文化祭1日目 ~見つけた景色と拾った嫉妬3~'
「ねぇ」
リサが前を見たまま言う。
「3時のバンド、そろそろ体育館行こっか」
マサキは視線を上げる。
「まだ早くないか」
「いい場所なくなっちゃうじゃん」
リサは繋いだ手を軽く握り直して、少しだけ歩く速度を上げた。
そのまま少し歩いてから、マサキがぽつりと言う。
「別に、後ろでもいい」
リサの足が一瞬だけ緩む。
「え?」
マサキは前を見たまま続ける。
「音聴ければいいから」
マサキにとっては、それで十分なのだろう。
ステージが見えるかどうかより、音が届くかどうか。
前に行く理由も、後ろにいる理由も、そこまで大きな違いではない。
リサはそれを分かっている。
でも、せっかく一緒に文化祭を回っているのに、後ろで音だけ拾って終わるのは少しもったいない気がした。
ステージの近さ。
人の声。
体育館の熱気。
そういうものまで含めて、マサキにも少しだけ味わってほしかった。
「うん」
一度うなずいてから、何でもないように続ける。
「あたしは前の方がいいなー」
軽い言い方だった。
ただの好みみたいに聞こえるようにした。
マサキが自分から選ばないなら、自分の行きたい場所という形にすればいい。
マサキは横を見る。
リサは視線を前に戻したまま、タピオカのカップを揺らす。
(ほんとは別にどこでもいいんだけどね)
でも、それを言う必要はない気がした。
「せっかくだから」
付け足すように言う。
マサキはすぐには返さない。
リサの言葉を、無理に押し通そうとしているものとは受け取っていない。
ただ、リサが前の方へ行きたいと言っている。
それだけでいいらしい。
少し歩いたあと、マサキが言う。
「オレはどこでもいい」
「うん」
リサは即答する。
それなら、決めるのは自分でいい。
リサはそのまま、軽く手を握り直して歩く速度を少しだけ上げた。
「じゃ、前の方行こっか」
明るい声だった。
二人はそのまま、体育館へ向かって歩いていった。
◇
ドラムが一発、空気を叩いた。
体育館のざわつきが、一気に引き締まる。
ギターが入り、少し遅れてベースが重なる。リズムはところどころズレていて、音も綺麗にまとまっているわけではない。
正直、上手くはない。
リサにもそれは分かる。
それでも、ステージの上の音は止まらなかった。
ボーカルの声が少し外れかけても、そのまま前へ出てくる。ドラムが走って、ギターが遅れて、それでも誰も止まらない。
そのズレごと、体育館の空気を巻き込んでいく。
(下手だなぁ)
ちゃんとそう思う。
でも、不思議と嫌ではなかった。
完成されたものじゃない。
作り込まれたものでもない。
それでも、その場の勢いだけで空間を持っていく感じが、リサは好きだった。
隣を見ると、マサキは最初からずっとステージを見ていた。
表情は変わらない。
でも、ちゃんと見ているのは分かる。
リサは小さく笑って、もう一度ステージへ視線を戻した。
(こういうの、たまんないよね)
上手さじゃなく、熱だけで体育館を満たしていた。
◇
最後の音が、少しだけ伸びて消えた。
ドラムが余韻を叩き切るみたいに軽く鳴って、それから静かになる。
一拍遅れて、体育館の空気が戻ってきた。
次の瞬間、爆発みたいに拍手が起きる。
歓声と笑い声と拍手が混ざって、さっきまで音で満たされていた空間が、一気に人の声へ変わっていく。
リサはまだ少しだけ、ステージを見ていた。
(終わった)
上手いとか下手とか、さっきまで頭の中で分けていたものが、拍手の中でどうでもよくなっていく。
隣で、マサキが小さく息を吐いた。
「……疲れるタイプのバンドだな」
リサはその言葉を聞いて、横を向く。
悪く言っている声ではなかった。
ただ、本当に疲れたみたいな声だった。
ズレた音も、走ったリズムも、外れかけた声も、たぶんマサキは流さずに聴いていた。
だから疲れたのだと、リサには分かった。
「マサキくん、こういうアマチュアの演奏もちゃんと聴いちゃうんだ」
マサキは間を置いて、視線をステージから外さないまま言う。
「別に」
リサはすぐに小さく息を吐いて、軽く笑った。
「うん、さすがだねー」
マサキがようやく横目でリサを見る。
「何が」
リサは繋いだ手を軽く揺らした。
「音楽わかる人なら特にさ、もっと雑に聴くこともできるのに、そうしないじゃん」
視線はステージの方へ戻したまま、続ける。
「ズレてる演奏でも、真剣に聴こうとするのはさすがだなって」
その言葉のあと、少しだけ間が空く。
マサキはすぐには返さなかった。
否定もしない。
今の言葉を、初めてそう言われたみたいに、そのまま受け取っている。
リサはそれを見て、軽く息を吐いた。
「あ、無意識だった?」
その瞬間、マサキの目がほんの少しだけ動く。
ステージの方を見たまま、数秒止まる。
「意識してない」
リサは「やっぱりね」という顔をして、少しだけ笑った。
◇
「そういえば、明日のステージ。うちのクラスもバンドやる人いるんだって、見に行く?」
繋いだ手をそのまま、リサが揺らしながら聞く。
「出来れば」
「明日はねー、午前中」
マサキは視線を横にずらす。
「腹減りそうだな、リサが」
リサはきょとんとして、それから口元を押さえるみたいに笑う。
「偏見すご」
言い返しているのに、声は少し弾んでいた。
マサキは前を見たまま続ける。
「午前中って、だいたい何か食ってる時間だろ」
「言い訳できないねー」
リサは笑いながら、繋いだ手を軽く揺らす。
「でもさ、見に行くのはいいんだ」
マサキは頷く。
「音出てるなら」
その返事は、さっきまでの「音聴ければいい」とは少し違って聞こえた。
上手いとか下手とかではなく、誰かが音を出している場所そのものに、少しだけ意識が向いている。
リサは間を置いてから、ふっと笑った。
「出てる出てる、たぶんちゃんと」
マサキが引っかかりを返す。
「ちゃんと?」
「うちのクラスの人が言ってた。普通に上手いって」
その瞬間、マサキの足がほんのわずかだけ遅れた。
リサは気づかないまま続ける。
「ギターの人とか、結構安定してるらしくてさ」
マサキはすぐには返さない。
視線は前のまま。
ただ、繋いだ手にほんの少しだけ力が入った。
(……誰だよ)
言葉になったのは、それだけだった。
(上手いって、誰にでも向けるのか)
リサがそれに気づいて、首を傾げる。
「興味ない感じ?」
「別に」
興味がないわけではない。
かといって、聞きたいとも言い切れない。
その半端なものが口に出る前に、マサキは言葉を切った。
でも手は離さないまま、少しだけ力の強さが変わった。
リサは繋いだ手を見て、それからマサキの横顔を見た。
「あたしが上手いって言ったんじゃないよ。そう聞いただけ」
マサキはようやく横目でリサを見る。
「分かってる」
その声はいつも通りだった。
少なくとも、そう聞こえるようにはした。
けれど、さっきからずっと手だけが少し強い。
リサはそれに気づいているのか、繋いだ手をわざと揺らした。
「ねー、違うって。そんなつもりで言ったんじゃないから」
マサキは返す。
「じゃあ何」
言ったあとで、自分でも少しだけ止まる。
何を聞きたいのか、はっきりしていなかった。
リサは言葉を探す。
手を揺らすのをやめる。
「だから、マサキくんが見るって言うから」
少しだけ間。
「事前情報あった方がいいかなって思っただけ」
マサキは小さく息を吐く。
「……あ、そう」
それ以上は追わない。
追わないけど、まだ完全にはほどけていない。
リサは一拍置いてから、少しだけ困った顔になる。
「えー、待って」
マサキが横目で見る。
リサは軽く首を振る。
「他の男の話したからってそこまで嫉妬する?」
言い方は冗談っぽいのに、押しすぎない。
むしろ、確認に近い声だった。
マサキは止まる。
「してない」
はっきりと言い切った。
リサはその返事を聞いて、目を細める。
リサが何か言いかける前に、マサキが先に口を開いた。
「別に、そういうのじゃない」
少し間。
「そこは、どうでもいいし」
言っている内容はいつも通りのはずなのに、妙に引っかかる。
リサは首を傾げる。
「してないの?」
軽く聞いたつもりだった。
でも次の言葉には、少しだけ意地が混ざる。
「じゃあ、あたしが他の男の話しても平気なんだ」
マサキは返そうとして、言葉を落とした。
「……それは」
リサはそこで一拍置かずに続ける。
「別にいい」
マサキの手から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「……」
「いいんだ」
マサキは一度息を止める。
「……別に、全部ダメとは言ってない」
ようやく出た言葉は、逃げ道の形をしていた。
リサはすぐに拾う。
「じゃあ」
楽しそうに、でも意地悪すぎない温度で続ける。
「何ならいいの? 条件とかある?」
マサキは黙る。
そこで初めて、質問の意味がちゃんと刺さった。
(条件、とかじゃなくて)
そう思いながらも、言葉がまとまらない。
リサが他の男の話をすること自体は、どうでもいい。
そういう話をしたとしても、別に気にならない。
でもさっきの言葉だけが残っている。
「普通に上手いって言ってた」
それが引っかかっていた。
マサキは視線を落とす。
「別にそれが悪いとかじゃなくて」
言い直すように、声を落とす。
「そういうのを、他のやつにも同じ感じで言うんだなって」
言葉にしてから、ようやく少しだけ形が見えた。
リサの言葉の中にあった「上手い」が、自分だけに向けられていたものじゃなかったみたいに感じた。
そう思った瞬間、マサキは口を閉じる。
「……ああいうの、オレだけじゃないんだって思っただけ」
そこでようやく、本音の形になる。
「悪い、忘れてくれ…」
言ってから、自分で何を気にしていたのかがはっきり繋がった。
(これ、嫉妬だよな。カッコ悪すぎる…)
リサは息を吐いて、普通の声に戻す。
「忘れないけど」
さらっと言う。
マサキの肩がわずかに動く。
リサはそこで、ようやくちゃんと繋がる。
他の男の話をしたからじゃない。
『上手い』って言ったから。
しかも、自分が褒めたわけじゃない。
聞いた話をそのまま言っただけだ。
(それなのに怒っちゃうの?)
少しだけ拗ねたみたいに、リサはストローを軽く噛む。
(あたしが言ったわけじゃないのに……)
でも同時に、胸の奥が少しだけ熱い。
リサはその感情を隠すみたいに、小さく息を吐いた。
「安心していいよ。あたし、マサキくんの歌めちゃくちゃ好きだから」
リサは繋いだ手を大きく揺らした。
軽い言い方だった。
でも誤魔化してはいない。
「そこは特別だよ」
そこで初めて、少しだけ柔らかくなる。
マサキの胸の奥で、さっきまで引っかかっていたものが一気にほどける。
その代わり、別の熱が残る。
<特別>って言葉だけが、やけに残った。
「あと嫉妬とか、そういうの普通に嬉しいよ?」
マサキはただ聞いている。
返事が出ない。
耳の奥が少し熱い。
自分の面倒くさい感情を、そのまま肯定された感じがして、うまく処理できなかった。
リサはそんなマサキの反応を見て、小さく笑う。
「マサキくんってさ」
手を軽く揺らす。
「けっこーめんどくさいタイプだよね」
マサキはすぐに否定しない。
できない。
否定すると、さっきの全部がもっとダサくなるのが分かっている。
「でも…そういうとこがさ、ちょっとくすぐられるっていうか」
マサキの足がほんのわずかに止まりかける。
そういう不器用な独占欲を見せられると、好きな気持ちを刺激されてしまう。
(めんどくさいけど可愛い)
そう思ってリサは続ける。
「放っとけないんだけど。わざとじゃないからタチ悪いよね」
嫉妬は無自覚で、勝手に拗れて、でも真面目で、こっちが拾ってあげたくなっちゃうところがずるい。
◇
マサキは何も言わない。
胸の奥が、さっきからずっと落ち着かなかった。
嫉妬して、勝手に引っかかって。
自分だけだと思っていた言葉に、勝手に特別感を持って。
そんな面倒な感情を見せたのに、リサは引かない。
それどころか、困ったみたいに笑って、ちゃんと受け止めてくる。
(なんでそんな優しいんだ……)
マサキは視線を落とす。
普通なら、めんどくさいと思われたら、そこで終わりだ。
重いとか、ダサいとか、そういう方向へ転がっても変じゃないのに。
でもリサは、『嬉しい』って言った。
『特別』だって、あっさり口にした。
そのせいで、逆に分からなくなる。
(オレ、甘えすぎじゃないか……?)
リサは人気者で、誰とでも話せて、空気も回せる。
なのに今、自分みたいなやつの面倒くさい感情に付き合っている。
そこまでさせる理由が、本気で分からなかった。
だからマサキは何も返せない。
リサはその横顔を見て、少しだけ困ったように笑う。
「ねぇ」
軽く呼ぶ。
マサキは視線だけを少し動かす。
リサはそのまま続ける。
「今の、褒めてるんだからね」
少し間。
「普通に、どうもって言っとけばいいよ」
マサキはまだ少しだけ、処理が追いついていなかった。
嫉妬を見抜かれて、受け止められて、しかも嫌がられていない。
その事実が、変に胸へ残っている。
考えてから、言う。
「……どうも」
それだけ。
でもマサキの中では、それが限界だった。
リサはそれを聞いて、満足したみたいに軽く笑う。
「はい、おしまい」
これ以上マサキが考え込まないように、そこで話を閉じるみたいな言い方だった。
繋いだ手を軽く揺らして、歩く速度を少しだけ戻した。
マサキはそれ以上何も言わない。
ただ、手の温度だけが少しだけそのままだった。





