新学期 ~窓際の視線に届く声3~’
マサキは言ったあとで、自分の言葉の重さに気づいた。
(やば……今の、普通に変なこと言っただろ)
褒めたつもりではなかった。
口説こうとしたわけでもない。
ただ、黙っている理由を説明しようとしただけだ。
なのに、口に出してみたら完全におかしい。
(陰キャ野郎にキレイとか言われたら、普通に気持ち悪いよな)
「いや、その……別に変な意味じゃなくて……」
言い訳がうまく形にならない。
リサは一瞬だけ固まって、それからようやく息を吐いた。
視線をそらしながら、少し上ずった声で言う。
「……な、なにそれ」
「ごめん」
マサキは即答で謝った。
「ちょ、ちょっと待って。お世辞? 本心? からかってる?」
マサキは一瞬だけ黙る。
ここで誤魔化せば、たぶん流せる。
冗談とか、そういう意味じゃないとか、いくらでも逃げ方はある。
でも、それは違う気がした。
綺麗だと思ったのは本当だ。
そこまで否定したら、さっきの言葉全部がもっと失礼になる。
(……本当のこと言っただけだろ)
視線を逸らしたまま、小さく答える。
「……本心」
その一言で、リサはまた固まった。
前を向いたまま、片手で顔を仰ぐようにする。
耳まで赤くなっているのが、横目でも分かった。
「……え、いや待って」
さっきよりも明らかに声の温度が上がる。
「いやいや、急にそんな……言われても……」
リサの中で、「キレイ」という言葉と「本心」という言葉が変な形で重なっているように見えた。
軽く流せる種類の褒め方ではなかった。
マサキ自身がそれを分かっていないから、余計に逃げ場がない。
(やっぱ言わなきゃよかった……気まずい雰囲気になっただけだ)
「……ごめん」
また謝る。
「いや、謝んなくていいけどねっ」
強めに言いながらも、声の端は落ち着かない。
リサは前を向いたまま、頬を押さえるみたいに指先を当てた。
「……その、なんていうか」
言葉を探す間ができる。
「松前くんも、そういうこと言うんだねぇ」
前を向いたまま、リサは口元を緩める。
「如月さんは、そういうこと……言われ慣れてるんじゃ……」
思わず出る。
リサは少しだけ頬を膨らませるようにして、すぐに返した。
「言われるけどぉ……」
そこで一度、言葉が止まる。
「松前くんから言われるのは、なんかこう……軽くない……というか」
マサキは目線を一度だけ落とす。
リサの横顔を見ながら、一瞬だけ迷った。
(これ、続けていいやつか?)
変に踏み込んだら、またおかしくなるかもしれない。
でも今の反応は、嫌がっている感じではない。
かといって、何を返せば正解なのかも分からない。
でも、誤魔化す方がたぶん変だ。
間を置いて、結局うまく結論が出ないまま、半分だけ確かめるように言葉を出す。
「……いや、如月さんがキレイなのは事実だし。他のヤツもお世辞で言ってるわけじゃなくて、みんな本気で言ってると思うけど」
リサの肩が、ぴくっと揺れた。
「軽くないっていうのは、あたしの受け止め方の話でぇ……」
自分でもうまく言えていないのか、リサは困ったように視線を泳がせる。
「いや、上手く言えないや。なんか、分かんないんだけど」
頬を手で仰ぎながら、リサは前を向いたまま小さく息を吐いた。
「ドキドキするんだよねぇ……そういうの急に言われたら……」
意味が分からない。
ただ事実を言っただけのつもりだった。
なのに、リサはさっきよりもさらに落ち着かない様子で、耳まで赤くしている。
(演技か? 天然か?)
マサキは混乱していた。
(ほんとに嫌なら、こんな反応しないよな……?)
判断材料が少なすぎて、逆に確信が持てない。
喜んでいる、と決めつけるのも違う。
でも、少なくとも嫌がっているようには見えなかった。
リサはまだ頬を赤くしたまま、恥ずかしさをごまかすように小さく息を吐く。
「でも、ありがとね」
そこで一度、声が少しだけ柔らかくなった。
「褒めてくれて、嬉しい」
その一言は、照れ隠しではなかった。
からかうための言葉でもなかった。
ちゃんと受け取った上で、返してくれた言葉だった。
マサキは反応に困る。
「別に……」
言ってから、すぐに失敗したと思った。
(いや、別にって何だよ)
嬉しいと言われた。
だったら、もっとまともな返し方があるはずだ。
でも、そのまともな返し方が分からない。
(ヤバい、どんな反応していいのか分からない……)
そのまま会話が一瞬途切れる。
沈黙が落ちた瞬間、マサキはさらに焦った。
(え、ここで終わり?)
嬉しい、と言われた。
ちゃんと受け取られた。
その直後に会話がなくなるのは、さすがに違う気がする。
(なんか言え……なんか)
頭の中だけがやけに忙しくなる。
カラオケだから、歌。
音楽。
流行。
女の子が好きそうな、そういう話題。
でも、どれも形になる前に崩れていく。
(好きな曲とか……いや、さっき聞かれてまともに答えなかっただろ)
聞き返せばいいだけなのかもしれない。
でも、今さら同じ話を戻すのも不自然な気がする。
(カラオケ、よく行くのかとか……いや、普通すぎるか)
普通でいい。
たぶん普通でいいはずだ。
けれど、その普通の会話が一番分からない。
マサキは横目でリサを見る。
リサは前を向いて歩いている。
さっきまで赤かった頬も、少しずつ落ち着いてきているように見えた。
時々、こちらの様子をうかがうみたいに視線が動く。
でも、無理に話しかけてはこない。
それが逆に、逃げ道みたいで、少し苦しい。
(気を遣わせてるな、これ)
そう思うと、余計に何か言わなければいけない気がした。
(さっきの、変な意味じゃないってもう一回言うか?)
いや、しつこい。
謝りすぎるのも変だ。
何度も謝られたら、相手の方が困る。
(じゃあ、ありがとう?何に?オレと喋ってくれて?いや重いだろ)
考えれば考えるほど、言葉が変な形になっていく。
ふと、昼休みのくだらない会話が頭をよぎった。
クラスの男子が、如月理沙の話でやたら盛り上がっていた光景。
彼氏がいるのかとか。
絶対いるだろとか。
勝手に決めつけて笑っていた、あれ。
(……いや、それ聞くのは違うだろ)
喉まで出る前に、全力で引っ込める。
(聞いたら終わるやつだろ。踏み込みすぎる)
じゃあ何を話す。
女の子にどうやって合わせる。
天気。
クラス。
カラオケ。
歌。
どれも口に出す前に薄っぺらく感じて、結局何も残らない。
リサが少しだけ歩く速さを落とした。
マサキが黙ったままなのに合わせるみたいに、急かさず、離れすぎず、横の距離を保っている。
それに気づいて、また喉が詰まる。
(……なんか言えよ)
自分に言う。
別に、で終わらせるな。
でも出てこない。
結局、マサキは何も言えないまま歩いた。
その沈黙を、リサは平気そうに受け止めていた。
気まずそうにも、退屈そうにも見せなかった。
ただ、隣にいる速度だけを保っている。
(無理だ、詰んだ)
そう思ったちょうどそのとき、視界の端に店の入口が入った。
「あ、お店ここだよー」
リサが先に足を止めた。
マサキが入口の前で一瞬迷うより早く、リサは取っ手に手をかける。
そのまま扉を開けて、身体を少し横にずらした。
「どうぞー」
「……うん」
マサキはとりあえず目線を下げたまま店に入る。
マサキが通るのを確認してから、リサもすぐ横に並ぶ。
(助かった……ここまで来れば、二人きりじゃなくなる)
さっきまでの『何を話せばいいか問題』から一旦解放されて、少しだけ息が抜ける。
そのまま入口をまたいだ瞬間、ふと気づいた。
(いや、そこは『うん』じゃなくてありがとうだろ……)
一歩遅れて、礼儀のズレが押し寄せてくる。
しかも、流れでリサに扉を開けさせて、自分が先に通る形になっていた。
反射みたいに軽く会釈しただけで済ませた自分に、じわっと嫌な汗が出る。
(……普通、こういうの、オレがやるやつだったんじゃないのか)
やったことがあるわけじゃない。
そういう場面に慣れているわけでもない。
でも、頭の中にはふんわりと形だけあった。
如月さんみたいな子は、そういうことをされる側にいる人だ。
誰かに扉を開けられて、先に通されて、自然に気を遣われる側の人。
隣を歩くなら、たぶんこっちが先に気づかなきゃいけなかった。
少なくとも、自分が何もせずに通される側になるのは違う。
なのに実際は、リサの方が何も気負わずに扉を開けた。
当たり前みたいに道を作って、どうぞーなんて軽く言って、すぐに案内の続きを始めている。
(……さりげなくそういうの、できるんだな)
できない自分と、できるリサ。
その差が、遅れてじわっと刺さった。
「えっとね、部屋は二階の大部屋」
リサは特に気にした様子もなく、すぐに案内を続ける。
マサキは短く頷くことしかできなかった。
受付の前を抜けて、そのまま階段へ向かう。
リサが先に一段目へ足をかけた。
案内されている流れのまま、マサキはその後ろにつく。
(あ)
その瞬間、ようやく自分の立ち位置のまずさに気づいた。
階段を上がるたび、リサのスカートがふわっと揺れる。
その下から白い太ももが覗く。
細いのに柔らかそうで、肌がやけに滑らかそうだった。
(これ、立ち位置まずくないか……?)
階段で、スカートの女の子の後ろを歩いている。
しかも相手は如月理沙だ。
学校でも目立つくらい可愛い女の子。
(見るな)
マサキは壁の方を見る。
手すりを見る。
自分の靴を見る。
でも、見ないようにするほど、逆にその位置関係だけが頭から離れない。
(横にずれるか? いや、今さら変な動きしたら余計におかしいだろ)
動けない。
案内されている以上、後ろについていくのは自然だ。
マサキは息を詰めたまま、できるだけ視線を上げないように階段を上がった。
一段、また一段。
視界に入れないようにしようとしても、逆に意識だけがそこへ引っ張られる。
(いや、ほんとに……見たら終わる)
マサキは必死に下を見る。
なのに、スカートが揺れるたび、白い脚が視界の端を掠める。
階段を上がる動きに合わせて、太ももの内側までちらちら見えてしまう。
そのたび喉が変に熱くなる。
(無理だろこれ……)
次の瞬間。
リサが少し大きく踏み出した拍子に、スカートの裾がふわっと浮いた。
ほぼ反射だった。
マサキの視線が上がる。
暗いスカートの奥。
淡いピンク。
柔らかそうなレース。
小さな花柄みたいな模様まで見えた。
布地が薄くて、脚の白さとの色の差が妙にはっきりしていた。
(見え…)
気づいた瞬間、マサキは勢いよく下を向いた。
耳まで熱くなる。
心臓が一気に跳ねる。
リサは気づいていない。
おそらく、自分のスカートの中が見えたことにも。
それが逆につらかった。
罪悪感と、見てしまった感覚だけが頭に残る。
そのとき。
リサが急に立ち止まった。
マサキは顔を逸らした直後で反応が遅れる。
次の瞬間。
むにっ。
柔らかい感触に、顔面からぶつかった。
「ひぁっ?!」
リサの身体がびくっと跳ねる。
マサキの顔は、リサのお尻にそのまま埋まっていた。
制服越しなのに柔らかさが分かる。
ふわっと沈む。
あたたかい。
丸い感触が頬を包むみたいに押し返してきて、息が止まりそうになる。
(やわ……)
頭が真っ白になる。
女の子のお尻なんて触ったこともない。
まして顔から突っ込むなんて。
柔らかいのに弾力があって、押し返される感触が妙に残った。
「ちょ……ちょっと……!」
リサが真っ赤な顔で振り返る。
それでもマサキの顔を押し返さないように、少し前へ逃げるみたいに一段上がる。
マサキはそこでようやく我に返った。
反射みたいに顔を背ける。
「ご、ご、ごめん……なさい……」
顔から火が出そうだった。
(終わった。完全に終わった。社会的に死んだ。いや、警察呼ばれてもおかしくないだろこれ)
脳内がぐちゃぐちゃになる。
さっき見えた淡いピンクのレース。
まだ残ってる。
そのうえ、今の柔らかい感触まで頭に残って離れない。
頬が押し込まれた瞬間、ふにっと沈んだ。
柔らかいのに、ただ柔らかいだけじゃない。
押し返してくる弾力があった。
顔を離したあとも、その感覚だけが頬に残っている。
(なんで覚えてるんだよ……っ)
最低だと思うのに、さっきの一瞬だけが頭から離れない。
見ないようにしても見たこと。
反応が遅れたこと。
ぶつかったこと。
全部が自分の中で最悪の形に繋がる。
マサキは顔を背けたまま、手すりの方を見ることしかできなかった。
「ご、ごめん……ほんと、ごめん」
言葉がうまくまとまらない。
謝っても足りない気がするし、謝れば謝るほど、その場の空気が変に重くなっていく気もする。
リサは階段の上に立ったまま、マサキを見下ろしていた。
顔は真っ赤だった。
しかし、怒ったり、黙り込んだりはしなかった。
「いやいや、あたしの方こそごめんね。急に立ち止まっちゃって」
明るく言おうとしている声だった。
でも、その明るさの端が少しだけ揺れている。
リサは視線を泳がせながら、続ける。
「静かだったから、松前くんいるかなって……後ろちゃんと来てるか確認しようとして」
ごにょごにょと、言い訳みたいに言葉がほどけていく。
それでも、そこで止めない。
気まずさが残らないように、リサの方から次の言葉を探しているのが分かった。
「ちゃんといたね、安心したー」
無理やり軽く締めるみたいに、リサは笑った。
その笑い方を見て、マサキは余計に喉が詰まる。
(この状況で、この子が気を遣うことないだろ……)
悪いのは自分だ。
前をちゃんと見ていなかったのも、自分だ。
後ろを歩く立ち位置のまずさに気づいていたのに、変に動く方が不自然だと思って、そのままにしたのも自分だ。
なのにリサは、自分が急に止まったからだと言っている。
マサキが謝り続けなくて済むように、逃げ道を作っている。
それが分かってしまって、余計に苦しくなる。
「……いや、オレの方が悪い」
マサキはようやく呼吸を整えながら言った。
「ちゃんと前見てなかったし……黙ってたのも、よくなかった。階段で女の子の後ろ歩くの良くないって気づいてたのに、変な動きしてると思われたくなくて、そのままにした」
言いながら、自分でもひどい言い訳だと思う。
でも、ここで曖昧に笑って終わらせるのは違う気がした。
「如月さんに落ち度はない」
そこだけは、はっきり言った。
その言葉に、リサはすぐに首を振った。
「いやいや、階段で急に止まるとか危ないことしたのあたしだし」
早口になる。
明るくしようとしているのが分かる声だった。
「怪我させるとこだったよね。落ちなくてほんと良かった」
マサキはその言葉を聞いても、すぐには返せなかった。
(……いや、今の)
普通の謝罪じゃない。
責任をごまかすための言い方でもない。
自分の方にも理由を置いて、場を終わらせる言い方だ。
これ以上、マサキが謝り続けなくて済むようにしている。
しかも、それがやけに自然だった。
(……これ、さっきからずっとだ)
ようやく、そこに気づく。
場所を教えるだけで済むはずなのに、リサは迎えに来た。
二人で歩き出してからも、沈黙が重くならないように話をつないでいた。
短い返事しかできなくても、笑って受け止めて、別の話題を出していた。
店に着いたときもそうだ。
リサは一人で先に入るのではなく、扉を開けて、マサキと一緒に入る形を作った。
それを大げさなことみたいには扱わず、当たり前みたいに次の案内へつなげた。
そして今も。
気まずい空気が残りそうになった瞬間、リサの方から軽くしようとしている。
自分が急に止まったから。
怪我がなくてよかった。
そういう形にして、そこで終わらせようとしている。
(この子ずっと、空気が途切れないようにしてたのか)
こっちはずっと、どう返せばいいか分からないとか、何を話せばいいか分からないとか、自分のことで手一杯だった。
でもリサは、その間ずっと、二人の間にあるものが途切れないようにしていた。
(……慣れてるんだな、こういうの)
悪い意味ではない。
軽く扱っているわけでもない。
むしろ、ちゃんと考えているからこそ、そういう言い方がすぐに出てくるのだと思った。
居心地の悪さをそのまま残さない。
相手が謝り続ける場所を作らない。
自分の方にも理由を置いて、笑える形に戻す。
それを、リサは無理なくやっている。
マサキはリサを見る。
顔はまだ赤い。
目元にも、さっきの動揺は残っている。
それなのに、声だけはもうちゃんと整っていた。
(この子、こうやって人と喋ってきたんだろうな)
気まずくならないように。
相手が引かないように。
場が変に固まらないように。
そういうことを、たぶん何度もやってきた。
マサキは目を逸らす。
(……オレにはできない)
黙るか。
変なことを言って空気を壊すか。
自分ができるのは、そのどっちかだ。
でもリサは、恥ずかしさが残っていても、ちゃんと空気を戻そうとする。
それがすごいと思った。
すごいと思った分だけ、自分との差が余計にはっきり見えた。
(すげぇな、こういうの……)
マサキは短く息を吐いた。
リサは階段を二段だけ降りて、マサキの横に並ぶ。
「並べば大丈夫」
そう言って、にっこり笑う。
その瞬間、マサキの視線が止まった。
目元が柔らかく細まって、頬がまだほんのり赤いまま口元まで緩んでいる。
作った感じじゃなく、ほっとした気持ちがそのまま顔に出ているような笑い方だった。
しかも近い。
階段の途中で横に並んだせいで、さっきより顔が見やすい。
伏せた目元のラインが綺麗で、笑うたびに瞳が少しだけ光を拾う。
(……綺麗だな)
一瞬、本気で見惚れる。
さっきまでの気まずさも、自己嫌悪も、その笑顔ひとつで少しだけ形を変えられてしまう。
完全に消えたわけじゃない。
でも、息が詰まるほど重かった空気が、少しだけ動いた。
リサは後ろに誰もいないのを確認するみたいに一度だけ目を動かして、それから少し恥ずかしそうにスカートの裾を押さえた。
マサキは慌てて目線を前に戻した。
(……今さら意識されると、こっちも余計に思い出すだろ)
心の中だけでそう思う。
もちろん、口には出さない。
リサは何事もなかったみたいに、横に並んだまま階段を上がり直す。
「ほら、行こー」
「……ん」
短く返して、マサキも一歩を踏み出した。





