第5話④ グッドモーニング
カノン・エーデルスの朝は、優雅な一時から始まる。
人通りの多い街中で静かに佇む。優しい日の光に照らされて明るい色が奏られる木造りのおしゃれなカフェ。
そのテラスで景観と調和したこだわりを感じさせる椅子の上へ腰を下ろし、可愛らしいミニシルクハットを頭に被った少女──カノンは、机に並べられた豪勢な朝食たちを前に目を細める。
色鮮やかなサラダに、レタスやハム、トマトなどの上からマヨネーズを乗せたサンドイッチ、視覚だけで甘味を感じさせてくるケーキに、一杯のカップ。
どれも彼女の興味を惹かせるが、カノンが何を選ぶかはとっくに決まっていた。
まずは最初の一口。
凡百な若人であれば、パンに挟み込まれた食材たちの醸し出すハーモニーを無我夢中で味わおうと、そのままかぶりつくところだろう。
しかし、淑女はそんな真似をしない。カノンは巧みにサンドイッチを切り分けると、フォークで突き刺して、口の中へと運ぶ。
これこそが、麗しき淑女の礼儀作法なのだ。
一気にサンドイッチの芳醇な香りが口内で広がっていくと、カノンは頬を綻ばせる。
野菜とハムを同時に食べることで相乗効果の発生する旨みが、マヨネーズの力でさらに昇華され、二つのパンがそれらを逃がさずに閉じ込める。
咀嚼のたびにカノンを襲ったのは贅沢な味わい。
うーん。美味しい!──そう普段の彼女なら、口にしていたかもしれない。
しかし、カノンは淑女である。だからこそ、感激に震えかけながらも声に漏らすことなど決してせず、無言のまま舌鼓を打って、それをこの出会いへ贈る感謝のジェスチャーとした。
続いて、カノンが口に放り込むのはサラダ。
何故、サンドイッチで野菜をたくさん摂取した後にサラダ?そう思われるかもしれない。
けれども全てはカノンの緻密な計算によってもたらされた結果であり、濃厚な味を摂取した後は控えめな野菜たちによって、心を落ち着かせる。それがカノン流。
これから仕事へ向かうだろうサラリーマンやOLたちの喧騒をよそにして、悠々と口元へサラダを当てた。
野菜は少し冷たく、夏の暑さにちょうどいい。
その硬さを唇で感じ取りながら、丁寧に優しく口の中へ入れていくと、舌で甘みを堪能して、歯で慎重に噛む。
あぁ、なんてまろやかなの…カノンの頭に最初に思い浮かんだのは、そんな言葉。
本来は野菜が持つはずの独特な苦味を感じさせる味が、北方区域特有のオレンジ色をしたドレッシングによって打ち消され、穏やかな風味と楽しい食感だけが残っている。
良い一日は、良い朝から。
それこそがカノンの信条であり、カノンが淑女として果たすべき責務。
心踊るように優雅な朝を、静かにカフェでモーニングを食べながら過ごす。
これぞ、まさにグッドモーニング!
…そうだ、忘れるところだった。
品格を備える女性としては、やはりブラックコーヒーが欠かせない。
普通、カノンのような年頃の女の子なら、こんな苦いものは飲めないと投げ出してしまうだろう。…ただし、カノンを除けば。
カノンはすでに立派な淑女。すなわち貴婦人であり、コーヒーなんて大人の嗜みでも、全然へっちゃらなのだ。
そのことを証明するかのように、カップの取手を三本の指で摘み、薬指と小指を添えながら、左手を下側に入れて持ち上げる。
いつ、誰に見られるか分からない状況で、上品さも決して忘れない。
やがて口元へ持ってきたカップを、カノンが傾かせて、中のブラックコーヒーを流し込ませた。
今日は本当に良い日だ。
こんなに素敵な朝を過ごせるのも、淑女だけの特権であり、お日さまの光を浴びて、絶品のモーニングとともに、段々と覚めてくる身体がなんとも心地よい。
特に格別なのは、この身体に染み渡るブラックコーヒー。
ほら、今にもカノンの舌に触れ。朝の感動を……
「──苦ぁっ!」
「…やっぱ馬鹿だろ。お前」
予想外の味に思わず身体をのけ反らせるカノン。
……淑女への道はまだまだ険しいのであった。
ーーーーーーーーー
「ふぅ。お腹いっぱいになっちゃいましたね!」
カノンが満足そうに目を細めて、自分の腹を優しくさすりながら、恍惚とした笑みを浮かべる。
「あれがモーニング!噂には聞いていましたけど、朝からあんなに食べれちゃうって幸せですね〜」
カフェで過ごした一時に思いを馳せながら、カノンは隣で一緒に歩く夏樹に向かって、嬉しそうに話しかけた。
「サンドイッチに、サラダ、まぁコーヒーはちょっと苦かったですけど…」
「ブラックにする意味はあったのか?」
「淑女とは、人生の苦渋を味わうものなんです」
すると、自信満々に告げるカノンの戯言に、思わず眉をしかめる夏樹。
「…お前、砂糖を馬鹿みたいに入れてただろ」
「き、気のせいですよ!」
素っ頓狂な声を上げるカノンに、夏樹が呆れた。
「とはいえ、苦味の口直しに食べたケーキは抜群に最高でした」
しかし、そんなことも気にせず、カノンは一番の収穫だったともいえるデザートに食べた極上の甘いケーキに、幸せそうな顔を浮かべる。
「夏樹さんは美味しかったですか?」
「俺は何も感じん」
「もう。また、そんなこと言って〜。食べてる時ちょっと嬉しそうだった気がしますよ?」
「…………」
からかうように見てくるカノンに、夏樹は一瞥を向けると、誤魔化すようにその言葉をいなす。
「食い過ぎだな」
──現在、二人はたくさんの人々が歩行する街の中を進んでいる。
ひとまずの目的地としたジュネイスは様々な交通機関を経由する必要があり、ケータイなどを所有していない二人は道がわからないため、手探りで聞き込みをするしかない。
「今日はどうしましょうか。ジュネイスに早く行きたい気持ちもあるんですけど、観光とかもしてみたいんですよね…」
カノンが、んー。と悩むように唸り声を上げると、夏樹が不快感を露わにする。
「…必要ない」
「まあまあ。人生、急いでばかりじゃ疲れちゃいますし。『──寄り道を続けよ、若人。それこそが結論へ向かう唯一の最適解なのである』」
「なんだそれ」
わざと低くした声で、カノンらしくもない固い言葉をメリハリをつけながら読み上げる様子に、夏樹は違和感を覚えた。
そんな夏樹に、カノンは得意気な様子。
「昔、お姉ちゃんがくれた本に書いてあった受け売りです!…確か有名な哲学者とかだったかな」
「そんなやつの言葉。聞くに値せん」
「──でも実際、間違いではないですよ。寄り道したおかげで、夏樹さんと仲間になれたんですから!」
夏樹が冷たい目を向ける。
「やはり聞くに値せんかったな」
「ちょっと、どういう意味ですか?」
そのせいで余計な荷物が増えたとでも言いたそうな夏樹を見て、カノンは不満気な声を上げた。
「…とはいえ、こんなに楽しそうな場所に来たんです!色々見てみなきゃ損です!」
カノンが手を左右に広げて、周囲を見渡す。
「大きい家!」
自分たちが今居る大通りに立ち並ぶマンション群を指差すカノン。
「たくさん走る車!」
さらに視線の先に映るのは、エンジン音を大きく響き渡らせながら、都会の街道を走る無数の車たち。
「後は…可愛らしい猫ちゃん!」
歩道を我が物顔で闊歩する白と茶色のね…
「……ん?」
カノンの顔が固まる。
「──わぁー!見てください!!あそこで猫ちゃんが歩いてますよ!猫ちゃん!めちゃくちゃ可愛いくないですか!?」
「やめろ…揺らすな!」
直後、カノンは大歓声を上げながら、夏樹の肩を掴んで、猫の可愛さに対する感激のあまり、その身体を激しく揺らした。
「あれが猫ちゃん…初めて見ました!本でしか見たことなかったんですけど、可愛過ぎますね…うへへ」
山脈近くの村で暮らしていたカノンは鹿や、牧場の牛くらいしか見たことがなかったため、こういった小動物に対して、非常に愛らしいと感じる。
そうして、だらしなく頬を緩めるカノンは、いつにもましてご満悦な様子だ。
「ちょっと近づいてみましょうか。…猫ちゃん」
端から見れば不審者にも思える怪しげな顔で、道を歩き続ける猫へ一心不乱に迫る。
「…………」
「大丈夫…見るだけだから」
唖然としている夏樹を後ろにして、カノンが猫へ接近すると…
「──あ!」
カノンの気配に気づいたのか、猫が急ぐように走り始めた。
走ったその先に広がるのは──
「危ない!」
「─待て!!」
叫ぶ夏樹の声も届かずに、カノンは車が往来する車道へ飛び出してしまった猫を追いかけて、自分もまた歩道から外れて走り出す。
そして、カノンが車道に現れ…
直後、響き渡る車のクラクション。
けたたましい音が地面との摩擦で発生し、カノンの姿が車の影に隠れて消えてしまった。
やがて車が停止する中、思わず駆けてしまった夏樹がカノンの居た場所にたどり着くと。そこには──
「…いたた」
直前で白線に逃げ込んだカノンが、足を道路で擦りむきながら倒れていた。
困惑して車を止める運転手たちを無視して、夏樹が車道を走り抜け、カノンのところへ。
「お前、何してるんだ」
「ん…夏樹さん?あっ!そうだ猫ちゃんは!?」
声を荒げる夏樹を見たカノンは、少し足が痛む中で、助けようとしていた猫が居ないことに気づき、どこへ行ってしまったのかと目を向ける。
車線の向こう側に視線を動かすと…
「……あ」
さっきの猫が歩道を走っているのが目に映った。
「よかった。無事で」
痛みで目を細めながら、安堵の声をカノンが口から漏らした。
「無事って、猫を気にしてどうするんだ。お前が無事じゃないだろ……」
「あはは…大丈夫ですよ!膝を擦りむいただけですし」
しかめっ面を崩して呟く夏樹に、カノンが手を傷跡に伸ばして笑いかける。
「私はともかく、あの子のほうが危険な目に遭いかけていたから、助かってよかったですね」
「そういう話じゃない」
カノンを睨みつける夏樹。
「…あと少し遅かったら、怪我じゃ済まなかったかもしれんぞ」
「ううん。車とはまだ距離があるように見えたので、その前に猫ちゃんを助けようと思っただけです!だから最初からそんなつもりは……あれ?もしかして夏樹さん。私を心配して…?」
「違う!俺は─」
緊迫感のないカノンに夏樹が怒りの声を上げようとする。
しかし…
─『んー!実にグッドな心いきだぁ!』
二人の間に気の抜けた声が割り込んだ。
身体を思わず震わせる夏樹とカノン。
「そこの君!今あの猫を助けようとしただろう?グゥーッド!素晴らしいヒーロー精神じゃないか!」
目線を向けると、同じく白線の真ん中あたりに人が一人立っている。
いや、形こそ人であるが!その風貌は明らかに異常な格好であり、どちらかと言えば。
「人間だけではなく、動物まで助けようと自分の身をも投げ出す。関心関心」
奇抜な模様を刻んだ赤いタイツに、覆面を被った男らしき人物。
「たとえ意味がなくとも、何かを助けようとすることにこそ意味はあるね。まさにグッド!」
目の前の二人が視界に入っているのか、いないのか。自分の好きなことを一方的に話し続ける彼を見て、カノンは……
『──助けてください!変態さんが居ます!!』
ーーーーーーーー
「落ち着きたまえ!私は変態なんかじゃない。正義のヒーローだ」
車道から出て歩道に戻った三人。
夏樹の後ろへ隠れるようにして、警戒の眼差しを向けてくるカノンに対し、自称変態じゃない男が弁明の声を上げる。
「そんな見た目の人が普通なわけないですよ!」
「違う。これは立派なヒーロースーツである!」
「…俺を挟んで話すな」
苛立った様子の夏樹をよそに、男が自己紹介を始めた。
「まずは名乗ろう。私の名前は"グッドマン"!この街を守るために生まれた正義の使者にして、平和をこよなく愛する活動するスーパ〜グッド!それが私グッドマンだ」
握った拳に親指だけ立てて夏樹とカノンに突き出すグッドマン。
表情は覆面に隠れていて分からないが、キメ顔を中でしていそうな様子がなんとなく鼻につくと夏樹は感じる。
しかし、カノンはヒーローを名乗るグッドマンに半信半疑な様子で。
「信用できません!」
「何故だね」
「変な格好だからです」
その言葉につい肩を落としてしまうグッドマン。
「…分かった分かった。ヒーローとは決して素顔を見せないものだが、誤解が続いては私の名誉が傷ついてしまう。だから正体を見せてあげよう」
グッドマンは自分の腰に巻きつけられたベルトをスイッチのように押して、右手を直角に折り曲げて叫び立てる。
「夢覚 <英雄> 解除!」
刹那、青い光がグッドマンの身体から放たれた。
光が収まると、立っているのは…
「これが私の真の姿だ」
明るい黒の髪をした、疲れ切った顔を浮かべる不精髭を生やした中年男性だった。
予想していたのと違う姿に目を丸くする二人。
「…………」
「どうした君たち。中身がただのおじさんで落胆でもしたのかね?」
先程よりも、どこか不安そうなグッドマンの声が響き渡る。それにカノンは──
「すみません、まさか変態じゃなくて、ちゃんと生きている人だったなんて…」
「…はぁ、そうかい」
驚いた様子のカノンに、グッドマンは何と勘違いしていたのかと一瞬思うも、すぐに突っ込むのを諦めた。
「夢覚 <英雄>」
再び、放たれた光の先でグッドマンはもう一度。赤いタイツと覆面を着用する。
「分かってくれたなら…ん〜、グッド!そうさ私こそがヒーローなのだ!」
「おぉ〜、変身する能力?なんだか面白いですね!それでグッドマンさんは何をしに来たんですか?」
夢覚を発動するたびに、服を脱いだり着替えたりするのを見て、そういう能力なのだろうと思うカノン。
それはともかくとして、気になるのは彼が自分たちの前に現れた理由についてだろう。
「私はついさっきも言った通り、この街を守るためにパトロールしていたのだ!」
「その格好で?」
「もちろん!これがグッドマンとしての正装だからね」
「…変態なのは、間違ってないのかもしれんな」
夏樹の面倒くさそうな声が呟かれる。
グッドマンはまた反論をしようとしたが、カノンが間髪入れずに入ってきた。
「パトロール…なるほど。つまりグッドマンさんは『良い人』というわけですね?」
「──!」
途端に、グッドマンが覆面越しにでもわかるほど嬉々とした様子へ変わる
「あぁ!グッドなご明察、まさにグッド!なんてったって私はヒーロー!」
「凄いですよ夏樹さん!この人、ヒーローらしいです!」
「ただの変態だろ」
数十秒前まで自分が言ったことも忘れて、グッドマンを本当にヒーローだと信じ始めたカノンと、寄り道のせいで、また新しく増えた馬鹿を見て、冷めた視線を送る夏樹。
「それで結局、何の用だ」
「私はヒーローとして、そこの少女を褒め称えにきたのだよ!」
「私…ですか?」
カノンが意外そうな顔を浮かべる。
「君、自分の身を賭してまで、猫を助けようとしただろう?そのヒーロー精神に私は感服した!グゥッ〜ド!」
「……んん?」
グッドマンの賞賛の声に、カノンは何がなんだか分からない様子で困惑する。
「私は別にヒーローじゃないですけど…」
「何を言っている!立派なヒーローじゃないか!誰かを助けようとしたなら、それだけで充分さ」
「そうなんですか?」
あまり納得のいかないカノン。
「謙遜したくなる気持ちは分かる。だが自信を持ちたまえ」
「いや、私は猫ちゃんを助けたかっただけなので、そんなキラキラした感じじゃないですよ」
グッドマンが熱弁してくるも、カノンも一歩も譲らなず、自分はそんなに崇高なものではないと真剣な顔で主張する。
「なんか…私がヒーローって違うんですよね〜」
「お前は馬鹿だからな」
「ちょっと。私はヒーローじゃないけど、馬鹿でもありませんよ!」
夏樹の軽口に、カノンはジトーっとした目で、頭の悪い子でもないと異議を唱えた。
そんな様子を見て、グッドマンは少し戸惑うが。
「そうかい!よく分からんが、まぁ私は君にそのヒーロー精神を忘れないで欲しかっただけだ!これからも精進したまえ!」
「あっ、もう帰っちゃうんですね!ありがとうございますグッドマン!」
「ん〜〜、グッド!」
「まぁいいか」と思い、夏樹とカノンに親指を立てながらグッドマンはどこかへと帰っていく。
あとに広がったのは車やバイクがエンジンをふかしながら走る音のみ。
──そうして再び二人になった夏樹たち。
「格好は変ですけど、あんまり悪い人じゃなさそうでしたね」
歩道の片隅でおかしなコスチュームを着ていたグッドマンの姿を思い出しながら、カノンがそう夏樹に笑いかける。だが…
「…下らん」
夏樹は一人立ち尽くして、顔に暗い影を落としながら、吐き出すように呟いていた。
「ヒーローなんて下らんな。あんなものをして何になる」
「えーっと?別に悪いことじゃないと思いますよ。誰かを助けるって、それだけで十分凄いですし…」
その様子を不思議に思うカノンが、夏樹の顔を覗き込むと、気づいた夏樹がカノンのほうへと視線を送る。
「いや、なんの意味もない。ヒーローなどと目指したところで力がなければ所詮…死ぬだけだ」
声に怒りを滲ませながら話す夏樹。
「……?」
──だが、カノンの目には何故か、夏樹が遠くを見つめて、どこか悲しい顔をしているように見えた。




