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20. 休日の午後 ~繋いだ手2~

 一方、マサキはイヤホンをつけたまま、スマホを見ていた。


(……行くタイミング、完全に逃した)


 視線はスマホに落としたまま。

 でも意識は完全にそっちに向いている。


(でも…変な絡まれ方したら、さすがに……)


 助けに入るか。

 そんなことまで考えていた、その時。


「えー、見られてたの?恥ずかしー」


 指が止まる。


(やっぱり……オレと一緒にいたなんて、バレたら……恥ずかしいか……)


 胸に、妙な引っかかりが残る。

 しかし、リサの続けた言葉――


「あたしが松前くんにあーんとかしてるところも見られてたのかぁ」


 思考が一瞬で止まる。


(なんでそれ言う!?)


 心臓が強く跳ねる。

 さきほどの男子が、眉をひそめ「ふーん……」と呟き、マサキの席へ向かう。


(……来るなよ)


 マサキは内心で思う。


(そういうの、如月さんが気にするだろ)


 でも顔は上げない。

 足音が近づく。


「おい松前」


 呼ばれる。

 マサキはゆっくり顔を上げた。


「……なに」


「こっち来て話まざれよ」


 その時、リサの声がはっきり響いた。


「待って、やめて!松前くんこういうノリの話苦手なんだって」


 マサキは視線を横にずらす。

 リサと目が合う。

 困った顔で、申し訳なさそうにしていた。


(……はぁ)


 小さく息を吐く。

 逃げることもできる。

 でも。


(この件に関しては、無視するのもな……)


 マサキはイヤホンを外して、立ち上がる。

 さきほどの男子が、あからさまに不機嫌そうな顔で口を開いた。


「お前さ、なんなんだよ。新学期からずっと如月さんに付きまといやがって」


 その言い方は、完全に敵意が混ざっている。


(そりゃそうだよな。如月さん、人気だし……。一緒にいたい人は多いよな)


 特に反論する気もなく、ただ受け流そうとした、その時。


「違うよ、あたしが誘ったの」


 リサが割って入る。


「松前くんは悪くないから」


 男子は肩をすくめる。


「如月さんさ、なんでこんな陰キャっぽいヤツと一緒にいるわけ?」


 男子は苦笑いみたいな顔のまま続ける。


「ていうかさ、松前ってそういうの本気にしそうじゃん」


 その言葉で、リサの表情がぴたりと止まった。

 男子は気づかないまま、軽い調子で肩をすくめる。


「如月さん優しいから、相手してやってるだけなんだろうけど……あんま期待させるの可哀想じゃない?」


「なっ……」


 一瞬だけ、リサの呼吸が止まる。

 胸の奥がぎゅっと縮むみたいに痛くなる。

 

 次の瞬間には、リサは笑顔を崩さなかった。

 周りの空気まで重くなるのは嫌だったし、なにより――松前くんを"可哀想な側"みたいにされたままにしたくなかった。

 だから、リサは小さく笑ってみせる。


「えー、それ逆だよー。あたしの方が相手してもらってるっていうか、押しかけてる感じだもん」


 さらっと言う。

 重くならないように。

 でも冗談にも聞こえないように。


 その絶妙な言い方のせいで、クラスの空気が逆にざわついた。

 それでも笑顔は崩さない。

 男子は一瞬だけ言葉に詰まったあと、誤魔化すみたいに苦笑した。


「ふーん……どうせからかって遊んでるだけだと思うけど、ほどほどにしないと変な噂たっちゃうよ?」


 その言葉で、リサの笑顔がほんの少しだけ止まる。

 その隙を埋めるように――


「如月さん、そんなことする子じゃないけど」


 マサキの声が、静かに落ちた。

 大きくもない。

 強くもない。

 でも、はっきりと届く声。


 男子が眉をひそめる。

 教室のあちこちから小さなざわつきが漏れる。

 さっきまで半分面白がっていた空気が、少しだけ変わった。


「否定するとこそこなんだ」


「自分じゃなくて如月さんの方」


「でも確かに如月さんって、人を弄ぶとかはしないよね」


「あれ信じてないと出なくない?」


 ひそひそとした声が広がる。


「……チッ、なんだよその態度」


 吐き捨てるように言うが、さっきまでの勢いはない。

 男子が自分の席に戻るのを、マサキは視線だけで追ってから踵を返す。


 その途中。

 リサの横を通るとき、ほんのわずかに足を止めて。

 視線は向けないまま。


「……気にしなくていい」


 小さく、それだけ。

 リサにだけ届く声。

 そしてそのまま、何事もなかったかのように自分の席へ戻っていく。


 ◇


 リサは、その場に立ったまま動けなかった。


(如月さん、そんなことする子じゃないけど)


(気にしなくていい、って……)


 さっきの言葉と、今の一言。

 胸の奥が、じわっと熱くなる。


(なにそれ……そういうの、さらっと言うの)


 指先が震える。


(カッコ良すぎなんだけど……!?)


 気づけば、また――

 マサキの背中を、目で追っていた。


 ◇ ◇


 教室のざわめきは、さっきの一件をきっかけに、少しだけ方向を変えていた。


「朝のあれさ、普通にかっこよくない?」


 女子の一人が、少し興奮気味に言う。


「分かるー。静かに言い返す感じいいよね」


「普段あんまり喋らないのにさ、ああいう時だけしっかり言い返すの」


「松前くん、ギャップやばいよね」


 小さな輪の中で、声が弾む。

 その中心にいるのは――リサだった。


「ね、かっこよかったよねー」


 いつも通りの笑顔で、軽く頷く。

 その一言に、女子たちのテンションが少し上がる。


「ちょっと見方変わっちゃうよね」


 次々と肯定の声が重なる。


(……うん、だよね)


 胸の奥が、温かくなる。


(松前くん、カッコいいもん)


 さっきの姿を思い出して、自然と頬がゆるみそうになる。

 でも、その直後。

 ふと、違和感に気づく。


 その"温かさ"の中に、別の感情が混ざっている。

 ざらりとした、なにか。

 女子たちはまだ続ける。


「ああいうタイプ好きな人は好きそう」


「ね、今日の見てちょっと気になったもん」


 その一言で――

 胸の奥が、ぎゅっと締まる。


(……やだ)


 さっきよりも、はっきりした感情。


(なんで、あたし以外が)


 視線は笑ったまま。

 声も、いつも通り。


「ねー、分かる」


 ちゃんと合わせる。

 でも内側では。


(松前くんは――)


 言葉になりかけて、止まる。


(……あたしのなのに)


 その瞬間。

 自分で、自分の思考に息を呑んだ。


(え……なにそれ)


 一気に顔が熱くなる。


(違うでしょ、あたし何考えてんの……)


 まだ何も始まっていない。

 付き合っているわけでもない。

 なのに。


(あたしの、とか……重すぎでしょ)


 自己嫌悪が、じわじわ広がる。

 でも。

 女子の声は止まらない。


「ちょっと話してみたいなー」


「優しそうだし、顔も悪くないもんね」


 リサは、少しだけ息を吸って。

 ちゃんと、笑った。


「うん、優しいよ」


 迷いなく言う。


「落ち着いてるし……」


 自然に、言葉が出る。


(……この中じゃ、あたしが一番松前くんのこと知ってる)


 そう思って。

 少しだけ、誇らしい気持ちになる。

 同時に。

 胸の奥が、きゅっとなる。


(なんで、あたし……)


 嬉しいはずなのに。


(教えたくなかった……松前くんがカッコイイこと)


 小さな後悔が、滲む。

 でも、もう遅い。

 笑い声が続く中で。

 リサは一度だけ、教室の端へ視線を向ける。

 イヤホンをつけて、何も聞こえていない顔で座っているマサキ。


(……あたし、なにやってるんだろ)


 褒めて。

 広めて。

 評価が上がって。

 それを嬉しいって思って。

 なのに――


(取られるみたいで、やだって思ってる)


 矛盾した感情に、胸がざわつく。

 それでも。

 目を逸らせない。


(……でも)


 小さく、息を吐く。


(カッコいいのは、ほんとだし)


 その事実だけは、どうしても譲れなくて。

 リサはまた、いつも通りの笑顔を浮かべた。

 胸の奥のぐちゃぐちゃを、誰にも見せないまま。


 ◇ ◇


 昼休みが終わったあとの教室は、少しだけ気怠い空気が残っていた。

 窓際では数人が机を寄せたまま雑談していて、後ろの席ではスマホを見ながら笑い声が上がっている。

 その中で、マサキだけはいつも通りだった。

 窓際の席。

 片耳にイヤホンをつけたまま、スマホへ視線を落としている。


 リサはそれを横目で確かめてから、机の横まで行って、少し屈むみたいにしながら声をかける。


「ねぇ、松前くん」


 リサが近づいた瞬間、ふわっと甘いシャンプーの匂いが混ざった。

 マサキの視界の端で、さらりと髪が揺れる。

 制服の袖から伸びた白い指先が机に軽く触れていて、その何気ない仕草まで妙に目についた。


 しかもリサは、声をかける前から少し嬉しそうにしている。

 目元がやわらかくて、口元がほんの少し緩んでいて。

 "話しかけにきた"ってだけなのに、ちゃんと特別みたいな空気を持ってくる。

 そのせいで。

 マサキの心臓が、無駄に一回跳ねた。


(……近い)


 しかも可愛い。

 いや前から知ってる。

 知ってるけど、近距離で不意に来られると普通に困る。

 マサキの睫毛がわずかに動く。

 それから数秒遅れて、イヤホンが片方だけ外された。


「……どうした」


 なるべく平静を装った声。

 でも内心では、リサに話しかけられた時点で少し嬉しい。

 来てくれた。

 しかも、なんか楽しそうだ。


 その事実だけで、思っていたよりずっと気分が浮いてしまう。

 だから余計に、顔には出したくなかった。


「朝のやつさ、女の子の間で話題になってたよ」


 マサキの眉がほんの少しだけ動く。


「……話題?」


「うん。カッコ良かったって」


 できるだけ軽く言う。

 わざと大袈裟にはしない。

 でも、言ったあと少しだけマサキの顔を覗き込む。

 どんな反応するかな、って。


 マサキはすぐには返さなかった。

 スマホを持ったまま、数秒止まる。


「……そうなんだ」


 短い。

 あまりにも普通。

 リサの方が拍子抜けして、目をぱちぱちさせる。


「もっとなんかあるでしょ、普通」


「……別に」


 マサキは視線をスマホへ戻したまま、小さく息を吐く。


「オレがどう思われようが、関係ないし」


 淡々とした声。

 でも、少しだけ返事が遅かった。

 リサはそこを見逃さない。


「ちょっとは嬉しいとかあるでしょ?」


「……あんまないかな」


 即答しかけて、途中で少し止まる。

 マサキはぼそっと付け足した。


「……悪い気はしないけど」


 リサは思わず笑いそうになる。

 素直じゃない。

 でも、完全否定もしない。

 そういうところがずるい。


「でも女子の中で株上がってたんだよ?松前くんやっぱりモテるよ」


 その瞬間。

 マサキの指が止まる。

 スマホを持つ手が、ほんの少しだけ固まった。


「それは……やめてほしい」


「え、なんで?」


「目立つのめんどくさいだろ……」


 本気で嫌そうだった。

 リサはくすっと笑う。

 でも、その言い方の奥に、変な照れが混ざってるのも分かる。

 だから、もう少しだけ踏み込みたくなる。


「……あ、ねぇ」


 マサキがまたイヤホンを外す。


「なに」


 リサは一回だけ唇を閉じる。

 少しだけ鼓動が速い。

 でも、逃げるみたいにはしたくなくて。

 だから、そのまま真っ直ぐ言った。


「あたしも惚れ直しちゃった。松前くん、カッコイイ」


 時間が止まる。

 マサキの動きが、ぴたりと止まった。

 イヤホンを持ったまま固まっている。

 マサキの喉が一回だけ小さく動く。


 視線が、ほんの少し泳ぐ。

 スマホ。

 机。

 窓。

 落ち着き先を探すみたいに動いて――結局またリサへ戻ってくる。


(……なんだ今の)


 脳内だけが一気に騒がしくなる。

 惚れ直した?

 今?

 なんでそんな普通に言う。

 そこじゃない。


(いや、"惚れ直した"ってなんだ)


 前から惚れてたみたいな言い方だろそれ。

 いや待て。

 そもそも如月さんが自分にそういうこと言うの、まだ慣れてない。

 慣れるわけない。


 しかも。

 "カッコイイ"。

 さっきから女子にも言われてるって話だったのに。

 リサ本人に言われると、破壊力が全然違う。


(無理だろ……)


 耳の奥が熱い。

 心臓がうるさい。

 なのに、教室の真ん中で固まるわけにもいかない。

 何か返さないと。


 でも、変なこと言ったら終わる。

 いやもう終わってる。

 顔熱い。

 絶対赤い。


(落ち着け)


 無理。

 しかもリサ、普通にこっち見てる。

 逃げ道がない。

 数秒止まったあと。

 マサキはようやく、小さく息を吐いた。


「……そうか」


 それだけ。

 声が少し掠れていた。

 そのまま、逃げるみたいにイヤホンをつけ直す。

 けれど。

 耳だけは、しっかり赤くなっていた。


 リサはそれを見つけた瞬間、唇をきゅっと緩める。


「……ふふ」


 今の反応だけで充分だった。

 むしろ。

 こんなふうに分かりやすく照えられる方が、ずっと反則だった。


 ◇ ◇


 放課後の校舎は、昼間の騒がしさが少しだけ抜け落ちていて、窓から差し込む西日が長く廊下を染めるたびに、人気のない階段の踊り場まで静かな色に変わっていた。

 マサキは、その階段を一段ずつゆっくり降りていた。

 その背中を、上の階から見つけた瞬間だった。


「あっ……松前くん」


 リサの声がぱっと弾む。

 探していたものをようやく見つけたみたいに、表情が一気に明るくなる。

 教室にいなかった。

 廊下にもいなかった。

 こうして見つけた瞬間、胸の奥がふわっと軽くなる。


「もー、やっと見つけた。こんなところにいたんだ」


 嬉しそうに笑いながら、リサはそのまま階段を降り始める。

 マサキが足を止めて、少しだけ顔を上げた。


「……なに」


 相変わらず短い返事。

 でも、ちゃんと反応してくれる。

 それだけで、リサの頬が少し緩む。


「一緒に帰ろうと思って探してたんだけど――」


 言いながら、ぱたぱたと階段を降りる。

 一段飛ばし。

 少し急ぎすぎた。

 ローファーの裏が、階段の端を滑る。


「あ――」


 踏み外す。

 その瞬間、足の裏から感覚が消えて、視界がぐらっと傾いた。

 体が前へ投げ出される。


「きゃっ――!?」


 落ちる。

 そう思った瞬間には、マサキが動いていた。


「っ、危な……!」


 低い声と同時に、二段飛ばしみたいな勢いで踏み込む。

 手すりを掴んでその体勢を支えにしながら、空いた右腕でリサの体を抱え込むように引き寄せた。

 ぐいっ、と。


「っ……!」


 階段の途中で、二人の体が止まる。

 マサキは手すりに半分ぶら下がるみたいな姿勢のまま、無理やりリサを支えていた。

 その衝撃で、リサのスカートがふわっと大きくめくれ上がる。

 そして。

 マサキの右手は、そのままスカートの中へ滑り込んでいた。


「――っ」


 思考が止まる。

 掌に触れているのは、薄い布。

 柔らかく伸びる感触。

 その下にある肉感ごと、指が深く沈み込んでいる。

 むにっ、と指先が沈む。


(……これは)


 脳が理解するまで、一瞬遅れる。

 パンツ越しに、お尻を掴んでいた。

 しかも落とさないように支えたせいで、指が深く食い込んでいる。


 薄い布が引っ張られる感触まで、妙にはっきり分かった。

 柔らかい。

 指先にはパンツの縁まで当たっていて、少し動くだけで布が擦れる感覚がやけに生々しく伝わってくる。


(いや待て)


 心臓が一気に跳ねる。


(何してんだオレ)


 事故だ。

 助けただけ。

 でも掌の感覚だけが嫌になるくらい鮮明だった。


(……せっかくさっき、かっこいいって言ってくれたのに)


 その言葉だけが浮かぶ。


(台無しだ……)


 リサも完全に固まっていた。

 マサキの肩を掴んだまま、顔が一気に熱くなる。

 どこを掴まれているか、ちゃんと分かる。

 スカートの中。

 パンツ越し。

 しかも、完全に。


「ぁ……っ」


 喉が小さく震える。

 その声で、マサキの呼吸が止まった。


(めっちゃ掴まれてる……っ)


 大きい。

 包まれるみたいに掴まれていて、逃げ場がない。

 しかもマサキが必死に支えているせいで、力も抜けない。


「……だ、大丈夫か」


 低い声が耳の近くで落ちる。

 リサの肩がぴくっと跳ねた。


「ぅ、うん……」


 でも足が震えて、うまく立てない。

 そのせいで体重が少し落ちる。

 ぐっ。


「ひゃぅっ……!」


 反射的に、マサキの指に力が入った。

 むにっ、とさらに沈む感触。

 その瞬間、マサキの思考が完全に止まる。


(終わった)


 一方で、リサもまともに呼吸ができなかった。

 落ちそうになった体を、マサキが片手で引き寄せるみたいに支えている。

 手すりを掴んだ腕。

 すぐ近くにある肩。

 低い声。

 それより。


 スカートの中にあるマサキの手が、大きかった。

 片手なのに、包まれてしまうみたいに支えられていて、逃げそうになった体を簡単に止められてしまっている。

 しかも、落とさないように必死だから、腕に入った力まで伝わってくる。

 こんなの絶対恥ずかしいのに。


 なのに。

 マサキの真剣な顔が近い。

 助けることしか考えてないみたいな顔で、自分を支えてくれている。


(かっこいい……)


 そのせいで、胸の奥が変に苦しくなる。

 マサキは数秒固まったあと、ようやく慎重に体勢を立て直し、リサを階段へ戻した。

 スカートの中から右手が抜ける。


 離れたあとも、指先だけ熱が残っていた。

 右手がぴくっと動く。

 無意識だった。

 すぐに握り込む。


(いや待て)


 助けただけだろ。

 落ちそうだったから掴んだ。

 間違ってない。


 でも。

 脳内には、さっきの感触だけが何度も蘇る。

 スカートの中。

 薄い布。

 指が沈んだ柔らかさ。


(だから反復すんな……!)


 思い出した瞬間、背筋が熱くなる。

 しかもリサが漏らした声まで残ってる。

 頭を抱えたくなる。


 事故だ。

 完全に事故。

 でも、掴んだ瞬間。


(……柔らかかった)


 そこで思考が止まる。


(いや違うだろ)


 落としたら危なかったから支えた。

 それだけ。

 なのに。

 感触ばっか残ってる時点で終わってる。

 マサキは片手で顔を覆った。

 耳まで熱い。


「……だ、大丈夫?」


 リサが心配そうに聞いてくる。

 被害者はそっちだろ、と脳内で即座にツッコむ。

 でも口から出たのは。


「……オレは平気」


 低い声だった。

 全然平気じゃない。

 沈黙が落ちる。

 階段の窓から入る西日で、リサの髪が赤く透けて見えた。

 マサキはそれに気づいて、反射的に視線を逸らす。


(……見るなって)


 なのに見える。

 しかも見た瞬間、また感触を思い出しそうになる。

 マサキが内心で頭を抱えていると、リサが小さく息を吸った。


「あ、あの……」


 声が少し上擦っている。

 でも逃げるみたいにはしない。

 リサはスカートの端を指でいじりながら、そろそろとマサキを見る。


「……せ、せっかくだし」


 視線が一回下へ逃げる。

 また戻る。


「い、一緒に帰ろ……?」


 最後の方は少し小さかった。

 断られるかもしれない、みたいな顔をするから、マサキの思考がまた止まる。

 普通こっち避けるだろ。

 今のあとで。


 なのにリサは、耳まで赤くしたまま、それでも一緒に帰ろうとしている。

 理解が追いつかない。

 しかし、嬉しいが先に来る。

 その瞬間、自分でさらにダメージを受ける。


(いや待て)


 何喜んでんだ。

 さっき尻掴んでた相手だぞ。

 しかも感触まだ覚えてる。

 最低だろ。


「……松前くん?」


 不安そうに覗き込まれる。

 近い。

 その瞬間また、腕の中に収まっていた感覚が脳内に蘇る。


(だからやめろって……!)


 マサキは数秒固まったあと、ようやく視線を逸らした。


「……帰る」


 掠れた声。

 短い返事。

 でもリサの顔がぱっと明るくなる。


「……うん」


 小さく笑ってから、リサは一回俯いた。

 それから、スカートをそっと整えながら、少し照れたみたいに口を開く。


「……あのね」


 耳の先まで熱が出ていた。


「助けてくれて、ありがと……」


 その言葉で、マサキの思考がまた止まる。


(いや)


 礼言われることじゃないだろ。

 むしろ謝る側だろ完全に。

 

 なのに、リサは本当に嬉しそうな顔をしていた。

 ちゃんと助けてくれたこと。

 落ちそうな自分を掴んでくれたこと。

 そっちを見てる。

 だから余計にしんどい。


(……せっかく助けたのに、最後が尻掴んでるの終わってるだろ)


 マサキが無言で顔を背ける。

 リサはそんなマサキを見て、少しだけ困ったみたいに笑った。


「……そんな顔しなくても、あたしほんとに平気だから」


 責めるどころか、むしろ気を遣われてる感じがして、マサキは余計に居たたまれなくなる。


「……いや」


 声が詰まる。

 何て返せばいいか分からない。

 結果、口から出たのは。


「……落ちなくてよかった」


 それだけだった。

 リサは一瞬きょとんとして、それからふにゃっと笑う。


「……えへへ」


 その笑顔を見た瞬間。

 マサキはまた、右手をぎゅっと握り込んだ。


(ほんと無理だろこれ……)

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