34. イヤホン 前編 ~行かないと言ったのに~
撮影現場は、屋外セット特有のざわつきに満ちていた。
スタッフの足音、機材の金属音、遠くで鳴っている指示の声。
それらが重なって、ひとつの大きな騒音のように流れている。
その中心から少し外れた場所で、リサは控えめに立っていた。
衣装の裾を軽く整えながら、呼吸の仕方を思い出すみたいに、静かに息を吐く。
先輩の声がかかる。
「緊張してる?」
リサは一瞬だけ視線を上げて、それから小さく頷いた。
「あ…コラボ初めてで…迷惑かけないかなって」
言いながら、自分でも声が少し固いのが分かる。
現場の空気が悪いわけじゃない。
それでも"初めて"という事実だけが、余計に体の端々を意識させていた。
先輩は軽く笑って、肩の力を抜くみたいに言う。
「最初はねー、私は撮影前に好きな音楽聴いてる。気分あがっていいよ」
「音楽…」
その単語に、リサの思考が一瞬だけ止まる。
最近のカラオケは、歌を録音できる。
リサはそこで、こっそりマサキの歌を録音していた。
それをスマホに移してからは、ほとんど毎日、家で再生している。
お風呂の中でも、寝る前でも。
特別な理由を考える前に、気づけば手がそこに伸びている。
ただ、それを外で聴こうと思ったことはなかった。
聴いているときの自分の顔や反応を見られたくない、という感覚があった。
それ以上に、大事なものを外に出すのは違う気がしていた。
それは隠しているというより、最初から「そこに置く場所」が決まっているみたいな感覚だった。
リサはバッグの中からスマホを取り出す。
音量をできるだけ小さくして、イヤホンの代わりにそっと耳へ当てる。
流れ出した音は、マサキの声だった。
一瞬で、周囲のざわつきが遠のく。
照明の白さも、スタッフの足音も、遠くの笑い声も、薄く溶けていく。
残るのは、その声だけになる。
リサの表情から、余計な力が抜けた。
さっきまで張っていた肩の線が少しだけ落ちて、呼吸がゆっくり戻る。
それは傍から見れば、「緊張がほぐれた顔」だった。
実際には違った。
音の向こう側に、すぐ本人の姿が浮かぶ。
教室でぼそっと喋るマサキ、視線を逸らすマサキ、不器用に短く返すマサキ。
その全部とは別に、今流れているのは"歌っているマサキ"だった。
真面目でも不器用でもなく、ただ音に乗っているだけのマサキ。
想像した瞬間、リサの頬がゆるむ。
気づかないうちに、目元が柔らかくなっていく。
口元だけ、ほんの少しだけ上がってしまう。
——抑えきれていない。
普段の松前くんも好きだ。
でも、こうして"歌ってる松前くん"を知ってしまうと、それはそれで別の好きが増えてしまう。
(歌う時だけ、口大きく開けてくれるんだよね…普段は喋ってくれないから、声もあんまり聞けないけど………はぁ、やっぱいい声)
考えているうちに、歌っているマサキを想像して楽しむ。
マサキが歌う前の少し照れている姿まで浮かんでしまって、余計にダメだった。
無意識に、目がやわらいでいる。
頬の力が抜けたまま、戻し方を忘れている。
先輩はそれを見て、自然に納得する。
(あ、落ち着いたね…)
そんな程度の認識で、軽く覗き込む。
「リサちゃんなに聴いてるの?」
先輩の声が横から落ちてくる。
リサははっとして顔を上げた。
「あ、ご、ごめんなさい。うるさくしちゃって」
「いや、ここ普通に騒がしいから気にならないよ。カバー曲でしょ?誰が歌ってるのかなって」
「………」
その瞬間、リサの動きが止まった。
何でもない問いのはずなのに、耳の奥でマサキの声が重なる。
現実と混ざって、熱だけが先に顔へ上がってくる。
一気に頬が熱くなる。
歌手を聞いただけなのに顔を赤くする理由が分からない先輩は、首を少し傾げた。
「いやいや、いい声だから誰が歌ってるのかなって」
リサは視線を落としたまま、どうにか言葉を絞り出した。
「……クラスの…と、友達です」
「えっ、プロじゃないの?歌うま!なに、彼氏?」
「………ち、違いますぅ」
否定はしたものの、声は明らかに動揺していた。
先輩は楽しそうに笑う。
「好きなんだー。まっさきにそれ聴くなんて可愛いじゃん」
「や、あの…なんていうか」
うまく説明できない。説明してしまえば、余計に何かが崩れる気がした。
そのとき、別の先輩の声が割り込んできた。
「なに、なんの話してんの?」
先輩が振り返って、軽い調子で答える。
「リサちゃんの恋バナ。好きな男の子が歌ってくれたやつ録音して聴いてるんだって」
「うそ、可愛すぎ」
空気が一段階軽くなる。
その軽さの中で、リサだけが少し遅れて息を吸ったまま、動けなくなっていた。
◇ ◇ ◇
撮影が終わって、控室の空気は一気に緩んでいた。
メイク道具のケースが閉まる音、椅子が引かれる音、スタッフの軽い笑い声。
さっきまでの張り詰めた明るさがほどけて、部屋の温度だけが少し下がったみたいに感じる。
その中で、リサのスマホから音が流れていた。
マサキの歌。
スピーカー越しでも分かる、最初の一音からすでに音程が正確に置かれている声。
立ち上がりのブレがなく、サビに向かっても一度も軸が揺れないまま、一定の精度で積み上がっていく。
息継ぎの位置も自然で、切り替わりの瞬間すら設計されているように滑らかだった。
高音は無理に張らず、それでもきちんと届く強さがあり、低音は沈みすぎずに言葉として残る厚みがある。
発音は明瞭で、言葉の輪郭が崩れないまま音楽として成立している。
どのフレーズも「歌えている」のではなく、「その形で再現できている」という精度の高さがある。
狭い休憩室のざわつきの中でも、音だけが浮くのではなく、空間の基準そのものを少しずつ書き換えていくように響いていた。
「これ高校生が歌ってんの?原曲超えてるじゃん」
先輩が素直に目を丸くする。
「ね、ここの英語の発音とかよすぎる」
先輩も頷きながら、軽くリズムに乗るように肩を揺らした。
「………」
リサはその横で、小さく身を縮める。
褒められているのは分かる。
ちゃんとすごいって言われているのも分かる。
それなのに、顔の熱だけが引かなくて、うまく相槌を返せない。
スマホの画面を見ているふりをしながら、視線だけが落ち着かなく泳ぐ。
歌が流れている間ずっと、心臓の音のほうがうるさい気がした。
(やばい、これ……普通に耐えられないかも)
ただ歌を聴いているだけなのに、頭の中に浮かぶのはあのカラオケの部屋だった。
マイク越しにまっすぐこっちを見ないまま、それでも自分に向けて歌われたあの声。
だから今こうして外で流れているだけなのに、全部が"見られている側"に戻されていく。
隠していたはずの気持ちまで、そのまま音に引っ張り出されているみたいで、息の置き場所が分からなくなる。
「イヤホンとかでちゃんと聴いた方がいいよ、全然違うから」
先輩の何気ない一言に、リサは少しだけ顔を上げる。
(イヤホン……イヤホンか……)
頭の中で、その単語だけがぐるぐる回る。
確かにそうだ、と理屈では分かる。
でもそのすぐ後ろに、別の感情が追いかけてくる。
(松前くんの声、ちゃんと聞くなら……ちゃんとしたの、いるよね)
「……買います」
気づけば、口が勝手に動いていた。
松前くんの歌が流れているせいで、思考がどこか一段遅れている。
ただの音のはずなのに、耳に入るたびに胸の奥が軽く跳ねる。
「うんうん、その子と一緒に買いに行ったらいいよ」
先輩が何気なく言ったその言葉に、リサの動きが少し止まる。
「………誘っても、あんまり…断られること、多くて」
ぽつりと出た声は、少しだけ小さかった。
「えー」
先輩が軽く驚く。
「照れてるんだって、高校生でしょ?男の子ってそういう時期だよ」
(照れてる……)
その単語が、さっきよりずっと近くに感じられる。
先輩も笑いながら続ける。
「あー、確かに。可愛い子に誘われてさー、緊張してるんだって」
「………そういうのは、言われたことあります。キレイだから、緊張するって」
言った瞬間、少しだけ後悔する。
でも、否定する理由も見つからなかった。
「え!やっぱそうじゃん」
先輩が嬉しそうに身を乗り出す。
「脈ありすぎじゃん、誘った方がいいよ絶対」
「でも…」
リサはそこで言葉を止める。
(脈あるかな……)
考えようとしても、うまくまとまらない。
さっきから流れている松前くんの声が、頭の奥でずっと残響みたいに鳴っていて、そのたびに思考が少しずつほどけていく。
「むこうが折れるまでグイグイいったほうがいいよ」
(グイグイいく子、好きかな……)
「男の子ってさー、女の子から来てくれた方が嬉しいんだよ」
「そうなんだ…」
先輩の何気ない断言に、リサは小さく相槌を打つ。
(そういうものなんだ)
でもその"そういうもの"が、自分の中のどこに当てはまるのかは分からない。
「可愛いって言ってくれるの?」
「……はい」
(いっぱい言ってくれる。普通に、当たり前みたいに)
それを思い出した瞬間、胸の奥がまた少しだけ騒がしくなる。
「それもうむこうも好きじゃーん」
(好き…?!)
言葉が強すぎて、思考が一瞬止まる。
"好き"という単語だけが浮いて、どこにも着地しないまま宙に残る。
「待ってるだけじゃ進まないよ?」
(確かに…)
進む、という言葉だけは妙にしっくりきた。
でも"どこに"進むのかまでは、まだ見えない。
「のんびりしてると取られちゃうよ?歌聴いただけで惚れそうだもん」
その言葉に、リサは少しだけ口元を緩める。
「……ですよねー」
冗談っぽく返したつもりだった。
でも、声は思ったより小さかった。
(それはイヤ…っ)
喉の奥で、かすかに感情が引っかかる。
"取られる"という言葉だけが、やけに鮮明だった。
ふと浮かんだ気持ちは、すぐには消えなかった。
そのまま、音楽と一緒に胸の奥に沈んでいく。
リサはスマホを持ったまま、小さくうつむいた。
◇ ◇ ◇
学校、昼休み。マサキの席は窓際にある。光が机の角だけを細く白くしていて、その上にノートとペンが置かれている。
教室は騒がしいのに、この席だけは少しだけ切り離されたみたいに静かだった。
その静けさの中に、リサが来る。
歩き方がまず違う。急いでいるわけでもないのに視線が自然に集まる。髪の動き方、立ち止まる位置、声を出す前の一拍。全部が軽く整っている。
可愛い、という単語で雑にまとめるには少し足りない。
雑に扱えない種類の可愛さがある。
「ねえ、松前くん」
その声が届くと、周囲の雑音が少しだけ薄くなる。
「あたしのスマホ、イヤホンさすとこないんだけど。どうやって歌聴くの?」
マサキは視線を上げずに答える。
「…Bluetoothで無線イヤホン」
リサは一瞬だけ止まる。
「ぶるーちゅーす………聞いたことある」
理解しているのに、少しずれている。
そのズレが妙に柔らかく見える。
マサキの喉が一瞬だけ動く。
「……っく、やめろ」
「なに?」
「いや…」
軽いやり取りなのに、マサキの中では別の計算が勝手に動いている。
如月さんは普通に可愛い。
線が細いのに、表情がよく動く。
笑い方も、首の傾げ方も、どれも少しだけ人の視線を引っ張る。
話しかけられる側の人間として成立しているタイプだ。
だからこそ、横にいる自分が"誤解の基準"になるのが嫌だった。
あいつと普通に話してるなら、自分でもいける。
マサキと同じ距離でいいなら、自分の方が条件がいい。
そういう"雑な比較"が生まれる。
それは如月さんの価値が下がるという話じゃない。
むしろ逆で、"軽く扱っていい存在だと勘違いされる入口"になる。
「線ない方がいくない?松前くんはなんで線あるやつ?」
マサキは一瞬だけ目線を落とし、すぐ戻す。
(線じゃねえ…コードだろ)
口には出さない。
出したところで説明が増えるだけだし、今のリサにはたぶんどっちでもいい話だ。
「…音質?」
いや違う、と頭の中で一度止める。
「値段の問題」
「高いの?」
「数千円の…有線イヤホンの音質で聞きたいってなったら、無線だと数万するから」
「えっ、そうなんだ。それだとスマホかえたくなるね」
リサは納得するように軽く頷く。その仕草が妙に素直で、見ている側の思考を少しだけ鈍らせる。
マサキは一瞬だけ横目で見る。
髪が少しだけ肩から落ちている。光に当たって色が薄く見える。その横顔が妙に整っていて、説明のないまま"見てしまう側"に引っ張られる。
「いや、ポアタンとかあるけど…」
「ぽあたん?ぽあたん?」
リサは同じ言葉を、確かめるみたいに二回続けて口にした。
一回目は音の形をそのまま置くみたいに軽く、二回目は少しだけ途中の高さを変えて、もう一度押し直すように。
意味を聞いているというより、"どう発音すればそれっぽいのか"を試しているだけの声だった。
マサキの中で、それが妙に引っかかる。
(……なんでそんな確認の仕方すんだよ)
短く、笑いかけてしまう。
すぐに飲み込む。
リサはまだ答えを待っている顔のまま、少しだけ首を傾げていた。
「ここからイヤホンさせるように変換できる」
マサキは何事もなかったように、話を続けた。
「へー」
興味の出方が素直すぎる。その素直さが、逆に距離を曖昧にする。
「でも、ちゃんとしたやつ買おうとするとやっぱり高い」
「あー、そうなんだー。いろんな方法あるんだね。どうしよっかな」
リサは机の端に軽く体を寄せたまま、少しだけ考える顔をする。
その表情がまた、余計に"普通に可愛い"に見える。
わざとじゃなく、作ってもいない表情がそのまま成立している。
「音質違うって言っても、そこまで悪いわけじゃないから。普通に無線でいい………と思う」
言い切る直前で止める。
リサはそのまま、視線だけ少し動かす。
「そうなんだー。電気屋さん行かなきゃ」
独り言みたいに落ちたその言葉は、別に深い意味はない。
ただの雑談だ。
イヤホンの話して、音質の話して、ぽあたんとか言って、よく分からないまま笑って、それで終わる。
「電気屋さん行きたいなー」
それだけのはずだった。
さっきまでの空気は、普通に楽しかった。
リサは分からないところをそのまま流さないで、ちゃんと聞き返してくる。
ずれてるのに、聞いてくる。
それをいちいち説明すると、ちゃんと理解した顔をする。
分からないところも、そのまま笑いになる。
頼られるのも、別に悪くない。
その繰り返しが、妙に気楽だった。
(別に、これでいいだろ)
胸の奥に、少しだけ引っかかりが残る。
このまま続くと、頼られる側に自然になっていく。
それは少しだけ、今のままだと良くない。
「…」
リサはそのまま、ほんの少しだけ距離を詰める。
「行けばいいだろ」
あっさりした返しなのに、リサの中では"拒否"にはならない。
むしろ、前日に先輩たちから聞いた「男の子は照れると素っ気なくなる」という言葉が先に浮かぶ。
ちゃんと向き合って誘ってるのに、わざとそっけなく返してる感じ。
そういう"間"に見える。
「あたし分かんないから、教えてくれる人きてほしい」
その言葉に、マサキは一瞬だけ間を置く。
(オレじゃなくていい)
そういう形に戻しただけだ。
「電気屋なら店員が詳しいから。駅前の電気屋いいぞ、知識あるし押し売りもない」
自分が行く前提を消すための説明だった。
「へー」
リサは軽く頷く。
ちゃんと説明が返ってきたことへの納得と、話の流れが少しだけ現実的に整った感じ。
"あ、普通に考えてくれてる"という確認みたいな軽さがある。
(やっぱり照れてるだけなんだ)
そういう認識のまま、リサはその流れを自然に続ける。
「松前くん一緒に」
「行かない」
マサキは被せるように言った。
さっきのは"行かない"の代わりの会話だ。
なのに、普通に誘いになっている。
近づくことそのものより、「そういう風に見られる状態」が残るのが嫌だった。
だから切る。
「クレープ奢る」
(むこうが折れるまでグイグイいったほうがいいよ)
先輩の言葉の通り、軽く引かれても一回で終わらせない。
少し間を置いて、もう一回ちゃんと誘う。
それでちゃんと反応が出るはずだ、という前提。
だから今のも、ただの押し返しの一部でしかない。
「そうじゃなくて」
「マリオンの」
条件を足せば成立すると思っている。
同じ方向の話が戻ってくる。
話を聞いていないというより、最初から別の前提で組み立て直している。
「だから」
行けば済む話だ。教えてやるだけなら、それで終わる。
リサも困らないし、むしろ楽になる。
ただ、そのせいで——
マサキとどこかへ行くなら、自分ならもっと簡単にいける。
如月さんは思ったよりハードルが低い相手なんじゃないか。
そういう雑な見方が、確実に生まれる。
それはリサの価値を落とすのと同じだ。
軽く見られていい人間じゃない。
それだけは違う。
「行かないって」
少しだけ強く出てしまったのは、自分でも分かっている。
このままの流れは、止めた方がいい。
軽く誘えば通ると思っているわけじゃないのは分かる。
でも、"周りがどう見るか"までは分かっていない。
そのズレが、ほんの少しだけモヤっと残る。
リサは一瞬だけ止まる。
それからすぐに表情を崩して、
「…」
(先輩、これは照れてるのと違うと思います)
昨日の休憩室で言われた言葉が、そのまま頭の奥で引っかかっている。
「照れてるだけ」「高校生はそういう時期」「もっとグイグイいった方がいい」
そのまま受け取って、少し強めに踏み込んだつもりだった。
でも今の空気は、それとは少し違う方向に沈んでいる。
(照れとかじゃない…)
そう思った瞬間に、言葉が喉の奥で止まる。
「…」
(これはまずい)
「悪…」
「ごめん」
先に謝られる。
その一言で空気が少しだけ元に戻る。
リサは何もなかったみたいに、その場を離れていく。
ただ離れる直前、ほんの一瞬だけ振り返る表情がある。
それは不満でも落ち込みでもなく、普通に"また来る"という顔だった。
マサキはそれを見ないふりをして、ノートに視線を戻す。
でもページはほとんど進まないまま、しばらく止まっていた。




