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距離感ゼロの如月さんと自己評価ゼロのオレ  作者: 空色いろはに
文化祭当日 編

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文化祭2日目 ~ステージは後ろで聴くはずだった3~'

「どうぞ……続けて」


 そんな気まずい言葉を残したあと、誰かが片付けを理由にして席を立った。

 他のメンバーもそれに乗るように、紙コップやペットボトルを手に取って、順に教室を出ていった。


 気を遣われたのだと、マサキにも分かった。

 誰も何も聞いてこなかった。

 その優しさが、逆に一番きつい。


 長机の上には、食べ終わったたこ焼きの空パックと、飲みかけのコーラ。

 その隣に、リサのいちごミルクだけが残っていた。


 体育館のざわめきはまだ遠くにある。

 けれど教室の中だけは、どこかしんとしていた。


 その沈黙の中で、リサが頭を少し下げた。


「ごめんね。せっかくさ……ステージで気分あがってるのに、凹んじゃって」


 謝ったあと、リサは膝の上で指先を重ねた。

 さっきより声は落ち着いている。

 でも、完全にいつもの調子へ戻ったわけではなかった。


 マサキは一度だけリサを見る。


「気分あがってるように見えたか?」


 淡々とした声だった。

 責めているわけではない。

 ただ、事実を確認しているだけだった。


 リサは少し目を丸くして、それから苦笑する。


「疲れたーって顔してた」


「うん」


 短い肯定だった。

 マサキはそれ以上を足さない。


 ステージで歌った後なのに、得意げなところは少しもない。

 成功したとか、盛り上がったとか、そういう気分でもないらしい。

 ただ、やることが終わって、静かに一息ついているだけだった。


 その様子を見ると、リサの中に残っていた熱が少しだけ落ち着いた。


 ステージの上にいたマサキは、あんなに遠かった。

 けれど、目の前にいるマサキはいつものとおりだった。


「無理にまわらなくていいよ?休んでる?」


「もう疲れてない」


 即答だった。

 その返事に、リサは息を吐く。


「ウソだねぇ」


 困ったように、柔らかく笑いながら言葉が落ちる。


「なんで」


 マサキの短い問いに、リサは目線を泳がせた。

 冗談にするには、少しだけ気まずい。


「あたしと文化祭まわるって約束したから、破れないって思ってそう」


 言い終えると、少しだけバツが悪そうに顔を背けた。


 マサキは一瞬止まって、それから静かに首を振る。


「……ほんとに疲れてない」


 その言葉は、強がりには聞こえなかった。

 しかし、身体がまったく疲れていない、という意味でもない。


 ただ、マサキの中では、それが休む理由になっていない。

 リサと文化祭を回る約束の方が、自然に上に来ている。


 たぶん本人は、そのことを特別だとは思っていない。

 だから余計に、リサは返す言葉に迷った。


 深く聞くと、今度は自分の方が変な顔をしそうで、リサは話題を変える。


「ステージどうだった?緊張した?」


 少しだけ間を空けてからの問いだった。

 まだ、この教室の空気を終わらせたくなかった。

 もう少しだけ、目の前のマサキの話を聞いていたかった。


 マサキはコーラの缶を指先で軽く回しながら、机を見る。


「………ステージの脇にいた時は、してたかも」


「ギターのやつに、ライトで客席なんて影になるって言われて」


 リサは静かに頷いた。

 マサキが少しずつ話してくれている。

 それが、リサには嬉しかった。


 急かさないように、相槌だけを返す。


 マサキは机を見たまま続けた。


「実際に、そうだった」


 ステージの上からは客席がはっきり見えなかったのだろう。

 だからマサキは、見られている怖さを少しだけ横に置けた。


「視線がなくなったわけじゃないけど、こっちは見えないから」


 見られていることは分かる。

 でも、顔までは見えない。

 その曖昧さが、マサキには少しだけ助けになっていた。


「そこまで気にしなくて良かった……ていうのと」


 リサは言葉を挟まない。

 ただ、続きを待つ。


「音が始まると、曲の形だけ考えてたから」


「曲の形って?」


 リサが少し身を乗り出す。

 難しいことは分からない。

 でも、マサキが何を考えて歌っていたのかは知りたかった。


 マサキは少しだけ考えてから、淡々と説明する。


「どこを強くするとか、どこで抜くとか、どう繋ぐとか……そういうの」


 リサは二度、軽く目を瞬かせた。


「へぇ……へぇぇぇ」


 リサには、歌の技術までは理解できない。


 でも、なんとなく分かる。

 どこを目立たせて、どこを抑えて、どう次へ繋げるのか。

 そういうことを、マサキは歌いながら当たり前みたいに処理している。


 自然に上手いのではなく、上手く聞こえるように、ちゃんと曲の中を見ている。


(すごぉ…)


 マサキは頷く。


「思ってたよりは、やりやすかった」


 少しだけ間が空く。


「でも……最後拍手があって、ライトが少しずつ落ちてったから……」


 そこで言葉が途切れる。


「……あれが1番きつかった……」


 その一言を聞いて、リサは息を止めた。


 マサキは、拍手が嬉しくなかったわけではない。

 でも、そこで気分が上がる人でもなかった。


 ライトが落ちて、曲が終わって、拍手だけが残る。

 その瞬間に、自分がみんなに見られていたことが、遅れて戻ってきた。


 マサキは注目されるのが平気になったわけじゃない。

 すごいことをしても、苦手なものは苦手なまま。


(可愛いな…)


 リサはそれ以上は聞かなかった。

 代わりに、ふっと笑う。


「マサキくんがステージで歌うって聞いたらさ、クラスの店番以外の人たちみんな体育館に来てたよ」


「……は?」


 マサキの顔が動く。


 リサは楽しそうに続ける。


「ミオも生徒会の手伝い抜け出して来てた」


「……」


 マサキはそのまま机に突っ伏した。

 顔を隠すように腕を重ねる。

 そして、ようやく一言だけ出す。


「やめてくれ……」


 小さく、でも確かに本音だった。


 その反応に、リサは少しだけ安心する。

 ステージの上では、あんなに遠く見えたのに。

 でも、こうして目の前で困っているマサキは、ちゃんといつものマサキだった。


 リサはすぐに頷く。


「うん」


 それから少し間を置いて、ふと思い出したように顔を上げる。


「あ、でも最後に言わせて」


 マサキは顔を上げないまま返す。


「……なんだ」


「マサキくんすごいカッコ良かった」


「最初にそれ聞いた」


「もっかい言いたかったんだもん」


 少しだけ場がほどける。

 さっきまで重かった雰囲気が、ゆっくり軽くなっていく。


 リサはもう、無理に明るくしているわけではなかった。

 遠く見えたマサキを、もう一度、自分の前にいるマサキとして見ている。


 だから今度は、ちゃんと言える。


 かっこよかった。

 すごかった。

 遠くに行ってしまったわけじゃない。


 マサキはようやく顔を上げる。

 目線はすぐには合わず、わずかに横へ逸れた。

 耳のあたりが少しだけ赤い。


「………そうか」


 今度のそれは、さっきより少しだけ小さく、少しだけ照れたように落ちた。


 ー


 マサキは目線を上げて、教室の空気を思い出すように言った。


「リサが言ってたとおり、あいつら上手かったな」


 その一言に、リサの動きがほんの一拍だけ止まる。


 反射で返せそうなのに、昨日のやり取りが頭の端に引っかかって、<上手いって言ったらちょっと面倒なやつだ>という感覚だけが先に立つ。


 リサは言葉を探してから、頷いた。


 マサキはその間の揺れを見て取って、缶を軽く回しながら言う。


「昨日は悪かったって。上手いって言っていいよ」


 前日の空気を覚えているからこその、軽い訂正だった。

 リサはその一言で、肩の力を抜く。


「そだね」


 声が少しだけ硬い。

 明るく返そうとしているのに、どこかぎこちない。


 マサキはその変化を拾って、息を短く吐いた。


「やめろって」


 リサはそこで一度だけ瞬きをして、切り替えるように軽く笑った。


「なんかね、小さいライブハウスでたまに演奏してるらしいよ」


「ライブハウス…」


 マサキはその単語を一度だけ口の中で転がす。

 知らない場所の輪郭を探るみたいに。


「ライブハウスとか、行ったことある?」


 マサキなら一度くらいあるだろう、という前提で聞いた。

 そこに合わせて話を広げるつもりだった。


「ない」


「あたしもない」


 素直に返してから、リサは一拍遅れて瞬きをした。

 自分の聞き方だけが、少し知っている側みたいだった。


「ないのか…」


 思わず出たマサキの声は、少しだけ意外そうに落ちる。


 リサは肩をすくめる。


「興味ある?」


「んー…」


 曖昧な間が落ちる。


 リサは目線を横へ逃がす。


「まぁ、人は多いかな」


 興味があるなら、一緒に行ってみたい。


 でも、マサキは人の多い場所が得意じゃない。

 行きたい、と言う前に、断れる理由を置いておく方が先だった。


 行く前提にはしない。

 誘い切らない。

 そういう着地だった。


 マサキはそこで一度だけ顔を上げる。


「いや、リサと一緒なら平気だけど」


「っ?!」


 リサの肩がぴくっと跳ねる。

 言葉より先に、息が止まった。

 胸元が上下に揺れて、そのまま動きが固まる。


 まだ誘ってもいない。

 行こうとも言っていない。

 なのにマサキの中では、最初からリサが隣にいることになっていた。


「左様で?!」


 声が少しだけ上ずる。


 マサキは気づかないまま、少しだけ間を置いてから続ける。


「………左様です」


 リサは口元を押さえかけて、途中でやめる。

 代わりに目線だけが忙しく泳いでいる。


「あ、あの……それって。一緒にライブハウス行ってくれるってこと?」


 さっきまでの軽さが、声から少し抜けていた。


 マサキはそこで一度だけ、リサの顔から目を外した。

 さっき自分が言った『リサと一緒なら平気』が、今の流れを作っているのは分かる。


(オレが行きたがってると思って、合わせてるのか?)


 マサキは首をかしげる。


「行きたい?」


「マサキくんと出掛けられるならどこでもいいんだけど……」


 言ってから、リサは自分でも少し言いすぎたことに気づいたみたいに、すぐ顔を背けた。

 耳のあたりがわずかに赤い。


 マサキはその違いに、少し遅れて気づく。


 自分は、人が多くても平気な条件として言っただけだった。

 でもリサは、場所よりも自分と出かけることを先に置いている。


 缶を持つ指先がわずかに固まる。


(……これって、どっか誘った方がいい流れか……?)


 以前なら、ここで一度止まっていた。

 負担じゃないか。

 誤解されないか。

 自分でいいのか。


 その全部が壁になって、結局何も言わないまま終わる。


 だが今は、その壁が少し薄い。


 自分が断って距離を取ったところで、リサの周りから人がいなくなるわけじゃない。

 むしろ空いた場所に、別の誰かが当然みたいに入ってくる。


 前にも、それで面倒なことになった。


 断っても守れない。

 距離を取っても状況は動く。


 なら、ここで止める理由は一つ減る。


 けれど、それだけで誘う理由になるわけじゃない。

 残るのは、もっと単純な感覚だった。


(リサが行くなら、オレも行くでいいか)


 マサキにとって文化祭は、もともと得意な行事じゃなかった。

 人は多い。

 音はうるさい。

 どこへ行っても誰かがいて、何かが起きている。


 ステージのあとも、疲れていないわけじゃなかった。


 それでも、さっきリサに『休んでる?』と聞かれたとき、休む方を選ぶ気にはならなかった。

 リサと文化祭を回る約束の方が、自然に上に来ていた。


 思い返しても、嫌だった場面が出てこない。


 店番の途中で、リサが何度も顔を見に来たこと。

 用事もないのに「顔見に来ただけ」と言って、レジ横に立っていたこと。

 チュロスも、ポテトも、クレープも、当たり前みたいに同じ場所から食べていたこと。


 自分が少し気になった展示に、リサがすぐ気づいたこと。

 ロボットを見て目を輝かせていたこと。

 ジオラマの小さな洗濯物や寝ている人形を見つけて、自分より楽しそうにしていたこと。

 暗い教室の映像を見上げて、「学校じゃないみたい」と呟いていたこと。


 お化け屋敷で強がりながら腕を掴んできたこと。

 他の演奏を聴いたあと、面倒な嫉妬まで拾われて、それでもリサが笑っていたこと。


 騒がしかった。

 でも、楽しかった。


 文化祭前の池沢との会話が、まだ頭の奥に残っている。


『こういうのって、何がやりたいとかじゃなくて、誰とやるかじゃん』


『ちょっと苦手なことでも、そいつと一緒にやってれば楽しいって思うの』


 その時は、分かったような、分からないような感じだった。

 でも今なら、少しだけ分かる気がする。


 苦手な場所でも。

 騒がしい場所でも。

 隣にリサがいるなら、嫌なものにはならない。


(また、リサと楽しいことしたいって思ってる)


 その言葉が頭に浮かんで、マサキは少しだけ止まる。


 前は、そこで弾いていた。

 でも今は、完全には止まらなかった。


 マサキはしばらく、缶のコーラを指先で回していた。


「……甘いの、好きだよな」


 独り言みたいな声だった。


 リサが顔を上げる。


「うん、好きだけど」


 即答。


 マサキはそのまま少し黙る。


 リサが喜びそうな場所を考える。

 そうすると、最初に浮かぶのは甘いものだった。

 チュロスも、クレープも、タピオカも、リサは嬉しそうにしていた。


 だったら、スイーツ系でいい。

 そう思ったところで、また少し止まる。


 行こう、と言うのは強い気がした。

 自分が行き先を決めて、リサを連れていくみたいになる。

 行かないか、と聞くのも、少しだけ慣れている人間の言い方に聞こえる。


 そこまで自然には出せない。


 だから、候補として出す。

 決めるのはリサに残す。

 自分から言っているのに、最後だけは確認の形にする。


「スイーツの食べ放題とか……行く?」


 言い切ったあとで、少しだけ目線が横にずれる。

 いろいろと…短い。

 リサの反応を見るのが、ほんの少し遅れる。


「え、マサキくんと一緒にってこと?」


「……うん」


 自分で言っておいて、少しだけ引っかかる。

 甘いものは別に好きじゃない。

 むしろ積極的に選ぶタイプでもない。


 リサはじっとマサキを見ていた。

 疑っているというより、確認している目だった。


「甘いのあんまり食べないじゃん」


 マサキは目線を外した。


「……まあ」


 曖昧に流す。

 理由を説明するのが少しだけ面倒で、でも嘘にするのも違う気がした。


 リサの言葉は、途中で少しだけ熱を落とした。


「あたしのため?」


 期待ではない。

 <そうじゃなくてもいい>という意味だった。


 マサキは一度だけリサを見る。

 缶の縁を指で軽く叩いたまま、少しだけ間を置く。


「……嫌ならいい」


 逃げるような言い方でもなく、押すでもなく。

 ただ選択肢として置いただけの声。


 リサは固まって、それからゆっくり首を振った。


「嫌じゃない」


 少しだけ間を置いて。


「むしろ行きたい」


 その言い方は、さっきより少しだけ温度が上がっていた。


 マサキはそこで一度だけ息を吐く。


(行くか)


 決まるのは早い。


 口を開きかけた、その直前。

 リサが先に言う。


「でもさ、マサキくんも楽しめる場所がいいよ」


 気を遣う側の距離の取り方だった。


 マサキは止まる。

 それから、静かに返す。


「そこは大丈夫。リサがいるから」


 言ったあとに、余計な説明は足さない。

 ただ事実として置いた。


 リサの動きが止まった。


 スイーツは大丈夫、ではない。

 自分がいるから大丈夫。


 そこまで意味が追いついた瞬間、リサの顔に熱が上がる。

 喜んでいいのか、照れていいのか、突っ込めばいいのか、その全部が一度に来たみたいに、目線だけが忙しく迷った。


「……え、待って」


 座り直そうとしていた動きが、中途半端なところで止まる。

 リサは何でもないふりをしようとして、失敗したみたいに顔を背けた。


「いやいや、待って。今のは、えっと……」


 言葉が一度そこで詰まる。

 代わりに、耳まで赤くなっていた。


「それはずるい」


 ようやく出てきた声は、少しだけ上ずっていた。


「やだ、顔熱い。ちょっと、こっち見ないで」


 言いながらも完全には隠れきれなくて、肩が小さく揺れている。


 マサキはそのままの位置で止まる。


(なんでだ?)


 思考が止まるが、結論は出ない。


「見てない」


 リサは即座に食い気味で返す。


「見てる! 今絶対見てるでしょ!」


 でも声は怒っていない。

 どうにか誤魔化そうとしているだけだった。


 一拍置いて、リサはようやく少しだけ顔を上げる。

 目線はまだ完全には合わない。

 それでも、口元だけは笑ってしまっていた。


「……ほんとにさ」


 息を吐く。


「マサキくん、そういうの急に言うのやめてもろて。心臓に悪い」


 最後はほとんど呟きだった。


 マサキは少しだけ間を置いてから、淡々と返す。


「事実」


 その一言で、リサはまた顔を逸らした。

 少し遅れて、ようやく呼吸が落ち着いてくる。

 それでもまだ、さっきの熱だけは引いていなかった。


「いつ?」


「空いてるとき」


「週末あいてる」


 リサは嬉しそうというより、少し安心した顔をしていた。


 その表情を見て、マサキはふと気づく。


(これ、たぶん<誘った>んだよな)


 頭の中でだけ、少し遅れて理解が追いつく。

 リサは足を軽く揺らしながら、缶を両手で包む。


「めっちゃ楽しみー」


「……ああ」


 マサキは短く返す。

 その一言のあと、少しだけ遅れて思う。


(甘いの、そんなに好きじゃないのに…楽しみになってる)


 理由は、まだちゃんと形になっていない。

 それでも、今はこれで十分だった。


 ◇   ◇


 二人は文化祭の後片付けのため教室へ戻っていた。


 廊下はまだ、文化祭の延長みたいに騒がしい。


 教室のドアを開けた瞬間だった。


「おい来た!」


 最初に声を上げた男子が、机から勢いよく立ち上がる。

 それを合図みたいに、数人が一斉に振り向いた。


「マッツ!お前マジで何なんだよ!」


「バンドやってるやつより上手かっただろ!」


「いやガチで、今日一番持ってったのお前だって!」


 次々に言葉が飛ぶ。

 笑い混じりなのに、全部本気の熱が残っていた。


 マサキは一歩止まる。

 目線を一度だけ落とす。


「……」


 何も返さないまま、半歩だけ後ろに下がる。

 そして、その動きの途中で気づいたように、隣にいたリサの背中側へ寄った。

 リサの後ろに、半分だけ隠れる形になる。


 リサの肩が、小さく揺れた。


(え、待って)


 さっきまでステージの上にいた。

 体育館の空気を変えて、歓声を浴びて、誰もが見ている場所で歌っていた。

 あんなに遠く見えたのに。


 今は、自分の背中の後ろにいる。


 隠れている。

 肩を縮めて、褒め言葉から逃げるみたいに、自分の影へ入ってきている。


(なにこれ)


 かっこよかった。

 それはもう、何度でも言えるくらい本当だった。

 でも今のこれは違う。

 かっこいいのあとに、急に可愛いが来た。

 しかも、自分の後ろで小さくなっている。


 遠いと思ったはずなのに、背中に触れそうなくらい近い。

 その落差に、リサの頭の中だけが一瞬うまく動かなくなる。


(可愛すぎか)


 リサはふっと息を吸って、マサキを隠すように一歩だけ横へずれた。


「ちょっと待って、みんな圧がすごいよー」


 笑いながら言う。

 声はちゃんといつもの調子に戻した。

 でも内側では、まだ少しだけ処理が追いついていない。


「いや、あれはすごすぎだろ!」


「だってマッツだぞ! あれ反則だろ!」


「文化祭で一番目立ってたぞ!」


 教室の熱だけが、さっきのステージに引き戻されたみたいに揺れていた。


 その横で、女子たちも少し遅れて口を開く。


「ほんとにすごかったねー、松前くん」


「歌ってるとき、別人みたいだった」


「なのに、いま如月さんの後ろに隠れてるっていう」


「如月さんが守ってる絵面が最高」


 最後の言葉に、リサの耳が少しだけ熱くなる。


 実際、マサキは自分の後ろにいる。

 そして自分は、ちゃんとその前に立っている。


「やめろって……」


 後ろから、かすれた声が落ちる。

 マサキはまだリサの影にいるまま、顔を出さない。


 リサはその気配を感じて、振り返る。

 目線が合わないまま、横顔で笑った。


「消えそうになってる」


 柔らかい声だった。

 からかいじゃなくて、少しだけ距離を下げるみたいな言い方。


「消えれるなら消えたい」


 即答はするが、位置は変わらない。


 そのやり取りに、周囲が一瞬だけ笑う。


「いやガチで照れてんじゃんマッツ」


「ギャップえぐいなマッツ」


「ステージと別人すぎるだろマッツ」


 その呼び方に、マサキの眉がわずかに寄った。


「……誰がマッツだ」


 後ろから、ぼそっと抗議だけが出る。

 ただ、勢いはない。

 リサの背中の後ろから聞こえてくるせいで、余計に迫力がなかった。


 リサは口元を押さえかけて、ぎりぎりでやめる。


(可愛い)


 さっきまで遠かった。

 ステージの上にいて、自分とは違う場所に立っているように見えた。

 でも今は、褒め言葉から逃げる場所として、自分の後ろを選んでいる。


 それが分かった瞬間、みぞおちのあたりが変にくすぐったくなる。


 リサは、マサキを隠す位置を少しだけ直す。


 ステージに立っても、歓声を浴びても、結局マサキはマサキのままで。

 そのマサキが、自分の後ろにいる。


 そう思うと、さっきまで遠く見えていたぶんだけ、逆に近さが強くなる。


 言葉が重なるたびに、マサキの肩がわずかに下がる。

 リサの背中の影に収まる位置が、少しだけ深くなる。


 リサは息を吐いて、


「うんうん、あんまり褒めすぎるとマサキくん逃げちゃうからね」


 冗談みたいな言い方なのに、ちゃんと線を引く。

 その一言で、少しだけ場が緩む。


 男子たちは「はいよー」と笑いながらも、まだ興奮が残ったまま荷物整理に戻っていく。

 女子たちも「あとでちゃんと感想言わせてね」と笑いながら、片付けの手を動かし始めた。


 マサキはようやく、リサの後ろから半歩だけ出る。

 それでも完全には前に出ず、目線だけを教室の端へ落としたままだった。


 リサは横目でそれを見て、肩をすくめる。


「しばらく忙しいかもね」


「……勘弁してほしい」


 返す声は、さっきより少しだけ低い。


 リサはそれを聞いて、楽しそうに笑った。


挿絵(By みてみん)

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