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11. 球技大会 前日 前編 ~連れ出し2~ (挿絵)

 指定された備品を持ち上げて、所定の位置に運ぶ。

 置いて、戻って、また運ぶ。

 単純な作業。


(……考えるだけ無駄)


 さっきそう決めたはずなのに、頭は静かにならない。


(……いいよー、ってなんだよ)


 また浮かぶ。

 小さく舌打ちしそうになるのをこらえる。


 そのとき――


「なぁ、松前」


 声が飛んでくる。

 振り向くと、クラスの男子が二人。


「如月さん、どこ行ったか知らね?」


 軽いノリの声。

 マサキは一瞬だけ目を細める。


「知らない」


 短く返す。


「さっき一緒にいただろ」


「用事は済んだから別れた」


 それだけ。

 そっけない返答に、男子たちは少し顔を見合わせる。


「えー、マジかよ」

「どこ行ったんだろな」


 一人が頭をかきながら言う。

 もう一人が、ふと思い出したみたいに顔を上げる。


「てかさ、松前くんLINE知ってるんでしょ?」


 マサキの視線が、ほんの一瞬だけ動く。


「聞いてみてよ。今どこいるー?って」


「……」


 マサキは答えない。

 男子はさらに続ける。


「呼び出してよ」

「せっかくだしさ」


 馴れ馴れしい声。

 マサキは少しだけ眉を寄せる。


「やだよ」


 短く返す。


「は?」


 予想外だったのか、間の抜けた声が返る。


「なんで?」


「めんどい」


 即答。


「お前、そういうとこだぞ」


 男子は半分笑いながら言う。

 マサキは視線を外したまま、


「そうやって如月さんを軽く扱うから、お前らはLINE教えてもらえないんだろ」


 静かに返す。


 一瞬、空気が止まる。


「……はぁ?」


 さっきまでの軽さが、少しだけ引く。


「いや、別に軽く扱ってるわけじゃ――」


 言いかけて、言葉が続かない。

 もう一人も、気まずそうに視線を逸らす。

 図星を突かれたような沈黙。


 男子たちは少しだけ不満そうにしながらも、


「まあいいや、探すわ」


「見つけたら教えろよー」


 軽く手を振って、そのまま去っていく。

 足音が遠ざかる。

 静かになる。


 マサキは小さく息を吐く。


(……ほんとにしつこいんだな)


 さっきの状況を思い出す。

 囲まれて、離れられなくなっていたリサ。

 あれがまた起きても、おかしくない。


(……倉庫、バレてねぇよな)


 一瞬、思考が止まる。

 ありえなくはない。

 人が少ない場所ほど、逆に目立つこともある。


「……はぁ」


 用紙を見る。

 まだ作業は残っている。


(……いや)


 一瞬だけ迷う。


(確認するだけだ)


 そう決める。

 手に持っていた備品を適当に置いて、歩き出す。

 足取りは、さっきより少し速い。


(別に心配とかじゃ…)


 頭の中で言い訳する。


(また面倒なことになってたら、余計だるいだけだし)


 廊下を曲がる。

 奥へ、奥へ。

 人の気配が減っていく。


 倉庫の近くまで来る。

 扉は閉まったまま。

 中の気配は、外からじゃ分からない。


 マサキは一瞬だけ立ち止まる。


(……いるよな)


 ノックもせず、扉を開けた。


 ◇     ◇     ◇


 ギィ、と小さな音。

 そのまま視線を中に向けて――

 止まる。


 床に散らばったボール。

 転がったままの段ボール。

 その中で、這いつくばるように手を伸ばしているリサ。


 ジャージの裾が少し乱れて、膝をついたまま、必死にボールを集めている。

 マサキの思考が、一瞬で止まる。


(……は?)


 声も出ない。

 ただ、その光景をそのまま受け止めるしかない。

 そのとき――


 廊下の向こうから、かすかな足音。

 マサキの表情が変わる。

 反射的に扉を引く。

 音を立てないように、素早く閉める。

 倉庫の中に、再び閉じた空間が戻る。


 リサがびくっと肩を揺らす。


「えっ、あっ……!」


 振り返る。

 マサキと目が合う。

 一瞬の沈黙。


 リサは慌てて立ち上がろうとして、少しバランスを崩す。


「ち、違っ、あの……!」


 声が上ずる。


「これ、その……落としちゃって……!」


 散らばったボールを指差す。


「ちゃんとやってたんだけど、ちょっと重くて……!」


 言い訳が、どんどん早口になる。


「すぐ戻すから!ほんとに!今やってて――」


 言いながらも、またしゃがみこんでボールを拾い始める。

 手の動きが、さっきより明らかに慌ただしい。


「だから、その……サボってたとかじゃなくて……!」


 誰に向けてなのか分からないまま、必死に続ける。


 マサキは、まだ少し固まったまま。

 視線の置き場が定まらない。


(……いや)


 頭の中で何かを切り替える。

 一歩、ゆっくり中に入る。


「……分かってる」


 短く言う。

 それだけで、少しだけ空気が落ち着く。


 でも――


 さっきより、距離が近い。

 狭い空間に、二人きり。


 マサキは無意識に視線を逸らした。


 ◇


 リサはボールを拾いながら、ふと動きを止める。


(最悪なタイミングで戻ってきた……)


 視線を落としたまま、小さく息を吐く。


「……ごめんなさい」


 ぽつりとこぼれる。


 マサキが少しだけ視線を向ける。


 リサはボールを握ったまま、続ける。


「あたし……なんの役にも立たないのに、実行委員とかやりたがって」


 乾いた笑い。


「ちゃんとできる人がやれば良かったよね」


 言いながら、またボールを拾う。

 でも手が、さっきより少し遅い。


「迷惑かけてばっかだし…」


 沈黙。

 蛍光灯の音だけが、やけに響く。


 マサキは少しだけ間を置く。

 それから、ゆっくりしゃがみこんで、近くのボールをひとつ拾う。


「……疲れてるんだろ」


 短く言う。


 リサの手が、ぴたりと止まる。


「え……?」


 マサキは視線を合わせないまま、続ける。


「あんなに追い掛け回されたら、集中できないよな」


 もう一つボールを拾って、箱に入れる。

 静かな口調。


 リサは一瞬、何も返せない。


 手の中のボールを、少し強く握る。

 視線を落としたまま、小さく息を吐く。


「……それも、あるけど」


 ぽつりとこぼれる。


 マサキの手が、ほんの一瞬だけ止まる。


 リサは続ける。


「最初から、やる気があって入ったわけじゃないの…」


 少しだけ間を置く。

 言うか迷っているみたいに。

 それでも、口を開く。


「……松前くんがいるから、入っただけだし」


 静かな声。

 でも、はっきりしていた。


 倉庫の空気が、一瞬で変わる。

 マサキの思考が止まる。


「……は?」


 間の抜けた声が出る。


「実行委員、一緒だったら話す機会増えるかなって」


 苦笑する。


「それだけ」


 軽く言う。

 でも、その軽さは少し無理がある。


 マサキは何も言えない。

 拾いかけていたボールを、手の中で止める。


(……は?)


 もう一度、頭の中で繰り返す。


「……それで、これ。普通に迷惑かけてるの。ダサいよね」


 マサキは少しだけ顔をしかめる。

 ボールをひとつ箱に入れる。


「オレ関係なく、やりたいことやればいいだろ」


 静かな声。

 ボールを拾う手は止まらない。


「わざわざ…オレが一人になるとか、考えなくていいから」


 さらっと言う。

 その言葉に、リサの動きが一瞬だけ止まる。

 ほんの少しだけ、目が揺れる。


挿絵(By みてみん)


 でも、すぐにいつもの調子に戻す。


「え、考えてないよ?」


 ボールを拾いながら、視線を逸らす。


 でも――


(……あたし以外の女の子がなるの、イヤだったのはあるけど)


 心の中だけで、続ける。


(別に、それ言う必要ないよね)


 何もなかったみたいに、またボールを拾う。


 マサキはその様子を、ちらっとだけ見る。


「……ならいいけど」


 短く返す。


 そのまま、二人とも何も言わない。

 ただ、ボールを拾う音だけが続く。


 一つ、また一つ。

 同じ動きの繰り返し。


 でも――


 最初より、明らかに早い。

 自然と手順が噛み合っている。


(……早いな)


 リサはふと気づく。


(やっぱ2人だと全然違う)


 少しだけ気持ちが軽くなる。


 そのまま手を動かしながら、ちらっとマサキを見る。

 真面目に作業している横顔。

 無駄がない。


(……かっこいい)


 距離も近いし、空気も悪くない。


 そこで、ふと目に入る。

 二人のちょうど間に転がるボール。


(……これ)


 一瞬で思いつく。


(タイミング合わせたら、手触れるやつだ)


 ありがちなやつ。

 漫画とかでよくあるやつ。


(……いやいや)


 一回、否定する。


(なに考えてるの、不純な動機で実行委員になったのを反省したばっかりでしょ)


 でも。


 もう一回、そのボールを見る。

 距離的に、いける。

 タイミング合わせれば、確実に――


(……ちょっとくらい、いいよね?)


 さりげなく位置を調整する。

 手を伸ばす準備。

 タイミングを合わせる。


 マサキも、同じボールに手を伸ばす。


(よし来たっ)


 そのまま――


 "ボールじゃなくて手を取る"つもりで、少し軌道をズラす。


(ここで――)


 そのまま、触れる――


 はずだった。


 マサキの動きが、直前で止まる。

 一瞬で状況を察したみたいに、手を引く。


(あ)


 リサの手は、そのまま突っ込む。

 本来ならボールを掴むはずの位置。

 でも、意識はそっちにない。

 指先が、ボールの表面に触れるだけで滑る。

 支えにならない。

 体重がそのまま前にかかる。


「ひぁっ――」


 ぐらっ、とバランスが崩れる。

 手をつく。

 でも、ボールの上。

 転がる。

 支えきれない。


「――っ!」


 そのまま前に倒れ込む。


 数秒、静止。


(なにしてんのあたし)


 床に手をついたまま固まる。

 じわじわ理解が追いつく。


 一拍おいて。


(……完全に自爆)


 そのまま時間が止まる。


 ――違和感。


(……ん?)


 胸に何か当たっている。

 床じゃない。ボールでもない。

 少しだけ温かい。


 柔らかい感触じゃなくて、逆。

 押されている。

 下から。


 ゆっくり視線を落とす。


 自分の身体の下から伸びるマサキの腕。


「……っ」


 一瞬で理解した。


(え、ちょ……)


 固まる。マサキも固まっていた。


 完全に、手が胸の下敷きになっている。

 しかもただ触れているだけじゃない。

 リサが倒れ込んだ体重ごと乗っているせいで、胸が押し潰されるみたいに沈んでいた。


 むにっ、と形が変わる感覚が、自分でも分かる。


「っ、ぁ……」


 変な声が漏れる。


 マサキの手が、胸の下に埋まっていた。



 目の前でリサが倒れてきた。

 反射で手を伸ばした。

 でも間に合わなかった。


(……失敗した)


 自分の手が、リサの胸の下にある。

 しかも浅く触れているとかじゃない。

 完全に押し潰されていた。


 リサの体重がそのまま乗っている。

 柔らかすぎて、手が沈む。

 逃げ場がない。


 押されるたびに形が変わる感覚が分かってしまう。


(や、柔らか……っ)


 頭が真っ白になる。

 意味が分からない。


 いや違う。

 考えるな。


 でも感触が強すぎて無理だった。

 Tシャツ越しなのに熱が伝わる。

 押し潰されて、指の間にまで柔らかさが入り込む。


 ふに、むに、って。


 ちょっと動くだけで感触が変わる。


(完全にリサのおっぱい触ってる……!)


 思考が一瞬で飛ぶ。

 固まる。動けない。


 リサの重みが腕に乗ったまま。

 胸の柔らかさだけが、手のひらいっぱいに広がっていた。


(……やばい)


 呼吸が止まりそうになる。

 どうすればいい。


 手を抜こうにも、リサの体重で押さえつけられて動かない。

 無理に動かしたら、もっと触れる。

 動かなければこのまま。


 どっちにしても終わっている。


「……っ」


 マサキが小さく息を飲む。

 近すぎる。

 目の前に、真っ赤なリサの顔。


 リサも完全に固まっていた。

 耳まで赤い。


「ぁ……っ、ご、ごめ……」


 声が震えている。

 でも身体が動かない。


 少し動こうとしただけで、胸が手の上でむにっと潰れて、マサキの肩がびくっと揺れた。


「っ……!」


 リサもそれに反応してさらに固まる。


(やばいやばいやばい……!)


 頭の中が真っ白だった。

 近い。恥ずかしい。

 しかもマサキの手、全部触れている。


 支えるために開かれた手のひらが、胸の下側にぴったり埋まっていた。

 沈んでいる。押されている。

 柔らかさが逃げ場なく広がって、自分でも分かるくらい形が変わっていた。


 沈黙が長い。

 数秒のはずなのに、異常に長い。


「……如月さん」


 マサキが低い声を出す。

 声が少し掠れていた。


「……とりあえず、身体浮かせて」


 余裕のない言い方。


 リサがびくっと震える。


「え、あ……っ!」


 慌てて身体を起こそうとする。

 でも焦って手が滑る。

 また少し体重が乗る。


『むにゅっ』


「――っ!!」


 マサキの肩が跳ねる。

 リサも顔を真っ赤にしたまま、


「ご、ごめ、ごめんっ……!」


 慌てて身体を浮かせた。


 重みが消える。

 ようやく手が解放される。


 マサキは反射みたいに手を引っ込めた。

 そのまま手を軽く握る。

 開く。


(……めちゃくちゃ感触残ってる)


 最悪だ。


 柔らかかった。

 押し潰されていた感覚が、まだ手のひらから消えない。



 リサは一瞬遅れて我に返る。


「だ、大丈夫!?」


 慌てて顔を上げる。

 さっきまでの恥ずかしさよりも、先に出たのはそっちだった。


「手……!痛くない!?」


 マサキの手を覗き込もうとする。

 距離がまた近づく。


 マサキは一瞬だけ固まるが、すぐに視線を逸らす。


「……平気」


 落ち着いた声で答える。

 でも、さっきより少しだけ声が硬い。


 リサはまだ不安そうに見ている。


「ほんとに?思い切り体重かけちゃったし……」


「大丈夫」


 即答。


 少しだけ間があって、マサキは視線を外したまま、ぽつりと落とす。


「……その」


 言葉を探すみたいに、一瞬止まる。


「……ごめん」


 静かに言う。


 リサがきょとんとする。


「え?」


 マサキは顔をしかめたまま続ける。


「触ったから……その、いろいろ」


 言い方を少しぼかす。

 でも、伝わる。


 余計な言い訳はしない。

 事実だけ謝罪した。


 リサの顔が、じわっと赤くなる。


「あ……」


 でも、すぐにぶんぶんと首を振る。


「いや!今のは完全にあたしが悪いから!」


 少し早口になる。


「あたしが勝手に転んだだけだし……!その……だから、全然……気にしてないし」


 最後だけ、少し小さくなる。


 マサキは何も言わない。

 ただ、軽く手を握って開いて、


 それから、


「……ならいいけど」


 ほんの少しだけ、口の端が上がる。


 さっきまでより、少しだけ空気がやわらいでいた。


 ◇     ◇     ◇


 ボールを箱に戻し終える頃には、さっきまでの散乱が嘘みたいに片付いていた。

 最後の一つを置いて、リサは小さく息を吐く。


「……終わったー」


 マサキも軽く頷く。

 用紙にチェックを入れて、ペンをポケットに戻す。


「数も合ってる」


 それだけ確認すると、ゆっくり立ち上がる。


「じゃあ……オレ、戻るな」


 あっさりした一言。


「え」


「様子見に来ただけだし。向こう、まだ終わってないから」


 そのまま扉のほうへ歩き出す。


(……行っちゃう)


 分かっている。

 引き止める理由なんて、ない。

 むしろ迷惑をかけた直後だ。


 でも――


「……あのっ」


 少しだけ大きめの声。


 マサキが振り返る。


「なに?」


 リサは一瞬だけ言葉に詰まる。

 咄嗟に、口を動かす。


「こういう作業、慣れてるんだね。さっきもめっちゃ手際よかったし……あたし1人じゃ、絶対もっと時間かかってた」


 へへ、と軽く笑う。


 マサキは少しだけ考えて、


「……そうでもない」


 短く返す。


 会話が、すぐ終わりそうになる。


(やば、終わる)


 慌てて続ける。


「さっきの男子たち、もう来ないかな。1人だと不安で…」


 マサキは一瞬だけ考えて、


「さっき探されてたけど、違う方向にいったから大丈夫」


「ほんと?ならよかった……」


 ほっとした顔。

 でも、まだ終わらせたくなくて。


「実行委員の仕事って、まだ結構あるの?」


 マサキは少しだけ振り返る。


「今日中に終わらせるのは、あと少し」


「そ、そっか……」


 頷く。

 でも、それで終わるはずなのに――

 言葉が、止まらない。


「……大変だね」


 小さく付け足す。

 ちょっとだけ間を埋めるみたいに。


 マサキはその様子を見る。

 何か言いたげな間。

 それに気づかないほど鈍くはない。


 けど――


(ここで踏み込むのは違うだろ)


 浮かんだ言葉を、飲み込む。


 それから、


「昼休み、飯食う時」


 落ち着いた声で言う。


 リサが顔を上げる。


「そのときに聞くから。…それじゃダメか」


 付け足すみたいに。


 リサは一瞬だけ黙る。


(いま、話したいのに)


 でも――


「……うん、大丈夫」


 小さく頷く。


 マサキはそれを見て、


「そっか」


 短く返す。

 それ以上は引き延ばさない。

 扉に手をかける。


「じゃ、あと頼む」


「うん」


 今度はすぐ返す。

 扉が開く。

 光が差し込む。


「……あ、松前くん」


 もう一度だけ呼ぶ。

 マサキが振り返る。


「ありがとう」


 素直な一言。


 マサキは一瞬だけ間を置いて、


「無理すんなよ」


 それだけ残して、外に出ていく。

 扉が閉まる。


 静寂。


 リサはその場に立ったまま、少しだけ息を吐く。


(……全然引き止められてないじゃん)


 苦笑する。


 ◇     ◇


 扉が閉まる。

 金属音が、小さく廊下に残る。


 数歩だけ歩いて、マサキは足を止めた。


(……なんだよ、今の)


 さっきのやり取りが、頭の中でゆっくり再生される。

 話題が途切れそうで、途切れない感じ。

 不自然に繋がる会話。

 終わらせないようにしているのが、見え見えで。


(気づかないほど、鈍くはない)


 あれは、多分――


(……引き止めてたよな)


 小さく息を吐く。

 壁に背中を預けるでもなく、ただ立ち止まったまま。


(オレは何も言わなかった…)


「どうした?」って聞くのは簡単だった。

 あの空気なら、それで続いたはずだ。


 でも――


(……違うだろ)


 すぐに打ち消す。

 踏み込む理由がない。

 むしろ、踏み込んだらおかしくなる。


 さっきの言葉が、引っかかっている。


『松前くんがいるから、入っただけだし』


(……あれ聞いたあとで)


 これ以上距離を詰めるのは、違う気がする。

 期待しているみたいで。

 勘違いしているみたいで。


(……キモいだろ、それ)


 短く息を吐く。


 それに――


 ふと、手のひらの感覚がよみがえる。

 柔らかさ。重み。


(……最低だ)


 無意識に、手を軽く握って開く。


(あの状態で、普通に会話続けるとか無理だろ)


 さっきの倉庫。距離。空気。

 全部まとめて、処理が追いついていない。


 だから――


(離れたほうがマシ)


 それだけの判断。


「……はぁ」


 小さく息を吐く。


 でも――


 さっきの、無理やり話題を繋いでいた感じ。

 明らかに引き止めようとしていた動き。


(……分かりやすいな)


 呆れ半分。

 けど。


(ああいうとこ、可愛いよな)


 思ってしまう。

 すぐに顔をしかめる。


(いや、だから何だよ)


 否定する。


 でも頭のどこかに、ずっと引っかかっている。


『松前くんがいるから、入っただけだし』


(……ワンチャンとか、考えてる時点で終わってるだろ)


 自分で引く。


 それでも。

 完全には、切り捨てられない。


 廊下を歩き出す。

 作業の続き。やることは残っている。

 小さく舌打ちしそうになるのを、こらえながら。


 マサキは、そのまま次の作業場所へ向かった。

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