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19. 休日の午後 ~繋いだ手~

 会計を終えて店を出ると、ガラス扉の向こうから夕方の空気がふわっと流れ込んできた。

 少し湿った風が火照った頬を撫でていく。

 駅前の通りは、学校帰りの学生や買い物帰りの人たちでまだ賑わっていて、遠くでは車の走る音と信号の電子音が重なっていた。

 西に傾いた陽がビルの隙間から差し込んで、歩道を長くオレンジ色に染めている。


 さっきまで店内にいたせいか、リサが小さく肩を揺らした。

 マサキは眉をひそめる。


「割り勘って言っただろ」


 リサは当然みたいな顔で、スマホをバッグに戻す。


「助けてもらったお礼まだだったし」


「助けたつもりないから」


「去年の話じゃないよ」


 マサキはため息をつくが、リサはまったく動じない。

 むしろ一歩前に出て、指を軽く立てた。


「あとね」


「ん」



「あたしは働いてるから自分のお金だけど、松前くんのは親のお金でしょ?」

「……それ関係あるか?」


「嬉しくないじゃん」


 リサはくすっと笑って、軽く肩をすくめる。


「素直にご馳走様って言えば楽だよ?」


 マサキは黙る。

 視線をそらして、小さく息を吐く。


「……ごちそうさま」


 かなり不本意そうな声だった。

 リサはそれを聞いた瞬間、唇をきゅっと嬉しそうに結んでから、小さく肩を揺らした。


「えへへ」


 笑うたびに、横に流れた髪がふわっと揺れる。

 そのまま隠しきれないみたいに頬が緩んでいて、目まで柔らかく細くなるから、マサキは思わず一瞬だけ視線を止めた。

 まるで、欲しかった言葉をちゃんともらえた子どもみたいな顔だった。


 リサはそんなマサキの視線に気づくと、少しだけ照れたみたいに唇を引っ込める。

 でも、嬉しそうなのだけは全然隠せていなかった。


 ◇


 2人は並んで歩き出した。

 数歩進んでから、リサがマサキにくっついてくる。

 腕と腕が触れた。


(近い……)


 マサキは反射的に半歩だけ距離を取る。

 リサはそれに合わせて再びくっついてくる。


「なにその動き」


「いや、ぶつかってるから」


「避けてるじゃん」


「さ、避けてない」


 即答するマサキに、リサはジト目のまま。


「ふーん、じゃあ証明」


 リサは右手を差し出してくる。

 マサキの動きが止まった。


(……まさかとは思うが)


 視線だけでリサを見ると、本人はまったく悪びれた様子がない。

 むしろ当然みたいな顔で、手をそのまま差し出している。


「何」


 マサキが短く聞き返すと、リサは一拍も置かずに言った。


「手つなご」


「いや、なんで」


「寒いからだよー」


 夕方の冷たい空気の中で、リサの手だけがやけにあたたかそうに見えた。

 リサは当然のように手を差し出したまま、まったく引く気配がない。


 マサキは言い返そうとして、やめた。

 視線を落として、眉をわずかに寄せる。


(女の子の手だ……しかも、如月さんの。こんなチャンス滅多にあるもんじゃない)


「ほら」


 広げたままのリサの指先が冷えてくる。


(チャンスだろ……いや、何のだよ)


「ねぇ」


(手に触るだけだろ。如月さんの手を握るだけだ)


「……わ、分かった」


 マサキは短く言ってリサの手に触れようとする。

 しかし、できない。

 指先が、あと数センチのところで止まる。


(……なんで止まってんだ、オレ。いや落ち着け)


「……どうしたの」


 リサが首をかしげる。


「ど、どうやって……触れば……」


 リサはきょとんとして、それから普通に言った。


「そこまで慎重にならんでも」


「いや、でもさ……」


 マサキの視線が落ち着かないまま、空中で止まる。


(これ、人生の重大イベントだぞ……落ち着け。相手は如月さんだ。いや如月さんだから余計ダメなんだけど。違う、そうじゃなくて……いや何が違うんだ)


 明らかにぎこちない。

 リサは軽く笑って、もう一歩だけ距離を詰めた。


「指と指の間に指いれてく感じ?あたしもやったことはないんだけど」


(それはいわゆる恋人繋ぎじゃ……?)


 頭の中だけ、妙に冷静なツッコミが浮かぶ。


「いや、それ、普通に難易度高くないか」


「とりあえずやってみて、なんか違ったらやり直せばいいし」


 リサは本当に軽い調子でそう言って、もう一度手を差し出したまま待っている。

 マサキはゆっくりと手を前に出す。

 距離が縮まる。

 あと少し。


 触れる直前で、また一瞬だけ止まりかけて――

 リサが、ほんのわずかに指を動かした。

 次の瞬間、指先が触れた。


 ◇


「冷た!」


 マサキが思わず小さく肩を揺らした声が、リサの耳に届く。


「松前くんが待たせるからだよ……」


「わ、悪かった……」


 マサキの手がリサの指先を包む。

 指の先から、じわっと体温が広がっていく。

 さっきまで冷えていた場所が、急に自分のものじゃない温度で満たされていく感覚に、思考が追いつかない。

 包まれているのはただの手なのに、そこだけ妙に"守られている"みたいに感じてしまう。


(これ……好き)


 素直にそう思ってしまう。

 視線を上げると、松前くんは固まっていた。

 自分の行動に困っている顔をしている。


(なんで無意識にドキッとさせてくるの……?)


「いや、間違えた」


 マサキは手を離そうとして、でも離すタイミングも分からず中途半端に止まる。

 リサは指を動かして、マサキの手に馴染ませるみたいに少しずつ調整する。

 いつの間にか指と指の間に入り込んでいく。


「くすぐるなって」


「くすぐってるわけじゃないよぉ」


 繋がった指を見る。

 リサは小さく笑いながら、


「なにこれ、楽しいー……」


「……こう?」


 小さく確認するように、もうほんの少しだけ指を絡める。

 マサキは手を引きかけて、でも動けないまま止まる。

 完全に恋人同士がする形になっていた。


 指が絡まったまま、二人の距離が一段階だけ近くなる。

 一歩動こうとしただけで――

 腕が、自然に触れた。

 この形で歩こうとすると、肩と肩が当たり、腕と腕が絡むように密着する。


(あたしの隣を……歩いてくれてる。手も……繋いでくれてる……)


 素直に嬉しさが溢れそうになるのを、ほんの少し堪える。

 でも全部は隠し切れない。


「これって、こうなるんだ」


 繋がった指を見下ろしたまま、目を細める。

 驚いてるというより、確認してる感じだった。

 マサキの手が、思ってたより大きくて、硬くて。

 なのに、触れ方だけ妙に優しくて。


(なにこれ……幸せ)


 思った瞬間にはもう遅くて、口元がほんのわずかゆるんでいた。

 慌てて視線を前に戻す。

 ちゃんと隠したつもりなのに、たぶん隠しきれていない。

 自分でも分かるくらい、頬の筋肉がゆるんでいる。

 隣を歩く松前くんに気づかれたくなくて、指をほんのわずかだけ握り直す。


「き、如月さん……手離していいか……?」


「はぁ?」


 その言葉が頭の中で遅れて意味になるまで、ほんの数秒かかった。


「いや、手汗……手汗がひどくて……いったん拭きたい……」


 言葉の意味は分かるのに、なぜかすぐには納得できなかった。

 さっきやっと繋いでた手を、いきなりそんな理由で離すと言われると、頭の整理が追いつかない。

 マサキは視線をそらしたまま、やたら真面目な顔をしている。


「いや、ほんとに。ちょっと、想像以上に……その」


「……ふーん。手汗?そんなん気にしないけど?」


 手に力を込めた。


「いや、マジで……如月さんの手がベタベタになるから……」


 リサはぱち、と一度瞬きをした。


(……松前くんの汗なら平気なんだけど。それ気づかれたらあたし、終わりじゃない?)


 視線を前に向けたまま、小さく息を吐く。


「……まぁ」


 さらりと返しておいて、別の言葉を探す。


「じゃあ、反対の手で繋ぎながらこっち拭けばいいよ」


 マサキの思考が止まった。


「……ん?いや、普通に無理だろ」


「あたしウェットティッシュ持ってるから、拭いてあげる」


 リサはバッグの中を探る。

 その間も、指はまだ離れていない。

 むしろさっきより、ほんのわずかきつく絡んでいた。


「拭いてあげるね」


「いや、自分で……」


「はい次こっち繋いで」


「……」


 命令みたいな声なのに、なぜか柔らかい。

 リサはもう片方の手でそっとマサキの手に触れながら、片手でウェットティッシュを取り出して開く。

 マサキの指と指の間に触れるたびに、意識がそこに引っ張られる。


(お世話してるみたい……恥ずかしい……でも、なんかいいな)


 必要以上にゆっくりだった。

 自分でも気づいている。


(なんでこんなに時間かかってるの)


 ただの作業のはずなのに、指の間をなぞるたびに変な間が生まれる。

 マサキは動けないでいる。

 されるがままになっている。


(いけないっ、変に思われる)


 リサはさっとウェットティッシュをしまう。


「あい、終わりー」


 明るく言って、拭き終わったマサキの手に再び指を絡める。

 前を向いて、呼吸を整える。


「……帰ろっか」


 そう言って、指先をわずかに動かした。

 マサキはすぐには動かなかった。

 一拍だけ遅れて、リサの横顔を見てから、小さく息を吸う。

 少し間があって、それから口を開いた。


「……如月さん」


 名前だけが、短く落ちる。


「ん」


 もう一拍。

 それから、ようやく言葉を形にした。


「……ありがとう」


 少しだけ時間がかかった言葉だった。

 軽く言えるはずなのに、途中で何度も引っかかっている気がした。

 さらに、ほんのわずか遅れて続ける。


「あと……今日、楽しかった」


 リサは、その言葉を聞いた瞬間に呼吸を忘れた。


(……楽しかった)


 たったそれだけなのに、妙に胸の奥が静かに揺れる。


(あたしも……。本当に楽しかった。ずっと一緒にいたい)


 でも、そのまま言葉にすると重くなる気がして、喉のところで止まる。

 言葉の代わりに、指をほんのわずかだけ握り直す。

 マサキが、わずかに息を止める。


「……あたしも」


 ぽつりと落とすように言う。

 少し間があってから、


「ごめん、なんか……変な間があいた」


「……気にしてない」


 短い返事。

 でもそれで十分だった。


 ◇ ◇ ◇


 その日の夜。

 マサキはイヤホンをしたままベッドに寝転がる。


(緊張した……)


 さっきから、今日の出来事ばかり思い返している。

 偶然会った如月さん。

 急にお茶に誘われた。

 カフェでの会話。

 繋いだ手。

 それから――

 リサの言葉。


「まだ松前くんに言ってないことがあるんだけど」


 マサキは天井を見上げる。


(なんだよ、それ。思わせぶりすぎるだろ)


 落ち着かない。

 内容が分からないのに、勝手に想像だけが膨らむ。


(普通に考えれば……)


「個人的なこと」とか「ちょっとした話」だろう。

 そう思う。

 そう思うべきだ。

 でも脳が勝手に別の方向に行く。


(いや、でも"まだ言ってない"ってわざわざ言うか?)


(しかも"もっと仲良くなってから"って)


 そこで思考が止まる。

 仲良くなってから。

 その言葉だけが、妙に重い。


(……告白とか、じゃないよな)


 すぐに否定する。

 首を振る。

 ありえない。

 如月理沙だぞ。

 クラスの中心で、人気者で、モデルやってて。

 そんな人間が、自分に――


(いやいやいや、ないないない)


 即座に切り捨てる。

 でも。

 やたらと密着してきたり。

 間接キスしたり。

 恋人繋ぎみたいなことまでしてきたり。

 全部が、どこか"普通の距離"じゃない。


(……いや、待て)


 マサキは天井を見たまま、思考を巻き戻す。


(もしかして……いや、まさかだろ)


 胸の奥がざわつく。


(如月さんがオレのことが好き、とか……それはさすがにない)


 でも、否定した直後に別の記憶が出てくる。

 昼休み。

 わざわざ話しかけてくること。

 逃げても、何回も来ていたこと。

 LINEも自分にだけ教えてくれたこと。


(いや……それは)


 すぐに別の理由を探す。


(あれはオレが、ずっと一人でいたからだ)


 教室でも、廊下でも、基本一人でイヤホンをしていた。

 誰ともつるまない、話しかけづらい位置にいた。


(だからだ、話しかけなきゃってなるんだろ)


 それに気づいた瞬間、さっきの"もしかして"が少し現実的な形に落ちる。


(優しくされてるのも……たぶん、あの人なりの気遣いだ。オレが特別とかじゃなくて)


 むしろ。


(如月さんは、誰にでもそういうことをしてくれる)


 そう考えると一気に説明がつく。

 さっきの手を繋ぐのだって、

 距離感がおかしいのは相手側じゃなくて――


(オレが一人で固まってるから、変に見えてるだけだ)


「仲良くなりたい」とかも。


(たぶん、あの人の中では"普通の友達距離に寄せたい"ってだけだ)


 そこまで考えて、ようやく呼吸が少し戻る。


(……うん、それでいい)


 さっきまでの"もしかして"は、少しずつ現実に押し戻されていく。


(いや、そもそもオレが意識しすぎなんだろ)


 マサキはイヤホンの音量を少し上げる。


(もっと仲良くなってから)


 またその言葉が出てくる。

 仲良く。


(どうすればいいんだよ、それ)


 考え始めて、すぐに行き止まりになる。

 そもそも"仲良い"の基準が分からない。


(でも手を繋ぐって、普通じゃやらなくないか?もう十分仲良くないか?)


 一瞬だけ希望みたいなものが浮かぶ。

 すぐに潰す。


(いやない)


 話せばいいのか。

 一緒にいればいいのか。

 それとも――


(いや、分かんねぇ)


 マサキは顔を手で覆う。

 ため息が漏れる。


(如月さんと仲良くなる方法って何だよ)


 普通なら誰かに聞くことなのかもしれない。

 でも周りに聞ける相手はいない。

 そもそも、聞いたとしても想像できない。

 "如月さんと仲良くする自分"。

 その像がどうしても現実に繋がらない。


(あの人、別格だろ)


 なのに。

 別格のはずの人間が、自分の名前を呼ぶ。

 手を繋ぐ。

 隣を歩く。

「楽しかった」と言う。


(……意味分かんねぇ)


 マサキは横になって、天井を見つめる。

 頭の中だけがやけに騒がしい。


(もしかして、ほんとに……オレのことが……す、好きとか。いやない!あるわけない!その思考が気持ち悪すぎる!)


 ループのまま、思考だけが止まらない。

 そして最後に残るのは、やっぱりこれだった。


(とにかく、如月さんから聞き出すには仲良くならなきゃいけない)


 "仲良くなる"方法は分からない。

 でも一つだけ確かなことがある。

 このままだと、あの「まだ言ってないこと」がずっと頭から離れない。

 マサキは小さく息を吐いた。


(……あの如月さんと、仲良く。ハードル高すぎるだろ)


 ◇ ◇


 一方、その頃のリサの部屋。

 扉が閉まった音のあと、しばらくそのまま立ち尽くしていた。

 靴を脱ぐ動作がやけに遅い。


「……帰ってきちゃった」


 誰に言うでもなく小さく落としてから、ようやく部屋に入る。

 静けさが一気に戻ってきて、さっきまでの空気だけがやけに浮いていた。


 リサはベッドに座る。

 そのまま後ろに倒れ、天井を見上げた。

 今日のことが、流れ込んでくる。


 最初は、本屋だった。

 休日のはずなのに、そこでマサキを見つけた瞬間、時間の流れが少しだけ変になった気がした。

 私服の彼は、学校よりずっと距離が近いのに、逆に落ち着かない。


(なんでここにいるんだろ)


 そう思ったのに、気づいたら隣に立っていた。

 雑誌を一緒に覗き込む形になって、ページの端に自分が載っているのを、彼の横で見ることになる。

 その状況自体が少しだけ現実味を失っていた。


『やっぱキレイだな』


 その声だけが、不意に落ちる。

 言葉としては単純なのに、どこに置けばいいのか分からない。

 返す言葉を探している間に、彼はそれ以上何も足さない。

 だから余計に逃げ道がなくなる。


『期待しちゃうから、そういうの気をつけて』


 気づけばそんなことを言っていた。


(あたし……本当バカだな。こういう言葉こそが、余計に期待を……)


 彼は少しだけ間を置いてから、いつも通りの顔で返す。


『軽く言ってるつもりはない』


 その一言で、また余計に分からなくなる。

 重いわけじゃないのに、軽くもない。

 どこにも分類できない言葉だった。


 次がカフェだった。


『お茶しない?』


 自分から言ったくせに、その瞬間から少しだけ呼吸の仕方が変わった。

 カフェの中は静かで、外の明るさと切り離されていた。

 向かい合って座っているのに、距離の測り方が分からない。


 そこで、話した。

 去年のこと。

 覚えていない、と言われた。

 その一言で、怒りにもならなかった。

 ただ、少しだけ拍子が抜ける。

 何度も会いに行ったこと。

 謝る彼を見て、リサは思ったより冷静だった。


(助けてもらったからじゃない。あのとき、この人ならちゃんと見てくれるかもしれないと思ったから)


 そう言った瞬間、彼の方がわずかに固まったのが分かった。

 すぐに現実に戻そうとするくせに、少しだけ踏み込む。

 その繰り返しが、やけに引っかかる。


(あたしのこと……本当はどう思ってるんだろう)


 そう思いながらも答えを出そうとしない。

 そして帰り道。

 指が絡まる形になった瞬間、考えるより先に体が止まった。


(これ、こうなるんだ)


 ただそれだけを確認するみたいに思った。

 歩くたびに距離が近くなる。

 その中で、彼が小さく言った。


『ありがとう』


 その言葉が、一番あとに残った。

 リサはゆっくりと体を起こす。

 指先を見る。

 何も触れていないのに、まだ何かが残っている気がした。


「……変なこと、言ったかな」


 帰り際の自分の言葉を思い出す。


「まだ松前くんに言ってないことがあるんだけど」


 あれは、確かに本当のことだった。

 でも同時に、言い出せなかった言葉でもある。


 リサは立ち上がり、部屋の中をゆっくり歩く。

 壁には乙女ゲームのポスターが並んでいる。

 机の上にはアクリルスタンド。

 棚にはフィギュア。

 どれも誰にも見せてこなかったもの。

 部屋の中だけにある、自分の"好き"。

 リサはその一つを指先で軽く触れながら、


(これ、言ったら……どう思うんだろう)


 すぐに答えは出る。

 たぶん、驚く。

 たぶん、距離が少し変わる。

 もしかしたら悪い意味で。

 だから、まだ言えない。

 でも――


 今日の帰り道を思い出す。

 繋いだまま歩いた時間。

 沈黙があっても、離れなかった距離。

 あれを思い出すと、少しだけ考え方が揺れる。


(松前くんになら)


 そこで一度止まる。

 リサは小さく首を振る。


「……まだ早いか」


 誰に向けるでもなく呟く。

 ベッドに戻り、横になる。


(でもいつかは……あたしのこと、ぜんぶ知ってもらいたい)


 そう思いながら、天井を見つめた。


 ◇ ◇ ◇


 週明けの月曜日。

 教室はいつも通りのざわつきに包まれていた。

 リサは教室に入ると、反射みたいに視線を巡らせる。


(……いた。見つけると安心する)


 少し離れた席。

 いつも通り、イヤホンをつけてスマホを見ているマサキの姿。

 それだけなのに、胸がざわついた。


(どうしよう。話しかけちゃおっかな……でも、グイグイいくの迷惑かも知れないし……)


 立ち上がろうとした。

 そのとき――


 ◇


 マサキはスマホの画面を見たまま、ほとんど内容を追っていなかった。


(……仲良くなろうとするなら、自分から挨拶するべきだよな)


 自分でも信じられない発想だった。


(別に特別なことじゃない。朝の挨拶だ。普通のことだ)


 何度も繰り返す。

 それでも、立ち上がるタイミングが掴めない。

 一度だけ視線を上げる。

 リサが、ちょうどこっちを見ていた。


(……今だ)


 立ち上がる。

 心臓が、やけにうるさい。

 一歩だけ踏み出した、その瞬間――


「ねぇ、如月さん」


 横から別の声が割り込んだ。

 マサキの足が止まる。

 視線の先で、男子がリサに話しかけている。


「なにぃ?」


 リサは声のトーンが少し低い。

 マサキは立ったまま、動けなくなる。


(……タイミング、最悪かよ。いや、別にいいだろ。オレには話す話題もないし)


 男子は一瞬だけ言いにくそうにしてから、


「先週の土曜日さ、駅前のカフェにいなかった?」


 一瞬だけ間が空く。

 でもリサはすぐに、軽く笑った。


「うん、いたよー」


「それって、松前と?」


 その名前を出した瞬間、周囲の空気がはっきりと寄ってくる。


「え、なに?」


「如月さんと松前くんが?」


 ざわっと広がる反応。

 リサは否定しない。


「うん、松前くんとスイーツ食べてきた」


 リサの声のトーンが急に明るくなる。

 それは少し、自慢気にも聞こえた。


「マジか」


「松前と?」


 さらに空気が温まる。

 聞いてきた男子が顔を引き攣らせながら、


「野球部の先輩が、見たって言ってて……」


「えー、見られてたの?恥ずかしー」


 リサは両手を頬にあて、嬉しそうに言う。

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