カラオケ 前編 ~ただのカラオケのはずだった1~
机の上に開かれた参考書は、ページだけが無意味に進んでいるのに、中身はほとんど頭に残っていなかった。
シャーペンは指の間で止まり、一定のリズムもなく机を小さく叩いている。
そのときスマホが震え、びくりと肩がわずかに跳ねる。
見る前からなぜか分かってしまい、画面を開く。
『LISA』
その名前だけで、少しだけ呼吸が浅くなる。
「この前はありがとね。助かった」
短く、軽く、いつもの距離感だった。
だが、直後に続く一文で、空気が変わった。
「お礼したいんだけど、今度カラオケ奢りとかどう?」
一瞬、意味は理解できるのに、頭の処理が止まる。
(カラオケ)
その単語だけが妙に浮いて見え、頭の中には<想像>ではなく<映像>が流れた。
・如月理沙
・2人きり
・カラオケの個室
・密室
・沈黙
(いや待て。これ、普通の流れか?)
<普通>という言葉を探してもどこにも引っかからず、代わりに出てくるのは全部余計な未来だった。
何を歌えばいいのか分からない時間、話題が途切れる瞬間、沈黙が膨らんでいく空気。
どれも具体的すぎて、頭から離れない。
(無理だろ)
なのに指は動かず、既読は消えるわけじゃない。
如月さんは待っていて、その事実だけがじわじわと圧になる。
(断るか)
断ろうとして、すぐ別の思考が割り込んだ。
(女の子と2人でカラオケ……)
そこでようやく、<期待>が混ざる。
(これ、行っていいやつなのか?)
行っていいのかどうかという問いとは別に、心臓が少しだけ速くなる。
(いやいやいや)
自分がそういうのを期待していい立場じゃないとは分かっていても、その否定がいつもより弱かった。
(でも……こういうの、人生で何回ある?)
行きたい、でも怖くて無理で、興味があるのに断るのは惜しい。
すべてが同時に成立していた。
指が動いては止まる。
「やめとく」
(違う)
消す。
「忙しい」
(嘘だ)
消す。
スマホの画面だけが、やけに明るい。
(何書けばいいんだ、これ)
そのとき、もう一通届いた。
「ダメかな?」
たったそれだけなのに空気が変わり、それは圧ではなく軽さだった。
その軽さが、逆に逃げ道を塞ぐ。
断るのが変に思えてきて、もう一度考え直す。
・嫌ではない
・むしろ少し気になる
・でも怖い
・でも一度くらいは経験してみたい
(どっちだよ)
答えは出ず、<正解>が存在しない問いだった。
(1回くらいなら)
ふと、それが浮かぶ。
たかが1回。
されど1回。
(別に付き合うとかじゃない。ただのカラオケだ)
そう言い聞かせると、ほんの少しだけ呼吸が戻る。
如月さんだし、変なことにはならないだろうという理屈が、その瞬間だけ勝った。
指が動いて、今度は止まらなかった。
『いい』
送信すると、一瞬だけ時間が止まる。
(今の、軽すぎたか?)
だが、消さなかった。
既読がつき、すぐに返信が来る。
「ほんと!?やった!」
「じゃあ土曜日とかどう?」
その一文で、<曖昧>が消えた。
土曜日、という言葉はもう相談ではなく、予定という形を持っていた。
決めるのが早すぎないかと思ったが、もう戻れない。
逃げられないやつだと気づくのが遅すぎた。
・行く
・行かない
・保留
どれも現実的ではなく、残るのは一つだけだった。
(行くしかない)
マサキはスマホを置き、軽いはずのそれがやけに重く感じる。
(……マジで行くのか)
思考は勝手に流れ始める。
うまくいっている自分、普通に会話している自分、如月さんが笑っていてそれに合わせて自然に返せている光景。
(何考えてんだ、これ)
相手は如月理沙で、軽く扱える距離じゃない。
それなのに、頭の中では場面が勝手に進んでいく。
(如月さんと、カラオケ…)
帰り道、夕方の光、カラオケのあと少し静かになった空気。
如月さんが歩みを止めて振り返り、髪が揺れて、いつもより少しだけ無防備な表情になる。
「また来ようね」
その言葉に、喉の奥が一瞬だけ詰まる。
(……何言えばいいんだ、これ)
現実の自分なら、そこで黙る。
でも妄想の中では、ほんの少しだけ違っていた。
「……ああ」
短い返事は突き放すわけじゃなく、むしろそれ以上言葉が続かないだけの不器用さだった。
少し間を置いてから、視線だけがリサに向く。
「……また来るか」
確認みたいな言い方なのに、止める気はない。
如月さんが小さく笑い、その距離がほんの少しだけ縮まる。
(……いやいやいや)
一気に現実へ引き戻される。
(ない)
(ないないない)
(何考えてんだ)
思わず息が漏れ、胸の奥が妙に熱くて、気持ち悪いくらいだった。
オレがそんなの、ありえない。
そう言い聞かせても、スマホの画面の向こうには確かに「土曜日」が残っている。
そして最後に一つだけ、消えない感情がある。
怖いのに、行きたいって思ってるのが一番タチ悪い。
マサキは参考書に視線を戻す。
だが、ペンはしばらく動かなかった。
◇ ◇
一方そのころ、リサはベッドの上でスマホを握ったまま固まっていた。
画面には、マサキとのやり取りがそのまま残っている。
『いい』
その短い返事を、何回見ても顔が緩む。
「……いい、だってー」
小さく声に出した瞬間、じわっと嬉しさが遅れてきた。
リサはそのまま枕へ顔を埋め、足をばたばたさせそうになって、ぎりぎりで止める。
「ほんとに行けるー」
今までも、一緒に帰ったり、どこかへ寄ったりはしてきた。
でもそれは、たまたま流れでそうなるようにしていたから。
<偶然>とか<ついでに>、そういう流れだった。
もちろん、それも嬉しかった。
隣にいられるだけで楽しかったし、マサキがなんだかんだ付き合ってくれるのも、ちゃんと分かっている。
けれど今回は違う。
LINEで。
自分から。
日にちを決めて。
二人で行く約束をした。
「……デートだ」
ぽつりと落ちた声は、自分で思ったより小さかった。
ただ遊びに誘っただけ。
そう言えばそれまでだ。
お礼という理由もある。
この前助けてもらったから、そのお返し。
そういう形なら、マサキも受け取りやすいと思った。
実際、その名目があったから送れた。
「お礼、便利すぎ……」
リサはスマホを胸元に引き寄せる。
ずるい言い方かもしれない。
でも、完全な嘘ではない。
助かったのは本当だし、お礼したいのも本当だ。
ただ、そのお礼に選んだのがカラオケで、二人で行きたかっただけで。
「……だけ、じゃないか」
自分で言って、頬が熱くなる。
リサはまた枕に顔を埋めた。
「……あー、楽しみ」
声が勝手に弾む。
頬が熱い。
スマホを見直すたびに、土曜日という文字がちゃんと予定になっている。
リサはもう一度だけ画面を見て、それからにこっと笑った。
ただのカラオケ。
お礼。
そういう顔をしながら行く。
(あたしはデートのつもりだけどね)
◇ ◇ ◇
土曜日の朝、カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の床に細い帯を作っていた。
マサキはその光をぼんやりと見ながら目を覚まし、いつもより少しだけ早いことに気づく。
(……なんでだ)
まだ完全に起ききっていない頭のまま、思考だけが勝手に動く。
(今日、如月さんと……)
そこまで浮かんだ瞬間、思考が一度止まる。
すぐに切り替えるように、布団の中で小さく息を吐いた。
(別に、ただのカラオケだ)
もう一度、心の中で繰り返す。
(ただの、カラオケ)
そう言い聞かせてから、ようやく身体を起こした。
シャツの袖を引っ張りながら、どこか落ち着かないまま立ち上がる。
クローゼットの前で、マサキはしばらく固まった。
いつも通りでいい。
そう思って、いつものパーカーに手を伸ばす。
けれど、そのまま取る前に手が止まった。
(如月さんの隣を歩くんだよな)
その一文が、変な重さで頭に落ちてくる。
別に見栄を張りたいわけではない。
おしゃれを頑張りました、みたいな空気を出すのも違う。
ただ、如月さんが隣にいる状態で、自分だけ完全に普段着だと、通行人の視線が全部「なんで?」になる気がした。
(いや、誰もそこまで見てないだろ)
そう思うのに、如月さんなら見られる。
そして、その隣にいる自分もついでに視界に入る。
(ついでで事故るの嫌すぎる)
結局、マサキは少しだけましに見えるパーカーを選んだ。
◇
同じ時間。
リサの部屋では、鏡の前に彼女が立っていた。
「うーん、スカート短すぎかなぁ……」
くるりと一度回ってみる。
ベージュのスカートがふわりと揺れて、白い脚のラインが一瞬だけ見え隠れする。
「まぁ見えるわけじゃないし……これでいいか!」
そう言いながらも、もう一度鏡を覗き込む。
そこに映るのは、整った顔立ちと、柔らかく整えられた髪。
普段より少しだけ時間をかけたメイク。
派手すぎないのに、目を引くバランス。
(……可愛いよね?)
一瞬だけ自分に問いかけて、すぐに首を振る。
「いやダメだ。髪は編み込みにしよう。時間かかるけど、そっちの方が可愛い」
鏡の前で髪をまとめ直しながら、ぶつぶつと独り言が続く。
悩んでいる時間まで、もう楽しさの一部になっていた。
「派手すぎず……地味すぎず……女の子らしく、大人っぽく……」
その言葉のたびに、少しずつ形が整っていく。
白いカーディガンの下に見える淡い水色のキャミソール。
動くたびにわずかに揺れるシルエット。
スタイルの良さが、隠すというより自然に浮き出てしまう。
「……完璧じゃーん」
満足げに息を吐く。
だが次の瞬間、鏡の中の自分を見て、ふっと表情が変わる。
(うぅ……緊張してきた)
(でもすごい楽しみーっ)
不安と期待が同時に膨らんで、抑えきれないまま残る。
今日は、ただの予定じゃない。
その事実だけが、確かにそこにあった。
◇ ◇ ◇
待ち合わせは12時。
改札を抜けて外に出た瞬間、柱のそばに見慣れた姿が見えた。
松前くんだった。
片耳にイヤホンを入れて、スマホを見ている。
柱に軽く背をつけて、人混みに紛れているみたいに立っている。
(まだ30分前だよ?)
リサは足早に駆け寄る。
声をかけようとした瞬間、マサキがこちらを見てイヤホンを外した。
(あーあ、近くまで気づかれないようにしたかったのに)
「おはよ、お待たせ~」
にこっと笑う。
「……」
マサキは軽く会釈するだけ。
「いや、挨拶っ」
リサがくすっと笑いながら注意すると、マサキは視線を外した。
口元を少しだけ引き締めて、顔を横に向ける。
(いや、無理だろ……可愛すぎる)
改札から出てきた瞬間から、ずっとそうだった。
編み込まれた髪。いつもと全然違う。
近づいてきただけで目が引っ張られて、何も言えなくなった。
落ち着け、と自分に言い聞かせて、もう一度リサの方に目をやる。
先ほどよりも近い距離で、リサがマサキの顔を覗き込むようにしていた。
(近っ!)
また視線を外しかけたところで、リサが声をかけてくる。
「ご、ごめん。遅れてきたくせに説教とか。気分悪くしたよね?」
不安そうな顔だった。
「い、いや……違うから」
首を振る。
「わ、悪い……いろいろ、テンパって……おはよう」
「……うんっ」
リサの顔に笑顔が戻る。
「あ、緊張してる?あたししてる。今日は変な行動するかも、よろしくね」
その笑顔にマサキの心臓が大きく跳ねた。
「こちらこそ……」
それだけ言うのがやっとだった。
マサキはリサの服装に視線をやる。
(……本当に可愛いな。素直に言ったほうがいいのか、でもジロジロ見ない方がいい気もする)
リサが首をかしげる。
「松前くん来るの早かったね。時間間違えた?」
「……間違えてない。如月さんも早い」
「そだね」
リサはくすっと笑う。
その笑い方が自然すぎて、マサキは一瞬また言葉を失う。
(……今だろ)
さっきから頭のどこかでずっと引っかかっている。
<言ったほうがいい気がする>というやつだ。
(可愛い、って)
口に出すだけだ。簡単なはずだ。
編み込まれた髪に、いつもより少しだけ大人っぽい服装。
でも、笑い方だけはいつも通りで。
(……いや、これ言ったらどうなる)
可愛いと思ったのは本当だ。
だから、嘘にはならない。
でも、それを口に出した瞬間、ただの感想では済まなくなる気がした。
服を見ていたことも、髪型に気づいていたことも、今日の予定を少しでも特別に思っていることも、全部まとめて外に出てしまう。
(オレみたいなのにそんなこと言われたら、気持ち悪いと思うかもしれない。)
喜ぶかもしれない。
でも、気を遣って笑うだけかもしれない。
(調子に乗ってると思われないか?)
そこまで考えたせいで、一瞬だけ迷いが出た。
そのマサキの視線に気づいて、リサは小さく首を傾げる。
「ん?」
その一言で、なぜか余計に詰まる。
(如月さんなら、言っても大丈夫な人だ)
マサキは小さく息を吸う。
「如月さん」
呼ばれたリサがマサキの目を見ると、マサキは一瞬だけ目を逸らしそうになって、踏みとどまる。
「その……」
言葉が詰まる。
(なんでこんな難しいんだ)
リサは急かさず、ただ普通に待っている。
それが逆に逃げ道を塞ぎ、マサキは観念するみたいに視線を戻す。
「……今日の格好」
リサの表情が少しだけ真剣になり、マサキはもう一度、短く息を吐いてから続ける。
「……似合ってる」
一拍、空気が止まる。
リサは瞬きを一回して、それからゆっくりと目を細める。
「ありがと、嬉しい」
照れているのが分かり、マサキはそれを見て思う。
(……嬉しいのか)
そう思ったせいで、つい続けてしまう。
「あと、可愛い」
一瞬、空気が変わる。
リサの顔がさっと赤くなり、一瞬だけ固まってから、ゆっくりと視線を落とす。
「え、あー……」
声が一段階だけ小さくなる。
でも隠しきれておらず、耳まで赤い。
(やばい、今の……言わなきゃよかったか)
一瞬だけ後悔がよぎる。
リサは顔を少し伏せたまま、指先で髪をいじっている。
それでも口元は笑っていた。
「……言ってくれないんだと思った後だったから、なんか余計嬉しい」
小さく、でもはっきりした声に、マサキは一瞬止まる。
「……そうなのか」
「うん」
リサは少しだけ顔を上げる。
さっきまでの余裕っぽい笑顔じゃなく、ちゃんと、嬉しさが隠せてない顔。
(……あぁ、別に言ってもいいのか)
さっきまでの<言ったら変になる>っていう引っかかりが、少しだけずれる。
如月さんが嬉しい。
なら。
マサキは視線をリサに戻す。
「……如月さん」
リサが顔を上げる。まだ少し赤い。
「ん?」
その顔を見て、マサキは少しだけ間を空ける。
今度は、さっきより迷いがない。
「さっきオレが挨拶無視したようになったのは」
「うん」
「如月さんが可愛すぎてオレがテンパったからで」
「んぇ」
リサの動きが止まる。
でもマサキはそこで止まらない。
「如月さんはなに着ても似合うんだろうけど。今日のはオレの地味さに合わせて服も選んでくれたんだろうなって分かる」
リサの目が丸くなる。マサキは構わず続ける。
「派手に着飾ってないのに、誰が見てもおしゃれなのは、すごいと思う」
リサの指が、無意識にカーディガンの袖をつまむ。
「……へ、えへへ」
リサの表情が嬉しさと恥ずかしさで崩れる。上擦った変な笑い方が漏れてしまう。
マサキは視線を外さずに言う。
「髪型も今日はいつもと全然違うんだな」
リサはぴくりと反応し、慌てて頭に手を当てた。恥ずかしそうに
「う、うん。これ、時間かかるから学校にはしていけないけど……今日は特別」
そう言うと、照れくさそうに指先で毛先を弄ぶ。
マサキは淡々と続ける。
「なんか、それも含めて……今日は来てよかったって思ってる」
リサの表情は、もう隠す気がないくらい嬉しさが滲んでいる。
口元が抑えきれてなくて、表情が整いきらないまま崩れている。
◇
(やーっ、無理無理無理!あたし絶対顔真っ赤じゃん!いつもみたいに『うふふ、ありがとう』って流せばいいじゃん!変な笑い声出たの恥ずかしすぎるんだけどっ)
さっきから口元が勝手に緩むし、目線も定まらないし、袖いじる手も止まらない。
『如月さんが可愛すぎてテンパったからで』
(それは反則でしょ!!!!)
心の中で机ひっくり返してる。
リサは何かを考え込むような仕草をして、モジモジしている。
マサキをちらちら盗み見ては目を逸らす。
そして決心したように、パッと顔を上げた。
「ま、松前くんもさ。私服、大人っぽくてカッコイイよね。シンプルだけどそこに清潔感があって好き。シルバーアクセもさりげなくてポイント高いよね」
一気にまくしたてるように言い終えた瞬間、ほんの少しだけ息が止まった。
(なんか対抗してるみたいになった……!)
恥ずかしさが遅れて一気に押し寄せてくる。
◇
マサキは少しだけ視線を下げて、それからぽつりと言った。
「……如月さんが一緒に歩いて恥ずかしくないようにしようとはしたけど、それでもいろいろ足りてなかった」
「いやっ、あたしは好き!」
リサが思い切って口にすると、マサキが一瞬だけ目を開く。
でもすぐにリサははっとして、
「服が!」
と言い直した。
声が少しだけ大きくなった。
(あ、あぶなー!)
リサは両手で自分の頬を押さえたまま、必死に呼吸を整えようとしていた。
「顔あっつ!ちょっと待って、1回もう何も言わないで」
リサは目線を逸らしたまま指で頬をぱたぱたと仰ぎ、顔を押さえて、目を逸らして、それでも口元だけはまだ少し笑っている。
(如月さんは、照れるとこうなるんだよな……)
マサキは小さく息を吐いてから、ぽつりとこぼす。
「……そういうの、やっぱり可愛いな」
その瞬間。
リサの動きが止まった。
「ちょ」
「悪い、言わないの無理だった」
落ち着いた声で言った。
「もー!」
しかしマサキの表情は、少しも変わらない。
マサキはその様子を見て、少しだけ間を置いてから小さく言う。
「……じゃあ、歩くか」
リサは顔を押さえたまま、こくこく頷く。





