは目を落とす。
ユヅキは続ける。
「いや別にいいけどさ、そういうのでも全然。付き合った方がもっといろいろ出来るよ」
マサキの眉がかすかに動く。
(いろいろって何だ)
具体性がなさすぎて逆に怖い。
ユヅキは悪びれもなく言葉を重ねる。
「触るのとかも全部普通になるじゃん」
その瞬間、マサキの中で一瞬だけ別の記憶がよぎる。
さっきの距離。
(……)
思考が変な方向に行きかけて、すぐ止める。
(この人、大人の悪いとこ出てる…)
ユヅキはさらに軽く続ける。
「付き合わない理由ある?嫌いじゃないんでしょ?」
少し間を置いて、冗談みたいに言葉を落とす。
「オレに妬いちゃうくらいだし」
「っ」
ほんの一瞬だけ反応してしまう。
ユヅキはそれを見逃さない。
「好きなんじゃん」
「ちょっと、ユヅキさん…」
「ん?」
マサキは言葉を探すように間を空ける。
「如月とは、そういうんじゃないんで…ほんとに」
ユヅキは笑いながら首を振る。
「今さら照れるなよ」
「いや、だから……オレにはもったいないんで、如月は」
言ってから、自分でも少し引っかかる。
ユヅキは目を細める。
「あー………そうやって一線引くんだ」
マサキは目を逸らす。
ユヅキは少しだけ静かになったあと、呆れ混じりに言った。
「あのさぁ、傍から見たらお前らってもう付き合ってるも同然だからな?完全に恋人ムーブかましてるよ?だったら、さっさと付き合えよって言ってんの」
わざと大げさに肩をすくめるその態度は、完全にからかいのそれだ。
マサキは一瞬だけ言葉を失う。
(…なんで?)
理解できないというより、その結論の理屈が見えない。
だから反射的に、いつも通りの距離に戻す。
「や…付き合いませんけど」
即答だった。
余計な感情を挟まないように、短く切る。
ユヅキはすぐに食いつく。
「いやいや、付き合ったらいいじゃん。松前くんのその冷めた感じなに?」
「ユヅキさんこそ…それ、なんですか。如月さんとオレをくっ付けようみたいなの」
声がわずかに強くなる。
冗談にして流せる話じゃない、と無意識に線を引いていた。
ユヅキは肩を揺らして笑う。
「なんで?ダメ?可愛い子と付き合いたくないの?」
その言葉に、マサキはほんの一瞬だけ目を落とす。
「如月は…なんていうか、別格なんで。好きになっても付き合えないのに、わざわざ好きになりにいくの…無駄かなって」
口にした瞬間、自分でも少し違和感が残る。
理屈としては一応通っているはずなのに、どこか歪んでいる気がした。
(……変なこと言ってるのは分かってる)
「"付き合えないから好きにならない"って、もう好きになる前提の思考じゃん」
即座に否定できない沈黙が落ちる。
(……違うって言い切れないのが一番だるい)
ユヅキはその間を楽しむように、わざと軽く笑った。
「あー……じゃあオレがもらっちゃお」
その言葉に、マサキは一瞬だけ頭が止まる。
(……ああ、なるほど)
さっき自分が「オレに妬いちゃうくらいだし」に反応してしまったから。
そこからこの流れに繋げてきたのが分かる。
つまりこれは本気の話じゃない。
「揺らすための一手」だ。
嫉妬を引き出して、反応を見て、崩すための冗談。
(人の反応で遊んでるだけか)
冗談だと分かっているからこそ、真正面から受ける必要はない。
ただ、放置するとまた別の形で話を転がされるだけだ。
「…従兄弟ですよね」
即座に返すマサキ。
その冷静さだけは妙に早い。
ユヅキは少し肩をすくめる。
「えー、好きになったら関係ないと思うけどなぁ」
その言葉に、マサキはほんの一瞬だけ黙る。
(関係ない、って簡単に言うな)
軽い冗談のはずなのに、その「軽さ」が逆に現実感を持ってしまうのが厄介だった。
もし本気でそれを言われたら、自分はどう返すのか——そんな考えが一瞬だけよぎって、すぐに打ち消す。
今はそういう話じゃない。
「ユヅキさん、結婚指輪つけたままですよ」
わざと目を外さず、淡々と指摘する。
話題を切るための最短ルートだった。
一瞬で空気が止まる。
ユヅキの表情が固まるのを見ながら、マサキは内心で少し呆れる。
さっきまで人の関係を好き勝手に動かそうとしていた側が、自分の「前提」には無頓着なのが妙に引っかかった。
ユヅキは手元を見て、数秒止まる。
「……あ……いや、これはさ。うん…その、あれだよ」
しどろもどろの言い訳に、マサキは一切助け舟を出さない。
むしろ静かに、事実だけを置く。
「既婚者の発言じゃないと思います」
感情というより、論理の整合性としてそう判断しているだけだった。
ユヅキは即座に顔をしかめる。
「やめろその正論」
その反応を見ても、マサキは特に表情を崩さない。
ただ淡々と「崩れている話を崩れたままにしておくのが気持ち悪い」程度の理由で返しているだけだった。
ー
ユヅキの言葉が一度途切れた、そのちょうどタイミングで。
筐体の横から、軽い足音が戻ってきた。
リサが小さく手を振りながら近づいてくる。
片手には自販機のコーラ。冷えた水滴がボトルに張り付いてリサの手を濡らしている。
「はい、これ」
そう言って、自然な動作でマサキに差し出す。
「ごめんね、ユヅキ全然気ぃきかなくて。大人なんだから飲み物くらい寄越せって思うよね」
軽い冗談のつもりなのか、本気で言ってるのか分からない調子だったが、気遣いはそこにある。
マサキは少しだけ間を置いてから受け取る。
「…ありがと」
そのやり取りを見て、ユヅキが肩をすくめた。
「甲斐甲斐しいこと」
リサはすぐに反応する。
「それ褒めてないよねぇ」
ユヅキは悪びれもなく笑う。
「あーあ、オレ今せっかく松前くんにリサのこと売り込んであげてたのに」
その言葉に、リサの目がすっと細くなる。
「なに言ったの?」
声は明るいのに、圧だけはしっかりある睨みだった。
ユヅキはあっさり答えた。
「さっさと付き合えって言った」
一瞬。
「は?バ、バカじゃない!?そういうの、いらないからっ……もうっ」
リサの声が一気に跳ね上がる。
耳まで赤くなって、言葉が追いつかないまま怒りだけが先に出ている。
ユヅキは軽く両手を上げた。
「悪い悪い」
リサはまだ納得していない顔のまま、声を落とす。
「な、なんて言ってた…?」
ユヅキはわざとらしく間を置いてから言う。
「付き合いませんけど、だってさ」
その瞬間、リサの動きが止まる。
ほんの一瞬だけ空気が落ちて、それから何事もなかったように切り替わる。
リサはくるっとマサキの方を向いた。
「松前くん、一緒にプリクラ撮ろ」
当たり前みたいな顔でそう言った。
ゲーセンの明るい照明の下で見るリサは、さっきまでのゲームの緊張感が嘘みたいにほどけていて、頬がまだ少し赤い。
そのせいで余計に「普通の可愛い女の子」っぽさが強くなっていた。
「…イヤだよ」
即答。迷いもない。
リサはむっとした顔をして、すぐ食い下がってくる。
「お金払うから」
マサキは即座に首を振る。
「顔がキレイなやつと撮りたくない」
リサは一拍置いてから、きょとんと瞬きをした。
「褒めてる?」
「違う。並んだときの差がきついって言ってる」
本気で言っているのに、説明すればするほど変な方向に聞こえるのが分かっているのか、マサキは少し眉をひそめる。
「あ、ほら。あたしサングラスもってた。これでどう?」
リサはポーチからサングラスを取り出すと、そのまま慣れた手つきでかける。
ちょっとした悪ノリのはずなのに、鏡も見ずにキメ顔っぽくなるのがずるい。
マサキは息を吐いて、ぼそっと言う。
「せっかくキレイなのに隠すなって」
言ってから、無意識に手が動いていた。
サングラスを指先で軽く外す。
距離が近い。
ほんの一瞬、指が髪に触れそうになるくらいには近い。
リサはそのまま頬を赤くする。
「もー、やっぱ褒めてるじゃん」
照れを隠すみたいに、リサは横のユヅキの腰を肘で小突いた。
どすっ。
「って」
ユヅキはわざとらしく体をよろめかせながら、顔をしかめた。
マサキは前を向いたまま短く言う。
「しまって」
「えー、プリクラ撮ってくれなきゃヤダー」
拒否されてるのに、楽しそうなテンションは落ちていない。
「無理」
「松前くんかっこいいから大丈夫だよー」
リサは楽しそうに笑いながら、まったく引く気配がない。
ゲーセンの明るい照明の下で、楽しそうに足先を揺らす。
「なんでそういうことさらっと言うんだよ」
マサキは目をそらしたまま、ぼそっと返す。
リサは一瞬きょとんとして、それからすぐに口を尖らせた。
「さきに言ったの松前くんじゃん」
そのまま、当然みたいに一歩だけ距離を詰める。
肩が触れるか触れないかの位置で、わざと軽く身体を寄せてくる。
柔らかい布越しに、体温が逃げない距離。
さっき自分から同じようにリサへ腕を回して、ゼロ距離でリズムを合わせていたことが頭に引っかかる。
(……今さら避けるのは、違う気がする)
さっきの自分の行動が、そのまま「理由」として残っている。
近づかれること自体を拒むなら、最初からあれはやらないべきだった。
だからマサキは動けない。
離れる理由も、距離を取る正当性も、今の自分には持てない。
リサはそんな事情を知らないまま、安心したみたいに小さく笑った。
ユヅキはその一部始終を見ながら、完全に力の抜けた声を漏らした。
(……オレなに見せられてんだよ……)




