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29. 月曜日の朝 ~教室の空気がおかしい~

 月曜日の朝。

 マサキは教室へ入った瞬間、空気が少し違うことに気づいた。


 教室の後ろ側。まだホームルーム前で、あちこちに小さな輪ができている。

 その中のひとつから、マサキの耳に断片的な声が入った。


「なぁ、聞いたか?」


 最初は、ただの雑談みたいなトーン。

 でも次の言葉で、空気が変わる。


「昨日、駅前で見たって」

「普通に手繋いでたらしいぞ」


 その瞬間、近くにいた男子の何人かが反応した。


「映画も行ってたくない?」

「カラオケのあと映画とか、ほぼデートじゃん」


 そこまで聞いたところで、「うわ……」と小さく反応する男子がいた。

 ショックを受けたというより、信じきれないみたいな顔。

 マサキの足が、ほんの少しだけ止まる。


(……あぁ)


 そこでようやく理解した。見られていた。

 しかも、一人二人じゃない。

 さらに別の声が重なる。


「しかも如月さん、男物のパーカー着てたらしい」


 声が少し大きくなる。

 すると、話していた側が慌てて周囲を見る。


「それって松前の?」


 ひそひそ声に戻る。

 でも、もう周囲数人には聞こえてしまっていた。


「まさか」

「さすがに付き合ってはないだろ」

「釣り合ってないもんな」


 "まだ自分たちの負けじゃない"みたいな空気。

 実際、どこかほっとした顔をしているやつもいる。

 逆に、露骨にがっかりしている男子もいた。


 マサキは無表情のまま席へ向かい、椅子を引いて静かに鞄を置いた。

 けれど内側では、思ったより強く引っかかっていた。


(……やっぱ目立つよな)


 マサキは、自分がどこへ行こうと誰にも見られない側の人間だった。

 昨日どこにいたとか、誰と歩いていたとか、そんな話題になったことなんて一度もない。

 そもそもマサキ自身、他人がどこで何をしていようが興味を持ったことがなかった。


(そんなので盛り上がるとか、暇人かよ)


 心の中でそう切り捨てる。

 でも。今回だけは、その"暇人の話題"の中心に自分がいた。

 しかも相手は如月理沙(きさらぎ りさ)。教室でも目立つ側の人間。

 男子が見て、女子も見て、廊下を歩けば自然と視線が向くような存在。

 マサキとは、立っている場所が違う。


(如月さん、有名人だからな……)


 最初は、その程度の認識だった。

 少し騒がれて終わる。そう思っていた。


 ふと、教室の前方へ視線が向く。

 リサがいた。

 朝の光が窓から差し込んで、髪が柔らかく見える。

 今日は学校指定の紺色のカーディガンを羽織っていて、席へ座り直す動きに合わせてスカートの裾が揺れた。

 細い脚。

 そのまま視線が上がりそうになって、マサキは反射で逸らす。


(……見るな)


 心の中で自分に言う。

 その瞬間、リサがこちらに気づいた。

 目が合う。

 するとリサは、何でもないみたいに小さく笑った。一昨日と同じ笑い方。

 マサキの胸の奥が、一瞬だけ変な熱を持つ。


 数秒。

 ほんの数秒なのに、思ったより長く感じた。


(……)


 マサキは目を逸らす。

 その拍子に、昨日の夜のことが脳裏をよぎった。


 リサが着ていたパーカー。

 持ち帰って、匂いを嗅ごうとして、ギリギリで止まれなかったこと。

 少しだけ、本当に少しだけ嗅いだ。

 そして、死ぬほど後悔した。


(……終わってる)


 マサキは机に突っ伏したくなる衝動を、なんとか押し殺す。

 そんなことをした直後に、本人と目が合って笑われるのは、精神的にかなりきつかった。


 リサはそんなマサキの内心など知らず、また小さく笑ってから友達との会話へ戻っていく。

 マサキはその横顔を一瞬だけ見て、すぐ前を向いた。

 喉の奥が、少しだけ乾いていた。


 ◇     ◇


 昼休みが近づくにつれて、教室の空気は落ち着きを失っていった。

 原因は、明らかだった。

 如月理沙。そして、その隣にいた"同じクラスの松前"。


「松前くんと遊びに行ったってほんと?」


 教室の前方。女子たちに囲まれたリサは、少し照れたみたいに笑った。


「うん。カラオケ行って、そのあと映画も見たんだ」


 その言葉だけで、小さく悲鳴みたいな声が上がる。


「えー! ほんとなんだー」

「映画なに見たの?」

「ホラー映画。あたし気になってたやつ」


 リサが笑いながら髪を耳にかける。


「松前くん、なんでもいいって言ってくれて」


 さらり、と明るい茶色の髪が揺れる。

 窓から差し込む光が頬に落ちて、その横顔だけで空気が華やぐ。

 やっぱり目立つ。クラスの中心にいるのが自然な女の子だった。


 しかも今日は紺色のカーディガン姿で、椅子へ浅く腰掛けると細い脚のラインが覗く。

 女子ですら見惚れるくらい整っているのだから、男子が騒ぐのも無理はない。


「松前くん、なに歌ったの?」

「あたしがリクエストしたやつ、ほぼ全部」

「なにそれ、めっちゃいい」

「でしょ?」


 リサが楽しそうに笑う。

 その笑顔があまりにも自然で、"気を遣って褒めてる"感じがない。

 だから余計に周囲はざわついた。


「男物のパーカー着てたって、もしかして松前くんの?」


 その瞬間、リサが「あー」と少し困ったみたいに笑った。


「うん。恥ずかしい話なんだけど……あたし舞い上がっちゃって、自分にジュースかけちゃったんだよね」

「え、かわいー」

「そしたら松前くんが貸してくれたの」

「やさしー」


 女子たちの空気は、男子とは少し違っていた。


「松前くんって、なんか静かだけど優しいよね」

「わかる。ちょっとクール系っていうか」

「顔も別に悪くないしね」

「むしろちゃんと見たら普通に整ってない?」


 ひそひそ声。

 女子側は、そもそもマサキと接点が少ない。

 だからこそ、"静かで無口"が、そのまま"落ち着いてる""ミステリアス"みたいな方向へ変換されていた。

 しかも、リサが頻繁に"松前くん優しい"エピソードを投下してくる。

 だから女子たちの中では、"松前=意外とアリ寄り"みたいな空気がじわじわ生まれ始めていた。


 一方で。

 男子側の空気は、まるで違う。


「如月さんって、誘えば遊んでくれる感じなの?」


 軽い調子。でも、その目には探るような色が混じっている。

 リサは机へ頬杖をつきながら、ふわっと笑った。


「タイミング合えばねー」


 その言い方が柔らかいせいで、男子たちは余計に"いけるかも"と思ってしまう。


「松前くんはよくって、オレはダメってことないよね」

「そこは比較とかしちゃダメだよー」


 リサは笑ったまま返す。

 けれど、その声にはほんのわずか"そこ違う"というニュアンスが混じっていた。


 男子たちの認識は、かなり単純だった。

 松前真咲。無口。陰キャ。愛想ない。

 教室でも端のほうにいるタイプ。会話も広がらない。

 正直、面白いやつではない。


 だからこそ理解できない。

 "なんで松前なんだ?"

 そこだけが、ずっと引っかかっている。


「1回くらいいいじゃん」

「なんか軽すぎー、そういうのだめ」


 くすっと笑いながらかわす。

 空気は悪くならない。でも、踏み込ませてもいない。その距離感が絶妙だった。


 男子たちも強引には行けない。

 リサが笑うたびに肩が揺れて、机へ身を乗り出した拍子にカーディガン越しのラインがふっと動く。

 視線を向けてはいけないと思うのに、つい見てしまう。そんな危うさがあった。


「そもそも松前くんと一緒って楽しかった?」

「オレだったらもっと楽しませるよ」


 その言葉に、リサは一瞬だけきょとんとした。

 "なんで勝負みたいになるんだろ?"みたいな顔。

 でも次には、あっさり笑う。


「えー、楽しかったよ?」


 その返答があまりにも即答だったせいで、逆に男子側が止まる。

 リサは気づかないまま続けた。


「歌上手いし」

「映画の趣味も合うの」

「あと、いろいろ気遣ってくれる」


 その一言に、女子たちがまたざわつく。


「ほんとそういうとこ大事」

「優しそうだよねー」


 逆に男子側は、さらに納得がいかない顔になる。

 "優しい?"

 "気遣い?"

 "松前が?"

 彼らの知っているマサキは、基本「あぁ」「別に」「知らない」で会話が終わる男だったからだ。


「……へぇ」


 男子たちの顔が少し変わる。

 "社交辞令"っぽさがなかった。本当に楽しそうだったから。


「じゃあオレとも映画行こーよ」

「同じように扱って?」


 リサは困ったみたいに笑った。


「んー……同じようにっていうのは、なんか違うかな」


 柔らかい声。でも、線だけは消えない。


「やっぱり1人1人ちゃんと向き合わないと失礼だと思うし」


 断っているのに冷たくない。

 だから男子たちも、強く押し切れない。

 リサはずっと笑っている。

 空気を壊さない。でも、誰でも入れる場所にはしない。


 その器用さを、マサキは少し離れた席から見ていた。

 囲まれているリサ。笑っている。困っているようには見えない。むしろ、慣れている。


 でも。


『松前くんはよくて、オレはダメなの?』


 その言葉だけが、妙に耳に残っていた。


(……やっぱ、こうなるよな)


 マサキは視線を落とす。

 自分なんかと一緒にいたせいで、如月さんへの距離感が壊れていく。

 "松前でもいけるなら"。

 その空気。それが一番嫌だった。


 リサは悪くない。

 むしろ、自分を下げるようなことは一度も言っていない。

 なのに。


『歌上手いし』

『映画の趣味も合うの』


 そんなふうに、自然に自分を肯定されるたびに、逆に胸の奥がざらつく。


(……やめろよ)


 そんなふうに言われたら、周囲はもっと勘違いする。

 如月理沙は、本来もっと遠い場所にいる人間なのに。


 マサキは無意識にイヤホンへ触れた。

 教室のざわめきが、少しだけ遠くなる。

 それでも、リサの笑い声だけは妙に耳へ残り続けていた。


 ◇     ◇


 昼休み。

 男子たちの間では、いつの間にか雑な作戦会議が始まっていた。


 直接リサを誘っても、うまく流される。

 押せば押すほど、ふわっと笑って距離を戻される。

 だったら先に松前側へ入ればいい。


「松前と仲良くなれば、如月さんとも自然に話せるんじゃね?」


 半ば本気、半分ノリの"松前攻略"が始まる。


 マサキはいつも通り、自席でイヤホンを片耳につけたままスマホを見ていた。

 周囲の喧騒から半歩だけ外れた場所。そこへ男子が数人近づく。


「松前ってゲームやる?」


 マサキは視線だけ上げる。


「……うん」

「お、なにやってんの?」

「音ゲー」

「へー、ゲーセンとか行く?」

「たまに」


 終了。会話が、伸びない。

 男子たちは一瞬だけ沈黙した。


(終わった……?)

(今ので……?)


 しかし諦めない。


「映画とか何見るの?」

「いろいろ」

「ホラー好きなんだっけ?」

「うん」


 短い。とにかく短い。

 壁というほど拒絶的じゃない。質問には答える。

 でも、"入口"が見えない。キャッチボールというより、壁打ちだった。


「……逆にこっちが面接されてる気分なんだけど」

「わかる」


 男子たちが小声でぼやく。

 マサキ本人は、別に困らせようとしているわけではない。むしろ答えているだけマシな方だった。

 ただ、会話を広げるという発想がそもそも薄い。


「今度みんなで遊ばん?」

「無理」


 即終了。


「いや早いって!」

「もうちょっと考えようぜ!?」


 マサキは少しだけ眉を寄せた。


「……人数多いの苦手」

「あー……」


 変に納得感がある。


「じゃあ少人数なら?」

「無理」

「おいー」


 男子たちの間で、いつの間にかマサキが高難易度NPCみたいな扱いになり始めていた。


「つーか松前、如月さんといる時もこんな感じか?」

「……うん」

「会話とか成立してんの?」


 マサキは数秒黙る。


「……してる」

「ほんとかよ!」


 男子たちが頭を抱える。

 しかもマサキ本人には、一切悪気がない。それが余計に疲れる。


(なんなんだこいつ……)


 そんな空気が漂い始めた頃。

 教室のドアが開いた。


「あ、おかえりー」


 女子の声。リサだった。

 昼の光を背に教室へ入ってきた瞬間、空気が変わる。

 明るい茶色の髪。紺色のカーディガン。歩くたびに揺れるスカート。

 何気ない仕草なのに目を引く。


 男子たちの視線が、無意識にそっちへ流れた。

 リサはそのままマサキの席まで来ると、自然な動作で机へ寄りかかった。


「松前くん、ちゃお」

「……ん」


 短い。

 すると男子の一人がすぐリサへ訴える。


「如月さん聞いてよ、松前くん全然喋ってくれないんだけど」


 リサは一瞬きょとんとしてから、くすっと笑った。


「うん、あたしも最初そうだったから」


 軽い口調。でも、その言い方が自然だった。

 "知ってる側"の人間の言い方。


「根気はいるよねー」


 楽しそうに笑う。その笑顔がやたら可愛い。

 男子たちはそこで、なんとなく理解し始める。


 リサは誰にでも愛想がいい。

 でも松前相手だと、"楽しそう"の種類が少し違う。変に気を遣っていない。

 マサキもマサキで、相変わらず無愛想なのに、リサが隣に来ること自体は拒否しない。

 その距離感が、自然だった。


「……なんかさ」


 男子の一人が小声で呟く。


「次元が違う?」

「わかる」

「なんなんだこの二人」


 男子たちの小声は、半ば呆れと半分興味で混ざっていた。

 マサキはそれを聞こえていないふりのまま、イヤホンに指をかける。


「松前くん」


 不意にリサが顔を覗き込んできた。距離が近い。

 ふわっと甘い匂いがして、マサキの視線が一瞬だけ揺れる。


「さっき目合ったのに逸らしたよねぇ」

「……うん」

「今度目合ったとき逸らしたほうが負けね」

「……負けでいい」

「うぇーいじゃああたしの勝ち」

「松前くんよわーい」

「逃げた逃げたー」


 リサが楽しそうに笑いながら、さらに畳みかける。


「罰ゲームしよ。デコピンでーす」

「……ん」


 マサキが短く返した瞬間、教室の空気が少しだけ止まる。


「え、いいの?」


 リサが一瞬だけ本気で戸惑う。


「早くしろ」


 淡々とした声。逃げ道を作らない言い方だった。


 ◇


 その圧に押されるみたいに、リサは一度だけ目を伏せて、覚悟を決める。

 指先を軽く構えるけど、どうしても力が入らない。


(いや、これ普通に無理でしょ……)


 距離が近い。

 松前くんは動かないし、逃げもしない。

 ただそこにいるだけなのに、逆にやりづらい。


 男子たちはその様子を見て、黙り込んでいた。


「マジでやるのか」

「松前の方が余裕あるの何?」


 リサは「うぅ」と小さく唸ったあと、


「むりぃーあたしの負けでいい」

「じゃあオレの勝ち」


 マサキはそう言うと、リサの額に軽く指を弾いた。


 ぺちっ


 小さな音が、思ったよりはっきり教室に響いた。

 リサはすぐに額を押さえて目を細めた。


「ひ、ひどいよー」

「え、如月さんが言い出したんだけど……」


 マサキの淡々とした声に、リサは一瞬固まってから、視線をそらす。


「いやそうだけどさぁ」


 でも文句を言いながらも、口元は笑っていた。

 男子たちはその一連を見たまま、しばらく動けなかった。


「……なんだこの距離感」

「仲いいとかじゃなくない?」


 リサは額をさすりながら、隣でまだ小さく笑っていた。


 ◇


 昼休み、後半。

 リサはマサキの机の横にしゃがみ込んでいた。


 距離が近い。横顔がそのまま視界に入る位置。

 明るい茶色の髪が肩からさらりと落ちて、動くたびにふわっと揺れる。

 紺色のカーディガン越しに見える細い肩のラインは、何気ないのに妙に目を引いた。


 リサはスマホを差し出す。


「ね、ここ」

「……?」

「美味しそうじゃない?」


 画面には、湯気を立てる牛タン定食。

 焼き目のついた肉、麦飯、とろろ。

 マサキは一瞬で理解した。


「飯テロやめてくれ」

「えへへ」


 リサは悪びれもせず笑う。その笑い方が、やたらと無防備だった。


「今度いこー」


 その一言が、軽く落ちる。

 マサキはすぐに返せなかった。

 頭の奥に、さっきの教室の声がよぎる。


『松前でもいけるなら』


 喉の奥が、重くなる。


(……これ以上は、まずい)


 自分の立ち位置は分かっている。"陰キャ""底辺側"。

 教室の中心にいるような人間とは、本来並んで見えるべきじゃない。


 如月さんは違う。目立つ側の人間だ。

 男子も女子も自然に視線が向く存在。

 そこに自分が混ざれば、全部歪む。


 自分と関わることで評価が下がる。

 "いける側"だと誤解される。軽く扱われる空気ができる。

 それは、いちばん避けたい形だった。


(……この距離はダメだ)


 マサキは視線を逸らしたまま言う。


「……やめとく」


 一拍。

 リサの動きが止まった。


「えー」


 間延びした声。

 リサはきょとんとしたまま、マサキの顔を見ている。


「また変に見られるだろ」


 短い説明。それ以上は言わない。


 ◇


 リサの中で、そこで何かが繋がる。

 最近の教室のざわつき。廊下での視線。昼休みのひそひそ声。


『デートじゃん』

『松前くんでいけるなら』


 そして今の拒否。


(……あたしと付き合ってるみたいに見られるの、嫌なんだ)


 そういう意味に、見えてしまう。

 胸の奥が少しだけ冷える。

 でもすぐに、リサは笑顔を作った。


「えー、でも牛タン屋だよ?」

「ムードとかそういうのないし、大丈夫じゃない?」


 明るい声。本気でそう思っている顔。


 ◇


 マサキは少しだけ黙る。


(……なにが大丈夫なんだ)


 リサは一瞬だけ考える仕草をしてから、ふにゃっと笑った。


「牛タン食べたいなー」

「ミオは牛タン嫌いなんだよね」


 マサキは反応しない。


(ミオって誰)


 リサはそのまま、少し身を寄せた。

 机に置かれたマサキの手元へ近づくような動き。

 その拍子にカーディガンがわずかに揺れて、空気が動く。


「食べたら終わりでいいし」

「……」

「ね、奢るから」


 さらに一歩、近い。


「だから、そういう問題じゃ――」


 言い切る前に、リサがもう一度覗き込む。


「ねー、お願い」


 上目遣い。距離、かなり近い。

 マサキの視界に、リサの顔が一気に入り込む。

 まつ毛の影とか、目の色とか、そういう細かいものが逃げ場なく飛び込んでくる距離だった。


(近っ……)


 思考がそこで一度止まる。

 断られているのに、リサは全然引いていない。

 むしろ楽しそうですらある。

 その"余裕"が余計に厄介だった。


 マサキの頭の中で警報みたいなものが一瞬鳴る。

 これ以上近いと普通にまずい、という理屈だけが先に浮かぶのに、身体が動かない。

 視線を逸らそうとして、逆に逃げ場がない。

 顔を背ければいいだけなのに、それすら遅れる。


(いや、これ……)


 思考が途中で途切れる。

 さっきまで考えていた「断るべき理由」とか「距離」とか全部が一瞬で後ろに押し流される。

 目の前にいるのが"如月理沙"じゃなくて、ただ距離の近い女の子として認識されかけて、そこで強制的にブレーキがかかる。


(やばい、落ち着け)


 落ち着けと言ってる側から、心拍だけは普通に上がっていく。

 リサはその反応に気づいているのかいないのか、まだ顔を少し傾けてくる。

 逃がさない角度。


「ね?」


 たったそれだけ。

 マサキは一度だけ息を止めてから、視線を外した。


(……無理だろ)


 可愛い、が強すぎる。

 マサキは一度目を閉じてから、短く息を吐いた。


「……じゃあ、行く」


 言った瞬間。

 リサの表情がぱっと明るくなる。


「やったー」


 本当に嬉しそうに笑う。

 さっきまでの"お願いする側"とは違う、ただの無邪気な顔だった。

 マサキはすぐ視線を逸らした。耳が少し熱い。


(……断れる男いるか、これ)


 ◇     ◇     ◇


 放課後。


 夕方の街は、昼間より少しだけ輪郭が柔らかかった。

 駅前の人混みも、帰宅ラッシュにはまだ早い時間。

 制服姿の高校生が何組も歩いている中で、リサはマサキの隣を機嫌よさそうに歩いていた。


「ここは絶対おいしい。あたしのグルメセンサーがそう言ってる」


 スマホを見ながら何度目か分からない説明をする。


「如月さんは高性能だな」

「斬新な褒め方ー」


 振り返ったリサが笑う。

 夕陽が横から差して、茶色い髪が少し透けて見えた。


 学校ではずっと周囲の視線があった。

 でも今は、駅前の雑踏に紛れているせいか、教室より少しだけ呼吸が楽だった。


 牛タン屋の暖簾をくぐった瞬間、炭火と肉の匂いが一気に広がる。

 じゅう、と焼ける音。

 店内に漂う熱気。

 リサが目を輝かせた。


「わぁ……めっちゃいい匂い」


 その反応が子供っぽくて、マサキは少しだけ口元を緩める。


 二人席へ通される。

 向かい合って座る。

 制服。放課後。二人きり。

 教室では曖昧になっていたものが、こういう場所だと急に現実味を持つ。


 リサはメニューを開きながら楽しそうに言った。


「どうする?」

「普通のでいい」

「せっかくだし上いっとこ?」

「高いし」

「奢るって言ったじゃん」

「だからだよ」

「じゃあいいね」

「よくないよ」


 店員が水を置いていく。

 リサはそのタイミングで笑いながらメニューを閉じた。


「じゃ、上2つください」


 勝手に決まった。

 マサキは小さく眉を寄せたけれど、もう止めなかった。


 ◇


 しばらくして、牛タン定食が運ばれてくる。


 炭火の香り。焼き目。湯気。


 リサが「わぁ……」と小さく声を漏らした。


「めっちゃ美味しそう」


 2人で同時に、「いただきます」と手を合わせてから箸を取る。


 まずはリサが一口。


「……っ、おいし」


 素直な反応だった。

 頬が緩む。

 その顔を見ていると、こっちまで空気が軽くなる。


 マサキも一口食べる。


「……うま」

「ねーっ」


 リサが嬉しそうに身体を揺らす。


 そんな小さなやり取りのあと、不思議なくらい自然に会話が途切れた。

 気まずいわけじゃない。

 ただ、本当に美味しかっただけだ。


 店内の焼ける音。

 他の客の会話。

 食器の触れ合う音。


 その中で、リサがふと箸を止める。

 グラスの水を一口飲んで、氷がからんと鳴った。


「そういえば、そろそろさ……あたしのこと呼び捨てでいいよ」


 その一言に、マサキは一瞬止まる。


「……なんで、急に」


 戸惑いがそのまま声に出る。


 リサは箸を持ったまま、視線を少し泳がせた。


「んー……なんかさ」


 少し考えるみたいに間を置く。


「如月さんって呼ばれると、しっかりしてる感じしすぎて……距離あるみたいで、ちょっとやなんだよね」


 マサキはその言葉に、少しだけ眉を寄せた。


「学校で如月さんを呼び捨てにしてるやついないと思うけど」


 リサは一瞬きょとんとして、それから困ったみたいに笑う。


「うー、それはそうなんだけどね」


 視線をテーブルへ落としたまま続ける。


「うーん、説明むずいな……」


「松前くんって……なんか、そのままだとずっと遠いままな気がして」


 マサキの視線が少しだけ揺れる。


 リサは箸を置いて、手を使いながら説明し始めた。


「学校ってさ、最初から仲いい人と、あとから仲良くなる人いるじゃん?」

「……まあ」

「松前くんはあとから仲良くなった方でしょ」


 右手と左手を離して置く。


「で、その間のギャップっていうか……」


 二つの手を近づけていく。


「呼び方だけでも少し距離寄せたい。だから他の人とはちょっと違う……例外、みたいな」


『例外』


 その言葉が、妙に残る。


 マサキは視線を落とした。


(……他のやつとは違う、ってことだよな)


 胸の奥が落ち着かない。


 でも、そのまま飲み込むように言う。


「……例外って、そんな簡単に作るもんじゃないだろ」


 言った瞬間、自分でも少し後悔した。


 リサの表情が止まる。


「あ、えっと……そうなんだけど」


 声が弱くなる。


 さっきまで自然だった空気が、ほんの少しだけ揺れた。


 マサキはすぐに気づく。


(また変な言い方した)


 昔からそうだった。

 否定したいわけじゃないのに、言葉が硬くなる。


 数秒黙ってから、マサキは小さく息を吐いた。


「……悪い」


 リサが顔を上げる。


「オレの言い方、ちょっと変だった。否定したかったわけじゃない」


 言葉を探しながら続ける。


「ただ……例外とか、そういうのって。オレにとっては、あんまり軽く扱う言葉じゃないってだけで」


 リサは黙って聞いている。


 マサキは少し視線を逸らした。


「……如月さんが言ってること自体は、分かる」


 その言葉に、リサの肩から少し力が抜けた。


「そっか……」


 小さく笑う。


 空気が少し戻る。


 リサは箸で牛タンをつつきながら、またぽつりと話し始めた。


「えっとね」


 少し目を伏せる。


「さっきの"例外"って、そんな大げさな意味じゃなくて……」


 一度言葉を切る。


「あたしの中ではもう、けっこう近い距離にいるつもりなんだよね」


 マサキは何も言わない。


「でも、"如月さん"って呼ばれるたびに、一回他人に戻される感じがして」


 その声は、さっきより静かだった。


「だから、もう一段階だけ近くていいって思っただけ。呼び捨てって、そういう調整みたいな感じ」


 マサキはゆっくり瞬きをする。


(……戻されない距離、か)


 なんとなく理解する。

 前にリサが言っていた。


『一度、距離あけちゃうとさ……元に戻すのって大変じゃん』

『でも一回近づいちゃえば、離れるのも難しいよね』


 これも、そのための呼び方。


 マサキは小さく息を吐いた。


「理由は分かった」


 リサが表情を緩める。


「オレの方が、難しく考えてたかもしれない」


「でしょー?」


 空気が柔らかくなる。


 でも。


 マサキはそのあと、静かに続けた。


「でも、呼び方は変えない」


 一瞬、リサが固まる。


「は?」


 素で変な声が出た。


「話は分かったけど……いきなり変えるのは違うと思う」


「え、なんで?」


 食い気味。


 マサキは少しだけ考えてから、正直に言った。


「慣れないことすると変になる。雑に扱ってる感じもするし……オレだけ呼び捨てってのも、引け目ある」


 リサはぱちぱち瞬きをする。


「じゃあ何、ほんとに呼んでくれないの?」


 そこでマサキは、初めてちゃんとリサを見る。


 数秒迷ってから。


「……如月さんも、オレのこと呼び捨てにする?」


 リサは即座に首を横に振った。


「いやいやいや! そんなん無理だよ!」


 声が少し大きくなって、慌てて周囲を見る。


「松前くんを呼び捨てとか無理無理。松前くんは松前くんだし」


 言い切ってから、自分で恥ずかしくなったのか頬を押さえる。


「ていうか恥ずかしいじゃん……それは距離近すぎ」


 マサキはその反応を見て、少しだけ目を細めた。


(やっぱそうなるよな)


 変に安心する。


 だからこそ、自然に返せた。


「なんでそれでオレには呼び捨てさせようと思ったんだよ」


 リサは一瞬きょとんとして、それからむっと唇を尖らせた。


「考えてなかっただけでしょ、いじわる」


 その顔がおかしくて、マサキは少しだけ笑いそうになる。


 リサはそれに気づいて、目を細めた。


「……今笑った?」

「別に」

「絶対笑った」


 机の向こうから足が軽く当たる。


「いた」

「罰」


 リサはそう言って笑った。


 店の奥では、また肉の焼ける音がしていた。

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