文化祭2日目 ~ステージは後ろで聴くはずだった1~'
2日目の文化祭。
昨日ほどの混雑ではない。
それでも校舎全体には、まだ熱が残っていた。
マサキとリサは、今日は教室内の移動をやめて、外の模擬店エリアから体育館へ向かうルートを歩いていた。
屋台の方から、焼きそばや唐揚げの匂いが流れてくる。
その中に甘い匂いも混ざっていて、人の流れと遠くの歓声が、文化祭らしい騒がしさを作っていた。
リサが歩くたび、制服のスカートが軽く揺れて、脚の動きに合わせて線がすっと流れる。
「午前中のステージさ、今日もいい場所とるでしょ?」
歩きながら、リサが言う。
今日はまだ何も持っていない手が、ふらっと揺れていた。
マサキは即答する。
「後ろでいい」
「えー、マサキくんまだ嫉妬してるの?かわいー」
「音聴ければいいって昨日も言った」
「言ったねー」
リサは楽しそうに笑いながら、横目でマサキを見る。
身体を左右に振る動きで、胸元がふわっと空気を含んだように揺れてすぐ収まる。
マサキの目線がそこへ引き寄せられる。
すぐに顔へ戻した。
マサキはそれ以上返さない。
ただ、歩く速度だけは変わらなかった。
体育館へ向かう途中、模擬店の並ぶ一角を通る。
油のはねる音。
焼ける音。
甘い匂い。
色んな匂いが混ざって、頭がぼんやりする。
その中で、マサキが足を止めた。
「ちょっと待て」
「ん?」
リサが振り返る。
マサキは目線だけ横へ流した。
「リサ、先に食べないともたないだろ」
「なんの心配?」
「リサの腹が途中で減る心配」
即答だった。
リサはぱっと目を丸くして、それから笑い出す。
「あのね、子供じゃないんだから我慢できるって」
そう言いながらも、目線はもう別方向へ向いていた。
揚げたてのアメリカンドッグ。
紙袋へ入れられていくそれを、何度か横目で追っている。
(わかりやすいな……)
マサキはゆっくり息を吐いた。
「あれ食べたいのか」
何気ない声だった。
リサが止まる。
「はっ」
明らかに変な間。
「いやいやいや」
マサキは同じトーンで繰り返す。
「あれ」
「いやいやいや」
会話になっていなかった。
認める前に全力で逃げている。
でも目線だけは正直だった。
揚げ物の列を、また横目で追っている。
マサキは静かに言った。
「いらないか」
「いりますっ」
今度は即答だった。
◇ ◇
二人はそのまま屋台へ並び、アメリカンドッグを買って外のベンチへ移動した。
模擬店の喧騒から少し離れた場所。
風が抜ける。
油の匂いも薄かった。
リサは紙袋からアメリカンドッグを取り出す。
一口かじった瞬間。
「……あちっ」
思わず声が漏れた。
口元を押さえ、少し後ろへのけぞる。
マサキは反射的にそっちを見る。
しばらくして、リサがようやく齧った分を飲み込んだ。
涙目のまま、息をゆっくり吐く。
「赤くなってない?」
何気ない動きで、ぺっと舌を出す。
(簡単に人に舌を見せるな……)
反射みたいなツッコミだった。
でも口には出さない。
「……なってない」
ひと言だけ返す。
リサは満足そうに頷いた。
「よかった」
そして何事もない顔で、食べかけのアメリカンドッグをマサキへ差し出す。
「はい、あーん」
マサキの動きが止まる。
目線だけが、差し出されたアメリカンドッグへ落ちた。
「…人目」
小さく呟く。
視線は周囲へ向いていた。
ベンチの周りには、模擬店帰りの生徒や、紙皿を持ったまま立ち止まる人影がちらほらいる。
リサはきょとんとして、それから「あー」と納得したように頷いた。
「仕方ないなぁ」
そう言って、立ち上がる。
次の瞬間。
リサはベンチに座ったままのマサキの正面へ回り込んだ。
迷いのない動きだった。
でも立ち位置だけが、やけに計算された場所だった。
人の流れから、ちょうどマサキだけを隠す位置。
(え、待て)
次の瞬間、さらに距離が詰まる。
マサキの目線へ合わせるように、リサが少し腰を落とした。
その動きで、視界の中心が強制的に固定される。
目線の高さに来たのは、リサの胸元だった。
服の隙間から覗く肌。
鎖骨。
その奥に見える柔らかいライン。
「ーっ」
マサキの呼吸が止まる。
意識の半分が持っていかれる。
リサはそんなことを気にした様子もない。
腕を伸ばす。
顎へ軽く手が添えられた。
「はい、あーん」
さっきと同じテンション。
物理的な状況だけがおかしい。
マサキは固まる。
(なにこれ!?)
脳内だけが全力で叫ぶ。
リサは普通に待っていた。
「ほら」
軽く促される。
マサキは観念したように、少しだけ前へ出た。
息を潜めながら口を開ける。
リサが齧った場所と同じ場所を、一口だけ。
カリッ、と音が鳴る。
塩気。
肉汁。
そのまま咀嚼する。
「うま?」
真正面から聞かれる。
マサキは目を合わせられないまま答えた。
「うま」
その瞬間、リサは満足そうに頷いた。
(これ、何の儀式だよ……)
そう思いながらも、口には出せなかった。
◇ ◇
体育館裏の控えスペースは、文化祭特有の熱気で満ちていた。
午前中のステージ発表を見に行こうと、廊下には人の流れが途切れない。
ステージ袖からは、演奏音と歓声が断続的に響いてくる。
マサキとリサは、その少し外れた場所で立ち止まっていた。
「せめて1曲だけでいいっ!」
「あとは何とかするから」
「無理」
マサキは即答する。
クラスの男子たちは、もう十分近く粘っていた。
本番直前になって、バンドのボーカルが体調を崩したらしい。
急遽、代役が必要になった。
ただ、誰でもいいわけではない。
このバンドは文化祭の即席ではなく、外部のライブハウスにも出る程度には形が出来ている。
中途半端な代役では崩れる。
だからこそ、マサキへ声が掛かった。
「頼むって、ほんとに時間ないんだよ」
切羽詰まった声だった。
マサキは数秒だけ黙る。
事情は理解した。
でも、それとこれは別だった。
「……無理」
もう一度言う。
「人前で歌ったことない」
「失敗するに決まってる」
「台無しにしたくない」
本気で無理だと思っている声だった。
男子たちは顔を見合わせる。
それでも引かなかった。
「だから頼んでる」
「成功したいから、お前に頼んでる」
「形にできるやつが必要なんだ」
マサキは黙る。
意味が分からなかった。
(歌が上手いから今やれるってのは、おかしいだろ)
歌えることと、人前に立てることは別だ。
そんなこと、自分でも分かっている。
男子生徒のひとりが、助け舟みたいにリサを見る。
「如月さんからも頼んでよ」
「あ、あたし?」
急に振られたリサが目を丸くする。
マサキは何も言わない。
人前に立つ側の人間なら、ステージに出る意味も、出たあとの景色も分かっている。
だからマサキを押してくれるはずだと、そう見られているのが分かった。
リサは少し迷うように目線を落としてから、息を吐いた。
「あたしは……申し訳ないんだけど、あたしは反対寄り」
場が静まる。
頼めば押してくれると思っていたのか、男子たちも意外そうな顔をした。
「え、なんで? 如月さんも松前が歌上手いって知ってるよね?」
リサはすぐに頷いた。
そこを否定する気はない。
「ステージに立つことって、最初は怖いから。心の準備が出来てないと、無理で……。だから、いくら歌が上手くてもね。リハーサルもないままは、キツイと思う」
マサキの目が少しだけ動く。
<出来る>と<今やれる>を別にして話しているのはリサだけだった。
男子たちは何も言えなくなる。
けれど、完全に納得した顔でもなかった。
「じゃあ、如月さんはどうやって…?」
責める声ではなかった。
ただ、人前に立つ側にいるリサなら、その怖さをどう越えたのか知っていると思ったのだろう。
リサは少しだけ言葉に迷った。
確かに、自分はそれでも立つ側を選んだ。
オーディションに、リハーサルなんてない。
リサは、遠くを見るみたいに笑う。
「あたしの場合はね。ステージに立つ怖さよりも、チャンスを逃したくないって気持ちの方が大きくなったからなの」
言いながら、カバンの紐を握る指先へ力が入る。
「ミオの受け売りっていうか、ミオの先生の受け売りなんだけど……どっちでもいいか」
軽く笑いながら、でも途中から声の熱が変わっていく。
「ミオが入学式の挨拶頼まれたとき、最初は断ったんだって。そしたら先生が、『無理なら無理で全然構わない。でもこういうチャンスは誰にでも巡ってくるとは限らない』って」
マサキは何も言わない。
ただ、瞬きを一回だけ遅らせる。
「まぁ、ここまではよくある話なんだけどさ」
リサは言葉を切った。
「次に先生、『今回は逃していい。だけど次のチャンスは逃さないように準備しておけ』って言ったんだって」
マサキは黙ったまま聞いている。
「あたしにはさ、次のチャンスはないと思ったんだよ。マサキくんやミオみたいに、<その人だから頼まれる>みたいなの、あたしにはないから」
その途中で、リサは笑おうとして、やめた。
代わりに、目線がほんの少しだけ下がる。
オーディションは、誰かが自分のために用意してくれる場所じゃない。
自分で行って、その場で見られて、駄目ならそれで終わる。
「焦っちゃって……それは言い訳かもだけど、本当にひどい結果だった。立ち直れないかと思った」
マサキはその言葉の最後で、ようやくリサを見る。
何かを否定しようとして、言葉が止まった。
今のリサに、ただ「違う」と言うだけでは足りない気がした。
そこでリサは、もう一度だけ顔を上げた。
「だから、マサキくんには……そういう思いしてほしくない」
場が静まる。
マサキはしばらく何も言わなかった。
やがて、口を開く。
「そうか、わかった……」
リサが少し安心したように息を抜く。
その直後だった。
「やっぱ出るわ」
「え、話聞いてた?」
マサキは静かに返す。
「聞いた」
少し間。
「……だから」
リサはぽかんとした。
リサはマサキを追い込むために話したわけじゃない。
出なくてもいい理由を、残そうとしてくれた。
だから、それ以上は言葉にしなかった。
ただ、頭の奥ではぼんやり考えていた。
(平気じゃなくても出てるやつがいる)
(怖くても立つ人がいる)
リサだって、最初から平気だったわけじゃない。
怖くて。
失敗して。
壊れかけて。
それでもチャンスを逃したくなくて立った。
なら……。
◇ ◇
「リハーサルもなしなんだよ?」
「そこは別に大丈夫」
マサキは即答した。
問題は、そこじゃない。
男子生徒が慌ててスマホを差し出す。
「この曲なんだけど…」
マサキは画面を見た瞬間、顔をしかめた。
「うわ、知らね」
「曲変えよう」
「うん、変えよ変えよ」
即座にまとまりかける空気。
だがマサキは首を振った。
「いや、いい」
リサが思わず身を乗り出す。
「え、知らない曲なの? ……大丈夫?」
「リサ」
反射的にリサが顔を上げる。
マサキはイヤホンを受け取りながら、いつもより低い声で言った。
「悪いけど、少しだけ静かにしててくれるか」
「……うん」
リサは素直に引き下がる。
マサキはそのままイヤホンを耳へ入れ、壁際へ移動した。
数秒前まで「出たくない」と言っていた人間とは思えない切り替えだった。
イヤホン越しの音だけを追う。
目が細くなる。
サビの入りを見つけたみたいに、一度だけ呼吸が整った。
前にミオが、マサキの勉強の仕方を見て、覚えたものを正確に当てはめるのは得意と言っていたことがある。
問題ごと覚えてしまうから、少し形が変わると止まる。
でも、一度掴んだ形に合わせるのは速い。
それはたぶん、勉強だけの話じゃなかった。
知らない曲でも、マサキは曲の入り方や盛り上がり方を掴むと、そこへ自分の声を当てはめていく。
リサはその背中を見ながら、頭の中がざわついていた。
(え、あたしのせい?)
(出たくないって言ってたのに、あたし反対って言ったよね)
(言い方間違えた?)
(『チャンスを逃すな』のとこだけ拾っちゃった?)
でもマサキはもう返事をしない。
イヤホン越しに曲を聞きながら、静かに目を閉じていた。
◇ ◇
ステージ前の観客席は、すでに人で埋まり始めていた。
午前の発表が続く中で、このバンドの枠だけ妙に空気が違う。
「……ほんとに出るの、あいつ」
クラスメイトの誰かが小さく言う。
「歌は上手いのは知ってるけどさ」
「カラオケとステージって別物だろ」
知っているからこそのざわつきだった。
その少し後ろに、リサとミオが並んで座る。
ミオの腕には、生徒会の腕章がまだ残っていた。
外す暇もなく抜けてきたのか、席に着いてからようやく息をつく。
「間に合ったね」
リサが小声で言うと、ミオはステージの方を見たまま頷いた。
「うん、ギリギリだった」
リサも息を吐きながら、ステージ袖の方を見る。
「抜けてきてよかったの?」
「こっちは仕事より優先」
間を置かない返事だった。
ミオはまだ腕章を外さないまま、隣で姿勢を正す。
「松前くんは、大事なお友達だからね」
理屈というより、当たり前のことみたいな口調だった。
リサはその横顔を見て、目を細める。
ステージの方から、楽器の音と短いマイクチェックが断片的に漏れてくる。
そのとき、リサの席に近い通路側で、ユヅキが缶コーヒーを片手に立っていた。
昨日に続いて今日も顔を出していたらしい。
観客席には入らず、体育館の端からステージの方を見ている。
「ゲーセンの時も思ったけどさ」
確認に近い声。
「松前くん、音の取り方が普通じゃないんだよね。あれは普通に期待できる」
リサはその言葉を横目で聞きながら、すぐには反応できなかった。
ユヅキは、マサキがステージに立つことを不安に思っていない。
そこで「でも」と言えば、自分がマサキを信じていないみたいになる。
でも、何も心配していない顔で頷けるほど、リサの中は落ち着いていなかった。
だから曖昧に目線だけを戻して、ステージ袖の方を見る。
一方で、クラスメイトたちもまだ落ち着かない。
「技術があるけど性格の問題っていうか」
「あいつ、人前に立つタイプじゃないのに」
「松前がステージにいるって想像できない」
少し前までなら、マサキはそこまで視線を集める生徒ではなかった。
けれどリサと一緒にいるところを何度も見られて、なんで松前ばっかり、と茶化されているうちに、いつの間にか完全な無関係ではなくなっていた。
歌が上手いことも知っている。
人前に立つタイプじゃないことも知っている。
だからこそ、誰も簡単には落ち着けなかった。
不安の正体は、実力じゃない。
<未知>だった。
リサはその言葉を聞きながら、ゆっくり顔を上げる。
(マサキくん……)
その時、スピーカー越しに、バンド名が呼ばれた。
体育館の空気が一瞬だけ凝固する。
バンドメンバーが一斉に動き出した。
ケーブル。
立ち位置。
マイクの高さ。
確認というより、反射に近い動きだった。
「入りだけ合わせる」
「カウントだけ出して」
その途中で、メンバーのひとりがマサキを見る。
「松前」
落ち着いた声で続けた。
「ライト眩しいから、客席なんてほぼ影だよ」
励ましではない。
事実をそのまま置いていくような声だった。
マサキは目を細める。
目がステージの奥から客席へ向かいかけて、そこで止まる。
「……分かった」
短い返事。
迷いはない。
でも勢いもなかった。
誰も「大丈夫か」とは聞かない。
マサキはマイクを受け取る。
金属の冷たさが手の中に残った。
袖の外から拍手が大きくなる。
次の演目が完全に呼び出される気配。
「行くぞ」
その一言で、全員が動く。
マサキも一拍遅れて、光の方へ踏み出した。





