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27. カラオケ 後編 ~甘い匂い~

 時間の経つ感覚が、どこかで少し変わっていた。


 いつの間にか、曲がいくつか流れていた。

 マサキは少しだけ喉に違和感を感じる。その程度だった。


「ご、ごめん。歌わせすぎた?」


 マサキはマイクをテーブルに置いて、飲みかけのドリンクに手を伸ばした。


「……ちょっと休憩していいか」


 そう言いながら、息をつく。実際はそこまで疲れているわけでもない。


 リサは心配そうに


「う、うん。喉平気?」


 と覗き込む。


 マサキはしばらく無言で飲み物を一口飲む。それから、何気ないふうに言った。


「オレちょっと喉休めるから、次は如月さんで」


 リサはポテトパイを持ったまま、少しだけ眉をひそめた。


「あんな歌声聞かされたあとは歌いづらいよ」


 さらっと言いながらも、視線はリモコンの方には向かない。


「別に気にしなくていい」


「恥ずかしいから無理だよ」


「如月さんは気にしすぎだと思う」


 間が一拍だけ落ちる。

 リサはその"当たり前"みたいな言い方に、逆に言葉を詰まらせる。


「……気にするの」


 ぽつりと、確認みたいに言う。

 マサキは少しだけ視線を上げた。少しだけ間を置いたあと、いつもの調子で


「悪い、休憩は半分嘘。もう一回聞きたかっただけだ」


 その言葉が落ちた瞬間、リサの動きが一瞬だけ止まった。


「……は?」


 声は出てるのに、反応が一拍遅れる。

 マサキはいつも通りの顔のまま、グラスの水を一口飲んでいるだけだった。特別なことを言った自覚すらなさそうで、それが逆に質が悪い。


 ◇


 リサは視線を泳がせる。


(なにそれ……今の、ずるいんだけど……)


 頭の中で言葉がぐるっと回る。


『もう一回聞きたかっただけだ』


 シンプルすぎるのに、やけにまっすぐ残る。

 口を開きかけて、でも何も出てこなくて、そのまま頬を押さえた。


「……っ」


 小さく息を詰める。


(なにそれ、めちゃくちゃときめくんだけど……っ)


 心の中で叫んだのに、顔のほうが完全に追いついてない。

 熱が一気に上がる感覚に、慌てて視線をテーブルに落とした。


「いや……え、なにそれ」


 声が少しだけ裏返る。


 ◇


「歌うのは楽しそうだったから……ダメか?」


 その一言は強くも押しつけでもなくて、むしろ逃げ道まで残しているのに、なぜか断りづらい。


 ◇


 顔を押さえたまま、息が浅くなる。


「……もう」


 小さく漏れた声は、怒ってるというより完全に負けてる音だった。

 マイクを見て、それからマサキを見て、もう一度マイクを見る。

 そして観念したみたいに、ぽつりと。


「……1曲だけだからね。ほんとに」


 ◇     


 リサは選曲を決めて、息をひとつ吸った。


「……じゃあ、これ」


 入れた曲は、少し昔のバラード曲。

 誰でも一度は耳にしたことのあるタイプの歌だった。


 イントロが流れ始める。


 リサがちらっとこちらを見た。

 マサキは目を逸らさなかった。

 逃げるでもなく、構えるでもなく、ただ聴く姿勢のまま。


 リサは前に向き直して、歌い出す。


 最初のフレーズ。

 さっきよりも明らかに呼吸が整っている。

 ブレスの位置が一定で、言葉の頭が潰れない。

 母音が開きすぎず、でも息が混ざって柔らかく伸びる。


(あ……違う)


 マサキはそこで気づく。

 さっきの歌より、"音が崩れていない"ではなく――"音の置き方が分かってきている"。


 サビ前で一度だけ、声が軽く揺れる。

 でもそれは乱れではなく、ブレスの置き直しに近い揺れだった。


(今の、わざと戻した?)


 目を逸らせない。


 サビに入る。

 声量を上げても、音程の芯がずれない。

 高音でも押し出さず、喉で締めないまま上に抜けていく。


 さっきまであった不安定さが薄れ、代わりに歌い慣れた身体の動きが出ている。

 マサキはその変化を無言で追っていた。


(……さっきより、ちゃんと歌になってる)


 曲が終わる。

 静かになる。


 思わず拍手しそうになったが、柄じゃないと思い止めた。


「……こっちの方が、歌い慣れてる感じがする」


 リサはほんの一拍、固まる。

 それから慌てて口元を上げた。


「そ、そうなの。ママが好きな歌でね、昔から歌ってた」


 声は出ているのに、さっきより少し固い。

 そのままマイクを置いて、ドリンクに手を伸ばす。


「ちょっと喉乾いた」


 カップの表面には結露が浮いている。


 リサがドリンクを胸元まで持ってきて、一口――


 その瞬間、カップがわずかに滑る。


「あ」


 間に合わない。


『びしゃっ』


 冷たい液体が跳ねて、リサのキャミソールに広がった。


「つめたっ」


 湿った布が肌に張り付き、胸の輪郭をくっきりと映し出す。

 下着の色、形、なだらかな膨らみ、浮き出るライン――

 全部が薄い膜一枚越しに透けて見える。

 日焼けしていない肌の白さが際立つ。


「あー、やばい。奥まで入った」


 リサはカーディガンを急いで脱ぐ。

 布地はぴたりと肌に貼りつき、胸元やウエストのラインが露わになる。

 下着のホルダー部分が微かに浮かび、身体の凹凸がより鮮明になる。


 脱いだとき、重心移動に合わせて胸がわずかに揺れた。


 その動きのすべてが――


(エロ……)


 無意識にそう思ってしまった。


 瞬時に我に返る。


(いや、如月さんが大変なのになに考えてるんだ。黙ってジロジロ見るのも変だろ)


 動揺を抑え込んで、できるだけ平静を装う。


「拭くもの…」


 店に備え付けの箱ティッシュを差し出す。

 リサはそれを受け取り、頷いた。


「ありがとー」


 軽い声だったけど、顔は赤いままだ。


 リサはキャミソールの裾を持ち上げると、そこから手を入れて拭き始める。

 服の下から露わになった白い肌。


(さっきから、あっさり見せすぎだろ……)


 手が動くたびに胸が揺れる。

 服に浮かぶ下着のラインがより鮮明になり、腰や背中のシルエットまで見えてしまう。


 リサは視線の置き所を探すみたいに、目を逸らしていた。


(……すごい揺れてる。さっきあれにオレの顔が埋まってたのか…)


 如月さんの腕が動くたびに、胸元が動く。

 さっき"事故"で触れた感触が蘇る。

 温かくて、柔らかくて、すごくいい香りがした。


 さっきのは不可抗力だったとしても、今は自分で望んで見てしまっている。

 湿ったキャミソール越しに浮かび上がる肌。

 谷間、鎖骨、脇腹のライン。全部が生々しすぎる。


(……ほんとに高校生か、エロすぎる)


 無意識に喉が鳴る。

 理性では制御できなかった。


 マサキは視線を逸らそうとして、結局逸らしきれないまま固まる。

 喉の奥が、わずかに乾く。


「……如月さん」


 低く名前を呼ぶ。

 リサの手が一瞬止まる。


「ん?」


 マサキは一拍だけ黙る。

 言うべきか迷って、それでも口を開いた。


「オレので…イヤじゃなければ、パーカー貸すけど」


 リサは自分の服の状態を見下ろして、それから少し困ったように笑う。


「濡れちゃうからいいよ」


「濡れてもいいから言ってる」


「……でも、あたしが零しちゃったのが悪いんだし」


 その言い方は、わずかに無理をしている感じがあった。

 マサキは小さく息を吐く。


「オレが困るんだって」


 リサの動きが止まる。


「……困る?」


「さっきから目が離せない」


 言った瞬間、マサキ自身がほんの一拍遅れて飲み込む。


(……違う)


 喉の奥で、今の表現が引っかかる。

 本当は"目のやり場に困る"と言うつもりだった。

 なのに、先に出た言葉がずれていた。


(いや、何言ってんだ)


 "目が離せない"は、意図と違う方向に強い。

 見てしまっている、という意味になってしまう。


 リサの顔が一気に赤くなる。


「……は」


 マサキはすぐに言い直そうとするが、口が追いつかない。


(いや、"目のやり場に困る"だろ普通……)


 頭の中ではそう組み立て直しているのに、外に出す順番が崩れている。


「いや、今のは……」


 言いかけて止まる。


(説明した方が変になるやつだこれ)


 余計な沈黙が落ちる。

 リサは視線を逸らしながら、ぼそっと言う。


「え……見なきゃよくない?」


 マサキはわずかに考える。


(見なきゃいい、って話じゃなくて……)


 でも、そのまま言うとさらに変になる。

 結局、短く切る。


「見るなとか無理だろ」


 リサは完全に言葉を失う。

 顔を押さえる。


「……じゃあ、借ります」


 マサキは何も言わずにパーカーを脱いで差し出す。


「……ありがと」


「ん」


 ◇


 リサはパーカーを受け取って、ためらってから袖を通した。


(ま、松前くんの……脱ぎたて……)


 濡れたキャミソールの上から、ゆっくりと腕を通す。

 布が触れた瞬間、ひやりとした感覚がやわらぐ。


(……あったか)


 パーカーは思っていたよりずっと大きかった。

 リサの身長は松前くんとほぼ変わらないはずなのに、肩の位置が一段下がって見える。

 袖を通した瞬間から、手首どころか指先まで半分以上が隠れた。

 裾も余っていて、座ると膝の上にふわっと布がたまる。


(……これ、男の子の服だ)


 さっきまで"借りたもの"だったはずのそれが、急に現実の輪郭を持つ。

 リサは無意識に袖口をつまんだ。

 指先が布の中に埋もれる。


(なんか、落ち着く……)


 ほんのりと残る温もりと、わずかな匂い。

 それが妙にリアルで、さっきまでの距離の近さを思い出させる。


(う……これ、松前くんに抱きしめられてるみたい)


 ふと顔を上げると、松前くんと目が合いそうになって、すぐに逸らす。


「……借りるね」


 パーカーの前を軽く押さえながら、ソファに座り直す。

 袖をもう一度だけ軽く握る。


(……これ、返すのちょっとやだな)


 口には出さないまま、そう思った。


 ◇ ◇


 外に出ると、午後の光が低くなっていた。

 3時を少し回っている。

 カラオケの中にいる間に、空気の色が変わっていた。


(……終わりか)


 マサキは無意識にそう思う。

 約束はここまでだった。

 ちゃんと目的は果たした。歌も聴いたし、飯も食った。


 それなのに、妙な名残が残る。

 悪くない時間だった、という感覚だけがじわじわ残っている。


(……美味い思いはしたけど)


 そう思って、少しだけ自分に引っかかる。


 さっきまであった"ちゃんと楽しませないといけない"みたいな張りつめた意識は、もうほとんどない。

 代わりに残っているのは、妙な落ち着きと――

 まだ終わってほしくないような感覚だった。


 歩く速度が、少しだけ緩む。

 リサも何か言いかけて、やめる。

 一拍の間があってから、軽い声を落とす。


「このあとどうするー?」


 思考が止まる。


(……は?)


 意味の処理が遅れる。"このあと"。

 今の流れはもう終わったつもりだった。

 だから次がある前提でその言葉が出てくるのが、理解に引っかかる。


 マサキはわずかに黙る。

 視線だけが、如月さんへ向く。

 如月さんは普通の顔をしていた。

 さっきまでと同じテンションで、ただ"次"を聞いているだけの顔。


(……終わりじゃないのか?)


 そこで初めて気づく。

 自分だけが、勝手に区切っていたことに。

 喉の奥が、わずかに詰まる。


(いや……これ、どういう意味だ)


 返答が一拍遅れる。


「行きたいとこある?」


 リサが続ける。軽い声。重さはない。

 けれど、当然のように"続き"の前提がある。

 マサキはようやく口を開く。


「ど、どこでもいい」


 言葉が少しだけ固い。

 さっきまでの余韻がまだ抜けていない。

 リサはそれを気にした様子もなく、小さく頷いた。


 リサが少し考える顔をして、スマホを取り出しかけて、やめた。

 先に、聞く。


「映画でもいい?」


「うん」


 即答だった。

 迷いがないというより、考える前に口が先に動いた返事だった。


(ここで止める理由もないし、任せていい)


 そんな雑な判断だけで、流れに乗る。

 リサは少しだけ息を整えてから、


「怖いのでもいい?」


「ホラー?」


「…うん」


 一拍だけ遅れて返る。

 断る理由を探すというより、内容を軽く確かめてから落ちた返事だった。


 リサが少しだけ不安そうな顔をして、先に聞いた。


「ホラー好きな女の子って、やっぱり意外?」


「意外とかじゃなくて、オレが見たいのに合わせてくれてるんなら無理しなくていい」


「…ん?」


 リサはきょとんとした。


「いや、違うけど…普通に好きだよ、ホラー」


 少しだけ強めに言う。

 マサキはちらっと視線を向けた。

 少しだけ考えてから、


「本当に見たいのそれじゃないだろ。オレがホラー好きだってなんで知ってる?」


 自分でも言った記憶はない。

 リサは完全に止まった。


「……え」


 言葉がそのまま抜け落ちる。

 マサキはその反応を見て、わずかに目を細める。


「ほら。如月さん、気使うタイプだろ」


 決めつけるわけじゃない。

 でも、確信に近い言い方だった。

 リサは慌てて首を振る。


「違うって。ほんとに好きなの」


 マサキはすぐには返さない。


(本当に好きなのか?)


 少しだけ様子を見るような沈黙。

 そして口を開く。


「じゃあ、1番好きなホラー映画は?」


 頭の中でいくつかタイトルが浮かぶ。

 でも"1番"って言われると、急にハードルが上がる。


「……えっと」


 リサの視線がほんの少し泳ぐ。

 マサキはその様子を見て、わずかに間を置く。


「思いつかないなら、別に——」


「ちょっと待って急に1つなんて決められないよ」


 かぶせるように言う。

 少しだけムキになっている。


「スティーブン・キング原作のやつがとくに好き」


 そこから、止まらなかった。


「『ミスト』とか、『ペット・セメタリー』とか、『痩せゆく男』最後に後味の悪さが残るやつがたまらなくて。見た後にずっと引きずる感じ好き」


 少しだけ熱が上がる。


「『ペット・セメタリー』は主人公が本当に家族のこと愛してたんだなって冒頭ですごい描かれてるから、どれだけダメな行動しても責められないところが切なくてやばかった」


「あとシリーズだと、『ソウ』とか『ファイナル・デッド』繰り返し見ちゃう。ああいう…どうやって死ぬのかずっとハラハラさせるやつ。まさにホラーって感じ。ちゃんと前作と繋がりがあるのもシリーズならではなんだよね」


「ソウの1作目もだけど、キューブとか、低予算の密室スリラーも外せないと思ってて、怖さも大事だけど見せ方が上手いから好きっていう作品もあって、1番なんて決められないよ」


 言い終わったあと、リサは少しだけ息を吐く。

 恐る恐るこちらを見る。


 マサキは、少しだけ目を細めていた。


「……なるほど、オレに合わせてるわけじゃないな」


(さっきの話の熱量で分かった)


「楽しそうだった」


 その一言で、リサの顔が一気に赤くなる。


「……っ」


 視線を逸らす。


「……そりゃ、好きだし」


「じゃあ、ホラーにするか」


「松前くんはほんとにホラー好きなの?怖くてあたしに抱きついたりしない?」


「しない」


「残念」


 マサキは一拍だけ止まった。

 リサはもうスマホで上映時間を検索し始めていた。

 さらっと言って、さらっと画面を見ている。


(……冗談か……でも、如月さんは冗談でもこういうのは言わない気がする)


「ちょうどいいのあった。3時半からだって」


 リサがスマホを戻すと、そのまま何気なく手を伸ばした。

 指先が、マサキの手に触れる。


 思考が止まる。


(……)


 離すか、繋ぐか。その判断が一拍遅れる。

 頭の中に、いくつかの認識が同時に浮かぶ。


(可愛い女の子と出掛けてる)

(……これ、デートってやつか)

(デートなら、こういうのは普通……か?)

(前も一回、繋いだことはある)

(別に、嫌じゃない)


 それに加えて、もう一つ。


(……繋ぎたいとは、思ってる)


 ただ、そのままそれを"行動にしていい理由"が必要だった。

 断る理由は、どこにもない。

 むしろ、デートだと考えるなら――繋がない方が不自然に思える。


(誘われて来てるのに、拒むのは違うだろ)


 その考えが、最後に背中を押す。


 マサキは少しだけ息を吐いて、そのまま手を受け入れた。

 拒まない。

 握り返すほど強くもなく、逃がすほどでもない。

 ただ、そのまま並んで歩き始める。


 リサは借りたパーカーの袖を、もう一度だけ見下ろした。

 袖が余っていて、指が半分隠れている。


「それ、あんまり似合ってないな」


 リサはこちらを見た。


「なんでそんなひどいこと言うの?」


「今日のおしゃれが台無しだろ」


 リサは袖を軽く引いて、指先を少しだけ隠す。


「ほら萌袖。こういうのが可愛いんだよ、知らないの?」


「そうなのか」


 マサキはわずかに視線を落とす。

 袖に埋もれる指先。布の余り方。

 少し不器用に大きいサイズ。


(……なるほど)


「確かに、そう見えるな」


 リサはぱっと顔を上げた。


「でしょー?」


 さっきまでのむくれが消えて、少しだけ得意げになる。

 マサキはそのまま視線を外して前を向く。一拍。


「……でも」


 リサの動きが止まる。


「なに?」


 マサキは歩きながら、少しだけ言葉を選ぶようにして続ける。


「それも似合ってるけど」


 間。


「今日のために選んだ服の方が……その、似合ってたというか可愛かった」

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