文化祭1日目 ~約束してるけど待てなくて3~'
校舎の端にある準備室。
文化祭期間中は、空き教室や学習室の鍵管理も生徒会側が行っていた。
マサキとリサが廊下を曲がると、扉の前にはすでにミオが立っていた。
「どうも」
いつもの落ち着いた声。
手には鍵束がある。
(保坂さん……生徒会だったのか)
考えてみれば、違和感はない。
むしろ、そういう役目を任される側だと言われた方が納得できる。
「ありがとー、ミオちゃん」
リサが手を振る。
ミオは二人を見比べてから、小さく首を傾げた。
「学習室で何するんですか?」
リサは即答した。
「イチャイチャするの」
「やめろ」
間髪入れずにマサキが止める。
ミオは数秒だけ無言になってから、静かに言った。
「……不埒」
淡々としている。
だが口元は少しだけ笑っていた。
ミオは鍵を一本外してマサキへ渡す。
「使用後は職員室前の返却箱へお願いします」
「ん」
マサキが受け取る。
その横でリサはまだ楽しそうだった。
「ごゆっくり、どうぞ」
その言い方だけが、ほんの少しだけ意味を含んでいた。
◇ ◇
学習室は静かだった。
文化祭中ということもあり、人がいない。
窓際に机が寄せられ、外からは遠くのステージ音だけが薄く聞こえてくる。
リサは椅子へ座ると、買ってきた食べ物を机へ並べた。
「なんかこういう隠れて休憩する感じいいね」
リサはそう言いながらジュースのストローをかじる。
マサキも向かいへ座り、コーラを机へ置いた。
リサがふと思い出したように顔を上げた。
「マサキくんは行きたいとこある?」
マサキは少しだけ間を置く。
(行きたいとこ)
言葉にすると、妙に広い。
「……ステージがバンドになったら」
ようやくそれだけ出す。
リサは目を瞬かせてから、すぐにパンフレットを開いた。
「えっとー……ここかな」
体育館ステージの欄を指で追っていく。
合唱。
演劇。
映画上映。
ダンス。
その他パフォーマンス。
その途中で、指が止まる。
「あ、あった。3時から」
マサキも軽く覗き込む。
「じゃあ3時からステージね。あとは?」
リサはパンフレットを開いたまま、顔だけをマサキに向ける。
急かさない。
ただ待っている。
マサキは一瞬だけ目を落とす。
(あと、か)
行きたい場所を自分から言うのは、まだ少し慣れない。
(何も出てこないの、普通にまずいな)
頭の片隅で引っかかる。
会話が止まるほどのことじゃないはずなのに、引っかかる。
(せめて何か、自分で探せないか)
気づいたら、少し前のめりになっていた。
リサの手元のパンフレットを覗き込む形で、距離が詰まる。
パンフレットの端へ、手を伸ばす。
◇
胸の上に、何かが乗った。
(……え)
リサは息を止める。
重み。
それだけで、何が乗っているのか、すぐに分かった。
マサキはまだ気づいていない。
パンフレットの文字を追ったまま、その手の根元だけがリサの胸元に乗っている。
(……っ)
声が、出そうになる。
ぎりぎりで止める。
声を出したら、気づかれる。
少し動いても、マサキが気づく。
いい雰囲気のままでいたい。
だから、石みたいに固まるしかない。
机の下で、指先だけがぎゅっと丸まった。
マサキはパンフレットをこちら側へ引き寄せようとする。
その動きで、手の根元がさらに押し込まれる。
(や……っ)
重みが、さっきより増した気がする。
押されるたびに、声が出そうになるのを必死に堪えた。
(気づかないで)
マサキはまだ真剣にパンフレットを見ている。
何も知らない顔で。
その手が、また少し動く。
(……っ、っ、っ)
心臓がうるさい。
顔が熱い。
耳の先まで熱くなる。
乗られているところの感覚だけが、いやに鮮明になっていく。
(これ、絶対変な顔してる)
でも動けない。
声も出せない。
ただ、息を殺したまま、マサキの手がそこにある事実だけを受け取り続ける。
せっかくマサキが、自分からパンフレットを見ている。
行きたい場所を探してくれている。
それを、今ここで壊したくなかった。
リサは息を殺したまま、ただ動けずにいた。
マサキがようやく視線を上げた。
◇
「この時間のステージは……」
そこで止まる。
リサの顔が、真っ赤だった。
耳の先まで。
目が少し潤んでいる。
口が微かに開いたまま、閉じられていない。
「……?」
マサキはリサの顔を見る。
それから、自分の手に視線を落とす。
パンフレットに触れている。
その手の根元が、リサの胸元に沈み込んでいる。
(……)
待て。
どこに手を置いてる。
いや、いつからだ。
思い出せ。
オレはパンフレットを見ようとして……。
これ、もしかして自分からいったか。
まず謝るべきだ。
そう思った。
けれど、口は動かなかった。
リサは何も言っていなかった。
動いてもいない。
気づいていないはずがない距離なのに、それでも何も言わない。
(……気づいてないふりしてる)
そこまで考えた瞬間、喉の奥が詰まった。
ここで「ごめん」と言ったら、全部終わる。
リサは自分の引きずる性格を知っている。
自分が距離をとろうとすることも知っている。
そうなったら、もう文化祭を普通に回れない。
リサはこの時間を壊したくなかったのかもしれない。
(正解は分からないけど)
分からないが、少なくとも今、リサは何も言っていない。
何も言わないことで、どうにかこのまま進めようとしているように見える。
リサが黙っている意味を壊せない。
だったら、合わせるしかない。
(いや…いつまで触ってる)
マサキの手が、ゆっくり離れる。
遅れて、触れていた感触だけが残った。
触れていた感触だけが、しばらく手のひらに残っていた。
優しく受け止めてくれるような、そんな感覚だった。
ミオの声が、鮮明に戻ってくる。
『不埒』。
(その通りです)
リサはまだ真っ赤なまま、視線を机に落としている。
何も言わない。
言えない、という顔だった。
マサキは、
「……特に、ない」
短くそう言った。
行きたい場所の話をしていたはずなのに、もう何も出てこなかった。
リサは真っ赤な顔のまま「そっかー」とだけ返して、パンフレットを軽く指で押さえたまま、少しだけ目を泳がせた。
それから顔を上げる。
「じゃあさ」
軽い声。
「歩きながら決めよっか、途中で行きたいとこあったら入る感じで」
パンフレットを閉じるでもなく、広げたままでもなく、ただ膝の上に置く。
「文化祭まだ明日もあるし」
さらっと付け足す。
「いま全部決めなくてもいいよね」
そう言って、ストローを軽く咥え直した。
何も出せなかったことだけが、少し遅れて響く。
(気を遣われた…)
小さく喉の奥で引っかかる。
マサキはリサの言葉に、小さく頷く。
「……あぁ」
その返事を聞いて、リサはほんの少しだけ目を細める。
(行きたいとこ、一緒に見つけるの楽しみ)
言葉にはしないまま、目だけが一瞬だけマサキの方へ向く。
リサは机の上の食べ物に視線を戻す。
「よし、じゃあ食べよ食べよー」
リサの声が落ちると、その場も一段ゆるむ。
机の上には、まだ手をつけていない紙袋や容器が並んでいた。
甘い匂いと揚げ物の匂いが混ざって、学習室の静けさに少しだけ現実味を足している。
リサはまずチュロスの袋を開けた。
「これ、絶対最初これ」
当たり前みたいに言って、一本取り出す。
砂糖が少しだけ机に落ちる。
「……食べる順番あるのか」
マサキが小さく言う。
「あるよー、文化祭は計画的にいかないとだからね」
リサは一口かじる。さく、と軽い音。
その音で、マサキの目が一瞬だけ止まる。
頬にうっすら粉砂糖がついていた。
リサはそれに気づかないまま、当然のようにチュロスを差し出してくる。
「はい、あーん」
距離が、少しだけ近い。
マサキは一瞬だけ止まる。
(……)
なぜか喉の奥が少しだけ意識を持つ。
さっきまで「ただの食べ物」だったものが、急に意味を持つ。
(間接キスだ……)
そこで一回、思考が止まる。
止まったまま、次が来ない。
(……普通に受け取ろうとしてるな、オレ)
リサは可愛い。
それは最初から分かっている。
そのうえ性格もよくて、スタイルもよくて、モテる。
そういう相手の食べかけを、今から口に入れようとしている。
それを受け取ることへの抵抗が、どこからも出てこない。
むしろ。
(……むしろって、何だよ)
喉が、普通に動こうとしている。
そう思ったあと、すぐに喉が動く。
口を開けるのが、ほんの少し遅れる。
チュロスの先に口をつける瞬間、変に意識してしまう。
かじる。
甘さが広がるのと一緒に、さっきの距離が頭に残る。
「甘い」
リサは満足そうに笑った。
「でしょー?」
そして次の袋を開ける。
「次これいこ、ポテト」
マサキはその言葉を聞きながら、少し遅れてまばたきする。
(ポテトは……1本ずつ食うのか?)
一瞬、無駄に真面目な方向へ思考が流れる。
ポテトは細長い。
普通なら、一本ずつ取って食べるだけのものだ。
(普通は、そうやって分けるよな)
共有しやすい食べ物。分けるのに迷いがないやつ。
リサは袋から一本取り出す。
何も言わずに、そのまま口に運んだ。
「ん」
軽く一口かじる。
塩の粒が少しだけ唇に残る。
そのまま、自然な動きでマサキへ差し出した。
「はい、あーん」
一瞬、時間が止まる。
思っていた<普通の分け方>が、あっさり裏切られる。
距離はさっきと同じ。
むしろ慣れてきた分、逆に意識がはっきりしてしまう。
(これ、もう全部そうやって食べるんだよな)
でも、止める言葉は出ない。
出そうとしても、喉の途中で意味が固まる。
マサキは少しだけ目線を落とす。
リサの手の先にあるポテトを、見てから。
ほんの一瞬だけ迷って。
結局、視線ごと逃がさないまま口を開けた。
かじる。
かりっ。
塩が舌に残る。
(これ、ほんとに普通の食い方じゃないだろ……)
そう思っているのに、拒否の動きは一つも出ない。
むしろ、そのまま次が来ることを前提にしてしまっている自分がいる。
リサは何事もなかったように次のポテトを取る。
「はい、次」
その自然さが一番おかしいのに、マサキだけが遅れて意味を追いかけていた。
流れが自然すぎて、断ち切る余白がない。
(……これ、普通に終わらないやつだ)
◇
ポテトは、気づけば半分ほど減っていた。
リサは変わらず、もう一度一本をつまむ。
一口かじる音が、小さく鳴る。
「はい、次」
差し出される。
マサキはそれを見た。
もう驚くというより、「そういうもの」として受け取ってしまっている自分がいる。
口を開ける。
リサがかじった跡、そのままの場所に口をつけた。
かじる。
かりっ。
塩が舌に残る。
でも次の瞬間、リサが少しだけ首を傾けた。
「ね、今度はマサキくんの番」
「……?」
「同じやつ。あーん」
当然のように言う。
マサキは一瞬止まる。
(こっちがやる側?)
今までは全部<流れ>として受け取っていた側だった。
それを今度は自分が作る側になる。
目がポテトに落ちる。
(……同じこと、か)
変な理屈だけが頭の中で整う。
マサキは一本だけ取る。
かじる。
そのままリサへ差し出す。
「……はい」
差し出してから、一拍だけ止まる。
(……オレ、今何やってるんだろ)
受け取ることと、渡すことは、たぶん違う。
受け取るのは、流れに従っているだけとも言える。
でも渡すのは、自分から差し出している。
自分の意思で、自分のかじった跡を、リサへ向けている。
(リサが、ここに口つける)
自分がかじった場所に。
同じ場所に。
当たり前みたいな顔で。
迷いなく。
その事実が頭にある状態で、差し出したままの手が止まれない。
引っ込める理由も出てこない。
リサはもうこちらへ身を寄せてきている。
リサは一瞬だけ目を瞬かせて、それから笑う。
「わーい」
そのまま自然に身を寄せる。
マサキの指先の少し先まで来て、迷いなくかじる。
距離が、やっぱり近い。
(……これ、普通に変なことしてるよな)
頭では分かっているのに、妙な納得感が勝ってしまう。
リサは満足そうに頷いた。
「あたしもう腕だるいからよろしくね」
軽い言い方だった。
でも流れとしては、もう完全に決まっていた。
マサキは小さく息を吐く。
「……分かった」
諦めでも同意でもなく、ただ<続くこと>を受け入れる声だった。
◇ ◇ ◇
リサが紙袋の奥から、少し大きめのクレープを取り出す。
包み紙に手を添えたまま、ふっと息をついた。
「じゃあ次これね」
甘い匂いが、少しだけ強くなる。
マサキはそれを見て、すぐには手を出さない。
(これ、どっちからだっけ)
ポテトの時の流れが、まだ頭に残っている。
リサはそのままクレープを差し出してくる。
「はい」
何も考えていない顔。
マサキは一瞬だけ止まって、それから受け取る。
紙の感触が指に残る。
(……オレから、だったか)
少しだけ間が空く。
リサはそのまま、何も言わずに待っている。
目だけが、クレープの先に向いている。
マサキは包みを少しだけずらす。
中の生地が見える。
そのまま、端に口をつけた。
かじる。
もっ、とした柔らかさが口に広がる。
甘さが遅れてくる。
その瞬間、リサがすぐに身を寄せた。
「あたしもー」
マサキがかじった同じ場所に、リサがそのまま口をつける。
紙を持つマサキの指のすぐ横で、距離が止まる。
(……さっきより、近い)
クリームの感触が、舌に少し残る。
甘さが抜けるのが遅い。
リサは軽く一口かじってから、笑う。
「クリームすご」
そう言って、少しだけ首を傾けた。
「次、マサキくん」
紙を持つ手が、そのまま止まる。
マサキはクレープを見る。
さっきリサがかじった場所。少しだけ凹んでいる。
(……同じ場所)
指が一度だけ紙を握り直す。
それから、持ち直す。
口を開ける。
かじる。
とろっとした甘さが口に広がった。
一瞬、動きが止まる。
でもそのまま飲み込む。
一拍だけ間が空いて、そのままリサへ差し出す。
「……はい」
リサが同じ場所に顔を寄せる。
迷いなく、同じ場所に口をつける。
かじって、満足そうに息を吐いた。
「うん、これ好き」
マサキは指を少しだけ動かす。
紙の端が、ほんのわずかに揺れる。
(……こういうの、好きなのか)
止める言葉は、今度も出てこなかった。
リサは何でもない顔をしている。
楽しそうで、満足そうで、この時間が当たり前みたいな顔。
(……リサって、こういうのが楽しいのか)
答えは考えなくても分かる気がした。
リサはクレープをかじりながら、楽しそうに笑っている。
クレープに口をつける。
甘さが広がる。
リサへ差し出す。
リサが笑いながらかじる。
いつ終わらせればいいのか分からなかった。
終わらせる理由も、うまく見つからない。
その繰り返しの中に、なぜか居心地の悪さがない。
リサの楽しいの中に、自分がいる。
(オレも、楽しいかも知れん)
外からは遠くのステージ音だけが、薄く聞こえていた。





