36. イヤホン 後編 ~一緒には行かないのに~
昨日、あまり眠れなかった。
寝ようとしても、途中で何回も意識が浮く。
そのたびに、レジ袋の中のピンクの箱が頭に出てくる。
朝。
マサキは家を出る前に一回だけ袋を開けて、また閉じた。
別に箱が潰れてないか確認したかっただけだ。
そういうことにしておく。
学校についてからも落ち着かない。動きがぎこちなかった。
もともとマサキは、教室では基本ずっと両耳イヤホンだった。
誰にも話しかけられないように。
音楽を聴いてる時だけは、周りを切れるから。
でも前にリサに、
『音楽聴いてるときは邪魔しちゃいけないと思って』
って言われてから、片耳だけにすることが増えた。
片耳なら、話しかけられた時に返せる。
実際、それでリサが来る回数は増えた。
今日は、イヤホン自体していない。
——話しかけてもらわないと、渡せない。
自分から行くのは無理だ。
今まで一回も、自分からリサのところに話しかけに行ったことがない。
タイミングが分からない。
だから待つしかない。
自分から行くのは、まだ無理だった。
(いや、来る前提で考えてるのキモ……)
そこで思考を切る。
スマホを見るふりをする。
画面はほとんど頭に入ってこない。
リサが来るか。
それか、昼休み。
一緒に飯食ってる時。
(……なんでこんな緊張してんだ)
鞄の中の感触がずっと気になる。
授業中も、何回か無意識に確認しかけて止めた。
(断ったのに買ってくるって意味分からなくないか)
行くのは拒否。
でもイヤホンは買う。
行動だけ見たら意味不明だろ。
(いや無理だろ)
なにそれ。
キモくないか。
なんで買ったんだってなるだろ。
いや実際なんで買ったんだ。
(どう説明する)
「なんとなく」
違う。
「余ってた」
嘘下手すぎる。
「欲しがってたから」
だからなんで買った。
マサキはスマホを持ったまま、親指だけ少し動かす。
何も見てない。
教室のドアが開く音がするたび、無意識に意識が向く。
来たか。
違う。
また別のやつ。
(落ち着けって)
意味分からん。
なんでこんな緊張してる。
ただ物渡すだけだろ。
(ピンク大丈夫だったか)
女だからピンク、みたいで浅くないか。
でも白より似合う気したし。
いやでも本人オレンジ好きだし。
オレンジ無かったし。
なんで無いんだよ。
昨日の売り場が頭に浮かぶ。
白。
黒。
水色。
ピンク。
オレンジだけ無かった。
(あったら絶対そっちだったのに)
そこまで考えて、止まる。
"絶対"ってなんだ。
なんでそんな断言してる。
マサキは小さく息を吐いて、視線を落とす。
(松前くんが選んでくれたの?って聞かれたら終わる)
選んだ。
二時間。
めちゃくちゃ悩んだ。
そんなこと言えるわけない。
(「え、嬉しい」って言われたら)
無理。
耐えられない。
その場で脳止まる。
(逆に微妙そうな反応されたら)
もっと無理。
一週間くらい自己嫌悪する。
チャイムが鳴る。
午前の授業。
マサキは普段より少しだけ反応が遅かった。
先生に当てられてからノートを見るまで、一拍空く。
自分でも分かるくらい集中できていない。
頭の端にずっとある。
鞄の中の、小さい箱。
昼休み。
ここが本命だった。
普段通りなら、リサは来る。
その流れで、なんとか呼び出して。
人いないとこで渡して。
それが一番自然。
——自然?
(どこがだよ)
マサキは机に肘をついたまま、教室の空気を眺める。
リサが来る。
話す。
そこまではいい。
問題は、そのあとだ。
何て言う。
"ちょっと来い"?
意味分からん。
"あとで話ある"?
重い。
"渡したいものある"?
もっと無理。
しかも、もし周りに
「あ、二人きりになろうとしてる」
とか思われたら終わる。
変に空気できるだろ。
リサも気まずい。
自分も死ぬ。
(いや無理だろ……)
リサが横で喋ってる。
今日は購買のパンがどうとか、
隣のクラスがどうとか、
そんな話。
「へー」
「……そうなんだ」
適当に返しながら、別のことしか考えていなかった。
結果。
何も言えなかった。
普通に昼飯食って。
普通に会話して。
普通に終わった。
鞄の中のイヤホンは、そのまま。
(……何やってんだオレ)
二人きりじゃないと渡せないのに。
そのためのタイミングだったのに。
何もできなかった。
昼休みが終わって、マサキは机に突っ伏したくなるのを堪える。
(渡せなかったらどうする)
家持って帰る?
自分で使う?
ピンクを?
地獄だろ。
(如月の机に置いとく?)
いや怖。
無記名プレゼントみたいになる。
ホラー寄り。
(「昨日ちょっと言い方きつかったから」って流れなら…)
いや、それで物渡すの重すぎるか。
謝罪にイヤホン?
スケールがおかしい。
リサの、昨日の顔が浮かぶ。
『ぽあたん?ぽあたん?』
(……)
ちゃんとしたやつ使わせたくなるだろ普通。
……いや、普通ではない。
もう分からなかった。
◇ ◇ ◇
昼休みが終わってから、マサキは授業をほとんど覚えていなかった。
黒板は見ていた。
ノートも取っていた。
でも頭の中では、別のことだけがずっと回っている。
どう渡す。
それだけだった。
(今、廊下呼べば……いや無理だろ)
「ちょっといいか」とか何だ。
重い。
周り絶対見る。
リサも「え?」ってなる。
その空気に耐えられる気がしない。
先生の声が遠くで流れる。
(帰り、一人になるタイミング……)
下駄箱。
いや、人多い。
昇降口で止めるのも変。
「松前くん誰待ってんの?」とか聞かれたら終わる。
シャーペンを持つ手だけが少し動く。
(先に帰るふりして、校門で……)
不審者か?
自分で考えてて怖い。
窓の外を見る。
グラウンドの光が白い。
(昼休み、飲み物買いに行く流れなら)
「オレも行く」
無理。
自分からついていくのがまず無理。
(リサが一人になった時に……)
"待つ"って発想になってる時点でキモい気がする。
しかもタイミング見てるみたいで嫌だ。
マサキは小さく息を吐く。
無理だ。
そこで思考が止まる。
なんで買った。
マサキは数秒だけ真顔になる。
(……いや、使ってほしかったからだろ)
思った瞬間、すぐ打ち消す。
(でも、二人きりじゃなくても渡せるか?)
無理。
「なにそれー?」って周り来る。
死ぬ。
リサは人が寄る。
普通にしてても、人が来る側の人間だ。
(放課後、リサが残ってれば……)
でも毎回周りに誰かいる。
"人気ある側"ってこういうことか。
マサキは机に頬杖をつく。
(「昨日ちょっと悪かった」から入れば)
謝罪からイヤホン出てくるの怖すぎる。
展開が飛びすぎ。
(リサの方からまたイヤホンの話してくれれば)
そこしかない気がする。
いや、"そこしかない"ってなんだ。
他力本願すぎる。
(「これ、余ってるから」)
新品。
箱。
無理。
マサキは片手で顔を覆う。
(渡した瞬間、「え、プレゼント?」って空気になったら)
終わる。
教室から消えたくなる。
でも。
ふと、頭の中に浮かぶ。
薄いピンクのイヤホンをつけて、
「え、かわいいー」
って笑うリサの顔。
その想像だけ、一瞬だけ妙に鮮明だった。
(……)
マサキは数秒黙る。
(でも、使ってるとこは見たい)
思った瞬間、自分で顔をしかめた。
……いや、だから何考えてんだ
◇ ◇ ◇
教室の後ろで、誰かが笑っていた。
「お前LINEすぐ返せよー」
「いや風呂入ってたんだって」
「既読ついてたじゃん」
「見ただけ!」
そんな、どこにでもある会話。
マサキは頬杖をついたまま、ぼんやり聞き流す。
その途中で、ふと止まる。
(……LINE)
リサと、LINEしてる。
思った瞬間、マサキの視線がゆっくりスマホに落ちた。
連絡手段。
マサキはスマホを持ったまま止まる。
画面の上には、リサとのトーク画面。
最後のやり取りは、昨日のどうでもいい雑談だった。
スタンプ。
短い返事。
それだけ。
なのに今は、その入力欄がやけに重い。
(……呼び出す?)
教室で渡せない。
人がいる。
見られる。
無理。
じゃあ、校内のどこか。
階段の踊り場。
自販機前。
特別棟の廊下。
屋上前。
頭の中に場所だけがいくつか浮かぶ。
でも問題は、その前だ。
なんて送る。
マサキは親指を動かす。
『ちょっといいか』
消す。
重い。
『放課後時間ある?』
消す。
それ、ほぼ誘いだろ。
『イヤホンのことで』
止まる。
……いや。
それだと内容バレてるみたいで変だ。
『おすすめある』
いや、意味不明。
『昨日の件で』
もっと嫌だ。
マサキはスマホを伏せる。
数秒置いて、また持つ。
周囲ではまだ誰かが笑っていた。
「だから既読ついてたら返せって!」
「お前重いって!」
騒がしい。
なのにマサキだけ、変に息が詰まる。
(ただ呼ぶだけだろ……)
なのに無理だ。
リサを一人で呼ぶ。
その行為自体に慣れていない。
というか、人生でやったことがない。
マサキはもう一度入力欄を開く。
『放課後、ちょっとだけ時間あるか』
打つ。
見る。
……消す。
("ちょっとだけ"って何だ)
必死感ある。
キモい。
『話ある』
論外。
『来れる?』
怖い。
何に。
マサキは小さく息を吐いて、机に額をぶつけそうになる。
(無理だろこれ……)
でも、渡さないまま家に持って帰るのも無理だ。
ピンクのイヤホン。
リサに似合いそうだと思って選んだやつ。
二時間悩んだやつ。
あれをこのまま自分の部屋に置いておく未来を想像して、マサキは少し真顔になる。
(……それはもっと無理だ)
数秒後。
マサキはようやく短く打ち込む。
『放課後、少しだけ来れるか』
送信ボタンの上で指が止まる。
(いや待て)
急すぎないか。
怖くないか。
リサからしたら、
"断った次の日に急に呼び出してくる男"
だ。
意味分からない。
マサキは送信しかけた文を閉じる。
閉じて。
また開く。
その繰り返しを三回くらいやったあと、最終的に、
『放課後、少し話したい』
まで短くなる。
(……いや重)
マサキは頭を抱えた。
◇ ◇ ◇
マサキは、今日に限ってイヤホンをしていなかった。
いつもなら片耳に入っている白いコードも、今日は机の上に置かれたまま。
その代わり、ずっとスマホを触っている。
リサは、自分の席から何回もそっちを見てしまっていた。
(……なんで今日イヤホンしてないの)
しかも、ずっと画面見てる。
スクロールして、止まって。
また少し打って、消して。
また止まる。
落ち着きがない。
(なにしてるの?)
ゲームじゃない。
動画でもない。
指の動きが、文章を打つ時のそれだった。
(LINE……?)
そこまで考えた瞬間、胸の奥が少しだけざわつく。
(誰と?)
マサキは眉を寄せたまま、画面を見ていた。
『放課後、少し話したい』
送る直前で、マサキの指が止まる。
(重……)
消すか。
いやでも、他に言い方——
その時。
「松前くんや」
急に真横から声が落ちてきた。
「っ!?」
マサキの肩が跳ねる。
反射で指が動く。
送信。
画面の上から、メッセージが滑って消える。
数秒遅れて。
ぴろん。
リサのスマホが鳴った。
「……」
「……」
一瞬だけ、空気が止まる。
リサはゆっくり自分のスマホを見る。
通知欄。
『MASAKI』
その下に表示された文字。
『放課後、少し話したい』
リサの思考が止まる。
(……ん?)
さっきまで、"誰とLINEしてるの"って思ってた。
なのに。
自分だった。
リサは通知画面を見たまま、数秒止まった。
胸の奥が、一瞬で熱くなる。
『放課後、少し話したい』
昨日までの沈んでた感じが、急にひっくり返る。
(え……?)
マサキは横で固まっていた。
完全に"送るつもりじゃなかった"顔をしている。
でも、もう届いている。
リサは口元を押さえながら、小さく笑う。
『いいよ』
その場でLINEを返す。
送信。
マサキのスマホが震える。
マサキはそれを見て、一瞬だけ目を閉じた。
(……もう逃げられない)
数秒黙ったあと、小さく言う。
「……放課後、特別棟の階段」
「え?」
「人来ないから」
「っ」
リサの肩がぴくっと揺れる。
人来ないから。
その言葉だけ、変に頭の中で反響した。
(え、なにそれ……)
急に"二人きり"の空気になる。
マサキは言った直後に後悔していた。
(違……)
違わないけど違う。
イヤホン渡したいだけだ。
なのに言い方が完全に密会だった。
リサはスマホを胸の前で握る。
「……わかった」
声がちょっとだけ小さい。
でも口元は隠しきれていない。
マサキはそれを見て、さらに頭を抱えたくなる。
(どうしよう)
授業が始まる。
でもリサは全然集中できなかった。
ノートを開いても、頭の中には、
『放課後、少し話したい』
『人来ないから』
それしか残っていない。
(なにそれぇ……)
シャーペンを持ったまま、ちょっとだけ顔が熱い。
一方でマサキは。
(どうしよう)
それしか考えていなかった。
◇ ◇ ◇
特別棟の階段裏は、放課後になるとかなり静かだった。
部活の声も遠い。
窓から入る夕方の光だけが、踊り場の床を白くしている。
リサはそこで、一人で待っていた。
さっきトイレで、かなりちゃんと身だしなみを直してきた。
前髪。
リップ。
制服の襟。
髪の流れ。
全部確認したのに、また気になる。
リサはポケットから小さい手鏡を取り出した。
(……可愛い?)
角度を変える。
(あたし可愛い?)
前髪を少し触る。
頬を見る。
口元を見る。
(変じゃない?)
もう一回確認する。
その時。
足音。
リサが顔を上げる。
マサキが来る。
少しだけ息が上がっていた。
掃除当番終わりなのか、制服の袖が少しだけ乱れている。
そのままマサキは、リサの前で止まった。
数秒。
無言。
それから、
「……やる」
短く言って、箱を出した。
レジ袋はない。
ピンク色の小さい箱だけ。
マサキの中では、"袋ごと渡すとゴミになる"という結論だった。
リサは箱を受け取る。
そこに書いてあるロゴを見る。
「えすおーえぬわい?」
マサキが顔を上げる。
「如月さん、ソニー知らないの?」
「あ」
リサが一瞬止まる。
「あ、ソニーか。知ってるよ。ソニーね」
英語が読めなかった照れを誤魔化すみたいに、小さく笑う。
マサキは少しだけ視線を逸らした。
間。
リサがもう一回箱を見る。
「……ソニー?」
「……」
「これイヤホンとかじゃないよね」
「……イヤホンだけど」
「くれるの?」
「……やる」
短い。
でも、ちゃんと肯定だった。
リサの目が少し大きくなる。
「な、なんで?」
マサキの思考が止まる。
(やっぱり来るか)
「なん……」
"なんとなく"が出かかる。
その瞬間。
「え、嬉しい」
マサキが止まる。
リサはもう箱を胸の前で抱えていた。
「すごい嬉しい。え、どうしよ。嬉しいしか言えないんだけど。え、待って、ほんとに? あたしに?」
声がどんどん上がる。
「うそ、え、なにこれ。そんなことある?えー、すごーい。うぇぇぇい」
喜ぶというより、完全にはしゃいでいた。
マサキは片手で口元を隠す。
(めちゃくちゃ可愛いな)
感情がそのまま頭に出る。
リサはそんなこと気づかないまま、
「あけるねー」
と言って箱を開け始めた。
マサキの思考が一瞬止まる。
(そこ、"開けていい?"じゃないのか)
遠慮がない。
でも、その自然さが妙にリサっぽい。
ぱかっと箱が開く。
「かわいいーっ」
声が跳ねる。
「箱ピンクだからもしかしてって思った。中もピンク!やったー」
イヤホンを持ち上げながら、嬉しそうに笑う。
「え、待って。すごい可愛い……こういうやわらかい色、好き。嬉しい」
光に少し傾けながら、嬉しそうに眺める。
マサキの脳が一瞬静止する.
(いや、か……)
リサが笑う。
ピンクのイヤホン。
夕方の光。
嬉しそうな顔。
(可愛すぎるんだが?!)
マサキは無言のまま視線を逸らした。
耳が熱い。
リサはイヤホンを見ながら、ふっと笑う。
「選んでくれたんだー。嬉しい……ほんと嬉しい」
その言葉で、昨日の電気屋が頭に浮かぶ。
白。
黒。
水色。
ピンク。
オレンジが無かった棚。
二時間悩んだ時間。
レビュー。
ケース。
ノイキャン。
全部。
(……こんなに喜ぶなら)
一瞬だけ思う。
(ラッピングしてもらえば良かったな……)




