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距離感ゼロの如月さんと自己評価ゼロのオレ  作者: 空色いろはに
文化祭当日 編

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104/111

文化祭2日目 ~ステージは後ろで聴くはずだった1~'

 2日目の文化祭。

 昨日ほどの混雑ではない。

 それでも校舎全体には、まだ熱が残っていた。


 マサキとリサは、今日は教室内の移動をやめて、外の模擬店エリアから体育館へ向かうルートを歩いていた。

 屋台の方から、焼きそばや唐揚げの匂いが流れてくる。

 その中に甘い匂いも混ざっていて、人の流れと遠くの歓声が、文化祭らしい騒がしさを作っていた。


 リサが歩くたび、制服のスカートが軽く揺れて、脚の動きに合わせて線がすっと流れる。


「午前中のステージさ、今日もいい場所とるでしょ?」


 歩きながら、リサが言う。

 今日はまだ何も持っていない手が、ふらっと揺れていた。


 マサキは即答する。


「後ろでいい」


「えー、マサキくんまだ嫉妬してるの?かわいー」


「音聴ければいいって昨日も言った」


「言ったねー」


 リサは楽しそうに笑いながら、横目でマサキを見る。

 身体を左右に振る動きで、胸元がふわっと空気を含んだように揺れてすぐ収まる。

 マサキの目線がそこへ引き寄せられる。

 すぐに顔へ戻した。

 マサキはそれ以上返さない。

 ただ、歩く速度だけは変わらなかった。


 体育館へ向かう途中、模擬店の並ぶ一角を通る。

 油のはねる音。

 焼ける音。

 甘い匂い。

 色んな匂いが混ざって、頭がぼんやりする。


 その中で、マサキが足を止めた。


「ちょっと待て」


「ん?」


 リサが振り返る。

 マサキは目線だけ横へ流した。


「リサ、先に食べないともたないだろ」


「なんの心配?」


「リサの腹が途中で減る心配」


 即答だった。

 リサはぱっと目を丸くして、それから笑い出す。


「あのね、子供じゃないんだから我慢できるって」


 そう言いながらも、目線はもう別方向へ向いていた。

 揚げたてのアメリカンドッグ。

 紙袋へ入れられていくそれを、何度か横目で追っている。


(わかりやすいな……)


 マサキはゆっくり息を吐いた。


「あれ食べたいのか」


 何気ない声だった。

 リサが止まる。


「はっ」


 明らかに変な間。


「いやいやいや」


 マサキは同じトーンで繰り返す。


「あれ」


「いやいやいや」


 会話になっていなかった。

 認める前に全力で逃げている。

 でも目線だけは正直だった。

 揚げ物の列を、また横目で追っている。


 マサキは静かに言った。


「いらないか」


「いりますっ」


 今度は即答だった。


 ◇   ◇


 二人はそのまま屋台へ並び、アメリカンドッグを買って外のベンチへ移動した。

 模擬店の喧騒から少し離れた場所。

 風が抜ける。

 油の匂いも薄かった。


 リサは紙袋からアメリカンドッグを取り出す。

 一口かじった瞬間。


「……あちっ」


 思わず声が漏れた。

 口元を押さえ、少し後ろへのけぞる。

 マサキは反射的にそっちを見る。


 しばらくして、リサがようやく齧った分を飲み込んだ。

 涙目のまま、息をゆっくり吐く。


「赤くなってない?」


 何気ない動きで、ぺっと舌を出す。


(簡単に人に舌を見せるな……)


 反射みたいなツッコミだった。

 でも口には出さない。


「……なってない」


 ひと言だけ返す。

 リサは満足そうに頷いた。


「よかった」


 そして何事もない顔で、食べかけのアメリカンドッグをマサキへ差し出す。


「はい、あーん」


 マサキの動きが止まる。

 目線だけが、差し出されたアメリカンドッグへ落ちた。


「…人目」

 小さく呟く。

 視線は周囲へ向いていた。

 ベンチの周りには、模擬店帰りの生徒や、紙皿を持ったまま立ち止まる人影がちらほらいる。

 リサはきょとんとして、それから「あー」と納得したように頷いた。


「仕方ないなぁ」


 そう言って、立ち上がる。

 次の瞬間。

 リサはベンチに座ったままのマサキの正面へ回り込んだ。

 迷いのない動きだった。

 でも立ち位置だけが、やけに計算された場所だった。

 人の流れから、ちょうどマサキだけを隠す位置。


(え、待て)


 次の瞬間、さらに距離が詰まる。

 マサキの目線へ合わせるように、リサが少し腰を落とした。

 その動きで、視界の中心が強制的に固定される。

 目線の高さに来たのは、リサの胸元だった。

 服の隙間から覗く肌。

 鎖骨。

 その奥に見える柔らかいライン。


「ーっ」


 マサキの呼吸が止まる。

 意識の半分が持っていかれる。

 リサはそんなことを気にした様子もない。

 腕を伸ばす。

 顎へ軽く手が添えられた。


「はい、あーん」


 さっきと同じテンション。

 物理的な状況だけがおかしい。

 マサキは固まる。


(なにこれ!?)


 脳内だけが全力で叫ぶ。

 リサは普通に待っていた。


「ほら」


 軽く促される。

 マサキは観念したように、少しだけ前へ出た。

 息を潜めながら口を開ける。

 リサが齧った場所と同じ場所を、一口だけ。

 カリッ、と音が鳴る。

 塩気。

 肉汁。

 そのまま咀嚼する。


「うま?」


 真正面から聞かれる。

 マサキは目を合わせられないまま答えた。


「うま」


 その瞬間、リサは満足そうに頷いた。


(これ、何の儀式だよ……)


 そう思いながらも、口には出せなかった。


◇   ◇


 体育館裏の控えスペースは、文化祭特有の熱気で満ちていた。

 午前中のステージ発表を見に行こうと、廊下には人の流れが途切れない。

 ステージ袖からは、演奏音と歓声が断続的に響いてくる。

 マサキとリサは、その少し外れた場所で立ち止まっていた。


「せめて1曲だけでいいっ!」


「あとは何とかするから」


「無理」


 マサキは即答する。

 クラスの男子たちは、もう十分近く粘っていた。

 本番直前になって、バンドのボーカルが体調を崩したらしい。

 急遽、代役が必要になった。

 ただ、誰でもいいわけではない。

 このバンドは文化祭の即席ではなく、外部のライブハウスにも出る程度には形が出来ている。

 中途半端な代役では崩れる。

 だからこそ、マサキへ声が掛かった。


「頼むって、ほんとに時間ないんだよ」


 切羽詰まった声だった。

 マサキは数秒だけ黙る。

 事情は理解した。

 でも、それとこれは別だった。


「……無理」


 もう一度言う。


「人前で歌ったことない」


「失敗するに決まってる」


「台無しにしたくない」


 本気で無理だと思っている声だった。

 男子たちは顔を見合わせる。

 それでも引かなかった。


「だから頼んでる」


「成功したいから、お前に頼んでる」


「形にできるやつが必要なんだ」


 マサキは黙る。

 意味が分からなかった。


(歌が上手いから今やれるってのは、おかしいだろ)


 歌えることと、人前に立てることは別だ。

 そんなこと、自分でも分かっている。

 男子生徒のひとりが、助け舟みたいにリサを見る。


「如月さんからも頼んでよ」


「あ、あたし?」


 急に振られたリサが目を丸くする。

 マサキは何も言わない。


 人前に立つ側の人間なら、ステージに出る意味も、出たあとの景色も分かっている。

 だからマサキを押してくれるはずだと、そう見られているのが分かった。


 リサは少し迷うように目線を落としてから、息を吐いた。


「あたしは……申し訳ないんだけど、あたしは反対寄り」


 場が静まる。

 頼めば押してくれると思っていたのか、男子たちも意外そうな顔をした。


「え、なんで? 如月さんも松前が歌上手いって知ってるよね?」


 リサはすぐに頷いた。

 そこを否定する気はない。


「ステージに立つことって、最初は怖いから。心の準備が出来てないと、無理で……。だから、いくら歌が上手くてもね。リハーサルもないままは、キツイと思う」


 マサキの目が少しだけ動く。

 <出来る>と<今やれる>を別にして話しているのはリサだけだった。


 男子たちは何も言えなくなる。

 けれど、完全に納得した顔でもなかった。


「じゃあ、如月さんはどうやって…?」


 責める声ではなかった。

 ただ、人前に立つ側にいるリサなら、その怖さをどう越えたのか知っていると思ったのだろう。


 リサは少しだけ言葉に迷った。

 確かに、自分はそれでも立つ側を選んだ。

 オーディションに、リハーサルなんてない。


 リサは、遠くを見るみたいに笑う。


「あたしの場合はね。ステージに立つ怖さよりも、チャンスを逃したくないって気持ちの方が大きくなったからなの」


 言いながら、カバンの紐を握る指先へ力が入る。


「ミオの受け売りっていうか、ミオの先生の受け売りなんだけど……どっちでもいいか」


 軽く笑いながら、でも途中から声の熱が変わっていく。


「ミオが入学式の挨拶頼まれたとき、最初は断ったんだって。そしたら先生が、『無理なら無理で全然構わない。でもこういうチャンスは誰にでも巡ってくるとは限らない』って」


 マサキは何も言わない。

 ただ、瞬きを一回だけ遅らせる。


「まぁ、ここまではよくある話なんだけどさ」


 リサは言葉を切った。


「次に先生、『今回は逃していい。だけど次のチャンスは逃さないように準備しておけ』って言ったんだって」


 マサキは黙ったまま聞いている。


「あたしにはさ、次のチャンスはないと思ったんだよ。マサキくんやミオみたいに、<その人だから頼まれる>みたいなの、あたしにはないから」


 その途中で、リサは笑おうとして、やめた。

 代わりに、目線がほんの少しだけ下がる。


 オーディションは、誰かが自分のために用意してくれる場所じゃない。

 自分で行って、その場で見られて、駄目ならそれで終わる。


「焦っちゃって……それは言い訳かもだけど、本当にひどい結果だった。立ち直れないかと思った」


 マサキはその言葉の最後で、ようやくリサを見る。

 何かを否定しようとして、言葉が止まった。

 今のリサに、ただ「違う」と言うだけでは足りない気がした。


 そこでリサは、もう一度だけ顔を上げた。


「だから、マサキくんには……そういう思いしてほしくない」


 場が静まる。

 マサキはしばらく何も言わなかった。

 やがて、口を開く。


「そうか、わかった……」


 リサが少し安心したように息を抜く。

 その直後だった。


「やっぱ出るわ」


「え、話聞いてた?」


 マサキは静かに返す。


「聞いた」


 少し間。


「……だから」


 リサはぽかんとした。


 リサはマサキを追い込むために話したわけじゃない。

 出なくてもいい理由を、残そうとしてくれた。


 だから、それ以上は言葉にしなかった。

 ただ、頭の奥ではぼんやり考えていた。


(平気じゃなくても出てるやつがいる)


(怖くても立つ人がいる)


 リサだって、最初から平気だったわけじゃない。

 怖くて。

 失敗して。

 壊れかけて。

 それでもチャンスを逃したくなくて立った。


 なら……。


 ◇   ◇


「リハーサルもなしなんだよ?」


「そこは別に大丈夫」


 マサキは即答した。

 問題は、そこじゃない。


 男子生徒が慌ててスマホを差し出す。


「この曲なんだけど…」


 マサキは画面を見た瞬間、顔をしかめた。


「うわ、知らね」


「曲変えよう」


「うん、変えよ変えよ」


 即座にまとまりかける空気。

 だがマサキは首を振った。


「いや、いい」


 リサが思わず身を乗り出す。


「え、知らない曲なの? ……大丈夫?」


「リサ」


 反射的にリサが顔を上げる。

 マサキはイヤホンを受け取りながら、いつもより低い声で言った。


「悪いけど、少しだけ静かにしててくれるか」


「……うん」


 リサは素直に引き下がる。


 マサキはそのままイヤホンを耳へ入れ、壁際へ移動した。

 数秒前まで「出たくない」と言っていた人間とは思えない切り替えだった。

 イヤホン越しの音だけを追う。

 目が細くなる。

 サビの入りを見つけたみたいに、一度だけ呼吸が整った。


 前にミオが、マサキの勉強の仕方を見て、覚えたものを正確に当てはめるのは得意と言っていたことがある。

 問題ごと覚えてしまうから、少し形が変わると止まる。

 でも、一度掴んだ形に合わせるのは速い。


 それはたぶん、勉強だけの話じゃなかった。

 知らない曲でも、マサキは曲の入り方や盛り上がり方を掴むと、そこへ自分の声を当てはめていく。


 リサはその背中を見ながら、頭の中がざわついていた。


(え、あたしのせい?)


(出たくないって言ってたのに、あたし反対って言ったよね)


(言い方間違えた?)


(『チャンスを逃すな』のとこだけ拾っちゃった?)


 でもマサキはもう返事をしない。

 イヤホン越しに曲を聞きながら、静かに目を閉じていた。


 ◇   ◇


 ステージ前の観客席は、すでに人で埋まり始めていた。

 午前の発表が続く中で、このバンドの枠だけ妙に空気が違う。


「……ほんとに出るの、あいつ」


 クラスメイトの誰かが小さく言う。


「歌は上手いのは知ってるけどさ」


「カラオケとステージって別物だろ」


 知っているからこそのざわつきだった。


 その少し後ろに、リサとミオが並んで座る。


 ミオの腕には、生徒会の腕章がまだ残っていた。

 外す暇もなく抜けてきたのか、席に着いてからようやく息をつく。


「間に合ったね」


 リサが小声で言うと、ミオはステージの方を見たまま頷いた。


「うん、ギリギリだった」


 リサも息を吐きながら、ステージ袖の方を見る。


「抜けてきてよかったの?」


「こっちは仕事より優先」


 間を置かない返事だった。

 ミオはまだ腕章を外さないまま、隣で姿勢を正す。


「松前くんは、大事なお友達だからね」


 理屈というより、当たり前のことみたいな口調だった。

 リサはその横顔を見て、目を細める。


 ステージの方から、楽器の音と短いマイクチェックが断片的に漏れてくる。


 そのとき、リサの席に近い通路側で、ユヅキが缶コーヒーを片手に立っていた。

 昨日に続いて今日も顔を出していたらしい。

 観客席には入らず、体育館の端からステージの方を見ている。


「ゲーセンの時も思ったけどさ」


 確認に近い声。


「松前くん、音の取り方が普通じゃないんだよね。あれは普通に期待できる」


 リサはその言葉を横目で聞きながら、すぐには反応できなかった。


 ユヅキは、マサキがステージに立つことを不安に思っていない。


 そこで「でも」と言えば、自分がマサキを信じていないみたいになる。

 でも、何も心配していない顔で頷けるほど、リサの中は落ち着いていなかった。


 だから曖昧に目線だけを戻して、ステージ袖の方を見る。


 一方で、クラスメイトたちもまだ落ち着かない。


「技術があるけど性格の問題っていうか」


「あいつ、人前に立つタイプじゃないのに」


「松前がステージにいるって想像できない」


 少し前までなら、マサキはそこまで視線を集める生徒ではなかった。

 けれどリサと一緒にいるところを何度も見られて、なんで松前ばっかり、と茶化されているうちに、いつの間にか完全な無関係ではなくなっていた。


 歌が上手いことも知っている。

 人前に立つタイプじゃないことも知っている。

 だからこそ、誰も簡単には落ち着けなかった。


 不安の正体は、実力じゃない。

 <未知>だった。


 リサはその言葉を聞きながら、ゆっくり顔を上げる。


(マサキくん……)


 その時、スピーカー越しに、バンド名が呼ばれた。

 体育館の空気が一瞬だけ凝固する。


 バンドメンバーが一斉に動き出した。

 ケーブル。

 立ち位置。

 マイクの高さ。

 確認というより、反射に近い動きだった。


「入りだけ合わせる」


「カウントだけ出して」


 その途中で、メンバーのひとりがマサキを見る。


「松前」


 落ち着いた声で続けた。


「ライト眩しいから、客席なんてほぼ影だよ」


 励ましではない。

 事実をそのまま置いていくような声だった。

 マサキは目を細める。

 目がステージの奥から客席へ向かいかけて、そこで止まる。


「……分かった」


 短い返事。

 迷いはない。

 でも勢いもなかった。


 誰も「大丈夫か」とは聞かない。

 マサキはマイクを受け取る。

 金属の冷たさが手の中に残った。


 袖の外から拍手が大きくなる。

 次の演目が完全に呼び出される気配。


「行くぞ」


 その一言で、全員が動く。

 マサキも一拍遅れて、光の方へ踏み出した。


挿絵(By みてみん)

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