休日の午後 ~高嶺の花なのに近い3~
リサは歩きながら、ふと足を止めた。
「……なに」
マサキも止まる。
振り返ったリサが、少しだけ不満そうにマサキを見る。
「後ろ歩かれると、置いていってるみたいで落ち着かないから、横来てくれる?」
人混みの中でそう言われると、断るほうが変みたいだった。
(いやでも、近いんだよなこの人……)
リサの隣を歩くと、距離感が全部おかしくなる。
肩とか、髪とか、匂いとか、そういうの全部が近すぎて、意識しないほうが無理だった。
「学校のやつに見られると面倒じゃん……」
小さく返すと、リサの目が少し落ちた。
「あたしの隣歩くの、そんなにイヤ?」
責める声ではなく、少し拗ねたみたいな言い方だった。
少しだけ前屈みになって、下から見上げてくる。
薄い色の唇がわずかに尖って、睫毛の影が揺れた。
(いや、それは反則だろ……っ)
ただでさえ正面から見られるだけで処理が追いつかないのに、少し下から覗き込まれると、目の逃げ場がなくなる。
目が合う。
近い。
睫毛の影まで見える。
しかも、怒っている顔じゃない。
少しだけ唇を尖らせて、拗ねているみたいな顔で見上げてくる。
女の子の甘え混じりの表情なんて、どう受け止めていいか分からない。
そんな顔をされたら、嫌だなんて言えるわけがなかった。
(いや、違う。嫌とかじゃなくて)
嫌なわけがない。
そこは最初から違う。
ただ、リサの隣を歩くということが、マサキの中では簡単な話ではなかった。
横に並ぶ。
同じ歩幅で歩く。
休日の通りを、二人で歩いているように見える。
その相手が自分でいいのか、というところで思考が止まる。
なのにリサは、そこを飛ばしてくる。
そんなふうに下から見上げて、「そんなにイヤ?」なんて聞いてくる。
イヤだと言えば、リサを傷つける。
イヤじゃないと言えば、リサの隣を歩きたいみたいになる。
いや、歩きたくないわけじゃない。
頭の中で否定が絡まって、どれからほどけばいいのか分からない。
たぶんリサは、自分が今どれだけ破壊力のあることをしているか分かっていないように見える。
無自覚でそれをやるのは、さすがにひどい。
「いや、その……そういうつもりじゃ」
うまく言葉が出ない。
(如月さんが嫌な思いするかもしれないって話なんだけど……)
マサキは小さく息を吐いた。
「……別に、イヤじゃない」
それを聞いた瞬間、リサの顔がぱっと明るくなる。
「やった」
その笑い方が妙に無防備で、マサキは前を向いたまま隣へ並んだ。
しかし。
(近い)
思ったより近い。
肩が触れる寸前の距離で、人混みのせいではなく、リサが当たり前みたいに近かった。
マサキが少し横へ避けると、リサも同じ分だけ寄ってくる。
(なんでだよ)
もう一歩離れても、また寄ってくる。
(磁石か?)
歩幅を速めても、リサはぴたりと隣についてくる。
耳元で髪が揺れるたびに甘い匂いが掠めて、集中力が削られていった。
「き、如月……」
思わず口から出た。
「なぁに?」
リサが首を傾げる。
その動きで髪がさらりと流れて、耳元の小さなピアスが光った。
(……可愛いな)
反射的にそう思ってしまって、マサキは自分で嫌になる。
「近い」
短く言うと、リサは一瞬きょとんとしてから、ふっと笑った。
「松前くんだってさー、いま呼び捨てにしたよね。急に距離縮めようとしてくるじゃん」
マサキの動きが止まる。
(……やば)
完全に無意識だった。
「……それは……ごめん」
小さく謝ると、リサは楽しそうに肩を揺らした。
「呼び捨てでいいよー。下の名前でもいいし」
「いや……」
反射で否定しかけて、マサキは言葉を飲み込む。
如月さん、と呼ぶだけでもまだ慣れていない。
それなのに、下の名前で呼ぶなんて、距離の詰め方がおかしい。
しかもリサは、それをなんでもないことみたいに言ってくる。
そもそも今は、横に並んで歩くだけで処理が追いついていない。
少し離れても同じ分だけ寄ってくるし、肩が触れそうな距離をリサは当たり前みたいに保ってくる。
そのまま少し目を落としてから、呟く。
「あのさ……如月さんって、その距離感で男と喋ってたら危なくないか……?」
リサはむっとしたように唇を尖らせる。
「違うって。松前くんがいっつもイヤホンしてるから、呼んでも気づいてくれないんじゃん。それに声小さいんだもん。この距離じゃないと聞こえないの」
「あ……ごめん、オレのせいか……」
マサキは思わず肩を落とした。
(オレ、勝手に勘違いしてたのかよ……)
リサはそんなマサキを見ながら、少しだけ笑う。
「そーそー、別に誰にでも近いわけじゃないから。松前くんだけだから」
さらっと言われたのに、その言葉だけが残った。
(……誰にでもじゃない)
頭の中でそこだけ繰り返される。
(いや、待て。イヤホンしてんのオレくらいだからって意味だ。そういう話だろ)
自分で自分に言い聞かせながら、マサキは耳のイヤホンに触れた。
「……じゃあ外す」
そう言ってイヤホンを抜こうとした瞬間、リサの目がほんの少しだけ揺れた。
「いや待って」
リサが慌てたように腕を掴む。
そのままぐいっと引かれた。
むにゅっ。
「…………っ!?」
腕に、柔らかいものが押し当たった。
一瞬、なにが起きたのか分からなかった。
けれど、腕に伝わるふにふにとした弾力と熱で、状況はすぐに理解できた。
(いや待て待て待て待て)
リサの胸の間に、腕が完全に埋まっていた。
柔らかい。
柔らかすぎる。
しかし、リサが焦ったまま腕を掴んでいて、どう動けばいいのか分からなかった。
引き抜こうとするたびに感触が変わって、頭が真っ白になる。
(これは近いとかそういうレベルじゃない……っ)
「イヤホンそのままでいいっ」
リサが焦ったみたいに言う。
その動きでさらに押し当たって、腕の感覚がおかしくなる。
「い、いや……いいから」
引き抜こうとする。
けれど、リサが反射的にまた引き寄せた。
(終わった)
温かさが腕を包み込む。
「いや、さすがに、これは……まずいって」
声が裏返りそうになる。
離そうとすればリサはさらに力を加えてきて、余計に危険だった。
「無理だってっ」
耐えきれず、マサキは一気に腕を引き抜いた。
急に腕が離れたせいで、リサの身体が小さく揺れる。
解放された胸が波を打つみたいに揺れて、マサキは反射で顔を逸らす。
(見んな見んな見んな)
耳にイヤホンを押し込み、音量を上げる。
けれど、腕に残った感触だけは全然消えない。
(落ち着け……落ち着けって……)
リサがなにか言っているのは見えたが、音楽で聞こえなかった。
マサキがちらっと横を見ると、リサが真っ赤な顔のまま必死になにか伝えようとしていた。
(怒ってる……?)
その瞬間、リサの顔が一気に近づいた。
耳元に吐息がかかる。
「……っ!」
肩が跳ねる。
(近っ……!)
耳が熱くなり、リサの唇が動くたびに呼吸が掠める。
耐えきれず、マサキはイヤホンを片方外した。
「……なに」
自分でも驚くくらい声が掠れていた。
「ごめんなさい」
リサは耳まで赤い。
マサキは少し黙ってから、イヤホンを手の中で握った。
(……なんなんだよ、ほんと)
「……別に」
ようやくそれだけ返す。
「許してくれる?」
その言い方が妙に弱くて、マサキは前を向いた。
「……別に、怒ってない」
リサが少しだけ近づく。
「ごめんなさい、ちょっとやりすぎた……」
マサキは息を吐いた。
「……わざとかよ」
「い、いや。さすがにわざとじゃないよ」
マサキは少しだけ眉間に力を入れる。
「……だろうな」
(この子があんなことわざとやる意味ないし……)
そこまで考えて、ふと止まる。
じゃあなんで、あんな必死だったんだ。
「じゃあ、なんでだよ」
リサの指先がスカートの裾を摘まむ。
少し黙ってから、
「……近づきたかったから」
静かに落とした。
マサキの呼吸が止まる。
「それは、理由になってないけど?」
「松前くん、すぐ距離取るじゃん。後ろ歩くし、近づいたら逃げるし……」
リサは少しだけ困ったみたいに笑った。
「イヤホン外しちゃったら、近づく口実なくなっちゃうでしょ……だから、多少強引にでも止めなきゃって」
「あのな、だからって誰にでもああいうのは……」
「誰にでもしてないってば」
即答されて、マサキは喉が詰まる。
「オレにだけって言い方はやめてくれ」
自分でも驚くくらい弱い声だった。
「それ、どういう意味だよ」
リサはすぐ答えず、少しだけ唇を噛んでから口を開いた。
「そのままの意味だよ。他の人には、ああいうことしない」
「……じゃあ、なんでオレなんだよ」
「さっき言ったじゃん。松前くんのこと気になるって」
マサキは言葉を失った。
「それは冗談で言ったんだろ」
リサはすぐには返せなかった。
いつもの松前くんなら、こんなふうに人の言葉を流したりしない。
ちゃんと聞いて、受け止めて、返してくれる。
冗談みたいに扱わない。
なのに、
気になる。
近づきたい。
そういう言葉だけ、松前くんの中で別のものみたい。
(……なんで?)
分からない。
でも、今ここで強く言ったら、きっとまた困らせる。
リサは小さく息を吸って、できるだけ軽い声にした。
「松前くんが勝手にそう解釈したんだよ」
マサキには、あっさり返されたように聞こえた。
けれど、その言葉を本気として受け取るには、マサキの中で越えなければいけないものが多すぎた。
如月さんは可愛い。
綺麗で、優しくて、学校でも目立っていて、読者モデルまでしている。
そんな人が、自分に向けて「気になる」と言う。
それを、そのまま受け取るなんて無理だ。
本気だと認めた瞬間、自分はその言葉を向けられた側になる。
リサが、ほかの誰でもなく自分に向けて近づいている、という話になる。
そこが、マサキの中ではどうしても繋がらなかった。
冗談。
距離が近いだけ。
誰にでも優しいから。
からかっているだけ。
自分が勘違いしているだけ。
どれかにしないと、処理できない。
リサの言葉を疑っているわけじゃない。
たぶん、そこじゃない。
ただ、自分がその言葉を向けられる相手だと認める方が、ずっと難しかった。
「……それ、オレにどうしろって話だ」
リサは少しだけ目を伏せた。
「どうもしなくていいよ。ただ……そばにいたいだけ」
マサキは完全に動けなくなる。
(わけが分からなすぎる)
人通りの多い歩道で、横を誰かが通り過ぎていくたび肩が掠めそうになるのに、マサキの意識は隣のリサに引っ張られたまま動かなかった。
リサは前を向かない。
さっきまで耳まで熱くなっていたくせに、今は妙に静かな顔でこっちを見ている。
『……そばにいたいだけ』
その声だけが、不自然なくらいすっと耳に残った。
(……いや、それって、どういう意味で。なんでそんな簡単に言えるんだよ)
マサキは喉を鳴らす。
うまく息が吸えない。
「オレの理解の範囲外なんだけど」
やっと出た声は、自分でも驚くくらい小さかった。
リサは少し困ったように笑った。
「うん、そうだよね」
否定せず、冗談っぽく誤魔化しもしない。
そのまま受け止めるみたいに頷かれて、マサキのほうが逆に目を彷徨わせた。
(なんなんだよ、この人……)
もっと軽く返されると思っていた。
ノリみたいな感じで流されると思っていたのに、リサは変に真面目な顔のままでいる。
その沈黙が落ち着かない。
「あ、あの……松前くんがイヤなら止めるよ? さっきみたいなことも、またしちゃうかもだし」
(さっきみたいなこと)
瞬間、腕の感覚がぶり返す。
『むにゅっ』
柔らかかった。
温かかった。
引き抜いた瞬間の揺れまで思い出してしまって、マサキは反射的に顔を背けた。
(いや思い出すなっ)
耳まで熱くなる。
「……いや、それは」
言葉が途中で止まる。
(止めなくていいって言ったらアウトだ、ああいうのを期待してるって思われる。いやでも、止めろって言ったらなくなる)
頭の中で考えがぶつかり、整理しようとするたび余計にぐちゃぐちゃになる。
マサキはちらっとリサを見る。
リサはさっきより少しだけ肩を縮めていて、指先でスカートの裾をつまんでいた。
その仕草が妙に子供っぽく見えて、さっきまでの距離感バグった感じと繋がらない。
マサキは小さく息を吐いた。
「……あのさ」
リサが顔を上げる。
「それ、オレがイヤって言ったら本当にやめるのか?」
「うん」
即答だった。
「やめてほしいなら、やめるよ」
迷いがない。
本当に、マサキが嫌だと言えば引くつもりなのだと分かる。
その返事に、マサキのほうが言葉を失う。
(もっと押してくると思ってた)
あんな距離で迫ってくるくせに、腕を抱え込むみたいなことしてくるくせに、止めろと言われたら止まる。
それが妙に引っかかった。
「しつこくして嫌われるのが1番イヤだからね」
リサはそう言って、小さく笑った。
さっきみたいな明るい笑い方じゃなく、誤魔化すみたいに口元だけ少し上げる。
マサキは何も返せなくなる。
(嫌われるのがイヤって、なんでオレにそんなこと)
そこまで考えて、また止まる。
リサは待っていた。
急かさない。
でも、逃がさないみたいに隣を歩いている。
「……オレは」
声が掠れる。
「女とか慣れてないから……そばにいたいって言われても、どう受け止めていいか分からない」
リサはすぐには返さなかった。
指先が、スカートの裾から少しだけ離れる。
(そっか…別に、本気で冗談にしたいわけじゃないんだ。受け止め方が分からない…それだけなんだ)
胸の奥で、きゅっと固まっていたものが少しだけ緩んだ。
(なんだ。やっぱり、ちゃんと返してくれる人じゃん)
笑って流されたわけじゃない。
軽く扱われたわけでもない。
ただ、『気になってる』『そばにいたい』と言っただけで、マサキはここまで困っている。
(……告白とか、焦ったら絶対だめだな)
好きだと伝える前に、まず女の子が近くにいることに慣れてもらわないといけない。
たぶん、そこからだ。
急に踏み込んだらマサキは逃げる。
それなら、少しずつ近くにいるしかない。
リサは小さく頷いた。
「うん」
マサキは前を向いたまま続けた。
「まぁ、でも……如月さんを嫌うってことはないと思う。いい子だっていうのは分かるから」
言ったあとで、自分でも妙なことを言った気がした。
もっと他に言い方あっただろ、と遅れて頭を抱えたくなる。
けれど、隣のリサの動きがぴたりと止まる。
「……いい子」
小さく繰り返す。
その声が少しだけ震えていて、マサキは反射的に横を見る。
リサは俯いたまま、唇をぎゅっと閉じていた。
長い睫毛の先がわずかに揺れる。
それから、ふっと肩の力を抜くみたいに笑った。
「……えへへ」
照れたみたいに頬を指先で掻く。
その仕草が妙に自然で、マサキは一瞬言葉を失った。
(……可愛い)
また思ってしまう。
しかも今度は誤魔化しが効かないくらい、はっきり。
「松前くんてさ、女の子に慣れてないって言うわりに、そういうこと平気で言うよね。なんかいちいち刺さるんだけど」
「……は?」
間抜けな声が出る。
「いや、どこが」
即座に否定すると、リサはくすっと笑った。
「無自覚こわいなぁ」
そう言って、少し前を指差す。
「お店ここー」
ガラス張りの小さなカフェ。
木目の看板と、やわらかい色の照明が外まで漏れている。
自動ドアに映った二人の姿が、並んで止まった。





