28. カラオケ 後編 ~甘い匂い2~
「今日のために選んだ服の方が……その、似合ってたというか可愛かった」
言いながら、視線がわずかに泳ぐ。
(何言ってんだこれ)
リサの呼吸がわずかに浅くなる。
袖を握る指が、ほんの少し強くなる。
「……み、見すぎじゃん」
マサキは少しだけ間を置いてから、
「そうか」
(見てるつもりはないんだけど、見えてるだけだ)
そんなズレた自己解釈のまま続ける。
「でも、そう見えた」
「いや、それもう見てるのと同じだから」
「……そうか」
今度は少しだけ遅れて返る。
理解したというより、納得しきれてない返事。
リサは小さく息を吐く。
「……あのね、このパーカー気に入ってるから、あんまり言わないで」
マサキはほんの少し足を緩める。
袖の長さ、余った布、そこに埋もれる手。
(似合う/似合わないじゃなくて)
少しだけ考えてから言う。
「いや」
リサが身構える。
「似合ってる」
あっさり。でも迷いはない。
"見たまま"として落ちている。
リサの足が一瞬だけもつれる。
「……っ」
体勢を崩しかけて、そのままマサキの腕にしがみつく。
『むにっ』
リサの胸が、マサキの二の腕に押し当てられる。
柔らかい感触と体温が一気に伝わる。
「き、如月さん…」
マサキの言葉が途中で途切れる。
「ご、ごめん。松前くんが急に変なこと…」
「いや、そうだな。オレが悪い、本当に……」
『むにゅっ』
という感触が、さっきよりも明確に伝わってくる。
柔らかさと、生々しい質量。
マサキは息を飲む。
リサはすぐに身体を離した。
胸が揺れる。
手の甲で頬を押さえながら、こちらを見上げる。
「いや、オレが……悪いから」
「……ううん、今のはあたしが悪いよ」
それだけ言って、また袖を引っ張る。
少しだけ顔を俯かせた。髪の毛が目にかかる。
「……あの」
マサキはわずかに視線を下げて、如月さんを見る。
「なに」
「なんか、今のでめっちゃ汗かいたから…パーカーちゃんと洗って返すからね」
「いや、洗わなくていい」
「オレが勝手に貸したやつだし」
「いやいやいや!脇汗とかほんとひどくて!あたし今日キャミだけだから直接触れちゃってるし、いろいろヤバイんで洗わせてくださいっ」
「そんなの大したことじゃないだろ」
(如月さんの汗なら……)
と思ったが、危険なので口に出さなかった。
「あたしだって一応、女の子だよ…匂いとか気にする…」
「匂い…」
マサキはわずかに視線を落とす。
今日カラオケで胸に顔を埋めたときは、すごくいい匂いがした。
「嗅いだ?!」
マサキが一瞬止まった。
リサは口を開けて、視線を泳がせた。
「いや、ごめん……」
マサキはすぐには答えなかった。
「匂いか……」
静かに繰り返す。
リサがわずかに身を固めた。
「どんな匂い?!」
少し焦った声で聞く。
「どう、と言われても……」
間があく。
「甘い匂いがする」
◇
「あっ……」
喉が詰まったように、続きの言葉が出てこない。
「そ、それは…なに?好きな匂い?」
心臓が、またひとつ大きく鳴った。
松前くんは少し驚いたようにこちらを見たが、表情は変えない。
目をそらすことだけはしなかった。
「好きな匂い……ってほどでもないけど」
一瞬、否定されるんじゃないかと息を詰めた。
けれど、松前くんの口調はごく自然なものだった。
「でも、嫌いじゃない……と思う」
その言葉に、身体がふわっと揺れた。
思わず両手で口元を覆う。
耳まで熱くなってるのが自分でもわかる。
顔を伏せながら、ちらりと横目で松前くんを見る。
「ふーん……松前くんって、そういうふうに言うんだぁ……」
口元を押さえていた指をそっと離すと、指先にこもっていた熱が空気に溶けていった。
松前くんは眉一つ動かさず、こちらを見つめたままでいる。
「そういうふうってなんだ」
「なんでもない」
視線を逸らして、手の甲で顔の熱を隠すように押さえた。
鼓動が少し速い。多分、バレていないはず。
「そうか」
松前くんは短くそう言って、歩調を緩めた。
少しだけほっとする。
◇ ◇
映画館に着いた。
リサが当然みたいに財布を取り出す。
マサキが半歩前に出ようとした、その瞬間だった。
リサがさりげなく一歩横にずれて、窓口の前に身体を入れる。
意図的というほどあからさまじゃない。
ただ、自然に"そこに立っているだけ"の形で、マサキの動線が消える。
「如月さん、また払う気か」
「お礼したいし」
「お礼ならオレがするべきだろ、弁当とか」
「でも松前くんのは親のお金」
一拍だけ間があった。
マサキが言いかけて、やめる。
「如月さん、自分で働いたお金は自分のために使うべきだ」
「うん、使ってるよ?松前くんと遊びたいもん」
リサが笑った。
小さく、でも確かに勝ち誇ったみたいな笑い方。
(……やりにくい)
結局、チケットはまたリサが払った。
「ありがとう」
礼を言うたびに、どこか居心地が悪くなる。
自分の言っていることは間違っていないはずだった。
筋としても、考え方としても。
それなのに、それが通らない。
通らないまま、相手は普通に満足している。
納得できていないのは自分の方なのに、場はもう終わった形になっている。
受け取ることに慣れていないのか、受け取る相手が如月さんだからなのか、自分でも判断がつかなかった。
「どういたしましてー」
リサがマサキの手をひく。
◇ ◇
シアターの中は、想像よりずっと暗かった。
通路の足元だけが青白く光っていて、人の輪郭がぼんやり浮かぶ。
ホラー映画だというのに、土曜日だからだろうか客はかなり多い。
低いざわめきと、ポップコーンの匂い。
遠くで予告映像の重低音が響いて、座席までわずかに振動が伝わってくる。
(映画館で見るの久々だな……)
マサキは周囲をゆっくり見回した。
天井は高く、黒を基調にした内装で統一されている。
壁際には間接照明が埋め込まれていて、シアター全体がホテルみたいに静かだった。
座席も妙に大きい。
背もたれは高く、座ると身体が沈む。
肘掛けも幅が広い。
前の席との間隔までかなり空いていて、足を伸ばしてもぶつからなさそうだった。
(……最近の映画ってこんななのか)
スクリーンもやけに大きく感じる。
映像が始まる前なのに、黒い画面だけで妙な圧がある。
リサが先に座って、席番号を確認する。
マサキがその隣に腰を下ろした。
座った瞬間、柔らかく沈み込む感覚があった。
「……ソファー?最近の映画館はこうなのか」
リサはくすっと笑って、座面を軽く叩いた。
「カップルシートだから。広くていいでしょ」
「……それ、カップル用のやつか?」
リサは身を乗り出して肘掛けを軽く触る。
「そそ、恋人同士がくっついて座る用の席。普通のより広めになってるんだよ」
「恋人同士……」
声が小さく響いた。
「松前くん、隣知らない人だと落ち着かないでしょ」
リサはさらっと微笑む。
「……まあ、カップル向けだけど」
マサキは言葉に詰まって、小さく息をつく。
「いや、まあ……確かに広いのはいいけど……」
「ご、ごめん。勝手に席選んじゃって…意見も聞かず…」
リサの声が少し震えていた。
「いや……如月さんが気にしてないなら、別に」
マサキの言葉は、いつも通りに平坦だった。
(カップル…恋人同士……近い)
映画館の難点は知らない人が隣に座ること。
これならそういう問題もない。
でも、如月さんが隣というのもなんとなく落ち着かなかった。
(……嫌ではないのが、一番困る)
「これけっこうグロいよ。平気?」
リサが小声で言った。
「……うん」
「本当に?」
「平気だって。如月さんこそ大丈夫か」
「あたりまえじゃーん」
リサはくすっと笑う。
(思ったより余裕そうだな…)
◇ ◇
映画が始まる。
館内の照明がゆっくりと落ちていき、最後に足元だけがぼんやり残る。
スクリーンの光が暗闇を切り裂くみたいに広がって、シアター全体を青白く染めた。
重低音がソファをわずかに震わせる。
最新の音響なのか、ただ音が大きいだけじゃない。
後ろから気配が近づく音、遠くで軋む音、湿った呼吸みたいなノイズまで妙に生々しく耳に残る。
リサは、さっきまでの軽い調子が嘘みたいに静かだった。
背もたれに少し体を預け、スクリーンをまっすぐ見ている。
借りたパーカーの袖に指先を半分隠したまま、目だけが真剣だった。
暗闇の中でも分かるくらい、横顔が整っている。
長い睫毛がスクリーンの光を受けて影を落とし、映像が切り替わるたびに白い頬の輪郭がわずかに変わる。
(……ほんとに好きなんだな)
マサキはぼんやりそう思う。
最初は静かな導入だった。
人気のない田舎町。
ゆっくり進むカメラ。
意味深に開いた扉。
誰もいない廊下。
不穏な音だけが、じわじわ空気を重くしていく。
リサは瞬きすら少ない。
完全に“観る側”の顔になっていた。
そのとき。
突然、音楽が途切れる。
次の瞬間――
鋭い効果音とともに、画面いっぱいに殺人鬼の顔が映った。
「っ」
ほんのわずかに、リサの肩が跳ねる。
その反応が妙に小動物っぽくて、マサキは無意識に如月さんを見てしまった。
すぐに残虐シーンへ切り替わる。
鈍い音。
飛び散る血。
短い悲鳴。
リサは反射みたいに片手で目元を覆った。
でも指の隙間は、少しだけ開いている。
(……怖いなら見るなよ)
心の中ではそう思うのに、どこか面白くて視線が逸らせない。
画面の光が変わるたび、如月さんの表情も細かく変わる。
怖い場面では眉が寄って、緊張すると肩に力が入る。
そのたびに、胸元が小さく上下する。
パーカー越しでも分かるくらい、身体のラインが綺麗だった。
ゆるく隠れているはずなのに、座る姿勢で胸元や腰の輪郭がふっと浮く瞬間がある。
マサキは一度視線を逸らした。
(……見るな)
そう思うのに、映画の光が動くたび、どうしても視界に入る。
やがて序盤の殺戮シーンが終わり、空気が少し落ち着いた。
リサはゆっくりと手を下ろす。
小さく息を吐いて、それから袖の中で指を動かした。
何かを探すみたいな動き。
そして――
指先が、マサキの手に触れた。
マサキの肩がわずかに止まる。
「怖かったねー、手繋いでてあげる」
小声だった。
何でもないことみたいに言う。
でも、指先はほんの少しだけ冷たい。
「……どっちがだよ」
マサキも声を落として返す。
リサはくすっと笑った。
「強がっちゃって」
囁くみたいな声。
そのまま、指先が確かめるように絡んでくる。
マサキは一瞬だけ黙る。
断ろうと思えば断れた。
でも、しなかった。
(……まあ、もう繋いでるし)
それだけ考えて、軽く握り返す。
リサの指がぴくっと反応した。
映画が続く。
静かなシーンのあとに、不意打ちみたいな悲鳴。
殺人鬼の影。
急に鳴る音。
そのたびに、如月さんの手に力が入る。
ぎゅっと。
分かりやすいくらいに。
(……やっぱ怖いんじゃないか)
マサキは少しだけ口元を緩めた。
けれど何も言わない。
代わりに、力が入るたび少しだけ握り返す。
すると、如月さんもまた小さく握り返してくる。
その繰り返し。
如月さんは怖い場面になるたび、一瞬だけ画面から目を逸らす。
でも完全には逃げない。
ちらっと確認して、またびくっとして、少しだけマサキ側へ寄る。
暗闇の中で肩が触れるたび、甘い匂いがわずかに近づく。
パーカーの袖越しに伝わる体温が、妙に意識に残った。
(……近い)
そう思いながらも、マサキは手を離さなかった。
むしろ、如月さんが怖がるたびに、
離したらダメな気がしていた。
◇
エンドロールが流れ始めた。
館内の音が少しずつ明るく戻っていく。
リサは小さく息を吐いた。
「面白かったねー」
先に言う。
「そうだな」
「松前くん、平気だった?」
「平気だった。如月さんは」
「平気」
即答。
でも、よく見ると目が少し潤んでいた。
「平気か」
マサキが淡々と言う。
「当たり前じゃん、なに」
リサは少しだけ口を尖らせた。
「怖がってただろ」
繋いだままの手を、マサキが軽く引く。
リサは一瞬だけ黙って、それから小さく笑った。
「ホラー映画だもん。怖いの込みで楽しいんだって」
その言い方が妙に嬉しそうで、マサキは少しだけ表情を緩めた。
(怖いのが好きなのか……)
映画館を出る。
さっきまで暗闇に慣れていたせいで、ロビーの光が少し眩しい。
「犯人の正体、意外だった?」
リサがすぐに口を開く。
感想を話したくて仕方ない、という顔だった。
「主人公ミスリードさせるの上手かったな」
「あれ絶対そっちだと思うよね。あたし途中で完全に騙された」
「でも伏線はちゃんとあった」
「うん。あと音やばかった。あれ家で見ても絶対ああならない」
リサは笑いながら言う。
「たまに目逸らしてたけどな」
「映画館のホラーは別なの。音が近いんだもん」
少し拗ねた声。
マサキはふっと笑った。
「いや、ほんとに怖がってたんだなって」
「ホラーは怖がって見るのが正解なの」
言い返しながらも、リサはどこか楽しそうだった。
マサキは少し間を置いてから、
「……でも、今日は楽しかった。映画も当たりだったし」
そう言った。
リサは一瞬だけ目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
◇ ◇
リサはその言葉を聞いて、一瞬だけ足を止めた。
「……でも、今日は楽しかった。映画も当たりだったし」
マサキは前を向いたまま言う。
特別なことを言っている自覚もなさそうな、いつもの声。
でも、その一言がリサには妙に残った。
リサは少しだけ視線を落とす。
借りたパーカーの袖を、指先でくしゃっと握った。
「……ね」
小さな声。
マサキが視線だけ向ける。
リサは一瞬ためらって、それから少しもじもじしながら口を開いた。
「また……誘ってもいい?」
言った瞬間、自分で少し恥ずかしくなる。
視線が泳ぐ。つま先が小さく床を擦った。
思ったより踏み込んだ言い方になってしまった気がした。
マサキは一瞬だけ黙る。
その沈黙が思ったより長く感じて、リサの胸が少しざわつく。
(あ……重かった?)
不安が顔を出しかけた頃、マサキがようやく口を開いた。
「……如月さん、結構忙しいだろ」
少しずれた返答。
リサはきょとんとする。
「まあ、忙しいときもあるけど……」
「予定とかあるなら、無理して合わせなくていい」
断るわけじゃない。でも、素直に「いい」とも言わない。
リサは少しだけ唇を引き結ぶ。
その言葉の奥に、"誘うな"ではなく、"自分を優先しなくていい"みたいな響きを感じた。
「……無理してないし」
小さく返す。
マサキはすぐには何も言わなかった。
ただ、否定もしないまま歩幅だけを少し緩める。
松前くんの横顔をちらっと見て、リサは小さく息を吐いた。
(……でも、嫌ではないんだよね)
完全に拒まれたわけじゃない。
そのことに、少しだけ安心していた。
◇ ◇
マサキはベッドに沈んだまま、天井を見ていた。
蛍光灯のない部屋の天井は暗く、窓の外からのわずかな街灯が薄い影をつくっている。
さっきから頭の中が、うまく整理できない。
片腕を目元に乗せた。暗さが少しだけ濃くなる。
(あれで、上手くできたのか……?)
『また誘ってもいい?』
あの声だけが、やけに残っている。
ちゃんと「いい」と言えなかった自分がいた。
何もしていないのに、指先だけ落ち着かない。
「……いや」
小さく言って、すぐに止める。
(普通は、もっとちゃんと返すだろ)
(“いいよ”って、言い切るだろ)
(なんであそこで詰まるんだよ)
マサキは舌を軽く噛んだ。
(終わってるだろ、これ。むこうが誘ってくれてるのに)
胸の奥が、嫌な重さで沈む。
身体を前に倒して、額を手で押さえる。
そのまま止まる。
(あれ、如月さんは…どう思った?)
マサキはゆっくり息を吐いた。
「……最悪だろ」
言ってから、少し間が空く。
(楽しかったのに。普通に、楽しかったのに。最後だけ、なんでこうなる)
ベッドに背中を預ける。
天井がまた遠くなる。
(ちゃんと返せばよかった)
(ちゃんと、言えばよかった)
(“いい”って)
言葉だけが、遅れて追いかけてくる。
もうその場には間に合わないのに、何度も戻ってくる。
マサキは起き上がり、ベッドの端に腰を下ろした。
その視界に、畳まれたパーカーが入った。
今日、リサに貸していたやつ。
しばらくそれを見ていたが、やがて無言で手を伸ばす。
持ち上げた瞬間、ふわっと柔らかい匂いがした。
マサキの手が止まる。
無意識に、少しだけ顔が近づきかける。ほんの数センチ。
そこで、ぴたりと止まった。
「……なにやってんだオレ」
低く呟く。自分で自分に引いたみたいな声。
それでも、手は離れない。
(……本当に洗ってない)
喉が少しだけ渇く。
マサキは無意識に、リサの胸元が当たっていた辺りの内側へ指を滑らせた。
柔らかい布の感触。
「……っ」
反射みたいに手を止める。
自分が何をしているのか理解して、急に居心地が悪くなった。
(……キモ)
なのに、手放せない。
マサキはパーカーを握り直し、鼻先まで持ち上げかけたところで──ぴたりと止めた。
数秒。
リサが慌てて言っていた顔。
『洗わせてください』って、顔を赤くして必死に否定していた声。
あれを思い出した瞬間、指先の力が抜ける。
そのまま、ゆっくり腕を下ろす。
「……はぁ」
パーカーをベッドの端に置いて、天井を仰ぐ。
いつもの自分の服じゃないみたいに落ち着かなかった。
脳裏に浮かぶのは、袖を握っていたリサの姿ばかりだった。
マサキは数秒耐えてから、そのままベッドへ倒れ込んだ。
「……無理だろ、これ」
そう言葉にして、ようやく自分の中に落とす。
天井はさっきと同じ。でも、息だけは少しずつ落ち着いていく。
(次、あるのか)




