第34話 愛に死す
"ピエロスター"と名乗る少年によって作り出された夢の世界。その主が居なくなった今、本来の夢の主であるフィアワールドの手によって、夏樹は再び別の場所に移動させられる。
気づくと、夏樹の目の前で深刻そうに顔を歪めて立っていたのは父である元。
「夏樹、無事だな!」
元は夏樹のことを見ると、安心したように一息ついた。
…だが、夏樹はすでに気づいている。いや気づいていた。これが本当の父ではないことくらい。
「…どうしたの…そんなに慌てて」
複雑な気持ちで、夏樹は元に尋ねる。
これが現実ではなく、自分の記憶から作られただけの偽物だなんて信じられない。こんなにも本物そっくであるのに…
「…俺もよく分からん!だが、何かがヤバいんだ!!説明は後でするから、さっさと逃げるぞ!」
部屋の真ん中で、棒立ちしている夏樹に大声で叫ぶと、元が駆け寄って夏樹の腕を強く握った。
「父さん。お…いや、僕は」
「急げ!」
余裕が全くない状況に、言葉を遮って夏樹のことを太い腕の筋肉を全力で隆起させながら引っ張る。
本来ならば、身体の小さな夏樹が大人の力に抗う術などない。しかし、所詮はフィアワールドによって作られた幻想だからか、抵抗しようと思えば、夏樹はここで元を止めて踏み止まることも出来ただろう。
…それにも関わらず、夏樹は元とともに先へ進むことを選ぶ。
何故なら、すでに察してはいるのだ。この世界から一刻も早く脱出するために、必要な方法を。
──そして、夏樹と元は部屋から駆け足で脱出する。
…………
扉の先に見えたのは、何も変化のない、いつも通りの廊下。だが、どこからか異様な気配が辺りを漂わせていた。
「ここから玄関のほうに向かい、家を出る」
「…ねぇ、母さんはどこなの?」
「伊月なら先に家を出た。あとはお前だけだ」
腕を強く握りしめながらも、夏樹に怪我をさせるわけにはいかないと思っているのか、元が汗を掻きながらも慎重に夏樹を誘導する。
現在の時刻は夜だった。
明かりすら全くついておらず、薄暗い廊下の中。
二人は足を踏み外さないように一歩一歩を踏みしめながら、初めに目指すのは今居る2階から、出入り口がある1階に向かう階段。
「転けるなよ」
元に言われて、より一層警戒を強めながら階段に着いた二人は、手すりを持ち、階段を降りていく。
夏樹の予想が正しければ、もう事は始まっているのだろう。この緊急事態では電気を使えないのか、或いは使ってはいけないのか…いずれにせよ、暗闇の中を進み続けるしかない。
元が先頭に立ち、夏樹が階段を転げ落ちないように時々後ろに振り返りながら、一段。また一段。と降りていく。
…が、その時。
「───!?」
突然、家全体が揺らされる。
二人が感じとったのは大地が裂けるかのような圧倒的なまでの大震動。
家の中からは皿や、ガラスが割れる音が鳴り響き、所々では屋根や壁の木が剥がれ落ちていく。
その最中、いきなりの出来事に訳が分からず、手すりに掴みしがみついていた夏樹。
だが、小さい手では握りしめきることが出来ずに、襲ってくる震動に揺さぶられて手すりから手を離してしまう。
「夏樹!」
階段から地面に向かって落ちる夏樹に気づいた元が、咄嗟に夏樹の身体を受け止めた。
そのまま、後ろ向きの体勢で、夏樹を庇って数段上の階段から一気に転がり落ちる。
揺れる地面。響く鈍い音。
巻き起こった地震の揺れ自体はとうに収まっていたものの、元が落下した衝撃はそれ以上の痛烈さを含んでいた。
「かはっ」
「父さん!大丈夫!?」
背中に伝わるのは焼け付くような痛み。
床と触れ合った際にぶつかったダメージは元の身体に甚大な被害を与えてしまう。
彼のおかげで、傷一つなく済んだ夏樹は直ぐに立ち上がると、振り返って元を心配する。
頭ではただの偽物だと分かっていても、自分を庇ってくれた父を見捨てることなど、誰に出来ようか。
「ごめんね…待ってて、すぐに僕が…」
「俺に構うな!先に家を出ろ!!」
「……!」
手を伸ばそうとした夏樹であったが、元の叱責を受けてその動きを一瞬止めた。
「…嫌だ」
「大丈夫だ。父さんは元気だからな」
すると、元がなんとか立ちあがろうと、地面に腕を突き立てながら徐々に身体を起こす。
「…な?だから早く行け」
身体を震わせながらも、夏樹に笑いかける元。
「う、うん」
夏樹はそんな彼を見て、自分の中に渦巻く感情を抑えながらも、元の言う通りに動くことを決意した。目指すのは脱出のための最短ルートである、正面口の玄関だ。
──暗闇の中をおぼつかない足取りで夏樹が進む。
階段から廊下までの短くも、今日に限っては長く感じる一本道。
壁に手を当てて、さっきの揺れで破損したガラスなどを踏み、怪我をしてしまわないように気をつけて歩き、やがてたどり着いた先で。
夏樹は一つの、大きな壁にぶつかった。
「…嘘でしょ」
絶望に染まる夏樹の顔。それは確かに、玄関があった場所のはずだが、巨大な何かに塞がれていて通ることが出来ない。
近くにあった靴棚か、滑り込んだタンスか…そのいずれかなのではあろうが闇の中では判別が付かなかった。
「─どうした!」
遅れて、壁に沿って這うようにこちらへ歩いてくる元が、掠れきった、今にも血反吐を吐きそうな声で叫んだ。
「玄関が塞がっていて、出られない!」
「…マジか」
動揺する夏樹の隣へ近づき、現状を確認する元。
少し慣れてきた夜目の中、黒い影を見てみると、どうやら一つではなく、複数の物で壁は構成されているらしく、簡単には抜け出せそうにない。
「俺がどかしてやる。待ってろ!」
元が力強い言葉を放つと、少しして夏樹と並び、痛みに耐え抜きながらも、壁の前までやってきた。
すぐに腕を前に突き出すと、手始めに正面にある障害物を取り除こうと渾身の力を振り絞る。
直後、元の背中に走ったのは鋭い痛み。
先程の落下で受けたダメージが全く回復していない状態であるため、腕に力を込めて持ち上げようとすればするほどに背中の筋肉も動き元を傷つけてしまう。
「ぐぅぅ!」
痛みに悶えながらも、必死な表情でどかそうとする元。
少し後ろに居た夏樹は、そんな様子を見ると、慌てて元へ近づく。
「…僕も手伝うよ!」
彼だけに頼るわけにはいかない。と、自分も自分に出来ることをするため、夏樹が前へ出た。
目の前に立ち塞がる障害物に対して手を伸ばそうと……
──だが、予想外の出来事が巻き起こる。
「また!?」
夏樹が触れるその直前に、発生したのは震動。
大地が再び大きな音を立てて揺れだす。
「…おいおいおい!冗談だろ!?」
二度目となる巨大な地震を前に、元たちは驚愕を隠せない。家屋全体が不快な音を立てながら、揺れ動く様子が彼らの危機感を煽り始める。
「しゃがめ!」
元の指示に釣られて、咄嗟に地面に四つん這いになってひれ伏す夏樹。
その震動は先程と同等か、それ以上の強さであり、明らかに通常の地震の傾向とは異なっている。
だがそんなことを考えている暇もなく、自分たちの身を守ることだけで精一杯な夏樹と元は、互いに視線を向けながらも、頭を守るようにして防御に入る。
二人がそのまま、身体にぶつかる落下物を幾つか受けながらも耐え抜いていると、揺れが消えた。
「…このままじゃ、家がもたねぇな。早く邪魔なもんをどかさないと」
元が壁に手をついて少しずつ立ち上がる。
そして、急いで壁を取り除こうと再度、腕を伸ばすが…
その瞬間、異常な音が家のどこかから、響いてくる。
まるで何かが勢いよく、はじけているかのような高音。
元は伸ばしかけていた腕を止めて、異質な状況に嫌な予感を覚え、耳を澄ます。
直後、夏樹と元の闇に包まれていた視界が少しだけ明るく照らされた。
理由は分からずとも、それに多少の安堵感を覚える二人。
しかし元の中では未だに疑問が晴れない。
「なんだ?急に明るくなって…」
震動の影響により一部の電気が復旧したのかとも、元は一瞬思ったが、頭に過るのは考え得る中でも最悪のパターン。
さっきから鳴り響くこの音といい、もしかすると…
「まさか!」
急に大声を出した元に夏樹の身体が震える。
しかし元はそんなことも気にせずに、後ろを振り向くと、痛みすらも忘れて危険な床を走っていく。
目に映るのは、暗い廊下に一筋だけ差し込んでいる光の発生源。
「ど、どうしたの!?」
夏樹が困惑する。
それから直ぐに目的の場所に着いた元が立ち止まると、その表情が固まり、一人呟く。
「…最悪だ」
そのまま夏樹のほうに視線を送ると、衝撃の事実を告げた。
「──火事になった」
…………
「…火事!?」
元が現在居たのは洗面所。
そこでは眩い光に包まれていて、詳しくは見えないものの、炎が上がっているのが確認できた。
おそらく、地震の揺れにより、なんらかの物体が倒れてしまい電気製品のコンセントを破損させてしまったのだろう。
「ちっ、これじゃあ時間がねぇ!」
悪態をつく元。
部屋の奥のほうで出火したらしい炎は…家が木造建築であることも災いしてか、火の勢いが段々と強まっていき、燃え広がっていく。
「…玄関を今から片付けてるんじゃ、手遅れか」
最悪の状況を前にして、元が混乱しながらも思考を巡らせる。
このまま火が大きくなれば、障害物を取り除く間に火に呑み込まれるか、発生する有毒な一酸化炭素にやられるか…
ならば今、出すべき最適解は。
「─夏樹。リビングだ!リビングの窓から出るぞ!」
夏樹のほうに向かって元が叫んだ。
塞がれてしまった玄関に比べれば、まだそちらのが家を脱出できる可能性は高い。その上、火からも幾許かは離れられる。
それがこの状況下で元に出せる最良の手段であった。
「う、うん」
「急げ。そこからさっさと離れ…あぁでも、床には気をつけねぇと…いや、もう気にしてる暇すらねぇ!!!とにかく急げ!!」
自分で何を言っているのか分からなくなりながらも、元はただ本能のまま叫ぶしかない。
今、優先すべきは夏樹だけでも助かること。それさえ叶えば、後などどうでもいい。
だからこそ叫ぶ。
夏樹を一刻も早く家から脱出させるために。
ガラスだの食器だのの、割れた破片が落ちた廊下を夏樹が駆ける。
続いて元が遅くも追いかける。
階段と玄関の中間辺りに位置する空亡家のリビング。
そこへ最初に入り込んだ夏樹が見たものは、暗くて判別は付かないが、幾つもの家具が乱雑に散らされる空間だった。
「(窓は確か…あそこだ)」
夏樹が見渡すと、本来窓がある場所が目に入る。
そこが現在、どうなっているかは分からない。だが、今までに起こった二度の巨大な地震のことを考えれば、間違いなく窓は割れているだろう。
勇気を出して、足を進めながら憩いの場からデンジャラスゾーンに転じてしまったリビングを、小股で歩く。
邪魔な障害は全て足で払いのけ、破片がかかとに何個か刺さり、痛みが襲ってきながらも足場を出来る限り確認する夏樹。
それから少しすると、元も部屋に入ってきた。
「夏樹!行けるか!」
「うん!大丈夫だよ」
「次の揺れがいつ来るかも分からん。早めに進むぞ!」
夏樹に声をかけながら、元もまたリビングの中を歩き始める。
危険は承知の上で、窓までの最短距離に向かって進み、夏樹に続こうとする。が…
その途中で、元の鼻を違和感がつついていた。
「…しかし、さっきからなんだ。この匂いは…」
強く脳に訴えかける不快な悪臭。
部屋に入る少し前の辺りから、漂い始めたそれに元は嫌悪を感じる。
だが、家からの脱出を最優先とする現状では些事であるため、揺れの影響で"何か"が漏れたのだろうと、今は無視することにした。
…その選択が、運命を分けることになるとも知らずに。
今となってはもはや後の祭りでしかないが、この時、何が悪かったのかと問われれば、ただ天が悪かったと言えよう。…仮にどんな選択を取っていようと、結果は変わらなかったのだから。
むしろ、この選択を取ったことこそが、いずれにせよ、二人にとって最悪であると同時に、ある意味では最善だったのだ。
歩みを進めた末に、窓の近くまでたどり着く夏樹。
それから直ぐのことだ。
───全てを巻き込む大爆発が起こったのは
ーーーーーーー
「…がはっ!、くはっ」
全身に伝わる灼熱の痛み。
それは決して比喩などではなく、本物の火炎による灼熱そのもの。
元の身体から、無数に血が流れ出す。おそらくは今の一瞬で、無数の木片などが突き刺さったのだろう。
「…な、にが。なにが…おきた?」
霞む視界の中、元が目を開けるとそこには、地獄が広がって見える。
暗くて静かだったはずの部屋は、とっくに原型を失い、炎だけが全てを覆い尽くしていた。
「炎…?あり、えねぇ。こんなになっては…」
元の記憶にあるのは、発火を始めていた洗面所での光景。確かに火は出ていた…だが、ここまで広がるほどの大きさにはまだ遠かった。
それよりも考えるべきは、意識が途切れる寸前に聞こえた巨大な破裂音だ。
鼓膜を破壊するかのような大胆な一撃。それはまさに…
「爆発、まさか…爆発したのか?」
導き出された結論。
元はあの時に、なんらかの原因で起こった爆発に巻き込まれてしまったのだ。
推測するに、関係しているのはその直前に、彼の鼻を襲った不快な匂いである。
あれは多分、ガスだった。リビングの隣にあった台所のガス栓。時間を考慮すれば一度目の地震の際にはすでに管が破損し、漏れが発生していたのかもしれない。
何はともあれ、それが部屋中に蔓延した挙句に抜け出して、出火していた洗面所にまで広がったのだろう。
神に見放されたに近しい、不運に次ぐ不運。
だが元が、気にするのはたった一つ。
「…夏樹は、どこだ」
見渡す限り炎に包まれる世界の中で、夏樹の安否を気にしていた。大人の自分でさえ、これだけの傷を負った状況で夏樹が無事でいられるのか。
命が抜け出していく感覚に襲われる身体を叩き起こすと、文字通りに血反吐を吐き散らしながら、元が立ち上がった。
脇腹を抑えながら、前方の炎を覗き込むと、その先に小さな人影が見える。
地面に伏すようにして倒れ込むそれは、まさに。
「夏樹!」
元が一気に駆け出した。
その最中で足に破片が幾ら食い込もうと気にせず、全力を振り絞って走る。
炎の中にさえ躊躇なく飛び、熱に足が焼かれて痛みながらも足を止めずに走り続け、ようやく夏樹の下へ。
「おい!起きろ夏樹!起きろ!!」
すぐに、必死に身体を揺さぶって、魂の底から叫び出し夏樹が目を覚ますことを祈る元。
そんな願いが通じたのか、夏樹の身体が少し動いた。
「う…あぁ」
「………!!」
震える喉。それと同時に、夏樹の口が音を漏らして、目が段々と開かれ始める。
「…父さ、ん?」
「良かった…まだ生きてるんだな!」
彼は夏樹の姿を一目見ると、嬉しそうにその顔を緩めて泣きそうな顔を浮かべた。
今にも、抱きしめたい気持ちを堪えて、身体を傷つけないように夏樹の肩を掴むと、血と涙でぼやける目で夏樹の様子を確認する。
身体の幾つかの部位からは血を流し、火傷の跡も数箇所見られるが、火元から離れた位置かつ、割れた窓の近くに居たおかげもあってか、幸いなことに、致命症には届いていなさそうだ。
「大丈夫だ。ここからは父さんがなんとかしてやる!お前は休んでろ」
それだけ言って、夏樹の身体を持ち上げようとする元。
夏樹は、そこでようやく現在の元の姿を目にした。
──彼の全身はすでにおびただしい量の火傷で皮膚が爛れており、血が流れ出していたのだ。
生きているのが不思議なほどの損傷。
明らかに命に届いており、今すぐにでも病院に行かなければ助かる見込みは低いだろう。
だが、元はそんなことも気にせずに、夏樹の身体を肩に背負うと歩き始める。
「火が強いな…」
燃え盛る部屋から、手遅れになってしまう前に避難しようと、空気が熱気に包まれる中を進んだ。
煙の量も増えていく一方であり、このままでは非常に不味い。だからこそ窓のあった場所を目指すも、立ち塞がったのは火の壁。
「ダメだ。これを突っ切れば、夏樹も焼かれちまう」
今の自分の足では時間がかかるため、火を越える前に、夏樹が重傷を負う可能性が高い。
「つっても、他にどうしようも…」
元が周囲を見渡す。
他に出口はないか、何か突破口は…
「…あれは」
──すると、元が壁の隅に茶色い家具を見つけた。
形状から判断するに、部屋の角に置いてあった古びた収納家具だろう。
サイズはそれほど大きくないが、子供一人が中に入るくらいの隙間はあるかもしれない。
火が一層強まるよりも早く、元は不安定な足場を抜けてその前にやって来た。
爆発の影響か、家具は崩れた壁とともに倒れ込んではいるものの原型を保っている。
「悪いな。一旦下ろすぞ」
「……何をする気なの?」
「─お前を守るんだ」
背負っていた夏樹を炎の届いていない自身の隣に座らせると、元が家具の前面に足を乗せて、腕を上端部に添えた。
直後、腕に力を入れて倒れた家具を起き上がらせようと奮起する。
「ふんぅぅぅ」
元の持てる力の全てを使って、苦痛に悶えながらも足で踏みとどまり、限界すら超えてみせる。が…
「…はぁはぁ」
現実は非常。全身に多大なダメージを負った元の身体ではもはや、前腕の筋肉を隆起させる力さえ残っていなかった。
…それでも元は抗う。何度も何度でも身体中の細胞が壊死していようが、全力で家具を起こすことに集中し、その度に少しだけ地面から浮き上がる家具。
「くそがっ」
一向に変わらない状況に元が苛立つ。このままでは時間切れになってしまう。
─そんな時、三度目となる地震が起こった。
炎を揺らしながら、家を徹底的に破壊し尽くすように生み出される残虐な震動。
「───!!」
それに気づいた元がいち早く夏樹に覆い被さって身を守る。崩壊する家屋…再三と起こった揺れと爆発により、屋根や壁が音を立てて崩れ落ちた。
その瓦礫の一部が元の背中に降り注ぐ。
「…がぁぁっ」
「父さん!!」
夏樹の叫びも虚しく、その全てを受け止めてしまった元。
落下してきた質量の攻撃に、身体が倒れそうになるも揺れが収まるのと同時に踏ん張ってみせる。
「…まだだ!!」
家の形すら成さなくなってしまった家の中で、元が決死の覚悟を決めた。
迫り来る炎の中で、再び腕を伸ばす。
引っ張っられる家具。状況は先程と何も変わっていないにも関わらず、元の目から光が失われることはない。
「なんで、そこまで」
夏樹には理解が出来なかった。
一体何故…こんなに傷ついてまで、自分を守ろうとしてくれるのか。
この世の何が、死にかけの元を駆り立てているというのか。
そんな夏樹の疑問を感じ取って、元が夏樹に向かって話す。
「…そんなの、お前に生きてほしいからに決まってんだろ!!」
─放たれる魂からの咆哮。
今まで以上に火事場の馬鹿力が発揮され、家具が地面から数cmほど離れて動いた。
ようやく見えた希望に、元に更なる闘志が宿る。
絶対にここで失敗するもんか。という強固な思い、さらに強まる力に家具が持ち上がり、あと少しでひっくり返せそうなところまで。
…だが、それが元の限界だった。
彼の身体はこれまでの損傷でとっくに壊れている。腕に力が入っただけでさえ、奇跡に近い。
その極限を超えて、上げられたほんの少しの隙間、それだけで立派なのだ。
この時、元の脳裏には今まで自分の歩んできた人生が走馬灯のように映し出されていた。
─辛いことも悲しいこともたくさんあった。決して良いことばかりじゃない。けど、伊月と結ばれて、夏樹が生まれて…ずっと幸せな日々だった。だからこそ、今。
「負けら、れるかぁ」
たとえ自分が死のうとも、最期の力を振り絞って夏樹だけでも助けたい。助けなければならないのだ。なのに…なのに。
……腕から、力が抜け落ちてしまった。
「──あ」
魂が霧散していくように、軽く感じる元の身体。
熱さどころか、寒ささえ感じる炎に囲まれた中で、意識が遠のいていく。
…溢れ出たのはどうしようもない悔しさ。
守れなかった。せめて夏樹だけでも助けてあげたかったのに、自分の身体はこれ以上の融通を聞いてくれない。
絶望の色に染まる中で、元は言葉に出来ない謝罪を夏樹へ送る。
ごめんな…役に立たない父さんで。と…
そして、元は完全に力が入らなくなって──
「──大丈夫。私が居ますよ」
元の手に、誰かの手が添えられる。
驚いて隣に視線を動かすと、そこには。
…先に避難したはずの伊月が立っていた。
「伊月?俺は幻覚でも見てんのか…」
虚な目で、困惑する元。ここにいるはずのない彼女の姿に、自分は死を前にしておかしくなってしまったのかと錯覚する。
確かに家から出て行ったところを確認した。なのに、この火が燃え盛るような危険地帯に居るわけがないのだ。
「…違います。ただ、戻ってきただけです」
伊月が苦笑した。
元がよく観察してみると、──その伊月は、美人に整った顔も白い肌も全てを台無しにして、真っ黒に焼け焦げている。
「…母さん!!」
「嘘…だろ。おい、本当に伊月なのか?」
変わり果てた母に、夏樹が叫んだ。
あり得ない状況に、閉じかけていた意識を取り戻した元もまた、掠れた声で伊月に問う。
「はい、そうですね」
「冗談じゃねぇ…なんで、なんで戻ってきた!!」
返ってきた答えを聞き、元が絶叫する。
夏樹のことは自分が助けるから、と。元は伊月を、家から先に逃したはずだった。
にも関わらず、彼女は一体どういうわけか、異常事態に出会す家の中へ戻ってきている。
「そんなの決まってるじゃないですか」
帰ってくる途中で家の爆発に巻き込まれたのか、ここに来るまでに炎へ自ら突っ込んだのか。もしかすると、その両方なのかもしれない。
伊月がそんな爛れた顔で告げる。
「あなたと夏樹を置いて逃げることなんて、私には出来ませんよ」
ただ…そう言ってみせた。
元の表情がさっきまでより一段深い悲しみを帯びる。
「あ、あぁ」
目の前に立つのは、自分と同じくらい消耗しきった伊月。彼女はもう、助かる見込みなど低いだろう。
「俺はお前にも助かってほしかったのに。…それじゃあ、なんの意味もねぇだろ!」
身体の痛みを、心の痛みが上回り脳内を支配する。
「ただの共倒れじゃねぇか。せめて一人でも逃げきれれば、まだ…」
不意に出た元の言葉は、伊月を責めるようなやるせなさが含まれていたが、すぐに元が思いとどまった。
本当に、悪いのは決して伊月などではなく。
「違う。そうじゃねぇ…ごめんな。悪いのは俺だ…俺が、遅かったから」
元に自罰的な思考が宿る。
自分がもっと早く異変に気づいて二人を逃がしていれば、こんなことにはならずにすんだのかもしれない。
そんな後悔が。
「俺は最低の旦那で、父親だ」
「何を気にしているんですか?あなたらしくもない」
「…うるせぇ。なんでそんなに平気な顔してるんだよお前は…俺のせいで死ぬかもしれないのに」
しかし、伊月は迷いがないように元に添える手の力を強くした。
「──いいんですよ。あなたと一緒なら、死んだって構わないんです」
痛みに悶えながらも、それを表情に一切出さずに信念が込められた目で話す伊月。
「私はあなたを選んだ時点で、生涯をともにするって決めてましたから」
そんな彼女に、元の身体が揺らぐ。
「でも、その前に」
次々に近づいてくる炎を、伊月が見渡した。
「─夏樹だけは、絶対に助けないと。だったらほら、止まってなんかいられませんよ」
静かに声を漏らす伊月。
その言葉を聞いて元が正気に戻った。
「起こすんですよね。これ」
「……あぁ、そうだ」
目の前の家具を見る二人。たとえ自分たちが死のうとも夏樹が生きてくれさえすればいい。
ならばこの炎から夏樹を守るためには…
元と伊月が互いに家具へ腕を伸ばした。
そして同じタイミングで力を入れて引っ張り、持ち上げる。
少しだけ浮いた家具。
一人の時は少ししか上がらなかったが、二人ならば大した力が残っていない彼らでも、なんとか対抗できる。
そのまま限界の限界を超えて…
─ようやく、家具が立ち上がった。
「…はぁ、はは。やっとだな」
乾いた笑いが元の口から出る。
もうまともに動くかも怪しい身体で、やり切った達成感に包まれるが、肝心なのはここからだ。
「夏樹」
二人の隣に座る夏樹に声がかけられる。
元が夏樹の脇に腕を入れると、肩に体重を乗せて、崩れそうな膝を立ち上がらせながら、夏樹を持ち上げた。
そして空いているほうの手で、家具の扉を開ける。
「お前はここに隠れていろ」
その中へ、夏樹が優しく入れられた。
「待って。…父さんと母さんは」
焼け爛れた二人の顔を見ながら夏樹は尋ねる。
これから先に何が起きるかなんて、八年前から、夏樹はすでに知っている。だが、それでも寂しそうに喉を震わせて。
そんな夏樹の言葉を聞き、自分たちの顔を見合う元と伊月。言葉は送らずとも視線だけで言葉を交わし合い、何かを決めたように夏樹へ振り向いた。
「─いいんだ、俺たちは。もう助からねぇから」
そう、命の光が消えていく目で呟く。
途端に、夏樹にはどうしようもない悲しさが溢れ出した。
「そんなこと、ないよ…きっと探せば他に方法だって」
「いや、もう決めたんだ。たとえ俺たちが死のうとお前だけは生かすって」
元の小さくも、重い声。
「だから、夏樹。お前一人でも生き延びろ」
その裏には途方もない優しさが込められている。
二人の答えを聞いた夏樹が俯く。
「やっぱりわかんないよ。僕はいつも迷惑かけてばかりだったのに、二人がいっぱい傷ついてまで、僕を守ってくれる理由なんて」
どう考えても、二人がこんなになってまで自分を助けてくれる必要性を夏樹は感じない。
夏樹はただ無力で、ただ臆病なだけの弱虫で。
…ううん、本当は知っている。
──ここは記憶で作られた世界なのだから。
遥か昔から、元と伊月はそれを伝え続けてくれていた。ただ夏樹は今の自分を見て、受け入れるのが怖かっただけだ。
そのことを証明するように、二人が口を開いた。
「─夏樹のことを愛してるから。それ以外に理由なんていらないわ」
「俺たちにとって、命を投げるのも惜しくないくらいに大切なのが…お前なんだよ」
夏樹の目頭が熱に震え出す。
「せっかくまた会えたのに。二人がいないと…僕は…」
響き渡ったのは慟哭。
「嘘つき、…ずっと一緒に居るって約束したくせに」
決して、演技などではない。夏樹の口から漏れ出した彼の、二人の子供である「空亡夏樹」としての紛れもない本心からの言葉。
炎に囲まれる中で、夏樹の小さな身体が元と伊月によって力強く抱きしめられる。
「ごめんな、でも…きっと大丈夫さ。俺たちが居なくなったって、お前は一人にならねぇ」
後悔も懺悔も押し殺して、元が話す。
これから苦難の道を歩むだろう我が子へ。
それは、父として夏樹に送る最後の贈り物。
「生きている限りは良いことだって、必ずあるんだ。だから、生きて生きて生きて生きて生き続けろ!」
続いて伊月が、悲痛も苦痛も今だけは忘れて話す。
もっと抱きしめてあげたかった我が子へ。
それは、母として夏樹に送る最後の祝福。
「私たちの分も、たくさん生きて。たくさん幸せになってね」
二人は願っていた。
何よりも大切な夏樹が無事に生き残り、これからの人生を強く、果敢に進み続けることを。
たとえ、どんな未来が待っていようと、夏樹ならば悲劇すら乗り越えて、立ち向かっていける。
…だって、その先では
…お前なら、絶対に
『夏樹が、死んでも大切にしたい誰かと出会う。
──そんな日が来るから』
こうして、扉は閉められるのだった。




