38. ゲームセンター 前編 ~尾行~
休日の駅前は、昼の光に溶けるようにざわついていた。
人の流れはゆるく、それぞれが勝手な方向へ流れていく。
マサキは、その中を一人で歩いていた。
目的は単純だった。
駅前のCDショップに、少しだけ寄るつもりだった。
(新譜、今日だよな)
それだけのはずだった。
だが、商店街へ入った瞬間、視界の端に妙な引っかかりが刺さる。
カフェのテラス席。
そこに、見覚えのある空気があった。
一度は通り過ぎようとした。
関係ない、と処理するつもりだった。
けれど、それは無理だった。
そこにいたのは——如月理沙だった。
帽子、サングラス、軽いメイク。完璧に変装しているはずの姿。
それでもマサキは、すぐに気づいてしまう。
理由は単純だった。
姿勢の癖。
手の動かし方。
そして、笑い方。
少しだけ肩を揺らすように笑う、その癖。
フォークをくるくる回す仕草。
ストローを意味もなく噛む癖。
それは、学校でも何度も見た"如月理沙"そのものだった。
(……如月だ)
確信してしまった瞬間、視線の置き場がなくなる。
そしてもう一つ、隣の存在に気づく。
テラス席の向かいに座っている男。
背は180近くありそうで、筋肉はありながらもスラッとした体型。
茶髪の短髪。
耳には複数のピアスが揺れ、首には太いシルバーチェーン。
手首にもブレスレットが重なっている。
アクセサリーはやたらと主張していて、全体として"派手で大人びた男"という印象だった。
(……いかにもチャラそうなやつだな)
マサキの中で、率直な印象が浮かぶ。
だが次の瞬間、その印象は少しだけ崩れる。
男の顔立ちは、整っていた。
むしろ——かなりいい。
はっきり言って、美形だった。
自然に距離を詰める仕草に、人との会話に慣れている感じがある。
リサの向かいで、その男は当たり前のように笑っている。
テーブルには肉料理。
ナイフとフォークが軽く触れ合う音がやけに耳に残る。
リサは楽しそうに話していた。
学校で見るような"整えられた笑顔"ではない。
もっと崩れていて、もっと素で、もっと——
(……いや)
一度、思考を止めようとする。
最初は仕事関係だと思ったからだ。
読者モデルの関係者。
撮影か、打ち合わせか、その延長。
そういうものなら、別におかしくはない。
(気にする必要はない)
そう処理して、そのまま通り過ぎるつもりだった。
だが、次の瞬間。
リサが笑った。
その笑い方を見たとき、何かがずれた。
(……彼氏、とか)
思考が勝手に言葉になる。
仕事の空気じゃない。
あまりにも自然すぎる。
近すぎる。
あまりにも"素"の顔だ。
腹の中に、説明できない違和感が落ちる。
リサは"可愛い女の子"だ。
それは、マサキも当然わかっている。
だからこそ、その笑顔が余計に目に刺さる。
男と並んでいる光景は、どこか完成された絵みたいに見えた。
(……こういうのが、お似合いって形なのか)
背も高い。
顔もいい。
雰囲気に余裕がある。
たぶん、話すのも上手い。
少なくとも、自分とは違う種類の人間だ。
(オレが入る余地、ないだろ)
そう思った瞬間、背中の奥に小さな痛みが落ちる。
それでも視線は外れなかった。
リサが笑うたびに、理由の分からない圧が増していく。
(……なんでだ)
自分でも説明できないまま、足が止まっていた。
気づけば、カフェの前を通り過ぎている。
そして数歩遅れて立ち止まる。
(……ちょっとだけだ。別に、おかしいことじゃない)
そう言い訳をしてしまった時点で、もう戻れなかった。
マサキはゆっくりと、二人のいるテラス席へ視線を戻す。
そして——
そのまま、距離を詰め始めた。
(……如月)
ただ名前だけを、心の中で置くように繰り返しながら。
その奥で、まだ名前のつかない感情だけが静かに形を持ちはじめていた。
◇ ◇ ◇
食事を終えた二人は、自然な流れで立ち上がった。
テラス席を離れ、駅の方へと歩き出す。
その瞬間、マサキも動いた。
(……行くのか)
ついていく理由は、うまく言葉にならなかった。
確認したいわけでもない。
ただ、目が離れなかった。
見なければいいと分かっているのに、足が勝手に動く。
人混みに紛れながら、距離を保って追う。
視界の中で、男が何かを言った。
内容は聞こえない。
だが——
リサは、すぐに笑った。
(……まただ)
あの、力の抜けた笑い方。
学校で見る"作られた笑顔"じゃない。
完全に気を許しているときの顔だ。
胸の奥が、また少し重くなる。
やがて二人が辿り着いた場所は、見覚えのある建物だった。
(……ここ)
マサキは足を止めかけて、すぐに思い直す。
そこはゲームセンターだった。
何度か来たことがある場所。
学校帰り、気分転換にふらっと立ち寄る程度の、ただの"いつものゲーセン"。
最近はリサと一緒に帰ることが増えてから、自然と足が遠のいていた場所でもあった。
(……なんでここなんだ)
理由は分からない。
だが二人は迷いなく中へ入っていく。
マサキも、少し遅れて続いた。
中に入ると、音が一気に押し寄せてくる。
電子音、ボタンの連打音、笑い声。
その中で——二人は目立っていた。
男が、リサの髪に軽く触れる。
整えるような仕草だった。
だが"整える"というより、慣れているからこそできる軽さ。
(……何してんだ)
リサは特に嫌がる様子もない。
むしろ当たり前みたいに、少しだけ笑っている。
それがまた、余計に引っかかる。
二人が並んで歩く姿は、それだけで絵になっていた。
身長差。肩の位置。何もしていないのに、まるで"恋人の形"になっている。
男はリサの手を取ったまま歩いていた。
自然に。ずっと。
リサもそれを当然のように受け入れている。
(……いや)
マサキの思考が、少しずつ鈍くなる。
あまりにも馴染んでいる。
歩幅の合わせ方も、呼吸のタイミングも、笑う瞬間も。
全部が噛み合っている。
その事実だけが重くなる。
男がまた、リサに何か言った。
「お前ほんと下手だな」
軽い調子の言葉だった。
その瞬間、リサがむくれた顔をする。
男の腕を軽く押すように叩いた。
「もう、バカにしないでよ」
そのやり取りは、距離が近いからこそ成立する感じだった。
一段目の疑念が、少し濃くなる。
(……彼氏か)
気づけば、思考がもう一度そこへ戻っていた。
その直後、男がまた口を開く。
「マジでセンスねぇよ」
リサは少しだけ頬を膨らませて、それでも笑っている。
その表情を見て、マサキの中で何かが固まる。
(彼氏だろ、これ)
(釣り合ってる)
その言葉が、重く落ちた。
男が、今度はリサの頭に軽く触れた。
撫でるというより、じゃれるような動き。
リサは笑いながら身をよける。
「やめてってば」
その声すら、楽しそうだった。
(……完全に彼氏だろ、これ)
マサキの中で、もう誤魔化しが効かなくなる。
視線が一度だけ揺れて、それでも離れない。
そして、気づけば口が動いていた。
「……オレが教えてやるのに」
小声だった。
誰にも届かないはずの言葉。
だが、そこに確かな熱だけが残る。
(あの筐体なら、あの男より——)
途中で、思考が止まる。
違う、とどこかで分かっている。
勝ち負けの問題じゃない。
(いや、違うだろ)
心の奥で、もう一つの声が浮かぶ。
リサは、上手い人に惹かれるわけじゃない。
きっと——
(好きだから、ああやって笑ってるんだ)
その事実だけが、やけにリアルに突き刺さった。
◇ ◇ ◇
リサが振り返る動きは、軽く弾むようだった。
さっきまでのゲームの余韻が残っているのか、少しだけ頬が上気していて、年上の男に向ける怒りさえどこか柔らかい。
「もー、バカにして!ちゃんと教えてよ!」
振り上げた手は、感情の勢いそのままに空を切る。
だが次の瞬間、それは自然な動きで制されていた。
男が、軽くリサの手首を掴む。
力ではなく、慣れた仕草だった。
「はいはい、暴れんなって」
あしらうような声。
その距離感は近く、馴染んでいる。
リサは一瞬だけ唇を尖らせるが、すぐに小さく笑い直そうとして——
その時だった。
目線がふと横にずれる。
人混みの切れ目。
ゲームセンターの入口付近。
そこに、"見慣れた空気"が立っていた。
「え、松前くん…?」
声が一瞬だけ跳ねる。
驚きと、しまったという焦りと、それでも嬉しさが混ざった声。
マサキは、そこから一歩も動いていなかった。
(見てた…?)
リサの思考が一瞬だけ止まる。
表情が揺れたまま、次の言葉を探していると、隣の男が興味深そうに目を動かした。
「へー、キミが松前くん?」
軽い調子のまま、値踏みするでもなく、ただ事実を確認するような声だった。
その瞬間、マサキの目が男へ向かう。
(でっか……)
素直な第一印象が、思考の端に浮かぶ。
背は高く、肩幅もある。立っているだけで空間の主になれるタイプの男だった。
それでも、マサキの目は逸れない。
リサの方へ戻る。
彼女は一瞬固まり、それから慌てて言葉を繋ぐ。
「ま、松前くん偶然だねー」
その言葉と同時に、リサは顔の変装を外した。
帽子を取り、続いてサングラスを外す。
ふわり、と髪が揺れる。
その瞬間、ゲームセンターの騒音の中でも、彼女だけが少し浮いて見えた。
整った顔立ちが露わになり、学校で見るよりもずっとはっきり"可愛い女の子"の輪郭が強くなる。
リサはもう一度、確かめるように目を向ける。
もじもじと指先を絡めながら、言葉を続けた。
「えっと、その……これは」
言い訳を探すように目が泳ぐ。
その横で、男が肩をすくめた。
「お前、隠すの下手だな」
からかうというより、事実をそのまま言うような口調だった。
リサはすぐに振り向く。
「ちょ、黙っててよ!」
頬を膨らませるその仕草は、怒っているのにどこか可愛らしく、緊張感を削いでしまう。
マサキのみぞおちのあたりで、何かがゆっくりと形を変え始める。
(隠す?なにを?)
最初はただの疑問だった。
だが、その裏にあった"前提"が少しずつ崩れていく。
(彼氏いないって言ってたのに…)
思い返されるのは、これまでの断片だった。
実行委員の席に、当然のように隣で手を挙げたこと。
オムライスを作って、当たり前みたいに「また来て」と言ったこと。
足を痛めたとき、迷いもなく保健室まで連れて行かれたこと。
野外活動でも、気づけば同じ班に入り込んでいたこと。
バスの中で、当然みたいに飲みかけを差し出してきたこと。
距離の基準が、全部ずれている。
(……いや)
その"全部"が、一つの線で繋がり始める。
(あれ全部、なんだったんだ)
マサキの目が、無意識にリサへ戻る。
その瞬間、彼女の声が重なる。
「ほんとに違うから!」
必死に否定する声。
だがそれは、逆に"何かを守ろうとしている"ようにも見えた。
マサキは一度だけ息を吐く。
そして短く、名前を落とすように言った。
「如月」
続けて、静かに問いかける。
「彼氏いないって聞いてたけど」
その言葉に、リサの肩がぴくりと跳ねる。
「ち、違うよ?!」
即答だった。
だが焦りが混じっていて、いつもの落ち着いた笑顔はそこにはない。
その隣で、男が小さく笑う。
「こいつさ──」
言いかけた瞬間、リサが慌てて遮った。
「ちょ、なにも言わないで!」
声が少しだけ裏返る。
「余計なこと言わないってば!」
その必死さが、逆に状況を際立たせていた。
男は肩をすくめて、素直に引いた。
「はいはい」
軽い一言。
それだけで場の空気が一段だけ緩む。
だが、マサキの中では緩まなかった。
(今の、何だ)
言葉にできない違和感が残る。
リサはまだ必死に目を泳がせている。
「ほんとに違うから!」
その声は、説明というより"願い"に近かった。
マサキは一度だけ目を伏せる。
そして低く言う。
「……オレは帰るから」
その言葉が落ちた瞬間、リサの表情が変わった。
「待って!」
声と同時に、彼女は一歩踏み出す。
次の瞬間——
迷うことなく、マサキの右腕を力任せに抱え込んだ。
細い指なのに、妙に強く感じる。
「行かないで」
リサはそのまま、距離を詰めるように身体を寄せてくる。
制服でもなく、仕事用でもない、ただの私服のリサ。
腕を強く抱きしめられたことで、リサの豊かな胸の膨らみが、これ以上ないほど押し付けられていた。
薄い私服の生地越しに伝わる、圧倒的なまでの質量。
(……デート中に他の男に抱き付くとか)
頭の中で、現実的な言葉が浮かぶ。
(彼氏の前でそれはヤバイだろ…っ)
だが同時に、別の感覚が混ざる。
(当たってるんだが…)
説明できない熱だけが、静かに残っていた。
◇ ◇ ◇
リサの手が、マサキの腕を掴んだまま止まる。
ゲームセンターの騒がしい音だけが、遠く感じられた。
その沈黙を切ったのは、マサキの短い声だった。
「如月、離れ…」
言いかけた瞬間、リサの肩がびくりと跳ねる。
慌てて顔を上げた彼女は、焦りを隠しきれないまま口を開いた。
「松前くん、この人…あたしの従兄弟」
一拍遅れて、マサキの思考が止まる。
「……は?」
声は出たのに、意味が追いついていない。
(……従兄弟?)
目が、隣の男へ向かう。
男は、まるで場を楽しんでいるように軽く手を上げた。
「ども、従兄弟でーす」
それだけ言って、構える様子もない。
その距離感は相変わらず近く、どこか保護者めいてすらいる。
リサは慌てて補足するように言葉を重ねる。
「たまに家に見に来てくれる……保護者みたいなもので……」
説明としては雑で、余計に分かりにくい。
それでもリサの表情は必死だった。
(……なんだそれ)
整理が追いつかないまま言葉だけが浮く。
そんな空気を軽く壊すように、男が肩をすくめた。
「いやー、タイミング悪かったね」
冗談めいた声に、リサが即座に睨む。
「うるさい」
小さく怒るその顔は、どこか子どもっぽくて、それでも整った顔立ちがはっきり"可愛い女の子"として見えてしまう。
そのまま、リサはすぐにマサキへ目を戻した。
「……最初に言え」
マサキの声は低いままだった。
怒りというより、置いていかれたような感覚に近い。
リサは一瞬言葉に詰まり、それから頭をわずかに下げる。
「……ごめん、そういう誤解されると思ってなかったから」
隣で男が軽く笑う。
「まぁ、誤解させた俺も悪いけど」
その受け流し方に、リサはすぐに反応した。
「ねぇ黙ってて」
声は強いのに、どこか必死さが混ざっている。
男は特に気にした様子もなく、軽く手を振った。
「まず自己紹介しとくね。俺、日向佑月。ユヅキでいいよ。よろしく、松前くん」
初めて、はっきりと名前が提示される。
マサキは一度だけ息を整えてから、短く返した。
「……松前真咲です。如月とはクラスメイトです」
必要最低限の言葉だけを落とす。
そのまま一瞬、間が空く。
マサキの目がユヅキへ向いた。
「……あの、さっきの言いかけた話、まだですよね」
ユヅキは軽く顎を上げる。
「あー、あれな」
その瞬間、リサの顔色が変わった。
「えっ!待ってヤダ!」
慌てて一歩前に出るが、もう遅い。
ユヅキはそのまま続けた。
「こいつがさ、松前くんとこの筐体やりたいって言うから練習に付き合ってたんだよ」
「……練習?」
マサキの声が、わずかに遅れて出る。
ユヅキは軽く頷いた。
「一緒にゲーセン行きたかったけど、下手だから自分から誘うの恥ずかしかったって」
その言葉が落ちた瞬間、リサが勢いよく抗議する。
「やめて、そこ言わなくていいじゃん!」
頬を赤くしながら、必死にユヅキの袖を引く。
その仕草は焦っているのに、"可愛い女の子の必死さ"がそのまま出てしまっていた。
だがユヅキは止まらない。
「最初から上手くできたら褒めてもらえるって思ってたらしい。もしかしたら、松前くんから誘ってくれたりするかもって」
「ちが…ちがくもないけど。カラオケもあたしの方が全然ダメだったから。ちゃんとできるようになってからの方が、松前くん楽しいかなって…」
言い訳の途中で、声がどんどん小さくなる。
目線も落ちていき、指先がぎゅっと絡まる。
(……それ、全部"最初からオレ前提"かよ)
マサキの中で、その事実だけが静かに落ちた。
横でユヅキが肩をすくめる。
「青春だな…」
リサは即座に顔を上げた。
「うるさい」
小さく怒る声すら、どこか照れを隠しきれていない。
そのまま、目が再びマサキへ向く。
空気が一瞬だけ止まる。
マサキは短く言った。
「……最初から言え」
それだけだった。
リサは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく息を吐く。
「……ごめん」
その声は、さっきまでの強さも言い訳もなく、ただ素直だった。




