22. 平日の午後 ~お邪魔してます2~
「外で食べるより、うちに来た方が誰にも見られないよ」
「……」
一瞬、言葉が詰まる。
(……それは、正しい)
確かに、正しい。
昨日の教室のことが、頭をよぎる。
「……いや、それはそうだけど」
でも、別の問題がある。
マサキは目の前の門を見上げて、それから隣のリサを見る。
こんなふうに、男を家へ入れることの意味くらい、分からないわけじゃないはずだ。
しかも、相手は自分みたいな男で。
もし本当に下心のあるやつだったら。
何かされる可能性だってある。
なのにリサは、そこを気にした様子がまるでない。
警戒心が薄いのか。
それとも――。
昼休みのことが、頭をよぎる。
(……いや、待て)
もし。
リサがこれも分かっててやってるなら。
男を家へ上げる意味も。
2人きりになる意味も。
全部理解した上で、自分をここまで連れてきたことになる。
それは。
――そういうふうに受け取られても仕方ない、ってことじゃないのか。
そこまで考えた瞬間、変に喉が渇いた。
視線が、勝手にリサへ向く。
夕陽のせいで、白い肌がやわらかく見えた。
門の前でこっちを見上げている顔は、いつも通りで。
無防備で。
警戒なんてしてないみたいに、普通に隣へ立っている。
そのせいで逆に、変な想像が止まらなかった。
他に誰もいない。リサと二人きりで。
ソファで、近い距離。
平気な顔で隣へ座ってきて。
『松前くん、こっち』
そんなふうに笑いながら、平気で隣を叩く顔まで浮かぶ。
そのまま、もっと近づかれたら。
たぶんまともじゃいられなくなる。
(……やめろ)
頭の中で否定するのに、止まらない。
もし、そこで腕を掴んだら。
細い手首なんか簡単に押さえられる。
ソファへ押し倒したらどうなる。
長い髪がクッションへ広がって。
さっきまで笑ってた顔が、一気に近くなる。
見上げてくる目。
耳まで赤くなって、困ったみたいに唇を噛むリサ。
でも。
逃げなかったら。
制服の上からでも分かる柔らかさとか。
押さえた身体の熱とか。
近すぎる距離で震える呼吸とか。
そんなところまで浮かんだ瞬間、喉の奥が熱くなる。
(……最低だ)
マサキは反射みたいに視線を逸らした。
なのに、隣のリサは何も知らない顔で、
「入んないの?」
なんて普通に聞いてくる。
たぶん本人は、そこまで深く考えてない。
でも。
考えてないなら、それはそれで危なすぎる。
「男女で、しかも2人きりで家とか」
言いながら、顔が少し熱くなる。
「普通に考えて、危ない」
リサはそのまま、距離を詰める。
「大丈夫だって」
軽く言う。
「変なことしないよ」
その一言で、マサキの思考が一瞬止まる。
(なんでオレがされる側なんだよ)
「オレがするだろ」
男なんだから。
目の前にこんなのいたら。
リサは目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「松前くんて、そういうこと言うんだ。ちゃんと男の人だね」
マサキは眉をひそめる。
「笑い事じゃ――」
「でもさ」
リサがそのまま言葉を重ねる。
「それ言ってる時点で、ブレーキかけてるでしょ」
「……」
「ほんとに下心あるなら、隠せばいいと思わない?」
夕陽の光が、リサの横顔へ落ちる。
さらっと揺れた髪が肩へ流れて、細い指がそれを耳へかけた。
止まろうとしてる。
それは事実だ。
でも。
「止まれなくなることだってある…」
リサはそこで初めて、真面目な顔になる。
「うん、大丈夫」
その言い方があまりにも自然で。
まるで最初から、そこは疑っていないみたいだった。
マサキは言葉に詰まる。
(いや、信用しすぎだろ……)
止まれなくなる想像まで、もうしてる。
勢いのまま抱き寄せて。
逃げ場なくして。
細い肩を押さえて。
泣きそうな顔。
いつもの笑顔じゃなくて。
困ったみたいに眉を下げて、唇を噛んで。
「やだ」って、小さく震える声。
その瞬間。
(……いや)
胸の奥が、すっと冷える。
無理だ。
そんな顔させるのだけは。
たぶん本当に無理だった。
マサキは息を吐いて、額を押さえる。
(よく考えたら、普通に無理だ)
想像の中では、やけに簡単に出来ていた。
そんなの、頭の中だけだ。
実際のリサは、今も目の前で無防備に立っていて。
夕陽を受けた髪が柔らかく揺れて。
こっちを見て笑っている。
その状態で。
もし本当に泣かせたら、と考えた瞬間。
胃のあたりが重くなる。
嫌がる顔を見た時点で、たぶん手が止まる。
いや、止まるどころか、その場で自己嫌悪だけして終わる。
そもそも。
リサに触れるたび、こっちは勝手に緊張してるのに。
押し倒すとか、無理に決まってる。
昼休みだってそうだ。
肩が近いだけで心臓うるさかったし。
間接キスひとつで、あんなに振り回されて。
それなのに。
想像の中だけ、一丁前に強引で。
現実では、リサに少し覗き込まれただけで言葉に詰まる。
(……ダサすぎだろ)
マサキは視線を逸らしたまま、息を吐く。
その横で、リサがじっと見ている。
「親、海外だし。誰もいないし」
その言葉が、妙にリアルに刺さる。
"1人暮らしなんだー"
"寂しいに決まってるでしょ"
「……」
断りづらい。
完全に。
しばらくの沈黙。
それから。
「……少しだけなら」
観念したみたいに言う。
リサの顔が、一気に明るくなる。
「やった」
本当に嬉しそうに。
そのまま、くるっと背を向けて門の方へ歩き出す。
「こっち」
軽く手招き。
マサキはその後ろ姿を見て――
一瞬だけ立ち止まってから、歩き出す。
(……マジで入るのか)
高い門をくぐる。
広い庭。
整えられた芝。
現実感が薄い。
(……世界違くね)
そんな感覚のまま。
リサの後を追って、家の玄関へ。
◇ ◇
玄関を抜けた瞬間から、マサキは落ち着かなかった。
(なんつーでかい家だ)
外観もそうだったが、中に入ると余計に実感する。
天井は高く、廊下はやたらと広い。
生活感があるはずなのに、どこか現実感が薄い。
「如月って、お嬢様だったんだな」
その言葉に、リサはくるっと振り返る。
「逆玉の輿狙えるよ」
いつも通りの調子で笑う。
(軽く言うなよ……)
「……狙わないよ」
即答するが、内心は落ち着かない。
「飲み物なにがいい?」
「……なんでもいい」
「適当に座って待ってて」
リサは安心したように笑って、キッチンの方へ消えていく。
その背中を見送って――
とりあえずソファに腰を下ろす。
深く沈む感触。
ふと、視線を横にずらしたとき。
ソファの端に、なにかが目に入った。
淡いピンクの布。
(……なんだこれ)
何気なく手を伸ばす。
指先でつまんで、持ち上げる。
軽い。
形を認識するまで、ほんの一瞬。
次の瞬間。
思考が止まった。
(……は?)
細い紐に、小さなレース。
淡いピンクの生地はやわらかそうで、端の方には白い花柄まで入っている。
しかも、妙に小さい。
布面積が少ないというか、全体的に頼りないというか。
可愛い。
可愛いけど。
(……し、下着?)
一気に手が止まる。
持ったまま、完全に固まる。
しかも近くで見ると余計にだめだった。
やわらかそうな生地とか、細いリボンとか、リサっぽい色とか。
変に具体的に想像できてしまう。
(なんでこんなとこに置いてあるんだ!?)
心の中で叫ぶ。
でも、声は出ない。
置け。
今すぐ置け。
そう思ってるのに、タイミングが完全に消えた。
そんなところへ――
「お待たせー」
リサの声。
近づいてくる足音。
振り返る間もなく、リサの視線が、マサキの手元に落ちた。
「……」
タイミング最悪にもほどがある。
(詰んでるだろこれ)
沈黙。
数秒。
空気が止まる。
リサの持っていたグラスが、かたん、と小さく揺れた。
◇
(……え、待って)
(松前くんが手に持ってるのって)
(朝……確か……え、最悪)
(置きっぱなしだったー!)
リサの顔が、じわじわ赤くなる。
耳まで一気に染まっていって、グラスを胸の前でぎゅっと抱え込む。
「……それ」
かろうじて出た声が裏返った。
でも続かない。
◇
マサキも、まだ下着を持ったまま固まっている。
視線が、手元へ落ちる。
改めて見るな。
いやでも見える。
白いレース。
細い紐。
小さな飾り。
しかもこれ、かなり可愛い。
……可愛いけど、ちょっとだいぶ危ない。
(どうすりゃいいんだこれ)
置くタイミングを完全に失っている。
戻すのも不自然。
かといって持ち続けるのはもっとまずい。
指先へやわらかい感触が残っているのが、余計に落ち着かなかった。
薄い生地。
小さなレース。
リボンまでついてるせいで、妙に"如月さんのもの"感が強い。
しかも、さっきから視界の端でリサが固まっている。
グラスを持ったまま。
夕陽の残った窓際で。
長い髪の隙間から見える耳まで真っ赤だった。
「……すまん」
マサキは観念したみたいに、息を吐く。
それから、ゆっくりと下着を差し出した。
リサははっとしたように動いて、一気に近づいてくる。
「ごめん!! ほんとごめん!!」
それを急いで回収し、両手で抱え込む。
顔は真っ赤。
耳まで赤い。
(最悪すぎる……死ぬ!!!)
内心で転げ回っている。
でも表ではなんとか取り繕おうとする。
「あ、洗ってる! 洗濯したから!」
言った瞬間、リサの動きが止まる。
ソファに放置されていた時点で、『洗ってる』はまるで説得力がなかった。
「……」
マサキは口を開きかける。
"洗ったとかじゃなくて……"
そこまで出かけて、止まった。
たぶんリサは、"使ったあとじゃないからセーフ"みたいな意味で言ってる。
でも問題なのはそこじゃない。
男の前に下着が置きっぱなしだったこと。
しかも、それを自分が拾って。
こうして手に持ったまま、細かいところまで見えてしまってること。
淡いピンクとか。
細いリボンとか。
妙に可愛いデザインとか。
見ようと思ったわけじゃないのに、目に入る。
入ったら、意識する。
しかも相手は如月さんで。
だから、"洗ってる"なんて言われると余計に困る。
気まずいのは清潔かどうかじゃない。
自分が意識してしまってることの方だった。
そこまで考えた瞬間、喉の奥が詰まる。
こんなの口にしたら終わる。
如月さんもたぶん無理だし、自分も無理だ。
だからマサキは視線だけ外したまま、
「……気にしてない」
短く言った。
リサはぴたりと動きを止めた。
腕の中へ抱えたままの下着。
レースの端が指の隙間から少しだけ見えていて、隠してるのに全然隠せていない。
そのまま、そろそろとマサキを見上げる。
怒ってない。
呆れてもいない。
笑ってもいない。
ただ、困らせないようにしてる顔だった。
「……ほんとごめん」
今度はさっきより小さい声。
マサキは軽く首を振る。
それ以上なにも言わない。
言ったら余計に意識しそうだった。
リサはしばらくその場で固まっていた。
どう隠せばいいのか分からないみたいに、腕の中でそれを持て余している。
耳まで赤いまま、視線だけが落ち着きなく揺れる。
(……やさし)
茶化さなかった。
変にニヤけたりとか。
イヤがったりとか。
そういう顔を一回もしなかった。
しかも、"洗ってる"なんて意味不明な言い訳まで、突っ込まず流してくれた。
たぶん気まずいのは松前くんの方も同じなのに。
困らせないように、わざと触れないでいてくれてる。
その感じが、余計にだめだった。
でも次の瞬間、
(いや違う今それどころじゃないから!)
一気に羞恥が戻ってきた。
リサは慌てて下着を背中側へ隠す。
やはり隠しきれてない。
レースが少し見えている。
「ちょ、ちょっと待ってて!」
早口でそう言って、逃げるみたいに廊下の奥へ消えていく。
ぱたぱたと慌ただしい足音。
そのあと、小さくバタンとドアが閉まった。
◇
静かになったリビングで、マサキは深くソファへ沈み込む。
さっきまでリサが抱えていた淡いピンクが、まだ頭に残っていた。
レース。
細い紐。
慌てた顔。
思い出した瞬間、変に体温が上がる。
「……なんなんだよ、もう」
誰に言うでもなく、小さく漏れた。
(……如月さん、ああいうの着けてるのか)
考えた瞬間、反射みたいに顔をしかめる。
やめろ。
そこまで考えるな。
なのに、一回浮かんだ想像が勝手に続いた。
あの淡い色。
ふわっとした生地。
リサの部屋に置いてあっても違和感ないような、甘いデザイン。
朝。
制服へ着替える前。
長い髪を肩へ流したまま、あの淡いピンクを手に取るリサ。
白い指で細い紐を引っ張って、確かめるみたいに眺めて。
そのまま鏡の前で――
「……っ」
マサキは勢いよく額を押さえた。
だめだ。
想像するな。
でも、昼休みからずっと距離が近かったせいで、変に現実感がある。
焼きそばパンを差し出してきた。
"間接キスだー"って笑ってた。
門の前で、"大丈夫だって"って近づいてきた。
それがさっきの下着姿で合成される。
(無理だろ……)
喉が変に渇く。
しかもリサは、自分がどれだけ危ないことをしてるのか分かってるのか怪しい。
男を家へ上げて。
二人きりで。
下着まで放置して。
なのに本人は、たぶん本気で悪気がない。
そこまで考えたところで、マサキはソファへ深く沈み込んだまま天井を見る。
「……ほんと無防備すぎるだろ」
その声は、自分へ言い聞かせてるみたいでもあった。
しばらくして。
ドアが、そっと開く。
「……お待たせー」
リサが戻ってくる。
さっきより落ち着いた声。
でも――
顔はまだ赤い。
耳もほんのり染まっている。
何事もなかったみたいに振る舞おうとしているのが、逆に分かる。
マサキはそっちを見て、
「……ん」
短く返す。
目を合わせないまま、テーブルの端へ視線を置く。
そこで初めて、飲み物を渡さずに逃げたことへ気づいたのか、リサの動きがぴたりと止まる。
「あ……」
漏らしてから、誤魔化すみたいにグラスをマサキの方へ差し出した。
「えっと……コーラです」
その拍子に、距離が近づく。
さらっと髪が肩から流れて、甘い匂いがふわっと近づいた。
思わず、リサがさっきの下着を着けているところを思い浮かべてしまった。
「……」
マサキの思考が、一瞬だけ止まる。
(……なに考えてんだ、本人の前で)
逃げるみたいにコーラを受け取って、一口飲む。
炭酸の刺激が喉へ抜けて、少しだけ呼吸が戻った。
(……落ち着け)
リサはちらっとその様子を見てから、
「……さっきの、ほんとにごめんね」
静かに言う。
「……別に」
マサキは視線を合わせないまま答える。
するとリサは、少し迷うみたいに動きを止めてから、そのまま隣へ腰を下ろした。
ソファが沈む。
肩が触れるほどではない。
でも、近い。
(……くっつくな)
そんなことを思うくせに、離れろとは言えない。
リサは横目でマサキを見て、
「晩御飯、なに食べたい?」
ぽつりと聞いた。
「あるものでいい」
そう答えると、リサはきょとんとしてから、
「あるもの?」
首を傾げる。
揺れた髪が頬へかかって、それを指先で耳へ避ける仕草がやけに自然だった。
マサキは言葉に詰まる。
(……手料理じゃないのか?)
自然と、そう思っていた。
この家に来た時点で、なんとなく――
リサは「あー……」と声を漏らす。
どうやら気づいたらしい。
「とくに準備してなかったから、大したもの作れなくって。出前にしようかなって思ってたんだけど」
軽い調子で言う。
「大したものじゃなくていい」
マサキは間を置かずにそう返した。
リサが、ぴたりと動きを止める。
「あたしが作ったの食べてくれるってこと?」
声が、ほんの少しだけ上ずる。
マサキは言葉に詰まる。
(……なんだその聞き方)
視線を逸らしたまま、息を吐く。
「オレは最初からそのつもりで来てたんだけど」
「……っ」
リサの頬が、また少し赤くなる。
膝の上で指先がきゅっと揃う。
(なんでそんな普通に言うの……)
「じゃ、ちょっと待ってて」
それだけ言い残して、ぱたぱたとキッチンへ消えていった。
◇
その背中を見送ったあと、マサキはソファへ深く座り直す。
まだ頭の奥に、さっきの淡いピンクが残っていた。
炭酸を一口飲む。
冷たい。
でも全然落ち着かない。
キッチンの方から、戸棚を開ける音がした。
何気なくそちらへ視線を向ける。
リサはまず長い髪を後ろへ流した。
細い指で髪をまとめて、慣れた手つきでヘアゴムを口に咥える。
さらり、と明るい色の髪が肩を滑って、白い首筋が覗いた。
そのまま後ろでひとつに結ぶ。
結ばれた髪が、小さく揺れる。
次に、リサは制服の上からエプロンをふわりと身につける。
腰の後ろへ腕を回し、紐を結ぶ仕草も自然だった。
結び終えると、息を吐いて、そのままキッチンへ向き直る。
(……いいな)
ぽつりと浮かんだ感想に、自分で少し困る。
豪華な家とか。
広いリビングとか。
そういうのよりも。
髪を結んで。
エプロンを着けて。
当たり前みたいに台所へ立つ姿の方が、妙に目に残った。
フライパンに火を入れる音。
油のはじける小さな音。
静かな部屋に、それだけがゆっくり響く。
マサキはソファへ座ったまま、その音をぼんやり聞いていた。




