14. 球技大会 当日 ~怪我とラッキー2~
ざわつきの中で。
一番早く動いたのは――リサだった。
「松前くん!」
声と同時に、一直線にコートへ入ってくる。
周りのやつらよりも早く。
誰よりも迷いなく。
マサキの前で、すっとしゃがみ込む。
距離が、近い。
視線が合う。
「大丈夫?」
息が少し上がっている。
それでも、声はちゃんと落ち着いている。
マサキは一瞬だけ視線を逸らして、
「……まあ」
短く返す。
反射的な強がり。
リサはそれを、そのまま受け取らない。
「無理しないで」
即答。
分かっている、という顔。
逃げ道を塞ぐみたいに、やわらかく。
そのまま、足元に視線を落として、
「ちょっと見せて」
自然な動きで、手を伸ばす。
触れるか触れないかの距離。
(……近い)
改めて、意識する。
さっきよりも、ずっと近い。
周りの声が、少しだけ耳に入る。
「いいなぁ……」
「デレデレしてるからだろ」
「心配して損した」
ひそひそとした、嫉妬混じりの声。
(……うるせぇ)
内心で吐き捨てる。
でも、否定する余裕もない。
リサは気にした様子もなく、顔を上げる。
「歩ける?」
まっすぐな問い。
マサキは、少しだけ間を置いて、
「……いける」
また、強がる。
一歩くらいなら、と。
リサは、小さく首を振る。
「もう、無理しないでって言ったじゃん」
さっきと同じトーン。
でも今度は、少しだけ近い。
そのまま、すっと立ち上がって、
「保健室行こ」
当たり前みたいに言う。
マサキは、ほんの一瞬だけ迷ってから、
「……分かった」
小さく頷く。
――立ち上がる。
その瞬間。
ぐらっと、バランスが崩れる。
「っと」
反射的に支えようとした腕より先に、リサの肩が、すぐ横に来ていた。
「ほら」
自然な動きで、肩を貸してくる。
逃げる隙もない。
(……近い)
体が触れる。
支えられる形で、歩き出す。
一歩。
足に鈍い痛み。
でも、それよりも。
(……近いって)
距離が。
妙に近い。
肩越しに伝わる体温。
腕が、軽く触れている。
(いい匂いする)
ふっと、そんな感覚が入ってくる。
シャンプーなのか、柔軟剤なのか。
一気に現実に引き戻される。
(……オレ……汗、やばくないか)
さっきまで動いていた。
息も上がっていた。
絶対、いい状態じゃない。
(絶対、汗臭いだろ……)
顔をしかめそうになるのを、なんとか抑える。
リサはそんなこと、まったく気にした様子もなく。
「ゆっくりでいいから」
歩幅を合わせてくる。
ほんの少し、マサキのペースに寄せて。
(……なんで平気なんだよ)
内心でぼやく。
でも、そのまま。
離れる理由も、見つからない。
(……これ、怪我してるからだからな)
言い訳みたいに、頭の中で繰り返す。
ただの介助。
ただの補助。
そういう名目。
それなのに。
(……離したくない、とか思ってんの、意味分かんねぇ)
自分で自分に突っ込みながら、マサキはそのまま、リサに支えられて歩いていた。
◇ ◇
保健室の前で、リサが扉を軽く押す。
ガラッ、と音。
中は――静かだった。
人の気配がない。
「……あら」
リサが中を覗き込む。
「先生いないね」
みんな外に出ているからか、誰もいない。
マサキは、ベッドの方へ視線を向ける。
整えられたシーツ。
無機質な白。
やけに静かで、さっきまでのざわつきが嘘みたいだ。
(……二人きりか)
その認識が、少し遅れてくる。
リサは迷いなく中に入って、
「とりあえずここ座ろ」
近くのベッドを指す。
マサキは言われるまま、腰を下ろす。
じん、と足に痛みが走る。
「ちょっと見せてね」
しゃがみ込む。
また、距離が近くなる。
(……近いって)
でも、さっきと違って逃げ場がない。
リサは当たり前みたいに手を伸ばして、
「靴、脱げる?」
「……うん」
マサキが少しだけ足を動かそうとすると、やはり痛みが走った。
「ごめん、動かなくていいから」
すっと手が添えられる。
そのまま、靴紐をほどく。
慣れた動き。ためらいがない。
(……え)
一瞬、思考が止まる。
そのまま、靴が脱がされる。
靴下にも手がかかる。
「ちょ、いや――」
言いかける。
「大丈夫、大丈夫」
軽く流される。
そのまま、するっと脱がされる。
(……いやいやいや)
頭の中でだけ、騒ぐ。
現実は止まらない。
露出した足首。
少し腫れている。
リサはそれをじっと見て、
「うん、これは捻挫ね」
落ち着いた声。
そのまま、保健室の棚の方に手を伸ばして、氷嚢とタオルを取り出す。
水を入れて、氷を入れて。
手際がいい。無駄がない。
戻ってきて、
「冷やすね」
すっと当てる。
ひやっとした感覚。
じわっと広がる冷たさ。
「…」
マサキは、何も言えずにその様子を見る。
動きが、妙にスムーズだ。
迷いがない。
足首には、しっかりと氷嚢が当たっている。
さっきより、少しだけ膨らんでいる。
(……やっぱり、無理してたのか)
静かな時間が流れる。
時計の針の音が、やけに聞こえる。
外のざわめきは遠い。
(……この時間、悪くない)
ふと、そんな感覚が浮かぶ。
会話があるわけでもない。
特別なことをしているわけでもない。
ただ、隣にいるだけ。
それなのに。
妙に落ち着く。
(……なんだこれ)
理由は分からない。
でも、嫌じゃない。
やがて。
「……これくらいでいいかな」
リサが小さく呟いて、氷嚢を外す。
赤みはあるけど、さっきよりは落ち着いている。
タオルで軽く水気を拭き取る。
そのまま、自然な流れで。
次に、テーピング用のテープを手に取る。
「ちょっと固定するね」
当たり前みたいに言う。
そのまま、足首に触れる。
巻く。角度を見て、位置を調整して。
何度か重ねて。
きれいに固定されていく。
(……慣れてる?)
思わず、そんな考えが浮かぶ。
(いや、普通ここまでできるか?)
処置の流れが自然すぎる。
迷いもなければ、手つきも安定している。
マサキは、じっとその手元を見ながら、
「……慣れてんのか」
ぽつりと聞く。
リサは顔を上げて、少しだけ笑う。
「あたし、よく転ぶから」
軽い調子。
(いや、そんなわけないだろ)
即ツッコミが入る。
転ぶだけで、この処置は身につかない。
巻き方も、冷やし方も。無駄がなさすぎる。
そのまま、最後に軽く固定を確認して、
「ひとまずこんな感じで」
ぱん、と軽く手を叩く。
満足そうな顔。
(……なんでもできるな)
ふと、そんな感想が浮かぶ。
料理もできて。
空気も読めて。
人の扱いも上手くて。
こういうときの対応も、完璧で。
さっきのコートでもそうだ。
誰にでもちゃんと気を配って、でも距離は崩さない。
(……そりゃモテるわ)
改めて、納得する。
ただ――
(……なんか、全部分かってやってる感じするんだよな)
あの距離の詰め方も。
あの言葉の選び方も。
今回だって。手際が良すぎる。
「よく転ぶから」なんて言っていたけど、そんな理由でここまで自然に動けるとは思えない。
(……こういうのも、全部普通にできるやつなんだろうな)
勝手にそう結論づける。
でも――
それを否定する材料も、今のマサキにはなかった。
視線を上げる。
リサが、こっちを見ている。
「痛みどう?」
少しだけ心配そうに。
でも、押し付けない距離で。
マサキは、ほんの少しだけ間を置いて、
「……さっきよりだいぶマシ」
正直に答える。
「よかった」
ほっとしたように、小さく笑う。
そのまま、リサは少しだけ体を引いて、
「でも、今日は無理しちゃダメだよ。ちゃんと安静にしてなきゃ」
落ち着いた声。
当たり前のことを、当たり前みたいに言う。
――静かになる。
保健室の中。
時計の音だけが、やけに響く。
外のざわめきは遠いまま。
(……)
マサキは、何も言わずに座ったまま。
足の痛みは、さっきより確かに引いている。
でも、それよりも。
(……この時間、嫌じゃない)
そのまま、別のことを思い出す。
(……そういえば)
さっきの体育館。
リサに声をかけていたやつら。
「絶対来てねー」とか言っていた連中。
(……あいつらのとこ)
少しだけ、前を向く。
このままここに引き止めるのは、違う気がした。
(……別に、オレのもんじゃないしな)
当たり前のことを、頭の中で確認する。
そのまま、ぽつりと口に出る。
「……もういいぞ」
リサが、きょとんとする。
「え?」
「手当ても終わったし」
視線を合わせないまま、続ける。
「……他、見に行かなくていいのか」
少しだけ、間。
リサが瞬きをする。
「えー、なにそれ」
くすっと笑う。
「追い出そうとしてる?」
軽くいじるみたいな声。
マサキは、ほんの一瞬だけ言葉を失う。
(……は?)
そんなつもりはない。
というか、むしろ逆だ。
(いや……違うだろ)
頭の中で否定が先に浮かぶのに、うまく言葉にならない。
(……追い出している、みたいに聞こえたのか)
そこでようやく、自分の言い方を振り返る。
「他、見に行かなくていいのか」
そのままの意味で言ったつもりだった。
他に見るべきものがあるなら、そっちに行った方がいいんじゃないか、って。
ただ、それだけ。
(……言い方か)
少しだけ、眉が寄る。
うまく説明できない。
そもそも、なんでそんなことを言ったのかも、はっきりしない。
(……別に、いてほしくないわけじゃない)
むしろ。
さっきまでの静かな時間。
(……嫌じゃなかった)
思い出しかけて、すぐに止める。
言葉にすると、変になる気がした。
マサキが黙ったままなのを見て、リサが、ふっと表情を緩める。
「ま、行かないけど」
あっさり。
さっきまでの軽い調子のまま、言い切る。
「え」
反射的に、声が出る。
自分でも意外なほど、間抜けな声。
リサはそれを気にした様子もなく、ただそこにいる。
さっきからずっと。
リサは、他のところには行っていない。
ここにいる。
それが、たまたまなのか。
それとも――
(……いや)
すぐに思考を切る。
(別に、特別じゃない)
そういうタイプだろ、と思う。
ああいう距離感で、誰にでも同じように接するやつだ。
(……別に、深い意味なんてない)
そう結論づける。
足の痛みは、まだ残っている。
でも、それよりも。
隣に人がいる感覚の方が、意識に残る。
(……なんだよ、これ)
落ち着かないような。
でも、悪くないような。
はっきりしないまま。
マサキは、何も言わずにその時間に身を任せていた。
その沈黙を、リサが崩す。
少しだけ、視線を外してから。
「こんなこと言ったらさ」
軽く前置き。
声のトーンはいつも通りなのに、ほんの少しだけ間がある。
「怪我した松前くんに申し訳ないけど」
それから、ふっと笑う。
「ラッキーって思ってる」
――止まる。
時間が、一瞬だけ引っかかる。
マサキは、その言葉をそのまま受け取って――
(……ラッキー?)
頭の中で、ゆっくり反芻する。
意味を探す。
リサの表情は、いつもと変わらない。
軽い調子のまま。
(……どういう意味だ)
思考が、分岐する。
応援、行かなくていい。
あの男子たちのところに顔を出さなくていい。
面倒なやり取り、しなくていい。
(……ああ)
まず一つ。
(それで楽ってことか)
納得できる理由。
自然な解釈。
もう一つ、引っかかる。
ここにいること自体。
この時間。
(……いや)
そこはすぐに切り捨てる。
(……前者だろ)
わざわざ考えるまでもない。
そういう意味に決まっている。
そういうタイプだろ、こいつは。
誰にでも、同じ距離で。
深い意味なんて、ない。
(……そうだろ)
自分で、自分に言い聞かせる。
それでも。
さっきからずっと。
ここにいる。
他には行かない。
その事実だけが、残る。
(……)
少しだけ、視線を落とす。
足首には、しっかりと巻かれたテープ。
ついさっきまで触れていた感覚。
(……まあ、いいか)
ぽつりと、内心で落ちる。
理由なんて、どうでもいい。
どういう意味で言ったのかも。
深く考える必要はない。
今、ここにいる。
それだけで十分だ。
(……この時間、独占できているなら)
ふと、そんな言葉が浮かぶ。
すぐに、消そうとする。
でも、消えない。
(……オレの方がラッキーだろ)
小さく、心の中でだけ呟く。
顔には出さない。
出せるわけもない。
ただ。ほんの少しだけ。
さっきよりも、肩の力が抜けていた。
◇ ◇ ◇
放課後。
球技大会の片付けも終わりかけて、教室にはだらっとした空気が残っている。
「つっかれたー」
「マジで足終わったわ」
あちこちでそんな声が上がる中――
「そういやさ」
ふと、男子の一人が口を開く。
「如月さん、途中からいなかったよな」
その一言で、何人かが反応する。
「あー、確かに」
「途中から見てないわ」
「どこ行ってたの?」
軽いノリ。ただの雑談の延長。
リサは一瞬だけ言葉を選んでから、
「ん-、ちょっとね」
曖昧に笑う。
その瞬間。
別の男子が、不満そうに言う。
「……あれだろ。松前と一緒に消えてたやつ」
空気が、少しだけ変わる。
「え、マジで?」
「保健室だろ?」
「何してたの?」
一気に食いつかれる。
リサは少しだけ目を逸らして、
「えー、何もしてないよー」
そう返す。
でも――
(……何も、してない?)
その言葉に、自分で引っかかった。
頭の中に、保健室の光景がそのまま浮かぶ。
白いカーテン。
静かな部屋。
近かったマサキの顔。
――「戻れる」
そう言って、無理に起き上がろうとしていたマサキ。
次の瞬間。
ぐらっ、と身体が傾いた。
「っ、」
避けきれない距離。
そのまま押し倒されるみたいな形で、リサはベッドに沈んだ。
「……え」
思考が止まる。
近い。近すぎる。
マサキの腕がすぐ横についている。
髪が触れそうなくらい顔が近い。
ジャージ越しなのに体温が分かる。
男の人の身体ってこんなに大きいんだ、って、その瞬間にはっきり分かった。
しかも、胸のところ。
ぎゅっ、と掴まれた。
「……っ」
息が止まりそうになる。
事故。完全に事故。
分かっている。
バランスを崩して、咄嗟に手をついただけ。
掴まれた瞬間の感触だけは、変に鮮明だった。
マサキの手は、大きかった。
指が長くて、ちゃんと男の子の手だった。
少し硬い。
柔らかい自分の胸とは全然違う感触。
その手が、胸に押し当たって。
むにっと潰れた。
ジャージ越しなのに、どこ触られているか分かるくらいはっきりしていた。
(や、やば……)
胸が熱い。
心臓がうるさい。
しかもマサキの顔が近かった。
息がかかりそうなくらい。
マサキも完全に固まっていた。
目を開いたまま止まっている。
その顔が、余計にリアルだった。
(あ、これ松前くんも焦ってる……)
そう思った瞬間、変に意識してしまう。
掴まれたところがじわじわ熱い。
マサキの手、ちょっと力が入っていた。
倒れないように支えようとして、そのまま胸を掴んじゃったみたいな感じ。
だから余計に感触が残った。
押されたところがまだ柔らかく痺れているみたいで、思い出すだけで変な感じになる。
そのあとすぐ、マサキは離れた。
「……悪い」
低い声。
短くそれだけ言って、すぐ手を離した。
本当に一瞬。
ほんの数秒。
でも、近さも感触も、全部やけに残っている。
(……事故、なんだけど)
思い出した瞬間、顔が熱くなる。
胸の奥までじわっと熱が広がるみたいだった。
「おい、なんで赤くなってんの」
「え、なにそれ」
「絶対なんかあっただろ」
男子たちの声が重なる。
リサははっとして、
「な、なにもないから!」
少しだけ強めに否定する。
でも、自分でも分かるくらい声が変だった。
「いや今の反応は黒だろ」
「松前ー」
「お前何した?」
一斉に視線が向く。
マサキは少しだけ面倒そうに顔を上げて、
「……何もしてねぇよ」
短く返す。
その顔はいつも通りだった。
でもリサは知っている。
さっき保健室で、マサキも固まっていた。
耳まで赤かった。
「ほんとかよ」
「保健室で如月さんと二人きりだぞ?」
「何もない方がおかしいだろ」
からかう声。
マサキは小さくため息をつく。
「オレは怪我してるんだけど」
ぶっきらぼうに返す。
それ以上は何も言わない。
男子たちは「つまんねー」と笑いながら興味を失っていく。
でも。
リサだけは、まだ胸のところが熱かった。
(……何もない、よね)
頭では分かっている。
ただの事故。
ただ、倒れただけ。
でも。
(……あれは、ちょっとエッチでしょ)
押し倒されたみたいな体勢。
近すぎた顔。
胸を掴まれた感触。
マサキの手の硬さ。
全部、まだ残っている。
ちらっと横を見る。
マサキはスマホを見ている。
何もなかったみたいに。
(……そりゃ、そうだよね)
少しだけ息をつく。
(……あたしだけ、意識しているのか)
そう思った瞬間、胸の奥がじんわり熱くなる。
保健室の静けさ。
あの距離。
マサキの低い声。
全部ひっくるめて。
(……今日、ラッキーだったな)
誰にも聞こえないくらい小さく、リサはひとりだけそう思っていた。




