12. 球技大会 前日 前編 ~連れ出し3~
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
静かになる。
さっきまで、すぐそこにいた気配が消えて、倉庫の空気が一気に広くなる。
リサはその場に立ったまま、少しだけぼーっとして――
「……はぁ……」
力が抜けるみたいに、その場にしゃがみこんだ。
(……なんか、疲れた)
体じゃなくて、別のところが。
さっきのやり取りが、ゆっくり頭の中で再生される。
マサキの声。
距離。
視線。
――そして。
(……あれ)
一気に思い出す。
「……っ」
顔が、熱くなる。
手が、無意識に胸元にいく。
(いやいやいやいや)
頭の中で慌てて否定する。
(事故だから。あれは完全に事故だから)
でも。
あのときの感触。
支えようとして、そのまま、下に入って――
「……っ、むりむりむり」
小さく首を振る。
マサキの反応を思い出す。
すぐに引いた手。
あの一瞬の判断。
(気づいてたのかな……)
「……避けられたのは確かか」
ぽつりとこぼす。
両手で顔を覆う。
(なにしてんのあたし…)
反省したはずだったのに。
不純な動機で入ったって、ちゃんと自覚したばっかりなのに。
(なのに結局これって……)
少しだけ指の隙間から天井を見る。
(……反省の色、なさすぎでしょ)
じわじわ恥ずかしさが上がってくる。
でも――
「……でも」
ぽつり。
少しだけ、顔を横にずらす。
(……普通に心配してくれたし)
"無理すんなよ"って。
思い出すと、またじわっとくる。
小さく笑う。
(優しいの、ずるくない?)
ああいう距離で、ああいうことがあったあとで、普通にそれ言えるの。
「そりゃ、好きになるでしょ……」
ぽつりと落ちる、本音。
「……昼休み、か」
マサキの言葉を思い出す。
"そのときに聞くから"
(……なんの話しよ)
実行委員のこと?
さっきの失態の理由?
(……ごまかせるかな)
少しだけ不安になる。
でも同時に――
(……もうちょっと、話せる)
そう思うと、少しだけ楽しみでもあった。
「……よし」
小さく気合を入れるみたいに呟く。
ゆっくり立ち上がる。
さっきまでより、少しだけ表情が軽い。
(次は、ちゃんとやる)
作業も。話すのも。
……変なことは、しない。
「……たぶん」
最後だけ小さく弱くなる。
少しだけ笑って、リサは箱を抱え直した。
◇ ◇ ◇
昼休みの待ち合わせ場所は、校舎裏のベンチだった。
人通りは少ないはずなのに、妙に落ち着かない空気がある。
風が弱くて、木の葉の擦れる音だけがやけに大きい。
リサは少し早めに着いていた。
スマホを取り出して時間を確認する。
まだ数分ある。
(早すぎたかな……)
そう思いながらも、髪を軽く指で整える。
前髪を少しだけ直して、スカートの皺を手で払う。
(いやいや、別にデートじゃないし)
そう自分に言い聞かせるのに、心臓だけは落ち着かない。
画面の数字が、少しだけ進む。
約束の時間を3分過ぎた。
その瞬間。
足音。
視線を上げると、マサキが来ていた。
少しだけ息を整えた様子で、手をポケットに入れたまま立ち止まる。
「悪い、つかまってた」
「誰に?」
リサは自然に聞き返した。
先生かな、と一瞬思う。
でもマサキは、少しだけ視線を外してから言った。
「如月さんを探してる男連中」
「えっ、からまれたの?」
反射で声が上がる。
マサキは首を横に振る。
「そういうのじゃない」
その言い方は、少しだけ面倒そうだった。
◇ ◇
待ち合わせ場所へ向かう途中だった。
廊下を曲がった瞬間、声をかけられる。
「松前くん、なに。如月さんと待ち合わせ?」
振り向くと、クラスの男子が数人。
軽いノリ。けど視線ははっきりしている。
マサキは少しだけ眉を寄せた。
「……別に」
曖昧に返す。
だが、それで引く連中じゃない。
「俺たちも行っていい?」
「ダメに決まってるだろ…」
即答だった。
「えー、なんでだよ」
「一緒に飯食うくらいいいだろ」
「友達連れてきたくらいのノリでさ」
距離が一歩詰まる。
馴れ馴れしい声。
マサキは小さく息を吐く。
「いや、別に友達じゃないから無理」
その一言で、空気がほんの少しだけ変わる。
「は?」
「じゃあ今から友達なればいいじゃん」
「松前くん友達なってよ」
笑いながら言ってくる。
軽い。全部が軽い。
マサキは視線を逸らしたまま、
「間に合ってんだよ」
ぼそっと落とす。
「如月さんの相手するだけでこっちは大変なんだ」
少しだけ棘のある言い方。
一瞬、間が空く。
「……は?」
「なにそれ、贅沢すぎだろ」
「如月さんに贔屓されてるくせになに言ってんだよ」
笑い混じりの声。
でも、どこか引っかかる言い方。
マサキは何も返さない。
ただ、その言葉だけが残る。
(……贔屓)
頭の中で、引っかかる。
(如月さんは……オレがクラスで1人だから、一緒にいてくれているんだよな?)
あの距離。
あの態度。
でも――理由を考えれば、それが一番しっくりくる。
ほんの一瞬、思考が揺れる。
(じゃあ、オレがちゃんと友達とか作れたら……)
そこまで考えて、
(……もう話しかけてこないのか)
言葉にしないまま、結論だけが落ちる。
少しだけ、胸の奥がざわつく。
理由は、分からない。
「ちぇー、つまんね」
「ケチくさ」
後ろで何か言っているが、もう聞かない。
そのまま歩き出す。
足取りはさっきより少しだけ速い。
(……めんどい)
小さく息を吐く。
でも――
頭の奥には、さっきの考えが残ったままだった。
◇ ◇
マサキの横顔を見る。
(あたしのせいで、こういうの増えてるのかな)
ほんの少しだけ、視線が落ちる。
マサキもまた、どこか考えている顔だった。
(オレに友達がいたら…話しかけてこないのか…)
その思考が浮かんだ瞬間、マサキは無意識に口を開いていた。
「友達になりかけた」
「なりかけたって何ぃ?断ったってこと?」
リサがすぐに食いつく。
ちょっと笑いながら、弁当のコロッケに醤油をたらしている。
マサキは少しだけ視線を逸らす。
「どうせ如月さん目当ての繋がりだから」
「あー、やっぱあるね。そういうの」
その言葉は、冗談みたいでいて普通に優しい。
距離の近さ。
あの軽い感じの会話。
(……こういうの、なくなるのか)
胸の奥が、少しだけ引っかかる。
一緒にいて、気を遣わなくていい。
話題を振ってくるのも向こうだし、沈黙になっても、なんとかしてくれる。
(……便利だから)
そう言い聞かせる。
でも――
(……それだけか?)
考えがまとまる前に――
「はい」
不意に、視界の中に弁当箱が差し出された。
リサが、少しだけ前に身を乗り出している。
蓋の開いた弁当の中身が、そのまま目に入った。
鳥の照り焼き。
アスパラのベーコン巻き。
ピーマンの肉詰め。
さばの塩焼き。
ウィンナー入りの卵焼き。
しゅうまい。
中身の分からないコロッケ。
その周りに、ブロッコリーとかぼちゃの煮付けが綺麗に詰められている。
一瞬、言葉が止まる。
(うまそう)
見た目だけで分かる。
「……本当にたくさん作ったんだな」
ぽつりと漏れる。
リサは、ぱっと表情を明るくする。
「松前くんと実行委員やるの楽しみで、今日は朝からはりきっちゃったんだよね」
さらっと言う。
その言葉に、マサキの手が一瞬止まる。
そんな言い方。
期待するだろ。
(勘違いするな)
分かってる。
勝手に意味を足すな。
リサは誰にでも優しい。
距離が近い。
空気を悪くしない。
なのに。
“楽しみで”の一言だけで、胸の奥が変に熱くなる。
(きも)
自分で即座に潰す。
期待した瞬間終わる。
勘違いした男ほど痛いものないだろ。
オレみたいなのと釣り合うわけがない。
全部、“気遣い”で説明つく。
そう思わないと危ない。
「……如月さんさ」
自然に、口が開く。
リサが顔を上げる。
マサキは少しだけ視線を逸らしたまま続ける。
「オレがクラスで浮いてるから、今みたいなの……してくれてると思うんだけど」
空気が、少しだけ静かになる。
リサが首をかしげる。
「今みたいなのって?」
「一緒に飯食うとか」
静かな声。
少しだけ間を置いて、
「気ぃ遣ってるだけなら、もういいよ。別に1人でも平気だから」
平坦に言ったつもりだった。
でも。
言った瞬間、自分で分かる。
これ、平気なやつの言い方じゃない。
勝手に期待して。
勝手に怖くなって。
先に逃げようとしてる。
もし違ったら痛いから。
“気遣いでした”で終わった時。
自分だけ勘違いしてたって分かった時。
たぶん、結構きつい。
(如月さんって、そういうタイプだろ)
距離が近くて、誰にでも優しくて、空気を壊さないように動く。
だから――
(オレに対しても、そうしてるだけ)
そう思っていた。
でも無理だろ。
リサみたいなの相手に。
近づかれたら。
優しくされたら。
勘違いくらいする。
男なら普通だろ。
リサの動きが止まる。
「え………どういう意味」
声が、少しだけ落ちる。
「……あっ」
何かに気づいたみたいに、少し慌てる。
「もしかして、あたしのせいでからまれたりするから?ご、ごめんね。迷惑かけて」
早口になる。
少しだけ視線を落とす。
マサキはすぐに首を振る。
「いや、それは気にしてなくて」
短く否定する。
でも、それ以上は続かない。
リサは一瞬だけ黙って――
「ごめんね、お弁当食べて」
少しだけ強引に、話を切り替えるみたいに言う。
そのまま弁当を、もう一度差し出す。
マサキはそれを見て、
(……如月さんって、まともそうに見えて……ちょっとズレてるよな)
謝る流れでもないし、そこじゃないだろ、と思うのに。
でも、そのズレ方が妙に自然で、変に嫌な感じはしない。
どれも一口で食べられるようにカットされていて、食べてもらう前提で詰められてある。
箸を取る。
鳥の照り焼きを口に入れる。
(……うま)
味が濃すぎない優しい味。
でもご飯に合う。
無意識に、もう一口。
今度はアスパラのベーコン巻き。
(これも美味い)
特に何も言わないまま、手が止まらない。
リサはその様子を見ていた。
少しだけ目を細めて、満足そうにふにゃっと微笑む。
◇
マサキは何も言わない。
ただ、弁当を見て、箸を動かす。
卵焼き。
しゅうまい。
ピーマンの肉詰め。
気づけば、同じペースで食べ続けている。
――無言。
会話は、ない。
でも、空気は悪くない。
むしろ、変に話しかけられるより楽だった。
(……本当に美味しいものを食べているときは、そのことだけ考えたい)
ふと、そんなことを思う。
向かいでは、リサがじっと見ている。
(……めっちゃ食べてる)
内心で、少しだけ笑う。
(無言でずっと食べてる)
顔には出さない。
でも、目が少しだけ柔らかくなる。
(美味しいってことだよね)
確認するまでもない。
ペースが答えだ。
(よかったぁ……)
胸の奥が、じわっと温かくなる。
(朝から頑張ったかいあった……)
思い出す。
早起きして、キッチンに立って、何度も味見して。
(……あたし、なにやってんだろって思ったけど)
今は、はっきり分かる。
(全部これのためだよねー)
マサキの箸が止まらない。
それだけでいい。
(可愛いなぁ……)
ふと、そんな感想が浮かぶ。
無言で食べているだけなのに。
会話もないのに。
なんでこんなに満たされているのか、自分でもよく分からない。
リサは、少しだけ頬杖をつく。
視線はそのまま。
(もっといろいろ食べてほしいなぁ…冷めたお弁当じゃなくて、出来たての料理とか)
ちょっとだけ欲張る。
そこまで考えて、
(いやいやいや、どうやって。どっちかの家でってことになるじゃん)
自分でツッコミを入れる。
でも――
ちらっと、マサキを見る。
まだ食べている。
変わらないペース。
(……でも、いつかは)
小さく、心の中で笑う。
何も言わないまま、その時間を、そのまま味わうみたいに。
リサは静かに、その様子を見続けていた。
◇ ◇
(がっつき過ぎた…)
マサキは箸を止める。
(せっかく作ってくれたのに、黙って食べるのは失礼だろ)
軽く咳払いする。
「こういうのって、ちゃんと感想言ったほうがいい…んだよな?」
真面目なトーン。
リサが少し笑う。
「うん、言ってくれるのは嬉しい」
マサキは必死に言葉を探して、
「これは、店で売ってても違和感ない…と思う」
――言った瞬間。
(……やっぱズレたか)
自覚はある。
言おうとしていたことと、実際に口から出た言葉が、少し違う。
言い直そうと、口を開く。
続けようとして――止まる。
言葉が出てこない。
(なんで余計な言い方になるんだよ)
昔からそうだった。
何かを伝えようとすると、言葉を選びすぎる。
正確に言おうとして、変な方向にずれる。
その結果――
「なんかめんどくさいやつ」
「普通に言えばいいのに」
そんな空気になる。
(……だから、喋らないほうが楽なんだよな)
無難に済ませるなら、黙っているほうがいい。
余計なことを言わなければ、引かれることもない。
そうやって、いつの間にか。
自分から友達を作ろうと思わなくなっていた。
余計な言い方を選んで、余計に伝わりにくくして、結局、自分で詰まる。
何度も繰り返してきた流れ。
無理に続けると、たぶんまたズレる。
変な空気になる。
(……黙っとくか)
そう判断しかけた、そのとき。
リサが、ふふっと笑った。
「普通に美味いって言ってくれればいいよ」
軽い言い方。
でも、からかう感じじゃない。
マサキは一瞬だけ顔を上げる。
「……」
ほんの少しだけ間。
それから、
「……美味い」
短く、今度はちゃんと。
リサはすぐに、嬉しそうに頷いた。
「うんうん、分かるよ。いっぱい食べてくれてるもん。それ、もう感想だから」
やわらかい言い方。
その一言で、妙に力が抜ける。
自分は、ちゃんと伝えられていないと思っていたのに。
でも、リサは最初から分かっていたみたいに笑っている。
(……そんなもんか)
うまく言えなくても、全部言葉にしなくても、伝わるものはあるらしい。
さっきより、少しだけ気が楽だった。
自分が何も言わなくても、勝手に意味を拾われている感覚。
でもそれは、不快じゃない。
むしろ――
(……楽だな)
余計な説明をしなくていい。
言葉を探して空回りしなくていい。
その感覚が、少しだけ不思議だった。
こういう場面は、もっと気を張るはずだ。
何を言うか、どこまで言うか、一つ一つ考えて――結局、何も言わない。
でも今は。
目の前にいる相手には、ほんの少しだけ、そのハードルが低い。
(こんな美少女前にして、楽っておかしいだろ)
そのまま、弁当に視線を戻す。
本当は、さっき言うつもりだったことがある。
(気を遣ってるだけならやめろ)
(これ以上、勘違いさせるな)
そこまで言うつもりだった。
リサの距離の近さ。あの自然な感じ。
(ああいうの、普通に誤解されるだろ)
自分みたいなのでも、少しは引っかかるくらいなんだから。
他のやつなら、なおさら。
……だから、ちゃんと線は引いたほうがいい。
そう思っていた。
でも――
言おうとした時。
リサが、当たり前みたいに弁当を差し出してきた。
さっきと同じ距離で、同じ顔で。
計算とかじゃなくて、ただ自然に。
そのタイミングで、全部崩れた。
(……言えねぇだろ)
こんな状態で。
引けとか、やめろとか。
むしろ逆だ。
(……離れたくない、だろ)
小さく、思ってしまう。
自分でも分かるくらい、都合がいい。
でも、否定はできなかった。
箸を動かす。
(……こういうの、慣れているんだろうな)
ふと、そんな考えが浮かぶ。
相手の空気を読んで、ちょうどいい言葉を選んで、変に傷つけないようにして。
さっきのやり取りもそうだ。
普通なら、あの言い方はズレている。
頑張って作ってくれたものを、店のものと比較するなんて。
引かれて終わりでもおかしくない。
なのにリサは、自然に拾って、ちゃんと意味として返してくる。
(……そりゃモテるだろ)
男女関係なく。
ああいう対応ができるやつは、人が寄ってくる。
まして見た目もいい。
こうやって距離を詰めて、こうやって勘違いさせる。
本人はそのつもりなくても、結果的にそうなる。
(男がほっとくわけないか)
さっき廊下で絡んできた連中の顔が、ふと浮かぶ。
あれも、別に珍しいことじゃないんだろう。
(あいつらも、如月さんと離れたくないだけだ…一緒にいたい)
自分も、同じ側にいる。
その事実に、少しだけ苦笑する。
リサはそんなこと、何も知らない顔で。
「あ、松前くんニンジン食べてくれてない。嫌いなの?」
軽く弁当を寄せてくる。
マサキは少しだけ間を置いてから、そのままニンジンの肉巻きに箸を伸ばした。
「……もらう」
短く返す。
その一言が、さっきより自然に出たことに、自分で気づいていた。




