35. イヤホン 前編 ~行かないと言ったのに2~ (挿絵)
昼休みが終わる直前、チャイムが鳴る少し前から、教室の空気は一度だけざわつきを強める。
椅子が引かれる音、机の中にノートを戻す音、誰かの笑い声。
その中で、マサキはペンを持ったまま動かなかった。
両耳にイヤホンを入れたまま、スマホの画面だけを指でスクロールしている。
音は外に漏れない。
呼びかけても入ってこない状態だった。
さっきまでの会話が、まだ机の上に残っているみたいだった。
『ぶるーちゅーす………聞いたことある』
『線ない方がいくない?松前くんはなんで線あるやつ?』
『ぽあたん?ぽあたん?』
普通に楽しかった。
リサが勝手に喋って、勝手にずれて、勝手に納得して。
その間を、自分が少しだけ直してやる。
それでちゃんと会話が進む。
ああいうのは、嫌いじゃない。
むしろ、少し楽だった。
説明しなきゃいけない相手じゃない。
間違えたまま放置しても、空気が壊れない。
(あれでいいはずだった)
なのに途中から、"一緒に行くかどうか"に変わった。
変わったというより、変えられた気がした。
(いや、違う)
最初からそういう話じゃない。
ただの電気屋の話だ。
駅前の説明をしたのも、普通に情報としてだ。
それ以上の意味はない。
——ないはずだ。
マサキは指先でイヤホンのコードを軽く引っ張り、絡みをほどくみたいに無意識にいじる。
さっきの自分の言い方が少しだけ浮かぶ。
「行かない」
あれは正しかった。
あのまま曖昧にすると、全部がそっちに寄る。
"教える人"じゃなくて、"一緒に行く人"になる。
それは違う。
リサにとっても良くない。
リサは多分、何も考えずに距離を詰めてる。
悪気はない。
ただ、そういうタイプだ。
だからこそ、止める側が必要になる。
(楽しかったのに)
その気持ちだけが、少し遅れて浮かぶ。
楽しかった。
説明して、少し直して、会話が流れていく感じ。
リサはちゃんと拾う。
変なところで笑う。
こっちが無言でも、勝手に次を持ってくる。
ああいうのは、珍しい。
オレが間違えても、引かずに一緒にいてくれる。
(でも、そこまでにしないといけない)
チャイムが鳴る。
マサキはようやくイヤホンのコードから手を離した。
立ち上がりながら、さっきの"また来る"みたいな顔を思い出す。
不満でも未練でもない、普通の顔。
あれが一番やっかいだ。
何も終わってないみたいに見える。
でも、終わらせた側は自分だ。
机の横を通りながら、窓の外を見る。
光はさっきと同じ角度で机を白くしている。
何も変わっていないのに、さっきの会話だけが少しだけ浮いて残る。
(……あれ、楽しかったな)
その認識だけは、否定しないまま残った。
◇ ◇ ◇
放課後の教室は、昼よりもさらに音が分散していた。
帰る準備をする生徒たちの気配だけが、薄く積もっていく。
マサキは窓際の席で、鞄のチャックを閉めていた。
「松前くん」
声がして、顔を上げる。
リサが立っている。
昼休みと同じ距離。だけど、少しだけ違う空気があった。
迷っていないわけじゃないのに、引く気配がない。
「クレープじゃなくて、別のならいい?」
いきなり条件を変えてくる。
マサキは一拍置いてから、淡く首を横に振る。
「いかない」
短く、でも切る位置だけははっきりしている。
リサはそれでも止まらない。
「普通にイヤホン、買うだけ…ほかなんもない…」
少しだけ声が小さくなる。
"これならいいでしょ"という形に寄せてくるのが分かる。
マサキは視線を机に落としたまま、言葉を整える。
「それなら、別に誰かと行けばいい」
説明みたいな断り方だった。
リサは一瞬だけ止まる。
それでもすぐに続ける。
「わかんないから、選んでほしいだけ…」
そこだけは、少しだけ本音の温度が混ざる。
マサキはそこで初めて、少しだけ間を長く取る。
(選ぶってことは、並ぶってことだ。並べば、"一緒にいる側"になる)
それはさっきの昼休みと同じところに戻る。
楽しかったところに、線が引けなくなる。
(——それだけじゃない)
横に立っているだけで、見え方が変わる。
"あいつと普通に話せるなら、あの距離でもいいんだ"と、勝手に基準がずれていく。
リサの距離じゃなくて、周りの扱い方のほうが軽くなる。
それは、リサの問題じゃない。
そう見られる側に自分がいるせいだ。
だから、もう一段だけ丁寧に落とす。
「選ぶのは、店員でいい。オレはいらない」
言い方は変えない。
でも、ひとつひとつを切り分けて渡すみたいに、急がない。
リサはそこで、ようやく止まる。
少しだけ目を伏せる。
「……そっか」
さっきより静かな声。
納得というより、情報を受け取っただけの反応。
それから、小さく息を吐いて顔を上げる。
「じゃあ、イヤホンいいや」
引き下がるときの軽さだけは、いつも通りだった。
◇
(今は、いいや)
胸の奥でだけ、小さくそう付け足す。
別にいらないわけじゃない。
ただ、今これ以上"何かを決める気持ち"が続かない。
すぐに鞄を肩にかける。
「またね」
それだけ言って、教室を出ていく。
廊下に消える背中は、引きずっていない。
マサキはそのまま席に残る。
窓の外は夕方に近い光で、机の角だけがまだ白いままだった。
さっきの会話は、ちゃんと断ったはずだった。
全部、順番通りに、間違えていない。
それでも頭の中には、少しだけ残る。
(あれで、よかった)
確認みたいに、その言葉だけが遅れて浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
放課後の廊下は、さっきよりずっと遠く感じた。
さっきまで普通に歩いていたはずなのに、足の感覚だけが少し遅れてついてくる。
別にデートしようとか、そういう重いものじゃないつもりだった。
ほんとに、ただそれだけ。
一緒に電気屋に行って、イヤホン見て、分からなかったらちょっと聞いて。
それだけの話。
そのあとお礼に甘い物でもって、そんな軽いやつ。
なのに。
なんでそれすらもダメなのか分からない。
リサは廊下の端で一度だけ立ち止まる。
教室のドアの向こうは、まだ少しざわついているのに、自分の中だけが変に静かだった。
会話、ちょっと弾んだと思ってた。
ちゃんと聞いてくれてたし、ちゃんと返してくれてたし。
少し笑ってくれたように見えた。気のせい?
一緒に来てくれそうな流れだと思った。
ほんとに、そう思った。
頭の中でさっきの言葉が勝手に巻き戻る。
『数千円の…有線イヤホンの音質で聞きたいってなったら、無線だと数万するから』
『音質違うって言っても、そこまで悪いわけじゃないから。普通に無線でいい』
『電気屋なら店員が詳しいから。駅前の電気屋いいぞ、知識あるし押し売りもない』
ちゃんと教えてくれたじゃん。
なにがダメだったの。
(勘違いだった…松前くん、照れてるとかじゃなかった)
喉の奥で、言葉が引っかかる。
(あれは脈ないです…先輩…)
朝の休憩室で聞いた軽いノリの言葉が、急に重さを持つ。
「照れてるだけ」「グイグイいける」
そんなの、全部逆だった。
(可愛いっていっぱい言ってくれたのは…社交辞令)
そう考えた瞬間、胸の奥が少しだけ冷える。
さっきまでの空気ごと、薄く剥がれていくみたいだった。
(グイグイ言ったら嫌われる…待ってるだけじゃ進まない…どうしたらいいの…?)
視線を落としたまま、指先だけが少し動く。
スマホの画面を開きかけて、やめる。
『オレはいらない』
その一言だけが、やけに残っている。
(イヤホン、必要なくなっちゃったな…)
ほんとは違う。
必要ないんじゃない。
ただ、今のまま使うと、なんか変になる気がした。
さっきまで"楽しい側"に入ってたものが、急に現実に戻された感じ。
ポケットの中でスマホが少し重い。
そのとき、ふと先輩に言われた言葉が浮かぶ。
『のんびりしてると取られちゃうよ?』
やだ。
って思った瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
(やだよぉ…)
声にならないまま、喉の奥でだけ小さく落ちる。
でも、何をどうしたらいいのかは分からない。
押したら、だめだった。
でも引いたら、そのまま離れていきそうで怖い。
松前くんは、普通に話してくれる。
ちゃんと教えてくれるし、適当に流したりもしない。
なのに、一歩だけ近づこうとすると止まる。
その線が、リサにはまだよく分からなかった。
(難しいよぉ…)
胸の奥でだけ、小さくこぼれる。
廊下の向こうでは、部活に行く生徒たちが笑いながら通り過ぎていく。
夕方前の光が窓から斜めに入って、床を白く伸ばしていた。
リサはその光をぼんやり見ながら、ゆっくり息を吐く。
イヤホンを買えば、松前くんの歌をもっとちゃんと聴けると思ってた。
現場に向かう途中とか、待ち時間とか、少し緊張した時とか。
そういう時に聴いたら、なんか頑張れる気がしてた。
でも今は、その想像をすると少しだけ苦しい。
『オレはいらない』
あの声だけが、妙に静かに残っている。
リサはスマホをぎゅっと握って、それから小さく顔を上げた。
まだ、嫌われたって決まったわけじゃない。
でも、"このまま押せばいい"でもない。
その間の答えが、まだ見つからなかった。
◇ ◇ ◇
学校帰りの駅前は、人の流れだけが妙に速かった。
制服姿のまま歩きながら、マサキは何度もポケットの中の財布を触る。
別に、変なことをしに来たわけじゃない。
イヤホンを買うだけだ。
ただ、それだけなのに、足取りが落ち着かない。
店の自動ドアが開く。
冷房の匂いと、家電特有の少し乾いた空気。
イヤホン売り場は壁一面に並んでいた。
(多……)
価格帯も種類も多すぎる。
有線、無線、ノイキャン、スポーツ向け、低遅延、重低音特化。
マサキは無意識に腕を組む。
リサは、歌を聴くって言ってた。
なら、まずノイズキャンセリングはあった方がいい。
現場移動とか、待ち時間とか、人の多い場所もあるだろうし。
(じゃあ、ノイキャン強いのは……)
自然と視線がSONYの棚に行く。
(まぁソニーか)
音の傾向も万人向けだし、ノイキャンも強い。
変なクセも少ない。
ただ、値段を見る。
(……たっか)
三万超え。
いや、性能は分かる。
分かるけど。
(高校生が渡す額じゃねえだろ……)
リサの家は金持ちだ。
多分、この辺を普通に使っててもおかしくない。
だからこそ難しい。
安すぎると、"適当に選んだ感"が出る。
でも高すぎると、重い。
引かれるかもしれない。
(なんだこれ……)
イヤホンを選びに来ただけなのに、急に難易度が高い。
マサキは棚の前をゆっくり移動する。
白。
黒。
ネイビー。
(黒は違うな)
リサが黒いイヤホンをつけてるイメージが浮かばない。
白は無難。
でも、なんか普通すぎる。
(……デザイン重視か?)
女子ってそういう感じあるよな、とぼんやり思う。
いやでも、リサは変なところ雑だから分からない。
可愛いの好きそうではある。
でも露骨すぎると逆に違う気もする。
「これのオレンジとか……ないのか」
思わず小さく漏れる。
(如月、オレンジ好きだったな)
スマホケース。
ヘアゴム。
小物の色。
派手な原色じゃなくて、少し柔らかいオレンジ。
ああいう色を見ると、なんとなくリサっぽいと思う。
でもイヤホンは意外と無い。
白。
黒。
ピンク。
水色。
オレンジだけ綺麗に存在しない。
(なんでだよ)
少しだけ真顔になる。
そのあと、ふっと視線が止まる。
薄いピンク。
(ピンク……)
棚の端にある淡いピンク色が目に入る。
マサキは少しだけ近づく。
(……あ、これ結構いいかも)
変に派手じゃない。
少し落ち着いた色。
リサの髪色とか、私服の柔らかい色味に合いそうだった。
(いや、でも色で選ぶの違うか?)
手に取って、戻す。
その横の別メーカーを見る。
(女の子って、機械詳しくないイメージあるしな……操作簡単な方がいいか)
アプリ設定が複雑なのは多分めんどくさがる。
ケースの開閉。
ボタン配置。
タッチ操作。
説明文を一個ずつ読む。
(タッチ誤爆しそう……)
却下。
(これバッテリー短……)
却下。
(ケースでか)
却下。
気づけば三十分経っていた。
店内BGMが二周目に入る。
マサキは棚の前でしゃがみ込んだまま、スマホで型番を調べる。
レビューを見る。
『女性にも人気!』
(それ誰目線だよ)
『低音が魅力』
(如月そこ求めてなさそう)
『配信者におすすめ』
(配信しねえだろ)
小さく息を吐く。
でも、不思議と嫌ではなかった。
むしろ少し楽しい。
(これ、如月に似合いそうだな)
ふと、頭に浮かぶ。
リサがイヤホンを耳につけて、「え、かわいいー」って笑う顔。
『松前くん、ちゃんと選んでくれたの?』
そう言いながら、少し嬉しそうにしてる顔。
マサキの口元が少し緩む。
すぐ真顔に戻る。
(……なにニヤけてんだ)
誰も見てないのに、なんとなく周囲を確認する。
もう一度棚を見る。
結局、最初に気になっていたSONYの淡いピンクに戻ってくる。
値段は、ギリギリ高校生のプレゼントとして変じゃないライン。
ノイキャンもある。
音質も十分。
見た目も軽い。
(……これか)
二時間近く悩んだあとで、ようやく手に取る。
その瞬間、急に疲れが来た。
(終わった……)
レジに向かう。
店員がバーコードを通す。
「ラッピングお付けしますか?」
マサキの思考が止まる。
(ラッピング……?)
いるか?
いや、でも。
女の子に初めて買うし。
相手、リサだし。
剥き出しで渡すの、なんか違う気もする。
でも。
(いや待て)
ラッピングって、"プレゼント感"強くないか。
変に重く見えたら終わる。
『え、なにこれ』
『怖……』
みたいな反応されたら立ち直れない。
マサキは数秒黙る。
店員が待っている。
「……いや、大丈夫です」
結局、断った。
レジ袋だけを受け取る。
店を出た瞬間、マサキは長く息を吐いた。
(終わった……)
人生の重大イベントを一個乗り切った気分だった。
駅前の風が少し涼しい。
袋を見下ろす。
その中に、小さなピンクの箱。
如月、喜ぶかな。
ちゃんと使ってくれるかな。
『かわいいー』とか言うかな。
そこまで考えて、少しだけ口元が緩む。
(……可愛いな)
自然に浮かんだ言葉に、自分で少し止まる。
でも次の瞬間。
マサキの足が止まった。
(……待て)
重大イベント、終わってない。
むしろこれからだ。
マサキはレジ袋を見下ろす。
(どうやって渡すんだよ……これ)
挿絵はAI生成。
SDで生成、GPTで編集しています。




