球技大会 当日 ~応援が近すぎる3~'
保健室の前で、リサが扉を軽く押した。
ガラッ、と音がして、中の静けさがそのまま廊下へ流れてくる。
「……あら」
リサが中を覗き込む。
「先生いないね」
球技大会でみんな外に出ているせいか、保健室には誰もいなかった。
マサキはベッドの方へ目を向ける。
整えられたシーツと無機質な白が、さっきまでの体育館のざわつきを遠いものにしていた。
(……二人きりか)
その認識だけが、少し遅れて頭に入ってくる。
リサは迷いなく中へ入ると、
「とりあえずここ座ろ」
近くのベッドを指した。
マサキは言われるまま腰を下ろす。
体重がかかった瞬間、足首にじん、と鈍い痛みが走った。
「ちょっと見せてね」
リサがしゃがみ込むと、また距離が詰まる。
(……近いって)
けれど、逃げ場がない。
リサはためらいなく手を伸ばして、
「靴、脱げる?」
「……うん」
マサキが少しだけ足を動かそうとした瞬間、やはり痛みが走った。
「ごめん、動かなくていいから」
リサの手がすっと添えられる。
そのまま靴紐がほどかれていく動きは慣れていて、ためらいがなかった。
(……え)
一瞬、思考が止まる。
そのまま靴が脱がされて、靴下にも手がかかる。
「ちょ、いや……」
「大丈夫、大丈夫」
軽く流されて、するっと脱がされる。
(……いやいやいや)
頭の中でだけ騒いでも、現実は止まらない。
露出した足首は、少し腫れていた。
リサはそれをじっと見て、
「うん、これは捻挫ね」
そのまま保健室の棚に手を伸ばし、氷嚢とタオルを取り出す。
水を入れて、氷を入れて、戻ってくるまでの動きに無駄がない。
「冷やすね」
すっと当てられると、ひやっとした感覚が足首からじわじわ広がった。
「……」
マサキは何も言えずに、その様子を見る。
リサの動きは妙にスムーズだった。迷いがない。
足首には、しっかりと氷嚢が当たっている。
静かな時間が流れる。
時計の針の音ばかりがやけに聞こえて、外のざわめきはずっと遠い。
(……この時間、悪くない)
ふと、そんな感覚が浮かぶ。
会話があるわけでもない。
特別なことをしているわけでもない。
ただ、リサが隣にいる。
それなのに、妙に落ち着く。
(……なんだこれ)
理由は分からない。
でも、嫌じゃない。
やがて、リサが氷嚢の位置を少し確かめる。
「……これくらいでいいかな」
リサが小さく呟いて、氷嚢を外す。
赤みはまだあるけれど、さっきよりは落ち着いていた。
リサはタオルで軽く水気を拭き取ると、テーピング用のテープを手に取った。
「ちょっと固定するね」
そう言って、足首に触れる。
角度を見ながら位置を調整して、何度か重ねるように巻いていく。
足首は、少しずつきれいに固定されていった。
(……慣れてる?)
思わず、そんな考えが浮かぶ。
(いや、普通ここまでできるか?)
処置の流れが自然すぎる。
迷いもなければ、手つきも安定していた。
マサキは、じっとその手元を見ながら、
「……慣れてんのか」
ぽつりと聞く。
リサは顔を上げて、少しだけ笑った。
「あたし、よく転ぶから」
軽い調子だった。
(いや、そんなわけないだろ)
即ツッコミが入る。
転ぶだけで、この処置は身につかない。
巻き方も、冷やし方も、無駄がなさすぎる。
リサは最後に軽く固定を確認して、
「ひとまずこんな感じで」
ぱん、と軽く手を叩いた。
満足そうな顔をしている。
(……なんでもできるな)
ふと、そんな感想が浮かぶ。
料理もできて、空気も読めて、人の扱いも上手い。
こういうときの対応まで、完璧に見える。
さっきのコートでもそうだった。
誰にでもちゃんと気を配って、でも距離は崩さない。
(……そりゃモテるわ)
改めて、納得する。
ただ、
(……なんか、全部分かってやってる感じするんだよな)
あの距離の詰め方も、言葉の選び方も、今回の手際も。
何もかもが自然すぎる。
『よく転ぶから』なんて言っていたけれど、そんな理由だけでここまで動けるとは思えない。
(……こういうのも、全部普通にできるやつなんだろうな)
勝手にそう結論づける。
でも、それを否定する材料も、今のマサキにはなかった。
視線を上げると、リサがこっちを見ている。
「痛みどう?」
少しだけ心配そうに。
でも、押し付けない距離で。
マサキはほんの少しだけ間を置いて、
「……さっきよりだいぶマシ」
正直に答える。
「よかった」
リサはほっとしたように小さく笑うと、少しだけ体を引いた。
「でも、今日は無理しちゃダメだよ。ちゃんと安静にしてなきゃ」
当たり前のことを、当たり前みたいに言う。
静かになる。
保健室の中では、時計の音だけがやけに響いていた。
外のざわめきは遠いままだった。
(……)
マサキは、何も言わずに座ったまま。
足の痛みは、さっきより確かに引いている。
でも、それよりも。
(……この時間、嫌じゃない)
ふと、そんなことを思ってしまう。
何かを話しているわけでもない。
特別なことをしているわけでもない。
ただ、リサが隣にいる。
それだけなのに、さっきまで張っていたものが少しだけ緩んでいた。
そのまま、別のことを思い出す。
(……そういえば)
さっきの体育館。
リサに声をかけていたやつら。
『絶対来てねー』とか言っていた連中。
(……あいつらのとこ)
リサみたいな子に応援されたら、やる気が出るのは分かる。
さっきの男子たちがああ言っていたのも、別に不思議ではない。
クラス全体のことを考えるなら、そっちに行った方がいい。
少なくとも、怪我人の横でじっとしているよりは、その方が自然だ。
手当ては終わった。
試合中でもない。
足も、さっきよりは落ち着いている。
リサがここに残る理由は、もうかなり薄い。
(……別に、オレのもんじゃないしな)
当たり前のことを、頭の中で確認する。
このままここに引き止めるのは、違う気がした。
そのまま、ぽつりと口に出る。
「……もういいぞ」
リサが、きょとんとする。
「え?」
「手当ても終わったし」
視線を合わせないまま、続ける。
「……他、見に行かなくていいのか」
少しだけ、間。
リサが瞬きをする。
「えー、なにそれ」
くすっと笑う。
「追い出そうとしてる?」
軽くいじるみたいな声だった。
マサキは、ほんの一瞬だけ言葉を失う。
(……は?)
そんなつもりはない。
むしろ逆だ。
(……違うだろ)
頭の中では否定が先に浮かぶのに、うまく言葉にならない。
(……追い出している、みたいに聞こえたのか)
そこでようやく、自分の言い方を振り返る。
『他、見に行かなくていいのか』
そのままの意味で言ったつもりだった。
他に見るべきものがあるなら、そっちに行った方がいいんじゃないか、って。
ただ、それだけ。
でも、リサはそれを『ここにいなくていい』と受け取った。
(……言い方か)
少しだけ、目元に力が入る。
うまく説明できない。
そもそも、なんでそんなことを言ったのかも、はっきりしない。
試合中だから。
怪我したから。
手当てが必要だったから。
リサがここにいる理由は、さっきまでいくらでもあった。
そういうことにできた。
でも、今はもう手当てが終わっている。
なのに、リサはまだここにいる。
それを、マサキの方が遠ざけようとしているみたいになっている。
(……別に、いてほしくないわけじゃない)
むしろ。
さっきまでの静かな時間。
(……嫌じゃなかった)
思い出しかけて、すぐに止める。
言葉にすると、変になる気がした。
マサキが黙ったままなのを見て、リサが、ふっと表情を緩める。
「ま、行かないけど」
あっさりと、さっきまでの軽い調子のまま言い切る。
「え」
反射的に声が出た。
自分でも意外なほど、間抜けな声だった。
リサはそれを気にした様子もなく、ただそこにいる。
行かない。
その一言が、妙に残る。
さっきからずっと、リサは他のところには行っていない。
ここにいる。
試合を見ていたのは、心配だったから。
保健室まで来たのは、怪我をしたから。
手当てをしてくれたのは、放っておけなかったから。
そうやって一つずつ理由を置いてきた。
でも今は、それでもリサは、行かないと言った。
それがたまたまなのか。
それとも、
(……いや)
すぐに思考を切る。
(別に、特別じゃない)
そういうタイプだろ、と思う。
ああいう距離感で、誰にでも同じように接するやつだ。
(……別に、深い意味なんてない)
そう結論づける。
結論づけたはずなのに、うまく収まらない。
足の痛みは、まだ残っている。
でもそれより、隣に人がいる感覚の方が意識に残った。
(……なんだよ、これ)
落ち着かないような。
でも、悪くないような。
はっきりしないまま、マサキは何も言わずにその時間に身を任せていた。
その沈黙を、リサが崩す。
少しだけ、視線を外してから。
「こんなこと言ったらさ」
リサはそこで一瞬だけ言葉を止めた。
言っていいのか迷ったみたいに、視線が少し揺れる。
「怪我した松前くんに申し訳ないけど」
それから、目を細めて笑う。
「ラッキーって思ってる」
止まる。
時間が、一瞬だけ引っかかった。
マサキはその言葉をそのまま受け取って、
(……ラッキー?)
頭の中で、ゆっくり反芻する。
意味を探す。
リサの表情は、いつもと変わらない。
軽い調子のままだった。
(……どういう意味だ)
思考が分岐する。
応援に行かなくていい。
あの男子たちのところに顔を出さなくていい。
面倒なやり取りをしなくていい。
(……ああ)
まず一つ。
(それで楽ってことか)
納得できる理由だった。
自然な解釈でもある。
けれど、もう一つ引っかかる。
ここにいること自体。
この時間。
(……いや)
そこはすぐに切り捨てる。
(……前者だろ)
わざわざ考えるまでもない。
そういう意味に決まっている。
そういうタイプだろ、この子は。
誰にでも、同じ距離で。
深い意味なんて、ない。
(……そうだろ)
自分で、自分に言い聞かせる。
それでも、さっきからずっとリサはここにいる。
他には行かない。
その事実だけが、残った。
(……)
少しだけ、視線を落とす。
足首には、しっかりと巻かれたテープ。
ついさっきまで触れていた感覚。
(……まあ、いいか)
ぽつりと、内心で落ちる。
理由なんて、どうでもいい。
どういう意味で言ったのかも、深く考える必要はない。
今、ここにいる。
それだけで十分だ。
(……この時間、独占できているなら)
ふと、そんな言葉が浮かぶ。
すぐに消そうとする。
でも、消えない。
(……オレの方がラッキーだろ)
小さく、心の中でだけ呟く。
顔には出さない。
出せるわけもない。
ただ、ほんの少しだけ。
さっきよりも、肩の力が抜けていた。
◇ ◇ ◇
放課後。
球技大会の片付けも終わりかけて、教室にはだらっとした空気が残っていた。
「つっかれたー」
「マジで足終わったわ」
あちこちでそんな声が上がる中、
「そういやさ」
ふと、男子の一人が口を開く。
「如月さん、途中からいなかったよな」
その一言で、何人かが反応した。
「あー、確かに」
「途中から見てないわ」
「どこ行ってたの?」
軽いノリだった。
ただの雑談の延長。
リサは一瞬だけ言葉を選んでから、
「んー、ちょっとね」
曖昧に笑う。
その瞬間、別の男子が不満そうに言った。
「……あれだろ。松前と一緒に消えてたやつ」
さっきまで軽かった声が、少しだけ低くなる。
「え、マジで?」
「保健室だろ?」
「何してたの?」
一気に食いつかれる。
リサは少しだけ目を逸らして、
「えー、何もしてないよー」
そう返した。
でも、その言葉を口にした瞬間、頭の中に保健室の光景が戻ってきた。
(……何も、してない?)
その言葉に、自分で引っかかる。
嘘ではない。
二人で何かをしたわけじゃない。
でも、何もなかったと言い切れるほど、頭の中は片付いていなかった。
◇ ◇
白いカーテン。
静かな部屋。
近かったマサキの顔。
保健室の光景が、そのまま頭の中に浮かぶ。
「戻れる」
そう言って、無理に起き上がろうとしていたマサキ。
次の瞬間、ぐらっ、と身体が傾いた。
「っ」
避けきれない距離だった。
そのまま押し倒されるみたいな形で、リサはベッドに沈む。
「……え」
思考が止まった。
近い。
近すぎる。
マサキの腕がすぐ横についている。
髪が触れそうなくらい顔が近くて、Tシャツ越しなのに体温が分かった。
立っているときは同じくらいの高さなのに、こうして上から覆われるみたいになると、マサキの体は思っていたよりずっと大きく感じた。
しかも、胸のところ。
ぎゅっ、と掴まれた。
「……っ」
息が止まりそうになる。
事故。完全に事故。
分かっている。
バランスを崩して、咄嗟に手をついただけ。
それでも、掴まれた瞬間の感触だけは、変に鮮明だった。
マサキの手は、指が長くて、ちゃんと男の子の手だった。
少し硬い。
柔らかい自分の胸とは全然違う感触。
その手が胸に押し当たって、自分のがむにっと潰れる感触がした。
Tシャツ越しなのに、どこ触られているか分かるくらいはっきりしていた。
(や、やば……)
胸が熱い。
心臓がうるさい。
しかもマサキの顔が近かった。
息がかかりそうなくらい。
マサキも完全に固まっていた。
目を開いたまま止まっている。
その顔が、余計にリアルだった。
(あ、これ松前くんも焦ってる……)
そう思った瞬間、変に意識してしまう。
掴まれたところがじわじわ熱い。
マサキの手は、ちょっと力が入っていた。
倒れないように支えようとして、そのまま胸を掴んじゃったみたいな感じ。
だから余計に感触が残った。
押されたところがまだ柔らかく痺れているみたいで、思い出すだけで変な感じになる。
そのあとすぐ、マサキは離れた。
「……悪い」
低い声だった。
短くそれだけ言って、手を離した。
本当に一瞬。
ほんの数秒。
◇ ◇
でも、近さも感触も、全部やけに残っている。
(……事故、なんだけど)
思い出した瞬間、顔が熱くなった。
胸の奥まで、ぽっと熱が広がるみたいだった。
「おい、なんで赤くなってんの」
「え、なにそれ」
「絶対なんかあっただろ」
男子たちの声が重なる。
リサははっとして、
「な、なにもないから!」
少しだけ強めに否定した。
でも、自分でも分かるくらい声が変だった。
「いや今の反応は黒だろ」
「松前ー」
「お前何した?」
一斉に視線が向く。
マサキは少しだけ面倒そうに顔を上げて、
「……何もしてねぇよ」
短く返した。
その顔はいつも通りだった。
でもリサは知っている。
さっき保健室で、マサキも固まっていた。
耳まで赤かった。
「ほんとかよ」
「保健室で如月さんと二人きりだぞ?」
「何もない方がおかしいだろ」
からかう声が続く。
マサキは小さくため息をついた。
「オレは怪我してるんだけど」
ぶっきらぼうに返して、それ以上は何も言わない。
男子たちは「つまんねー」と笑いながら興味を失っていく。
でも、リサだけはまだ胸のところが熱かった。
(……何もない、よね)
頭では分かっている。
ただの事故で、ただ倒れただけ。
そう整理しようとすればするほど、逆に思い出してしまう。
(……あれは、ちょっとエッチでしょ)
押し倒されたみたいな体勢。
近すぎた顔。
胸を掴まれた感触。
マサキの手の硬さ。
全部、まだ残っている。
ちらっと横を見る。
マサキはスマホを見ている。
何もなかったみたいに。
(……そりゃ、そうだよね)
少しだけ息をつく。
(……あたしだけ、意識してるのか)
そう思った瞬間、胸の奥がじんわり熱くなる。
ふと、その熱とは別に、今日のことを思い返す。
球技大会は、本当は嫌いだった。
できそうなのに、と言われる日。
意外だね、と笑われる日。
カッコ悪いところを、いつもより人に見られる日。
そういう日は、笑ってやり過ごすだけで少し疲れる。
けれど今日は、いつもと違っていた。
自分が見られる側にいる時間より、マサキを見ていた時間の方が長かった。
避けていたところ。
パスしていたところ。
少しだけ前に出ようとしていたところ。
いつも教室の端にいるマサキが、コートの中にいた。
あまり目立とうとしないのに、ちゃんと周りを見て動いていた。
怪我したあと、黙って痛みを我慢していた顔。
保健室で隣にいた時間。
低い声で、短く謝った声。
好きな人の、いつもと違うところをたくさん見た。
嫌いだったはずの球技大会なのに、思い出すものがそればかりになっている。
(……今日、楽しかった)
誰にも聞こえないくらい小さく、リサはひとりだけそう思っていた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
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