文化祭2日目 ~ステージは後ろで聴くはずだった4~
廊下の向こうから、軽い足音が近づいてくる。
生徒会の腕章を外したまま、保坂美緒は教室の入口で一度だけ立ち止まった。
中を見て、息を吐く。
(……まだ残ってるかな)
そのままドアを開ける。
いつもの整った所作より、ほんの少しだけ早い。
教室の中では、文化祭の後片付けが続いていた。
机は列を崩され、紙皿や段ボールがまとめられ、誰かがゴミ袋を結んでいる途中で止まっている。
マサキはその一角で、長机を拭いていた。
布を動かす手は止めず、顔が反射的に上がる。
ミオはその姿を見て、目を開く。
(……良かった、いた)
そのまま迷いなく中に入る。
次の瞬間には、もうマサキの近くにいた。
長机の端、作業の邪魔にならないぎりぎりの位置で止まる。
目線がマサキの手元に向く。
「松前くん、今日すごかったです」
言葉はそこで落ちる。
軽く言う感じじゃない。
マサキは布を広げたまま動きを止める。
ミオはそのまま、ほんの少しだけ間を置いて続ける。
「本当に、あれは……すごすぎました」
「音の入り方がまず違ってて、抜きの間の作り方も綺麗で」
「高いところ、あれは滅多に出ない声域です。普通に出せる人いないです」
「強いところだけじゃなくて、弱いところが綺麗すぎて逆に目立つってなんですか」
「見てる側が置いていかれる感じでした」
「どこで瞬きしていいか分からなくなるというか、ずっと引っ張られてる感じで」
「気づいたら終わってました」
止まる気配がないまま、言葉だけが近い距離で積み重なっていく。
マサキは布を広げたまま、動かない。
作業は止まっているのに、目の置き場だけが定まらない。
「……話を盛るな」
ミオは一拍だけ止まる。
それから、目線を落として。
「事実」
ぽつりと落ちる声。
いつもの論理的な断言ではなく、少しだけ力の抜けた言い方だった。
「保坂さん、そういうとこ」
「どこですか」
「…」
ミオは周囲を一度見てから、再びマサキを見る。
「さっきまで、生徒会の方でもずっと話題でした。あれ誰?って」
一拍置いてから続ける。
「松前くんでした」
その言葉で、マサキの動きがわずかに止まる。
反射的に否定するでもなく、受け止め方がまだ決まっていない間。
「……そう、見えてたなら」
困ったように落ちる声だった。
ミオはその反応に、目を細める。
責めるでもなく、評価するでもなく、ただ事実として受け取るように。
「見えてました」
一歩だけ近づくが、そこで止まる。
距離は詰めないまま、言葉だけを置く。
「ちゃんと、ステージにいました」
静かに言い切る。
「立つこと、見られること、音を出すこと、空気を引っ張ること」
一つずつ確かめるみたいに言ってから、最後だけ少しだけ間を空ける。
「それが揃った時だけ、ステージが成立する空気の中で」
マサキは本来、見られる側に立つのを避ける。
でも今日は違っていた。
「松前くんは、そこにいました」
あの場で<ちゃんと見られる人間>として成立してた。
◇
教室の雰囲気が少し落ち着きかけたところで、目線の行き場だけがまだ残っていた。
その一番端で、リサは最初から机に寄りかかるようにして立っていた。
話が区切れるのを、ずっと見ていた。
長い髪が、肩の動きに合わせてふわっと揺れる。
目線はマサキとミオの間から、ほとんど離れていない。
ミオの会話が一度切れた、その瞬間。
リサは息を吐いて、すぐに動いた。
足は迷わない。
二人の間へ、割り込むように入り込む。
「なにー? 表彰式?」
明るい声。
でも、立ち位置だけが少し違った。
リサはミオのほうをちらっと見てから、すぐマサキに目を戻す。
そのままマサキの横へ寄り、肩をマサキの右上腕に軽く当てた。
離す気はないみたいに、並んだまま動かない。
「ステージの話?」
声はいつも通り明るい。
でも距離の詰め方だけが、やけに真っ直ぐだった。
ミオを見る目は笑っているのに、ほんの少しだけ温度が違う。
「あたし抜きで盛り上がらないでほしいなぁ」
軽口みたいに言いながら、リサは少しだけ体を捻り、自分のお尻でマサキの腰のあたりをトンッと軽く押した。
強くはない。
けれど、位置だけははっきりずらす力だった。
マサキの体が半歩ずれた瞬間、肩が固まる。
「……っ」
目線が、リサの下半身に向きかける。
(平気で尻を当ててくるな……)
リサは大して気にした様子もなく、マサキの体が半歩ずれた隙間へ、滑り込むように入った。
ミオの方を向いたまま、背中側だけをマサキへ寄せるようにして。
次の瞬間、マサキの正面にリサの後頭部が来た。
長い髪が目の前で揺れる。
背中越しに、リサの体重がかかる。
軽く寄りかかっただけに見えるのに、その重さはちゃんとマサキの逃げ道を塞いでいた。
後ろへ下がればリサが崩れる。
横へ逃げても、今度は支えが外れる。
マサキは動こうとして、止まった。
正面から支える形になる。
リサがマサキをその場に固定していた。
視界の中心には、リサの後頭部。
長い髪が真っ直ぐ落ちていて、光を受けるたびに柔らかく揺れる。
手入れされた髪は乱れがなく、少し動くだけでさらっと流れた。
肩に、余計な力が入る。
(いや……近っ)
リサはそのまま、マサキに体重を預けたままミオと喋っている。
「ねー、かっこ良かったよねー」
明るい声が、すぐ近くから落ちてくる。
会話は続いているのに、マサキの方には入ってこない。
ミオの返事も混ざっている。
リサが笑って、それにミオが返して、またリサが何か言う。
そのやり取りが目の前で流れているのに、マサキだけが一拍ずれたまま止まっていた。
動けばリサが崩れる位置。
それだけが先に固定されていて、他の情報が追いつかない。
目線だけが、リサの後頭部に残る。
マサキは固まったまま、呼吸だけが一段浅くなった。
(支えないと……)
頭では分かっているのに、体がすぐ動かない。
動かせば崩れるのはリサの体勢で、今の位置は完全に支える前提になっている。
(どこ支えればいい……)
手の置き場所が決まらない。
背中か、肩か、それとも……と考えた瞬間に思考が止まる。
(いや、そこ触ったら終わるだろ)
一歩間違えれば、支えじゃなくなる位置に手が行きかける想像だけが浮かんで、すぐに切る。
目線をそこへ落とさないように、意識だけが必死に上へ戻る。
そういう想像だけが先に走って、体が余計に硬くなった。
リサの体重は、遠慮なくそこにある。
逃げられない距離で、普通に預けられている。
近い。
というか、近すぎる。
髪がすぐそこにある。
動くたびに柔らかく流れて、目線の端をかすめる。石けんみたいな匂いが混ざってくるのが分かって、呼吸のタイミングが一瞬ずれた。
(……いい匂いするな、やばい)
余計な情報が全部入ってくる。
体温だけがやけに分かる。
(柔らかい……いや違う、そういうのじゃなくて)
支えなきゃいけないのに、動けない。
触れ方を間違えられない。
全部が同時に頭へ流れ込んで、処理が追いつかない。
(無理だろこれ……)
喉の奥で息が詰まる。
それでも手だけは、なんとか支える形を探し続けていた。
目線の端で髪が揺れる。
近すぎる距離のまま、リサは何事もないようにミオと話している。
その体重が、さっきよりわずかに増えた。
立ち位置を調整しようとしても、リサの重心が先にそこへ乗っている。
(……いや、ちょっと待て)
リサは会話を続けたまま、もう一度だけ体重を預ける。
わずかに深く、迷いなく。
マサキなら、そこにいて支えてくれる。
そう分かっているから、リサは遠慮なく重さを預けていた。
マサキの喉が小さく動いた。
体重はずっとそこにあって、今になって増えた。
(これ……)
支えているというより、支えさせられている。
リサはミオと話しながら一歩も動かない。
何気なく肩の力を抜き、さらに少しだけ預けてくる。
マサキの膝がわずかに固まる。
(……柱だろこれ)
人じゃない。
動く存在じゃないみたいに。
リサは何も気にせず、ミオに笑う。
「そうそう、最後の曲もさー」
声だけが軽くて、距離だけが異様に近い。
マサキは返事をしないまま、一点を理解してしまう。
(これ、オレが柱扱いにされてる)
会話は続いたまま、リサは一歩も離れない。
むしろ、少しだけ安心したみたいに力を抜いていた。
(扱いが雑すぎるだろ)
その瞬間。
マサキの口が、勝手に動いた。
「……おい」
低い声。
すぐ横で、息の温度ごと落ちてくるみたいな距離。
吐いた息が、そのまま耳に触れる。
好きな人の声。
しかも、いつもより低くて、抑えた声。
次の瞬間。
「ひゃぁっ」
短い声が漏れて、リサの重心がふっと前に抜ける。
<預けていた側>だった体勢が崩れて、前のめりに倒れかける。
マサキの手が反射で出る。
肩を押さえるでもなく、腕を掴むでもない。
落ちる体を止めるために伸ばした手は、彼女の正面……
胸の膨らみを、服の上から真正面で受け止める形になっていた。
――。
(反応が、追いつかない)
勢いを殺すための、咄嗟の支え。
指先に伝わってくるのは、確かな重みと、止められなかった勢いだった。
手のひら全体で、リサの体を受け止めてしまったという感覚だけが、やけにはっきり残る。
マサキの動きが、そこで完全に止まった。
(やらかした…)
リサの体勢は止まったまま、支えられた形のまま固まっている。
そのままの距離が続く。
リサが呼吸をするたびに、支えている手のひらにも、その動きがかすかに伝わってくる。
(いや、動け……動けよ、オレ)
「……ごめん、今のびっくりして」
リサの軽い声。
でも、状況は軽くないまま残っている。
マサキの手はまだ離れていない。
離すタイミングがどこか分からないまま、そのままの体勢で固定されている。
(これ……どう戻すんだ)
思考だけが遅れて回り始める。
手のひらに、まだ確かな感触が残っている。
支えた。
止めた。
でも、手を離すきっかけだけが見つからないまま続いている。
(いつまで支えてるつもりだ、オレ)
リサは、マサキの視線の先を追うようにちらっと目を落とす。
自分がどこを支えられている状態かを理解して、ほんのわずかだけ間が空いた。
それでも大げさには反応しない。
表情も崩さないまま、息だけが一度だけ抜ける。
リサは視線だけを横に流す。
「……や、あたしが悪いんだけど」
何事もなかったみたいに戻そうとしているのに、戻しきれていない声だった。
ミオは二人の状況を見たまま止まる。
言葉は出ない。
その代わりに、目がわずかに動いて、マサキの手がまだリサから離れていない、その位置に釘付けになった。
男の子の手が、そのままの形で止まっている光景。
マサキの手のひらが、ほとんど見えなくなるくらい沈み込んでいる。
その事実だけで、そこにあるものの大きさが伝わってくる。
ミオの視線は次に、自分の胸元へと落ちる。
制服の布は、比べるまでもなく、いつも通りまっすぐだった。
頭の中で瞬時に計算が弾き出される。
(これは考えたら負け)
そう判断したのか、ミオはすぐに顔を上げた。
さっきまでステージの余韻で少し熱を帯びていた目が、そこでいつもの落ち着いた色に戻る。
「そういうのは、人のいないところでやった方がいいと思います」
淡々とした声だった。
けれどその一言で、マサキの思考は一気に現実へ引き戻された。
(いや、違う。オレは支えただけで……でも今の見え方は最悪だ)
手のひらの感覚が、逆に「そこにある事実」だけを強調してくる。
結果として、胸の位置に手が入ったまま動けなくなっている。
離すべきだと分かっているのに、どのタイミングで外せばいいのかが分からない。
一秒、二秒。
その沈黙の間に、リサが息を吸った。
「……えっと」
声はいつも通り明るくしようとしているのに、わずかにだけテンポがズレる。
リサは気まずさを誤魔化すように、上体を起こしてマサキから体を離そうとした。
しかし、マサキの手はリサの動きに追いかけるように、そのまま付いていってしまう。
リサが体を起こした分だけ、支えていた手のひらも一緒に動いてしまう。
体重が抜けたことで、まだ離れきっていない手の感覚だけが、やけにはっきり残る。
身体を起こしたのに、手はまだ離れていない状態が続いた。
リサはゆっくりと視線だけを自分の胸元へ落とし、そこにまだ当然のようにあるマサキの大きな手を見つめた。
「……ちょっと、マサキくん?」
責めるでもなく、茶化すでもなく、温度の中間みたいな声。
リサの目線に気づいた瞬間、マサキの手がようやく現実に戻る。
「……っ」
マサキは短く息を詰めて、反射で手を引っ込める。
目線をどこにも置けなくなって、わずかに横を向く。
「……悪い」
かすれた声でそれだけ言う。
リサは瞬きをして、それから何事もないように笑う。
「いーよいーよ、全然平気」
軽い声でそう返して、制服の襟を整えた。
でも、その手の動きがほんの少しだけ落ち着かない。
さっとスカートの後ろに手を隠し、指先が意味もなく絡む。
何度か握っては離す動きが続く。
表情は普通。
声も普通。
(いまマサキくんの手ついてきた…っ。離れなかった!)
頭の中だけが一気に加速する。
(え、待って待って待って。やだもう、マサキくんてばエッチ)
一度思い出すと、さっきの感覚が勝手に再生される。
自分の上に、そのまま乗っていた大きな手のひら。
骨張った指先の感触と、伝わってきた体温。
それが、思っていたよりずっとはっきり残っている。
(いや違う違う違う、なに考えてんのあたし)
自分で自分にツッコミを入れるみたいに、思考が暴走して止まらない。
(途中で手離したら危ないからじゃん…)
冷静になろうとして、すぐ崩れる。
(いやでもあれわざとだったら……もしかして、今度のデートでなんかある?)
意味の分からない方向に飛びそうになって、慌てて戻す。
(いやいやいや!ないないないない!)
呼吸だけが少し早い。
でも顔はちゃんと「いつも通り」に固定したまま、なんとか維持している。
ミオはその様子をひと目だけ見た。
リサの落ち着かなさと、マサキのぎこちなさを同時に受け取って、すぐに目を細める。
「はいはい」
肩で息を吐いて目線を外した。
◇
そこでようやく、場は完全に日常へ戻った……はずだった。
マサキだけが、少し遅れていた。
手のひらだけがさっきの感触を覚えている。
(今のは支えただけだ)
まず、そこから確認する。
リサが崩れかけた。
反射で手が出た。
止めなかったら、たぶんそのまま前に倒れていた。
(支えなきゃって思った)
そうやって整理しようとするほど、逆に余計な情報が浮かぶ。
手のひら全体を包み込んだ、圧倒的な感触。
指の間を埋め尽くすような、重みと熱い体温。
身を起こされてもなお、手のひらが吸い付いてしまった感覚。
(……オレ、わざと残さなかったか?)
思考が、そこで妙な引っかかり方をする。
いや、残したわけじゃない。
急に離したら危ない。
体勢が戻るまで支えを外せなかった。
相手が動いている途中で手を引っ込めたら、逆にバランスを崩すかもしれない。
理屈はある。
ちゃんとある。
(……そうだよな?)
自分で確認して、自分で少し不安になる。
支えて、戻るのを待った。
それだけで別に、変な意味はない。
ないはずだ。
そもそも、あの状況で正解の動きなんてあるのか。
支えないわけにはいかない。
でも支え方を選べるほど余裕があったわけでもない。
何かを考えてから動いたんじゃない。
気づいた時には、もう手が出ていた。
(つまり事故)
そう結論づける。
結論づけたはずなのに、すぐに別の考えが割り込んでくる。
(でも、離すのは遅くなかったか?)
支えたまま固まった。
それは事実。
でも固まった理由は、状況が状況だったからで、別にそれ以上の意味はない。
マサキは息を吐く。
考えれば考えるほど、自分で自分を追い詰めている気がした。
下心が、一ミリもなかったと言い切れるだろうか。
そこまで考えて、思考が一度止まる。
なかった、と言いたい。
言いたいが、そう言い切ろうとするほど、逆に言い訳っぽくなる。
少なくとも、最初は本当に反射だった。
それは間違いない。
なら、そのあとに混ざったものは何だったのか。
(普通ああならないだろ)
手を軽く握る。
何かを押し消すみたいに。
けれど、押し消そうとしている時点で、まだそこに引っかかっている証拠だった。
(忘れろ、忘れろ)
ただ一つだけ決めるなら。
次に同じようなことが起きたら、もう少しまともに動く。
(同じようなことが起きる前提で考えるな)
週末、リサと出かける約束をした。
しかも、自分から誘った。
(……大丈夫なのか、オレ)
今のでこの有様なのに。
自分から誘った以上、今度は流れに乗っているだけでは済まない。
マサキは手を軽く握って、それからゆっくり開いた。
(失敗できない)
その一言だけが残ったまま、マサキはようやく普通のふりに戻った。
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今後の励みになります(・v・)♥





