第1話 遭難した遭難
2026年7月 ロマン地方。
夏の暑さを一切感じさせない、凍えるほどの寒さを覚える気温に、白く染められた景色が広がるロズアルプ山脈の登山道。
雪を踏みしめながら歩く少年たちが居た。
「寒っっ!」
身体を抱きしめるように震えながら、カノンが喉から思わず出てしまった声も震わせて、掠れた息を漏らす。
「なんですか…この異常な寒さは」
険しい山道を歩く夏樹とカノン。
現在二人は、ジュネイスで受けることとなった苦界往生遍路巡りの刑の執行中であり、涅槃都市バンコクを目指して徒歩の旅を続けていた。
数日歩いた先。
たどり着いたのは、遍路巡り最初の難関と称されるロズアルプ山脈。
夏である現在は、高所付近の雪こそ溶けきっていないが、本来は比較的涼しさを感じる気温である。
しかし、今の二人を襲う寒さは、明らかに異常なものだった。
「山だからな」
「でも、こんな寒さは冬のアールグレイ村でも感じたことありませんよ。…というか夏樹くんは大丈夫なんですか?」
カノンが夏樹に心配の声を向ける。
この極寒の中でも、夏樹は半袖のシャツ一枚であるが平然とした顔のまま雪道を歩いている。
「俺は慣れている。だから平気だ」
「ん〜?本当ですか……?」
「………」
カノンが顔の周りを覆う防寒着から前髪を飛び出させて疑うように夏樹を見た。
「このくらいは、俺にとってなんでもな…うぃ」
「…もう」
一瞬だけ、若干声の震えた夏樹に、カノンが呆れた表情を向ける。
「やっぱり、あのお爺さんの言っていたことは迷信じゃなかったのかもしれませんね…」
吹雪などが降っているわけではない。
しかし、身体の芯まで凍らせてくるような冷たさは、夏樹とカノンがこの山に来るまでに聞いた、とある話を思い出させた。
「ホラにしか、聞こえなかったけどな」
「私も最初は信じてませんでしたけど…こんなに同じなら、認めるしかない気がします」
度を超えた寒さに、カノンが怯えた声で呟く。
『この山の神様が、荒ぶっているって話は──』
ーーーーーーー
遡ること一日前。
「あの山には近づいてはならん!」
響き渡る怒号。
その迫力にカノンが瞬きを繰り返す。
「どうしてですか?お爺さん!」
「神様が怒っておられるからだ!」
わけの分からないことを繰り返して、告げる老人に、困惑を覚えるカノン。
この時の二人は、決められた道順を辿るうえでジュネイス付近にそびえ立つロズアルプ山脈を乗り越える必要があると判断し、近くの街で情報の収集を行っていた。
「えっと……?」
「お前は聖方教会の信者なのか?」
「違う!ワシは神を信じん、無神論者だが、神様は間違いなくあの山におられる!」
「…それって無神じゃない気が……」
ロズアルプ山脈について聞き回っていたところ、たまたま出会った老人に話しかけた二人だったが、山脈の話を出した途端、人が変わったように騒ぎ始めた老人。
「ワシの友人に、山脈の登山を趣味にしているものが何人か居るが…皆、口を揃えてこう言う『祟り』だと」
ただならぬ様子に、二人が怪訝そうな顔を浮かべる。老人の話はこうだった……
──友人が、ロズアルプ山脈の上部付近を杖を付きながら登っていた時。
今までは涼しい気温だったのが突如として、身体が極寒に震え始め、危機感を覚えた友人はすぐに下山しようとした。
しかし、それでも止まらない寒さに違和感を感じて、ふと後ろを振り向いて見ればそこに…
……赤く目を光らせる、大きな角を持った怪物が、遠くから視線を送っていた。
「…ひっ」
話を聞き終えたカノンが、小さな悲鳴を上げる。
「だから、山に入るべきではないのだ!」
変わらずに青筋を立てる老人。
忠告するように目を細めて、夏樹とカノンの二人を睨みつけた。
「…ただの怪談じゃないか」
「で、ですよね。そんなお化けみたいなのが、実在するわけないですもん!」
まともに取り合う様子がない夏樹に、カノンが同意を示す。
「ワシの友を疑うというのか!?そんな存在、山の神様以外にありえなかろう」
その雰囲気を感じ取って、老人が怒りを増すが、夏樹とカノンは顔を見合わせた。
「うーん。……でも、フィアワールドさんみたいな人間じゃないって感じがする人は、見たことありますよね。私たち…」
「あいつは少なくとも、神じゃなさそうだったな」
二人が思い返したのは、ジュネイスで会った白面の怪人──フィアワールド。
彼は人外じみた外見と言動に反して、師団長の役割を与えられた謎の存在だったが、二人の印象としてはどこか俗物っぽい雰囲気がして、神様などという高潔な存在にはあまり見えなかった。
「なんの話かは知らんが、とにかく山には近づいてはならん!」
「そう言われても、ロズアルプ山脈を経由しないと、次の目的地にかなり遠くなるんです。…あまりに時間が経ち過ぎると、どうなるか分からないですし」
苦界往生遍路巡りにおいて、次に指定されている軍の支部まで時間がかかりすぎると、更なる処分が下されるとオハコより説明されていた二人。
この旅でそこまで急ぐつもりもないが、だからといって無駄に必要のない罰を受ける気もない。
「──ええい!行くなと言ったら、行くな!」
すると、老人が怒りを爆発させた。
二人はしばらくの間、そんな彼をなだめながら「ロズアルプ山脈には近づかない」と言い残し。
念のためにカノンは近くの店で防寒着を買ってから、隙を見て登山口へ入っていくのだった。
……………
「…やっぱり、どんどん寒くなっていますよね?」
水色の防寒着を着込んだカノンは、雪道を歩いて夏樹へと話しかける。
「あぁ。『俺は』そこまで何も感じないが、確かに寒いかもしれん」
「強がらなくていいんですよ?……でも、流石にこれ以上はどうにかしないと、まずい気がします」
カノンは相変わらず、半袖で寒さを堪えて痩せ我慢をする夏樹に呆れながらも、それも含めて早くしなければ夏樹と自分の命が危ないと思い始めた。
もし、これが老人が言っていた祟りなのであれば、早く対応しなければ何が起こるか全く分からない。
「こういう時は、ちょうどいい花があるんですけどね」
「出せないのか?」
「んんー。ここは寒すぎるから、無理っぽいです…」
カノンが手のひらを上にして、額の辺りに力を込め、おまじないをかけながら試してみるも、一瞬咲いた後すぐに枯れてしまう。
「…早くどこかで温まらないと」
いろいろ懸念点がありながら、ひとまずは自分たちの安全を確保しようとするカノン。
しかし──
「……お前は神とやらを信じているか?」
「なんだか、怪しい勧誘みたいですね?だけど、私は百歩譲ってお化けは信じても、神様はあんまり居る気がしないと思いますよ」
唐突に、下手な勧誘文句のような言葉を唱える夏樹に首を傾げて、カノンは答えた。
「ちなみに、夏樹くんはどっちなんですか?」
「俺はお化けも神も信じんよ。特に、お化けがもし本当に存在するなら、俺には化けて出そうなやつに心当たりがありすぎるからな」
「ちょっと、夏樹くんらしい答えです」
現実的な思考をする夏樹に、イメージに合った厳しい考え方だなとカノンは思う。
意外とロマンチックなところもあったりするが、こういうことに関しては徹頭徹尾変わらない姿勢を貫き通す。
…もっとも、夏樹は軽い冗談のつもりで言っただけだが。
「…まぁ、だから俺は神を信じていないし、あいつの言う祟りも本当だとは思わん」
「うーん。じゃあ、なんなんでしょう…」
迷信を否定する夏樹に、カノンが頭を悩ませる。
「ただの異常気象か、人の仕業だろう。誰が何の目的でやっているかまでは知らんが」
夏樹の考えであれば、天気の乱れ…いや。それよりも人間が起こしたものではないかと予想していた。
この世にはおあつらえ向きに、夢覚と呼ばれる特殊な力が広がっている。それを使えば人智を超えた現象も起こすことが可能だろう。
「確か、赤い目をした角の怪物…だったか?天聖騎士でもない限り、近くに居るんじゃないか」
「でも、あまりに近いと夏樹くんが気づきそうですよね」
「違和感は感じる気もする…だが、空気みたいで察知しにくい」
夏樹とカノンが二人そろって頭をひねる。
しかし、予想はいくつか出ても、これだという答えは出てこなかった。
「一度、試してみるか?」
「本当に人なら、出てくるかもしれません」
カノンが、とりあえずやってみようと思い、周囲に対して適当に夢覚の能力を発動してみる。
「こういう時は、とりあえず <花天>!」
状況に一番合いそうな花をイメージして、記憶から呼び起こすように、カノンは力を巡らせ…
「嫉妬の炸裂」
雪に覆われる地面から咲き始めたのは、赤い鉄砲のような形をした花。
中の花粉を炸裂させることで、カノンは周囲一帯を撃ち払って犯人の正体を露わにしようと目論むが。
しかし──
「……うぇ?」
花が萎れて、地面に倒れた。
「あ。そういえば、ここ寒すぎるの忘れてました!」
「…………」
花という植物が気温に影響されやすい以上、状況によって多少<花天>の効力が上下してしまうが、この極寒の中ではそれすら許されずに花が枯れてしまった。
「仕方ないな。なら、しらみ潰しに探して…」
夏樹が「諸刃の大鎌」を構えて、周囲に攻撃を仕掛けようとする。
「──夏樹くん。後ろ!」
「………!?」
だが、カノンの声に夏樹が後ろを咄嗟に振り向いた。
すると、そこには圧倒的な存在感を放つ巨大な黒い影が夏樹を覆い隠すように立っていた。
「──グアオォォォ!!」
3メートル以上にもなる巨大な体躯に、天まで伸び上がる枝分かれした角。人に似た形をする獣のような怪物。
それは怒りの咆哮を二人に叫び立て、純粋な力に満ちた腕を掲げると、目の前のちっぽけな夏樹へ向かって、振り下ろす。
「───っっ!」
夏樹が「諸刃の大鎌から銀色の刃をすぐに飛び出させて、毛に包まれた厳つい腕を受け止める。
音のしない、しなやかな感覚に夏樹が目を向けると、毛皮の茶色い姿が見えた。
「怪我はないですか?」
「…浅いな」
血が噴き出していない様子を見て、夏樹が呟く。
怪物は一度仰け反ったが、少し空いた間合いを瞬く間に詰めて、前方の夏樹へ両腕を本能の赴くままに放つ。
息を呑んで、呼吸を僅かに止めながら飛躍的に集中力を増した状態で、夏樹は迎撃するように、大鎌を縦横無尽に動かす。
繰り広げられる攻防の応酬に、周囲の雪が風で舞い散ると極寒の旋風を空気中に生み出した。
数度のぶつかり合いのすえ、押されたのは怪物。
毛を散らして、小さな血飛沫を腕の幾つかの箇所から上げた。
「こいつが例のやつか?」
夏樹が大鎌を正面に構えて、怪物が一歩後ろへ引いたのを確認すると、カノンを一瞥しながら尋ねる。
「見た目とか角は似てますね…」
「人の形だが、正気ではなさそうだな」
二人で怪物を前に対峙すると、相手の様子を伺いながら互いの隙を補うように並び立ったのも束の間、すぐに怪物は腕を伸ばして掌を突き出した。
「……!」
「おっと……さぶっ!」
白い霜のような物質が怪物の腕から、夏樹へ放射されると夏樹は躱す。
カノンには当たらなかったが、地面に反射した霜が宙に広がって身体に触れると、凍りつくような冷たさにカノンは思わず一歩、身体を引く。
「やはり、冷気を操るのか」
夏樹の近くにも霜が襲ってきたが、彼の体感としては、物質であれば瞬く間に水分が凝固されて、身体が凍りつき動かせなくなるだろうと思わせるだけの、冷たさを放っていた。
一点集中で夏樹に向かって放たれ続ける冷気の嵐に、夏樹はカノンに当たらないよう誘導しながら、周囲の状況を伺う。
すると、怪物の身体から霜が溢れ出し、拡散されて霧を形成した。
馴染みのある寒さを感じながらも、夏樹が奥から感じる薄い気配に集中を済まし、大鎌を構えると、微かに空気が揺らいだ。
直後、霧の中から飛び出す巨大な腕。
夏樹へ一直線に向かう、大砲のような一撃に、夏樹が大鎌で受け流しながら攻撃を逸らす。
すかさず、夏樹の目に飛び込んでくる怪物の大きな身体ともう片方の腕に対し、夏樹は腰を低く屈め、反撃に移ろうと足に力を込めた。
刃が冷たく凍りつきながら、今にも涙が乾きそうな瞳に力を込めて、根性で正面を見つめると夏樹が腕を振るう。
交互に襲いくる腕を一つ、また一つと…大鎌で薙いで薙いで薙いで薙ぎながら、肉を断つかのように鋭い斬撃を、雪道の上で放つ。
怪物の分厚い筋肉に覆われている上、身体が動き続けて簡単には斬り落とせないが、徐々に怪物の身体が削られていき…
白いもやに包まれる中、やがて夏樹は、死角へ移動しようと怪物の懐に近づくが。
「ウシャアアア!!」
──野生的な勘。
咄嗟に状況を判断した怪物が地面と平行に顔を下げると、冷気を口元に集中させて一気に解き放つ。
それは無防備な夏樹を捉え、眼前へと迫り来る凍てつく収束線。ど真ん中を穿つ一撃は夏樹にはどうしようもなく、全力で受け止めるしかないに思えた。
しかし…
夏樹が突如として、全身の筋肉の緊張をほぐし、脱力する。
足に一切の無駄なく最短で力を送り込んで、地面に打ち付けるように衝撃を放ち、空中へと飛び上がった。
怪物が呆然と、目を丸くしながら夏樹の動きを目で追っていると。
「──はぁ!」
下から斜めに、走る銀閃。
地に近づいていた怪物の額を斬り裂くのと同時、頭から飛び出していた茶色い角に触れた。
強い衝撃を受けて、亀裂が僅かに入ると伝搬するように傷が広がりながら、角の一つが折れる。
「……っっ!」
一面真っ白な雪の上に、怪物の角が落下して。
不恰好になった頭を夏樹のほうに向け、怪物の動きが一瞬止まるも、すぐに正気を取り戻して怪物は腕を大きく掲げる。だが…
落下中の夏樹は、すかさず切先に、全ての体重を乗せて渾身の一撃を放つ。
空の光を受けて輝く刃に対し、前腕を隆起させて、怪物が瞬く間にガードを挟んだ。
しかし、強烈無比な攻撃に、怪物は襲ってくる骨まで響くような衝撃に耐えられず、足のバランスがコンマ数秒揺らいだ後、重心が微妙に崩れる。
「葉落一心流 『雪化粧』」
着地した夏樹。
大鎌の峰を怪物のがら空きになった正面に向け、目に見えぬ速度で大鎌を、左下と右下から斜め上へ、順に連続で振るった。
最初に真っ向斬りで放たれた「剛」の一撃と、斜めに二度、放たれた「迅」の蓮撃。
計三本の描かれた軌跡は、点を結べば六角。
──目に映りしは、まさに雪の結晶が如し。
紅の鮮血が怪物の身体から溢れ出した。
ほんの隙を穿って、斬った刃は今までとは比にならない損傷を与え、峰から血が垂れる。
「グゴオオォォォ!!」
怪物から、山脈中に響き渡ると錯覚するほどの、凄惨なうめき声が出された。
夏樹はまだ終わりではないだろうと、警戒の眼差しを向けながら、大鎌を斜めに構える。
しかし──
…突如、怪物は夏樹と呆気にとられていたカノンに背を向けると、おぼつかない足取りで、どこかへ逃げ出した。
夏樹がその姿を見つめていると、やがて白いもやの奥に怪物が走って消える。
完全に怪物が視界に映らなくなり、やがて夏樹は、無力ながら拳を前にして、ファイティングポーズを構えていたらしいカノンと目が合った。
静寂な風が残り、雪が吹かれて地に粉雪を散らす。
戦闘の跡となる怪物が踏んづけた白い道に、巨大な足跡が散り乱れ。
互いに困惑した後。
二人を襲っていた寒さは嘘のように消えたのだった。




