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忘却のアナタシスア   作者: 風鈴鳴梅
第一章 血に堕ちる天使
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第2話 獣も愛を夢見るか


 空に映る満面の星空。

 それだけが光を放つロズアルプ山脈の夜。


 険しい坂道を登り続け、二人はまもなく頂上に着くところではあるが、光源が一切ない、あまりの暗さに方向感覚を見失いそうになっていた。


「離れるなよ」

「だ、大丈夫です…なんとか見えてますから」


 暗闇に目を慣らしながら、お互いの位置を確認しつつ岩場を歩く夏樹とカノン。


「しかし、また寒くなってきたな。アイツが仕返しにやってきたか?」

「多分、夜だからだと思います。ただでさえ山の上のほうなのに、この時間帯は冷えちゃいますよ」

「…そういうもんか」


 冷やつく風を身体に受けて、少し前に戦った怪物の存在を思い出す夏樹だったが、カノンの言葉を受けて納得する。

 場所によっては高度4000メートルをも超える山脈の中では、気圧の影響で気温が下がる上、太陽の光が当たらない夜のせいで肌寒い。


「ちょっと、疲れてきましたね。今日一日中、歩きっぱなしですよ!」

「…あぁ。暗闇の中を進むのも得策とはいえん」


 カノンが吐いた弱音に夏樹が賛同の意思を示す。


「どこかで休むか」


 足場の悪い中をかき分けながら、夏樹は休憩できる場所を探そうとした。

 しかし、夜闇に包まれる山ではまだまだ目が機能しづらく、感覚に頼る以外に方法が見つからない。


「んー、まっくらくらで見えません…」

「邪魔な石が多いな。……ちっ、これじゃ、どこで滑べり落ちるか分からんぞ」


 丁寧に足で払いながら、大地を踏み締めて安全地帯を探す二人。


「それもですけど、やっぱり寒い…──さっきほどじゃなくても凍えちゃいますよ」


 カノンが身体を震わせて、肩を落とす。


「せめて、風をしのげればいいんだが…」

「夏樹くんは素肌のままですし、余計に寒そうですもんね」


 カノンが夏樹の言葉を聞いて、呟いた。

 この夜の寒さに対抗するためには、風が吹いてこない、岩壁に四方を囲まれるような場所が今の二人にとって望ましい。


「休める場所…休める場所……」


 何度も言葉を反芻しながら、カノンが近くに顔を動かして探すも、なかなか見つからない。


「最悪、身体を丸め込んで、平らな場所に座り込むか」

「うーん、それはそれで窮屈に──」

「……ん?」

 

 だが、途中で夏樹が動きを止めた。

 ほんの僅かにだが、耳元に違和感が掠った気がする。


「どうしたんですか?」

「いや、声の跳ね返りが少し変だった気が」


 突如変化した夏樹の様子に、カノンが疑問を感じるも、夏樹は自分の感覚を頼りにその根源へと進んでいった。


「──!」


 そして、ある地点で違和感が確信へと変わる。

 さっきまで感じていた左右に向かう風の流れが、夏樹の身体から消えたのだ。

 試しに、左へ行ってみると反りたった岩の塊にぶつかる。


「…おい」

「えっ!これって………もしかして、"洞窟"?」

 

 遅れて着いてきたカノンが、岩のある場所を確かめて考えたすえ、その正体を暴いた。

 山の中で偶然発見した休めそうな場所の存在に、思わず喜んで互いのほうを向く夏樹とカノン。


 二人は暗い穴の中へと入っていく……


 





………………

「いや〜、良かったですね!こんなところに、洞窟があっただなんて!」


 満面の笑みを浮かべて、地面に足を伸ばしながら座り込むカノン。

 防寒着のフードを取って、ポニーテール状に括った茶色い髪を外へ出すと、細い手に握った携帯食を頬張り、喜びを露わにする。


「雨風からも守れて、ここなら安心、安心!」

「…だな」


 近くで夏樹もまた、右足を縦方向で三角に折って間に左足を差し込み、リラックスした様子でカノンに頷いた。 


「欠点があるとすれば、火を使えないのが残念ですけど、贅沢は言ってられませんしね〜」


 洞窟内部で、空気が巡回しないまま燃焼してしまう可能性を考えると焚き火などは安易に出来ないため、寒さだけは依然として残る。

 しかし、風が吹く外に比べれば、かなりマシであり、目も夜闇に慣れてきた頃だ。


「こういう状況だと、質素な食事にも味を見いだせてきちゃいました!栄養食も慣れれば美味しいもんです」

「…まぁ、酷くはない」

「ですよね!ご飯の進化に感謝しちゃいます」


 そんなカノンの言葉を聞いて、夏樹がふとイメージを浮かべる。


「──ステーキ、パスタ、カレー。マリネに、ピザに、唐揚げに、パエリア…あと刺身定食」

「うぅ〜、そんなこと言ったら頑張って誤魔化してたのに、お腹が空いてきちゃいますよ!……山を降りたら、ちょっと良いもの、食べちゃいましょうか…」


 天上を向いて、今食べてみたいご飯を思い浮かべる夏樹に、カノンもよだれを垂らしながら、遠い想像の先にある料理の品々に思いを馳せた。

 やっぱり携帯食では物足りないので、この険しい山を降りたら、どこか美味そうなレストランに駆け込もうと、夏樹とカノンは顔を見合わせながら決心する。


 こんな寒さに包まれる夜だからこそ、暖かくてジューシーな食べ物が恋しい二人。


「…ダメだな。こんなことばかり考えてたら、空腹に頭がやられる」


 夏樹が頭を抱えながら、小さくうずくまって、目を細める。


「今日は寝るぞ」

「えっ…早いですね?」


 その言葉にカノンが驚く。

 普段は寝る前に、もっと他愛のない話を重ねたり、二人で出来る簡単なゲームを遊んでから睡眠にへと入るが、今日に限ってはいつもと違った。


「疲れた」


 夏樹はそう言うと、後ろの岩壁に背を預けて目を瞑る。一日中、気を張りっぱなしだったため、疲労が全身に回っていた。

 座るのは硬い岩の床だが、夏樹にとってはむしろ、これくらいが丁度いい。


 襲ってくる眠気を一身に浴びながら、明日はどうしようかなどと考えて、夏樹は眠りへと……

 ──だが、寝れなかった。


 やっぱり寒い。

 半シャツ一枚で、山登りに挑戦したのは夏樹といえど無謀すぎたのだ。

 こんなことなら、意地を張らずカノンと一緒に防寒着を買ったほうが良かっただろうかと、後悔のような感情が思い起こされるが…


「──はい!」


 突如として、夏樹の背中が抱えるように持ち上げられ、布のようなものがかけられた。


「……!」


 何事かと思い、目を向けると。

 そこには白いTシャツを着たカノンが立っている。…夏樹の記憶では、さっきまでピンクの防寒着を着ていたはずだった。しかし──


「そんな格好じゃ、寒くて寝れないですよ?だから、私の服を貸してあげます!」


 カノンは振り向いた夏樹に笑いかけながら、優しい声で告げる。


「…要らん」

「ダメです。無理して風邪なんか引いちゃったら、明日が辛いんですから」


 すぐに防寒着を返そうとする夏樹を、カノンが遮った。


「違う…俺に渡したら、今度はお前がどうするんだ」

「ん?私のことを気にしてるんですか?……えっと、構いませんよ。私には"これ"がありますし」

「?」


 夏樹が、カノンの言葉に首を傾げていると、カノンは手を合わせて念じるように造形する。

 発動されるのは <花天>の力。


『神聖(ハス)』


 すると、カノンの目の前に色鮮やかなピンク色の花弁に囲まれる、小さな花が咲いた。

 中心にそびえ立つのは、黄色いじゃがいもを半分に切り分けたような摩訶不思議な物体。周りに生える細い糸も相まって、全体的に神秘的な様子を体現している。


「えーー、この花は…」

「──蓮か」

「あっ!そうそう。それです!確か東方区域の池とかで咲いている花なんですよね」


 夏樹が意外にも、名前を知っていたことに驚きつつ、カノンが話し始める。


「蓮根って、野菜が取れたりもするそうですけど…」

「何に使う気だ?」

「実は、この花の真ん中の部分が熱を放つんですよ。それが結構温かいので、防寒対策に使おうかな。って」

「…その形じゃ、不便だろ」

 

 カノンがつつくように、蓮の中心にある物体を触って温度を確かめた。

 だが、夏樹はじゃがいものような…言われてみれば蓮根にも見える「それ」。

 …厳密には、蓮根は根から採れるので異なるが、規則正しく並ぶ小さな粒々により蓮根っぽい"花托"と呼ばれる部位の形状を見て、呟く。


「でも、無いよりはマシですよ!数で補えばいいだけですし……あ。夏樹くんも何個か使いますか?」

「別にいい。…やっぱり、お前がこれを着ろ」

「大丈夫です!私はハスの花で頑張りますから」


 どう考えても使いにくそうで、幾つあっても身体全体の寒さをカバーし切れないだろう蓮を見て、夏樹が防寒着を渡そうとするも、カノンも負けじと断る。


「それじゃ、寝転んだって満足に温かくはならない。余計に苦しいだけだ」

「でも、私が使ったら夏樹くんが寒いじゃないですか」

「俺はこのままでいい。だから使え!」


 防寒着を必死に譲り合おうとする二人。


「目の前で震えられたら、逆に寝れん。そんな状況になっては意味がない」

「今、震えているのは夏樹くんのほうですよ!それで寝れなくなるのは、私だって同じです!」


 互いの顔を見ながら、前のめりになって相手の様子を伺いつつ声高に主張する。


「知らん!俺はいいから、お前が使ってろ!」

「私もいいです!自分一人が良い思いをしようなんて思いません!だから夏樹くんが使ってください!」

「俺が使ったところで、お前が寒いなら何の意味もない!」

「私のほうこそ、夏樹くんが寒ければ、私が使う意味ありませんよ!」


 しかし、両者は一歩も引かない。

 視線をぶつけ合う二人だが、喧嘩の言い合いにしては、謙遜と互いへ向けられる優しさに溢れ、夏樹とカノンはよく分からない感情になる。

 やがて、少し辟易とした夏樹は、軽く「ちっ」と舌打ちをすると呟く。


『──じゃあ、…一緒に使うか?」


 無意識に、夏樹の口から漏れた言葉。

 互いに防寒着を被せたいなら、同時に使えばいいと。ふと頭によぎった結果であるが…

 

「………えっ?」


 夏樹の目には、その言葉を聞いて顔が固まったカノンの姿が入った。


「…違う、間違えた。とにかくお前が使えば──」

「…いいんですか?……私も、中に入って」


 慌てて言い直そうとする夏樹だが、カノンの声に、言葉が途中で止まる。

 

「……??」

「あっ、いや。私も一緒に使っていいなら、……私は、大丈夫ですけど…夏樹くんはそんなのでも…気にはしないのかな、なんて…」

「…いや、俺は」


 突然、様子のおかしくなったカノン。

 それを見て、夏樹もまた混乱する。


「…別に」

「そ、そうですか!じゃあ…一緒に?…使い、ましょうか」


 カノンが返ってきた答えに、途切れ途切れで言葉を紡ぐ。頬に熱が昇るのを感じながら、身体をぎこちなく動かし、夏樹の隣に座る。

 

 つい、互いの顔を見つめそうになるも、我慢してそっぽを向く二人。

 カノンが自分のすぐそばに来ると、夏樹は自分にかけられた防寒着を手に取り、自分とカノンの腹と膝を覆うよう毛布みたいにしてかける。


 だが、距離が少し足らない。

 仕方なくカノンは、お尻を地面につけたまま、緩やかに防寒着が左足を覆えるところまで移動すると、夏樹と肩がぶつかってしまう。


「「…!」」

 

 二人が身体を小さく震わせた。

 カノンはそのまま肩をくっつけて夏樹に話す。


「あー、えっと……失礼します」

「…………」


 顔を背けあったままの二人。

 

「その…寒くないですか?」

「……あぁ」

「よ、よかったです…」


 カノンからの声に、夏樹が小さな声で返す。

 しかし、それから二人の間に気まずい沈黙が生まれた。互いになんとか思考を繋ごうとするも、触れ合う肩の熱にばかり意識が行って、まともに頭が働かない。


「お前は平気か?」

「──っ …はい」


 会話を続けようと、夏樹が絞り出した言葉。

 カノンはしどろもどろになりながらも、続くように声を上げたが、ぼーっとする頭のせいで考えがうまくまとまらない。

 そんな中で、次の声を必死に振り絞る。

 

「私も寒くはないですよ。…あ、触って…みます?」

「……さ?」


 「えっ!何を言ってるの、私…」カノンが心の中で動揺を覚えた。

 焦りのあまり、おかしなことを漏らした自分に表情が凍る。いや、別に変ではないはずだ。ないはずなのに、間違えた間違えた!と目まぐるしく頭の中が回る。

 だが、いまさら言葉を呑み込むことも出来ないため、カノンは心臓の鼓動が強まるのを感じながら、夏樹のほうへと手を差し伸ばした。


 その様子を一瞥する夏樹。

 顔を少し横に向けて、戸惑いつつもカノンのほうに手を動かす。


「……あ」


 ──二人の手が触れ合った。


 カノンの小さな指を包み込むように、夏樹の指が優しく添えられる。

 ごつごつとした硬い夏樹に対し、白くて細い、少女という儚げなさを感じさせるカノン。


 余計な思考が全て止まり、周りの空気の音や自分たちの置かれる状況さえも忘れ去ってしまった。


「……」

 

 指先に感じる相手の感触を、ただ静かに見つめる。


「…あったかいんだな。お前の手は」

「そういう夏樹くんの手は…ちょっと、冷たいですね」

「…冷え性だからな」


 互いの温度を確かめ合うように意識を集中させると、夏樹とカノンは自分の顔を見られないように真下を向きながら、視線だけを触れ合う手に飛ばす。

 

「………」

「………」


 再び訪れる沈黙。

 そろそろ手を離してもいいかもしれない。しかし、片側に座るカノンには、夏樹の手をどかすべき理由が見当たらなかった。

 むしろ、このままもう少し…


「──っ。ダメだ」


 夏樹が身体を震わせると、すぐ引き抜くようにカノンの手から自分の手を離した。

 カノンが思わず呆気に取られると、夏樹は焦燥を浮かべた声で、ぶつかり合う自分の肩を動かし、身体を反対側へと向ける。


 即座に膝にかかっていた防寒着を退けた。

 すると、夏樹は自分の顔を手で抑えながら、よろめいた状態で、膝をついて立ち上がり、別の場所に移動しようとする。


「…やっぱり俺は向こうに行ってくる。だから、お前だけでそれを使ってろ」

「え!?待ってください。それじゃ夏樹くんがまた寒くなりますよ!」


 今にも倒れそうに揺れながら、おぼつかない足取りで歩き出そうとする夏樹。

 カノンもまた、瞬く間に立ち上がると右手で夏樹の服の裾を掴む。


 そのまま完全に立ち上がるため、夏樹のすそを軸にして、身体を起こしたカノンが、もう片方の手を振り向こうとする夏樹の肩に乗せて、引っ張ると──


「………ぁ」


 掠れ声と一緒に夏樹がバランスを崩して、二人同時に地面へ倒れ込んだ。


 服を揺らして、風を切るように小さな音を立て、カノンが仰向けになる。

 無防備にも、そのまま倒れたはずだったが不思議と背中や頭に痛みは感じず、普段なら何故かと疑問に思っていただろう。

 しかし、今のカノンに些事を気にする余裕はない。


 …仰向けになったカノンと、一緒に倒れた夏樹。

 向かい合う二人。


 ─そこには、頬を真っ赤に染めて、今にもくっつきそうなほどに近づく互いの顔があった。


「…っっ!!」


 二人の視線が交差する。

 心臓がうるさく鳴り響き、目を大きくした夏樹とカノン。


 何が起こったなんかどうでもいい。何が起ころうと関係はない。大事なのは、眼前に迫る彼の、彼女のありのままの姿。


 抑えきれず耳にまで到達しそうな熱に、頬がどんどんと紅潮していくと、目が蕩けるように自然に緩み始め、カノンたちは一つの純情な気持ちに支配されていく。

 

 カノンの背中には夏樹の腕が回り込んでいて、それが二人の距離をさらに縮め…鼓動を早めていき。


 すぐそばで互いの漏れた息が、互いの顔に触れる。

 少し首を伸ばせばぶつかる夏樹の顔をぼーっと見つめながら、胸から溢れ出てくる感情とともに、カノンの理性は完全になくなっていた。

 

「夏樹…くん…」


 やがて視線は夏樹の目から、震えるように温かい息を出す夏樹の唇へ。

 薄いピンク色をした夏樹のそれに、カノンは夏樹の顔と交互に見比べると無自覚に自分の唇にこそばゆさを感じる。


 停止した思考。消えた理性。

 自分の心の赴くままに、目を軽く閉じるカノン。今、自分が何を求めているのかは、全身に広がる緩みと、小さく突き出された紅によって証明されていた。


 …その目をずっと見つめている夏樹もまた、頭が真っ白になりながら、無意識ながらに理解する。


 目を瞑るカノンの、赤い頬も合わさって照れた顔。

 それでさらに引き立てられる、黒っぽい艶やかなまつ毛を添えた瞼に心が奪われてしまい、夏樹は何も考えられなくなる。

 しかし、頭では分からずとも、自分が何をすべきかはカノンの顔を見ていれば分かった。


 視界の端に捉えられた彼女の色鮮やかな唇。


 求められるがまま、夏樹は吸い込まれるように自分の顔を動かす。


 段々と接近する二人。

 ぶつかり合っていた息は勢いを増し、そのまま正気を失った二人は───



『…グルルルゥゥ!』

「──ひぅっ!!」


 しかし、突如として二人だけだったはずの洞窟に唸り声のようなものが響き渡った。


 声を裏返らせて、地面から飛び起きる二人。

 

 少しだけ取り戻した理性とともに、今にも止まりそうな鼓動を抱えて冷や汗をかきながら、てんぱった思考で、まさか先客が居たのかと顔を向ける。


 目に映った洞窟の少し奥。

 気配などはなかった。いや…感じにくかったせいで警戒を怠っていただけか。

 二人が見たのは……


「ん?あ?……え?」


 暗くて完全に姿を捉えきれないが、ツノを持った動物。──鹿が四頭、互いを囲みあうに鎮座していた。


「し、鹿!?あれれ。うそぉ、ずっと居たんですか!?」

「………は」


 軽く動転するカノンと、顔が固まったまま言葉が出せなくなる夏樹。

 予想だにしていない存在に頭が追いつかない。


「なんで、こんなところに……」


 子供のように小さな鹿が二頭と、親らしき鹿が二頭。

 ロズアルプ山脈は雄大な自然風景を誇る山々。

 当然、多彩な植物だけではなく、鹿のような野生動物も数多く存在しているが、この洞窟に潜んでいたとは思いもしなかった。


「家族みたいですけれど、…雨宿り?」

「いや、雨は降っていなかったはずだが。ならここは、あいつらの住処か?」


 鹿が洞窟に住むイメージなどあまりない。だが、他に理由も考えられず二人が頭を悩ませる。

 ひとまず、いろいろと思うことはあるが、カノンがひとまず落ち着こうとすると、顔を向けた先にさらなる予想外が飛び込んできた。


「……! あれって!」


 鹿たちの中に居る、とりわけ大きな一頭の鹿。

 暗い空間ではあるが、他の三頭の鹿にはツノのようなものがない。

 しかし、唯一目立ったそれにだけは、巨大なツノが生えていたが…


「お、おかしいですね?気のせいでしょうか…」


 カノンが一つの異変に勘付く。


「あの鹿さんの形に、私…見覚えのある気が」

「……あぁ」

「夏樹くんも、同じことを考えてますよね。多分…」


 記憶に新しい姿。

 何故か左右対称でない鹿のそれは大鎌で片方のツノだけを斬り落とされた…


 ──まさに、夏樹が昼間に戦った怪物。

 その、最後の姿と全く同じであった。


 夏樹とカノンは、頬の紅を少し引かせた状態で互いに顔を見合わせる。


「そんな馬鹿な……えぇ?」

「別鹿、にしては似すぎ…だな」

「で、でも、あの怪物って明らかに夢覚(リライブ)を使っていましたよ!あれって人間にしか使えないんじゃ…」


 そこでカノンが、「はっ」とする。

 ありえない推測。自分でも何を言っているのか分からない荒唐無稽な事実だが、今目の前で起こっている出来事は、一つの結論を導き出すのに十分だった。


『もしかして…夢を見るのって、私たちだけじゃ……ない?』


 そんな話は聞いたこともない。

 人間は夢覚(リライブ)を使えるからこそ、かつての旧世界では総じて「夢覚者(むかくしゃ)」と呼ばれていたのだ。

 それは長き戦争が終わり、新しい世界が始まった今でもずっと続く常識。

 なのに、あの鹿がただの鹿であることは、遠い暗闇越しに見ても、日の目を見るよりも明らか。

 

 …二人は最初、狂った人間の誰かが能力で怪物の姿に変身したのだと思った。

 しかし、人ですらない、ただの獣。本当にあれが夢覚(リライブ)の所有者だというのなら。


「…動物も、夢を見るんでしょうか」

「どうなんだろうな」


 夏樹とカノンが示し合せる。

 もし本当にそうなら、「夢」とは人間だけに与えられた特権ではなかったのかもしれない。


 二人が視線を戻すと。

 その間にも、あの怪物と思しき鹿は自分たちのほうを睨みつけるように凝視していた。

 後ろに座って寝転ぶ三頭を庇うように塞がる姿。


 一体、その鹿は何を思い、何を夢見たというのか。


 ──夏樹たちと視線がぶつかり合ったすえ、ふと鹿は、視線を逸らし、地面に倒れ伏すようにして目を閉じた。


「……眠った?敵意はないみたいですけど」


 カノンが確かめるように、夏樹に言葉を漏らす。

 昼に戦った時とは違い、交戦的な雄叫びさえ上げない様子に、安全なのだろうかと、ふと疑問を抱いた。


「俺たちと戦うのは、危険だと思ったか?」

「うーん…それにしては穏やかな感じですよね。多分だけど……家族の前では暴れたくなかったんじゃないでしょうか」


 その目に映る、どこか幸せそうな四頭の鹿たちを見て、カノンはなんとなくそんな風に感じる。


 やがて、夏樹は掠れた息を吐くと身体の緊張を解いた。


「…問題がないなら、俺たちもさっさと寝るか」

「えぁっ!そ、そうですね…」


 夏樹の一人呟いた声に、同意を示すカノン。

 鹿たちを起こさないためにも、二人は静かに元の場所へと戻る。


 座ると、防寒着をひざにかけて、夏樹とカノンは再び肩を並び合わせた。また頬には熱が登っていく。


「…じゃあ、また明日な」

「はい……、おやすみなさい」


 二人はそれだけ残すと、目を瞑りながら睡眠に入っていった。

 外はまだまだ冷たい空気に覆われており、洞窟の中もきっと同じような状態だろう。

 膝の防寒着だけでは凌ぎきれないほどに上半身は辛いのが道理だが、不思議なことに…


 ──二人はもう、寒さを感じていなかった。








ーーーーーーー

「ん〜、いい景色です!」


 朝、起きると身支度を整えて、山頂にやってきた夏樹とカノン。


「空の近くから、吹いてくる空気が冷たくて、最高に美味しいですね!」


 眼前には、どこまでも広がる青い空と、地上に居た時よりも遥かに近づいた白い雲。

 下を見れば巨大な岩の山脈がまだまだ先のほうへ連なるように続いていて、所々に映る雪や緑の植物がロズアルプの絶景を作り出す。


「あの山の遥か先が、私たちの向かう場所なんですよね…」

「これから山を降りるが、方向はほぼ同じだな」


 山脈の向かう長い道を見つめて話す。

 軍の駐屯地を経由する必要上、ルートは異なるが…それもまた、東方区域の存在する東に向かって、ずーっと伸びていた。


「やっと乗り越えたのに、まだまだスタート地点って考えると、先は長いです」

「…そうだ。せっかくだから、『あれ』を使うか」

「──?」


 そう言うと、夏樹はおもむろに懐を漁る。


「…あ!私が上げたカメラですか。ちょうどいいですね!」


 カノンが嬉しそうに明るい声を上げた。

 黒い色をした小さなサイズのインスタントカメラ。前の誕生日の時に夏樹に送ったプレゼントだ。

 夏樹はカノンのほうを向くと、カメラのシャッターボタンに手を添える。


「撮るぞ。ちーず」


 何度か音を立てて、広大な山々と、それを背景にして笑顔でピースを取るカノンの姿を写真にした。


 少し寒さを感じるそよ風を受けながら、写真を撮り終えた二人は、しばらくの間山頂の景色を観察すると。

 カノンが立ち上がって腕を後ろに背筋を伸ばし呟く。


「──よし。それじゃあ今日も一日、頑張りましょうか!」

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