第33話 それでも縋りたかった
やがて、夕ご飯を食べ終えた夏樹。
酔い潰れた男二人を尻目にして、椅子から立ち上がると、台所で蛇口から水を流しながら皿洗いをする伊月に一言を告げた。
「じゃあ僕はもう寝てくるね」
…何だか長かった気がする一日。夏樹は疲れ果てて、今日だけは早く寝ようと、自分の部屋に戻ることを決める。
しかし、その前に伊月が振り返ってきた。
「あ、待ちなさい!お風呂に、歯磨き…それとパジャマは?」
「……忘れてた」
大事な夜のルーティンを忘れていたらしく、伊月に注意されてしまう。
まだまだ子供の夏樹には、それに逆らう方法なんかないため、仕方が無く伊月の言う通りにすることにした。
それから更に1時間後。
濡れた髪の毛で目元を覆いながら、可愛らしい動物柄のパジャマに着替えて夏樹は部屋に向かい出す。
その途中に彼の口から漏れ出したのは、小さな欠伸であり、やはり眠気が酷いらしい。
「(今日は疲れたなぁ)」
心の中で薄れて行く思考に身を委ねながら、一人考える。それから歩いて直ぐに階段を登り、辿り着いたのは自分の部屋だ。
扉の前に立つと、夏樹が腕を伸ばして隙間を開ける。
そのまま夜の闇に包まれた暗い部屋の中に入ると、夏樹は記憶だけを頼りにして障害物にぶつからないようにベッドまでの道のりを進んで行った。
「(…多分。この辺り)」
何となく目的地に到着した気がする夏樹。その途端に身体からは力が抜け出して、糸の切れた人形のように柔らかい毛布の上へと倒れ込む。
「(やわらかい──)」
頭から足にかけて、夏樹が感じる優しい感触。
「(…ちょっと、暑いけど。まぁいっか)」
夏の蒸し暑さに襲われながらも、それより睡眠の方を優先する。
今日は確かに色々なことがあった。そんな楽しかった出来事の全てを回想しながら、夏樹の瞼からは力が抜けていく。
「(きっと、明日はもっと良い日が待ってる」
そんな幻想に気分を高揚させながら、夏樹の意識は段々と薄らいだ。
これから彼が夢見るのは、今と同じ幸せな日常なのだろう。
そして夏樹は完全に夢の世界へ……
──だがその時。世界が渦巻くようにして歪み出す。
部屋のベッドが、本棚が、其処にある全ての物が空間の異変に巻き込まれて、キャンパスで絵の具を混ぜるかのように…形容し難い色へ移り変わった。
暫くして歪みが収まった頃、寝転がっていた筈の夏樹が、感じる重力の重みに耐えかねて目を開けると。
「……は?」
─その先には、幻想的な緑の草原が広がっていた。
ーーーーーーー
「なに…これ」
先程まで居た部屋と異なり、夏樹の身体を直に照らすのは灼熱の太陽。
突然目に飛び込んで来る理外の光景に、眠気など吹き飛ぶどころか、夏樹の意識が完全に冴えてしまう。
「(いや、この場所は知ってる。…村の近くの原っぱだ)」
夏樹にとって其処自体は、見覚えのある場所であった。だが肝心なのはそれではない。
「(また、あの時と同じ?)」
自分の部屋で休みかけていたはずが、時間も空間も異なる場所へ突然の転移。夏樹の脳裏に過ぎるのは友人達と遊んだ時にも起こったあの現象だ。
その経験から察するに恐らく…
「(やっぱり何かが可笑しい…状況は全然分からないんだけど…)」
続く異変を前にして、夏樹は立ち尽くしながら唇の下辺りに指を当てて思案する。
以前の際は虫捕りの最中に釣りをすることとなったが、今回も何か意味があるのか…或いはそもそもが偶発的なだけの現象なのか。
とりあえず、何か行動を起こさなければ何も分からない。そう考え始めた夏樹は戸惑いながらも、一先ずは手掛かりを少しでも探そうと考えた。
夏樹は歩みを進める為に、小さな片足を上に持ち上げて前へ進もうとする。
……しかし。
「よぉ!」
後ろから夏樹の肩が叩かれた。
反射的に夏樹が振り返ると、太陽を背にして、目つきの悪い顔に影の宿る男が立っている。
子供が見れば思わず逃げ出してしまいそうな恐ろしい風貌だが、夏樹にとっては馴染み深いため何一つ問題が無い。
「あ…師匠」
直ぐに夏樹の顔が安心した雰囲気になる。
何故なら、目の前に居るのはついさっきまで食事を共にしていた影蛉だったのだから。
「どうして此処に?さっきまで……」
夏樹が思い返したのは、つい先程元と一緒に缶ビールを飲んで酔い潰れていた彼の姿である。
だが以前と同じ状況ならば、それは聞いたところで無駄だと判断して夏樹は途中で話すのを止めた。
すると影鈴が口を開く。
「俺か?俺はただの暇つぶしだよ。やる事もないし」
退屈そうな表情を浮かべて後ろの髪を手で引っ掻く影鈴。
「今日は仕事ないんだね」
「…まぁこの村も別にブラック企業って訳じゃないしな。あ、ブラック企業って知ってるか?ブラックってのは不当な労働をさせる会社の…」
「うん。それは知ってる」
呆れたように夏樹が影鈴の説明へ割り込む。
影鈴としては小さな子供に言葉を教えようと思っただけなのだが、夏樹が意外と詳しい事に驚き、最近のガキは物知りだな。と心の中で感心した。
「お前こそ何で居るんだよ」
「えっ……僕も、退屈だから?」
「何だそれ」
影鈴が苦笑する。
「ガキは近所のガキ共とでもガキガキ遊んどけよ」
「…ガキが多いね」
私怨でも混ざっているのか、わざとらしく目を細めて笑顔を浮かべる影鈴の言葉には、やけにガキと言うワードが混ざっていた。
「お前達には借りがあるからな。俺の事を妖怪だの好き勝手言いやがって」
「…あはは」
「とにかく!それじゃあガキの夏樹くんは暇な訳だ」
影鈴は自問自答するように頷き、首を縦に何度も振る。
「丁度いい。お前のことをついでで探してたからな」
「………?」
「──影蛉お兄さんが今日も剣術を教えてやる」
自身をお兄さんと呼ぶ影鈴。確かに夏樹の父である元に比べたら一回りも若く、恐らく二十歳くらいの彼だが、夏樹にとって大した違いはない。
…いやそれよりも、注目すべきは"剣術を教える"と言ったことか。
「剣術。…それって葉落一心流?」
「あぁ、そうだ」
いつの間にか影蛉から葉落一心流を習っていたらしい夏樹。
「確か前回までは基本の動きを反復して教えてたっけ。偶には型でも見せておくか」
影蛉の話す基本の動きとは、葉が舞い落ちるように動かす体捌きの事であろう。
夏樹は次々と進んでいく話に何とか着いていきながらも、一先ず相槌を打つ。
「とりあえず一の極意からだな。着いてこい」
それだけ残して、影蛉が夏樹に背を向けると少し離れた先に生えている木のほうへ歩き始めた。
「あ、待ってー」
そんな影蛉を夏樹もまた、急いで追いかける。
…一分も経たずして、二人が辿り着いたのはピンクの花びらなどとっくに散らした青い葉桜の前。
影蛉は木陰に入る寸前の位置で動きを止め、夏樹の居る後ろへ振り向く。
「…よし。此処で実演するぞ」
口を開いた影蛉が夏樹に話し掛けた。
「まずお前、極意って知ってるか?」
「葉落一心流に伝わる七つの技のことだよね」
「うーん…概ね間違ってはないな。だが技と言うのは他の流派のような"型"のが近い」
影蛉による講義が始まる。
「型とは要するに決まった動きのことなんだよ」
「前に教えてもらったって言う基本…みたい感じ?」
「いや、あれも本質は極意に近い。極意とは行動する前に抱く心持ちそのものだ」
「─『敵を翻弄するように動き、殺すことだけに専念する』だっけ」
「何だ。ちゃんと覚えてんのか」
曖昧そうな顔をしていたので、夏樹が完全に前回の内容を忘れていると、心の中で思い込んだ影蛉。
しかし何故か基本の心持ちだけは妙に確信を得た様子で答える夏樹に驚く。
「…簡単に言えばそれで正しい。物騒なモンだが、それこそ葉落一心流における基本の極意だな」
「それじゃあ七つの極意は?」
「まぁ焦るなよ。それは基本の為に用意された手段さ」
影蛉は急かすように話しかけてきた夏樹を窘める。
「敵を翻弄するだけじゃ"殺"に何時までも辿り着かない。だからこそ、方向性を定めるのが七つの極意」
葉落一心流にとって重要となる不規則な動き。だがそのために敵を翻弄するように動くと、却って自分も自分の動きに翻弄されてしまうリスクが存在している。
それを解決するのが極意であった。
「…つっても、それを実現する方法が人によってパターン化して、結局『型』に近しくなるのは少し皮肉だけどな」
彼が指しているのは極意を踏まえた上で行う"攻撃"のことである。
「性質上としてはある意味、長所にも捉えられるが…まぁ一長一短か」
「じゃあ師匠が今回見せてくれるのは、極意もだけど、技のほうも?」
「んー…それがないと説明しにくいし、そうするか」
納得したように影蛉が頷いた。
今回は彼が極意を使う上で会得している技の使い方も夏樹に見せるらしい。
「とりあえず最初は葉落一心流 一の極意『木ノ葉割』から行くぞ」
すると、影蛉が腰に差していた刀の柄へと右手を伸ばす。そのまま鞘から刀を静かに抜き放つと木のほうへ向かって構えた。
「まずは普通の斬り方」
次の瞬間、桜の木から葉が一枚舞い落ちてくる。
不規則に揺れて地面へ向かうそれを見た影蛉は、刀を上段に構えると足を一歩前に進む。
そして円を描くように美しい斬撃を切先から葉に向かって放った。
おー。と夏樹が感嘆の声を上げる。
惚れ惚れするお手本のような一撃を前にして、夏樹は純粋に影蛉を称賛したい気持ちが湧き上がった。
…だが、その一撃に対して結果は残念ながら、刀の重みに葉が乗せられ一緒に地面に向かっただけである。
夏樹が目を向けると葉は斬り傷一つないまま形を保っていた。
「…全然斬れてないね」
「今のは刀の重さに身体を預けて放っただけだからな」
刀を上段から振るうえで、基礎となるのは刀身と身体の重さを利用することである。
…人間がわざわざ腕に力を加えて振り下ろすのも間違いではないが、それだけでは可動範囲が腕の長さのみに絞られて間合いが狭まることに加え、生み出せる力にも制限が掛かる。
だが刀と言うのは、自重だけで物を充分に斬れるほどの圧倒的な鋭さを誇るものだ。
だからこそ、影蛉のように身体と刀身の重さを力として使うことで最大限の力を自由に扱える。さらには余計な腕の力も減らせるため、体力の消耗を抑えられる効果もあった。
「人を斬るならそれでいいが、葉のように薄いモンを斬るとなれば少し工夫が要る。…だから、こうする」
そう告げると、影蛉は刀を再度鞘に収納した。
彼は半身の姿勢に入り、両膝を軽く曲げて左手を鞘に、右手を柄に添える。
──そのまま目は更なる尖りを帯びて、全身から溢れ出すのは鬼神の如き気迫。
…ただ一心に前を見つめて、耳に入る音が全て無に帰すほどに集中を深めた先に待つのは一つの機会であった。
直後、風が吹く。
再び舞い落ちる桜の葉。
その瞬間。夏樹の目には刀を抜き放つ影蛉の残影のみが映った。
「──葉落一心流 『木ノ葉割』」
下から上に向かって、走る一閃。
…だが、その一撃はあまりにも静かで、さっきまでの気迫が嘘のように消えた朧の如き技。
見惚れていた夏樹が気づくと、そこには刃を天に掲げる影蛉と真っ二つに割れた葉があった。
「…と、まぁこんなところだな」
「……やっぱり凄いね。師匠は」
「あぁ?当たり前だろ」
影蛉が自慢気に笑う。
「それじゃあ解説するぞ。これはつまり"本質を捉える"極意だ」
刀を手のひらでくるくると回転させながら、影蛉は飄々として言い放った。
「習得基準は至極単純。どんな方法でも落ちる葉っぱを割ってみせること」
それだけ聞けば、単純そうだ。
しかし、影蛉の目つきの悪い顔はその困難さを物語っている。
「俺の場合は刀を使うんだが…さっき見せたように刀は本来、重みに任せて振るのが一番効率的だよな?だけどそれじゃあ、葉っぱは斬れないんだよ」
物体に上手く力を伝えるためには、力点の他に、逆方向から発生する反発力が必要となる。
それが切断において重い物の場合は、それ自体の重さが"支え"となるので問題はない。
しかし、葉のように軽い物であれば、後ろに支えが無いと力が伝わりきらないのだ。故に落ちる葉を斬ることは非常に困難である。
「だからこそ、葉の芯を捉えないといけない。葉脈の向き、重さの重心、或いは落ちる位置…詳しくは考えなくていいが、そういうのを本能で見るんだ」
「…なんか難しいね。つまりは勘?」
「まぁな。そこは経験を積め。才能も要るが」
眉間に皺を寄せる夏希を見て、影蛉が適当にいなす。
「…とはいえ、それも重さ…すなわち重力に頼るだけの剣戟じゃ葉の芯を到底捉えられん。だからこそ俺は星の引力に逆らってでも、自分で本質を掴み取る」
すると夏樹が思い出したように声を上げた。
「それが……」
「あぁ。──それが俺の『木ノ葉割』だ」
影蛉の言葉を聞いた瞬間に、顔を彼のほうに上げながら納得の表情を浮かべる夏樹。
影蛉が編み出した"一の極意"に対する答え。
それは重力のような他所に頼らず、自分で刀を振り、自分の力で物を斬ることだったのだ。
…影蛉が遊ばせていた刀を鞘へ収納する。
「結局、大事なのは他人がどう思うかより俺がどう見るか。それだけの話だな」
「なにそれ。…でもいかにも師匠らしい考え方だね」
刀を振ることとは関係なしに、格好つけた雰囲気の影蛉を見て夏樹が笑った。
「ふん。あと6回は続けてやる」
「じゃあ…お手柔らかにお願いします!」
そして影蛉と夏樹は次の極意に進む。
──それから、数時間後。
「…これで全部だ」
夏の熱気に押されて、全身を汗まみれにしながら影蛉が告げた。
「はぁはぁ。やっと…終わったね」
同じく、汗を大量にかきながら息を切らす夏樹。
その隣には水筒が置かれており、稽古の途中で一度家に帰ったらしい。
「流石に疲れたな。ちょっと休憩」
「うん……」
二人が同時に地面へ倒れ込む。
空はまだまだ青くて、白い雲が遠く彼方まで流れており、昼のピークこそ過ぎたものの暑さだけは依然と変わらない。
「…夏樹。今の説明で分からないところはあったか?」
「うーーん」
隣の夏樹に向かって影蛉が確認をする。
夏樹は髪を掻き上げて、日差しから守るように手で目を覆いながら悩み出した。
「強いて言うなら、『幽霊現界』かな。何度も見ても分からなかったし」
「……あれは特別だ。気にするな」
しばらくして、答えたのは六の極意「幽霊現界」。
だが影蛉は直ぐにその説明を諦めて放り出すと、そっぽを向いた。
「…え?教えてくれるんじゃ」
「さっきも言ったけど。俺も上手くできないんだよ…"あれ"だけはな」
「やっぱりそうなんだ…」
「そう残念がるなよ。俺の知る限り、六の極意を完全に会得出来たのは葉落一心流の長い歴史の中でも、たった一人しか居ないんだからな」
影蛉が淡々と話す。
「それともお前が二人目になるか?」
「別にいいや。僕は西園寺じゃないし」
「んなの今更だろ。葉落一心流は本来、門外不出の流派だぞ」
夏樹の言葉に影蛉は呆れた。
彼の教える葉落一心流は、西園寺家にのみ代々受け継がれてきたものなのだ。
「確かに…じゃあ良かったの?僕にそんな凄いのを教えてくれて」
「分家がどうなってるかは知らんが、もう本家は俺以外に居ないし、気にすんな。それに…俺は一族の決まりとか。どうでもいい」
影蛉に宿るのは少し、複雑な気持ちなのだろうか。 そう話す割に、彼の目の奥は虚に空を見上げていた。
だがそれに反応を見せたのが夏樹である。
「──それは師匠を襲った追手と何か関係ある?」
夏樹が言い淀んだ声で影蛉に尋ねた。
「…お前、いつ知った?」
目を見開く影蛉。
「前に診療所で師匠が入院してた時に聞いたよ。…それより早く教えて。──師匠の家族をみんな殺したのもそいつなんだよね?」
影蛉が夏樹のほうに振り向く。だが、夏樹は反対方向を見て寝転がったまま動かない。
…なのに何故か、影蛉が思わず震わえるほどの恐ろしい迫力を身体から発していた。
「誰?誰なの。そいつは」
子供とは思えない夏樹の姿に呆然とする影蛉。
「お前…急にどうし」
「誰」
「……いや俺も知らねぇよ。あいつは突然家に現れて暴れ出したんだ」
影蛉は訳が分からないらながらに、夏樹の問いに答える。
『ある日、急に『龍の鍵を寄越せ』なんて言ってな』
夏樹が一瞬、身体を揺らした。
「俺も京のほうでは『枯竜』なんて呼ばれる凄腕の剣士だったのに……あいつは別次元の強さで、俺が戦っても全く歯が立たなかった」
珍しく影蛉の口から弱った声が溢れる。
「それで結局、俺だけが逃げて他のやつらは…」
「もういいよ」
だが話の途中で夏樹が遮った。
「…なんだお前。さっきから様子が」
「もういい。─やっぱり師匠も、父さんも、皆…僕の知ってることしか話さないんだね」
「………?」
何故か夏樹が悲しそうな声を出す。突然の豹変もそうだが、明らかに様子がおかしい。
「(結局…あいつはこの世界にも居るんだ)」
怒りとやるせなさだけが、夏樹の心に去来する。
「─えっと。ごめんね?師匠にも辛いことを思い出させて」
しかし夏樹はそれら全てを押さえ込むと、転がって後ろを振り向き影蛉に笑いかけた。
「僕はただ、師匠をそんな目に合わせたやつが許せなくて…」
「いや、大丈夫だ。俺のほうもお前に言いたいことがあったからな」
調子の良い言葉を並べる夏樹だが、影蛉もまたその途中で話しかける。
「言うかどうかは迷ってたんだが…今お前と話して漸く決心がついたよ」
影蛉が真っ直ぐな目で見つめる。
「あのな。──俺、そろそろ村を出て行こうと思ってるんだ」
「……え?」
目を見開く夏樹。
「ほら…俺は結局追われている身だし、いずれあいつが来るかもしれないだろ」
最初こそ影蛉は仕事を手伝う条件で、村に寝泊まりさせてもらっていた。だが何時までも西園寺家を襲ったものが再び襲来しないとは限らないのだ。
「皆にはもう十分良くしてもらったよ。俺にとってはどいつもこいつも大事なやつらさ」
影蛉が優しく微笑む。
「だからお前らに危害が加わるリスクだけは避けたい」
この村に滞在した"数ヶ月間"。影蛉は不器用ながらも村の人々と付き合い、親交を深めた。
そんな彼らが自分一人のせいで危ない目に合うのは影蛉の望みではない。
「まぁ俺の葉落一心流を教えたのも、ちょっとした恩返しの──」
別れを告げる前だからか、話を延々と続ける影蛉。
だが夏樹の耳には一切入ってこずに、代わりに頭の中には別の考えが浮かんでいた。
「(…やっぱりそうだ。僕は前にも"この出来事"を経験している)」
それは、刻まれた過去の記憶。
【夏樹。俺そろそろこの村を出て行くわ】
確か夢の中で起こった出来事のはずだが、そこでも夏樹はここで影蛉と同じ話をしていた。
いや影蛉だけではない。
「(父さんも、母さんも、健吾くんも、蒼太くんも、和樹くんも、村長も。…皆と似たような話を夢の中でした)」
目が覚めてからから現在まで、夏樹の頭に過ぎる彼らとの経験。そして不可解な出来事の数々。
「(いや、違うんだよ。違う違う違う…あぁそうだ。多分これが予知夢ってやつなのかな?)」
思考を巡らせながらも、それらの可能性を全て否定するかのように考え、最終的に未来を予知しただけの夢だと結論づける。
「……夏樹?」
そんな彼を見兼ねてか、声を掛ける影蛉。
「ん、あっ!…ごめんね。急な話過ぎて受け入れられなくて…」
夏樹は手を振りながら必死に誤魔化す。
「そうか…悪かったな。とにかく、これからのことだが」
再び話し出す影蛉を尻目に、夏樹が心の中で考える。
「(僕はあの時…確か、出ていこうとする師匠を止めたんだ)」
脳裏に蘇るのは夢の中の世界。
影蛉と仲良くなった夏樹は、村を出ようとする彼に対して…もうしばらく村に居るよう懇願していた。
「(…もし、あの夢が本当なら。師匠がこのまま村に居続けた先にあるのは同じ結末?)」
その果てに起こったのが最悪の結果である。
影蛉を追いかけてきた追手によって村は焼かれ、夏樹と影蛉を残して皆…死んでしまったのだ。
「(じゃあ、師匠がこのまま去れば村が襲われることはないのかな?…いやでも)」
影蛉が村を出て行けば、夢の通りにはならないのかもしれない。
だがそれは彼と再び別れることを意味している。
「(せっかく皆だけじゃなくて、師匠にも会えたのに)」
結局。最後まで消えた影蛉が、何処かで生きているのかすら分からなかった夢の世界。
なのに、また彼とは別れるしかないのだろうか。
「(ううん。まだちょっと…ちょっとくらいは師匠の居る日が伸びたって、あの時と同じにはならないはず。それに予知夢だとしても所詮は夢なんだよ)」
頭に思い浮かんだのは、何処までも甘い幻想である。しかし夏樹がそれに気付くことはない。
「…ねぇ師匠」
夏樹が声を出す
「ん?なんだ」
「その…師匠が出て行くってことなんだけど」
頭の中ではダメだと分かっていた。分かっているのに……夏樹は自分の望みを抑えられないのだ。
「あぁ、それか。まぁ別に気にしなくたって」
「ううん。僕は…僕は師匠に」
だからこそ、その先に悲劇が待っていようと言葉にする。
「─もう少しだけ村に居て欲しいな」
………
……………
……………………
『あ〜あ。君は結局、あの時と同じ選択をするんだね』
──それは一瞬のことだった。
夏樹が言葉を発したのと同時、世界が渦巻いて歪み出す。
初めに影蛉が、次に近くの桜が、少し離れた先にある木々も、村の家屋も…
その全てが、おもちゃ箱にでも仕舞われるかのように歪み歪み歪み歪み歪み歪み歪み歪んで、消えていった。
最後に夏樹だけが、一人ぼっちの草原に残った時。
『まぁ…それも当然か!君は何一つ自分の大切なものを捨てられないんだから』
再び謎の声が響き渡る。
『…でもさ。その結果、全てを失うくらいなら最初から一つくらいの喪失は許容するべきなんだよ』
声につられて周囲を見渡す夏樹。
だが次に正面を見ると、そこにはさっきまで居なかったはずの誰かが居る。
「──やぁ。久しぶり……と言ったほうが良いのかな?」
二人きりになった世界の中。
夏樹の前には、少年が一人立っていた。
ーーーーーーー
無造作に茶髪を伸ばしただけの、童顔で優しそうな雰囲気の少年。
背は今の夏樹より少し大きいくらいか。
「…君は?─いや、それよりも師匠たちを何処に!」
状況が分からない夏樹だが、師匠が渦巻いて消えた後に突然現れた人物。
それだけの情報があれば、その犯人が目の前の少年であることくらい予測できた。
「うーーーーーーん?」
しかし、夏樹の問いに少年は答えず、夏樹のことを観察するように見つめる。
「……あのさ。まず僕からも一つ言っていい?」
顔を覗き込みながら、少年が告げた。
「──いい加減やめなよ。その話し方」
和やかなまま、真顔で夏樹に話す。
「ちょっと気持ち悪いから」
「…は?」
「君だって、最初から気づいているんだよね?"ここが夢の世界"であることくらい」
それは夏樹の頭に、何度も過っては夏樹が即座に否定してきた事実だった。
だが少年はそんなことお構いなしとばかりに次々と話を続ける。
「多分…自分も昔に戻ることで、君の家族たちが本当に蘇ったとでも思い込みたかったんだろ」
「………」
「でも、だからって一度失ったものは戻ってこない」
その言葉を夏樹が聞いた刹那、二人を囲う空気が明らかに変化した。
身体を震わせて周囲が捻れて見えるほどの殺気を漏らす夏樹。
「──お前は誰だ?」
「あはっ。うんうん…やっぱり君はそっちが良いね!」
先程とは様子が一変。…いや、下らない演技を辞めた夏樹が眠たそうな惚けた目から、いつもの鋭い眼差しに戻り、少年を睨む。
だが少年はそんな夏樹を見て楽しそうに笑った。
「…さっさと答えろ。"久しぶり"と言ったよな?」
「うん。君とはこれが初対面じゃないからね。…ただ僕が誰かって言われると悩ましいところだよ」
おちゃらけた雰囲気で、わざとらしく悩む少年。
「俺はお前を知らん」
「そりゃそうさ?今とは顔も身体も違ったし」
「……まさかお前」
夏樹の頭に浮かんだのは一人の男。
ここに来るまでに見た最後の記憶と現状を繋ぎ合わせれば、自ずとその正体が絞られた。
「フィアワールドか?」
ジュネイスの禁忌を破った夏樹とカノンを捕えるために襲い掛かってきた慟哭師団の師団長。
彼以外にこの場に居る存在など思い付かない。
だが、少年はそんな夏樹を見て更に笑いを深める。
「…え?フィアワールド?──ははっ。あははははっ!君には僕があんな化け物に見えてるのかい!」
その答えに夏樹が困惑する。
「……違うのか?」
「んー実際、僕も似たようなものではあるんだけど、その"フィアワールド"さん。とは何の関係もないよ!」
少年が言い切ってみせる。ならば、夏樹は余計に訳が分からなくなった。
「まぁ、それはいいや」
少年が腕を肩まで上げて、首を振る。
「僕が誰かなんてのはどうでもいい。君にとって重要なのは、僕がこの夢の世界を作った張本人だってこと」
それは夏樹にとって明らかにおかしな話だ。
目の前の少年がフィアワールドではないならば、何故…彼はこの夢を生み出したなどと宣うのか。
あの時夏樹たちをここへ引きずり込んだのは、明らかにフィアワールドの能力によるものだったのだ。
「何を言って…」
「本来、君はここに来てすぐ彼の試練を受けるはずだった。…けれど、僕が途中で割り込んで、君の記憶を元に作られるはずの『恐怖の世界』を『幸せな世界』に変えたんだ」
どう見ても、何処にでもいるただの子供にしか見えない目の前の少年。
この場所に居る時点で普通でないことは分かるが、それでもなお夏樹は、本来の自分より一回りも小さい彼が先程までの夢を作っていたなど信じられない。
「って、何だか…疑ってる顔だね?」
「…お前の話は破綻している。仮にそれが事実だとして何のために?どうして、俺を選んだ?」
突然現れては好き放題喋り続ける少年。しかし、夏樹にとって、彼は自分の顔見知りを名乗る不審人物以外の何者でもない。
…実はフィアワールドの変装だった。とでも言われたほうがまだ、理解はできる。
──だが、少年は自分に掛かる疑いに対しても決して、余裕を崩さなかった。
「その答えは簡単だよ」
少年が夏樹に人差し指を突き立てる。
『──何故なら、君に幸せになって欲しかったから』
優しい笑顔のまま、少年は微笑む。
それを聞いた夏樹の頭には、困惑以外の感情が湧いてこない。
…こいつは頭がおかしいのか?そんな考えすら浮かんでくる。
「…初対面の俺に?」
「だからこの出会いが初めてではないんだけどね。というか、別に君だけが特別なわけじゃないよ?」
困ったように声を上げる少年。
「…あのね。僕の夢は『この世界で一番不幸な人間』になることなんだ」
少年がどこか狂気を感じさせる言葉とともに、はにかんだ。
「若人も、老人も、男も、女も、善人も、悪人も。皆に幸せになって欲しい」
風に揺らされる草原の中。あまりにも温い理想論が突如として語られる。
「…つまり、僕は全人類の幸せを願っている。君たち全員に幸福を享受して欲しい。いつか世界が終わるその日まで、永久に笑顔でいて欲しい。……いや、君たちは必ず幸せにならなければならないのさ。他の誰でもない、この僕のために」
早口で捲し立てるように少年が話す。
その異様な様子を夏樹はただ静かに聞いていた。
「やがて、皆が幸せになれば、僕はこの世で最も不幸な人間になれる。そしてそしてそして!その時…」
掠れた声が辺りに響き渡る。
『──誰よりも不幸になって初めて…僕はやっと、幸せになれるんだ』
涙ぐんだ目で天を仰ぎ、まるで解放を求めるかのように少年が腕を広げた。
その幼い顔つきに反して、彼から放たれるのは鬱屈とした重み。
「(…ダメだ、こいつ。狂っている)」
夏樹はそんな彼のことを冷たい目で見つめる。
一見して善意に溢れる…他人を思いやってばかりの高潔な少年と言った印象だが、夏樹はその裏に潜む常軌を逸した様子に、えにも言えぬ不気味さを感じていた。
「あはっ。あぁ…ごめんね?本題から逸れちゃった」
目を半袖の服から飛び出す腕で拭うと、少年は夏樹のほうに振り返ってくる。
「とりあえず!そういう理由で君に幸せな夢を作ってあげたってこと!」
相変わらずマイペースに話す少年だが、夏樹は警戒をより一層強めた。
これまでの話を全て鵜呑みにするのならば、理屈はまるで分からないが、目の前の彼がフィアワールドと同等の力を有している可能性すらあるのだ。
武器も持っていない状況下、相手が作り出したこのフィールド内で仮に戦うことになれば勝算は限りなく低いだろう。
だからこそ、今は少年から情報を搾り取ることに集中するしかない。
「どう…理解してくれた?」
「多少はな。だが結局、その全人類とやらから俺だけを選んで、夢を見せる理由が説明されていない」
「…本当は彼女にも、同じ幸せな夢を作る予定だったけどね」
「……彼女?」
「ほら、君の連れの女の子だよ」
その瞬間、凍りついていた夏樹の顔に動揺が走り、目が大きく見開かれる。
「あっちは、君の言うフィアワールドの監視が強くてね。この僕でも干渉できなかった。──多分最初から彼の狙いは、君ではなく彼女だったのさ」
少年が残念そうな表情で語った。
夏樹には少年が呼ぶ『彼女』の正体に心当たりしかない。フィアワールドの狙いだという彼女、自分の連れだと言う彼女。そんなものは……この世界で一人。
【私がその少女を殺すと言ったら貴方はどうします?】
「──カノンか!!」
夏樹が怒髪天を突いて、叫び立てる。
「お、おぉ。…なんだ、今更気づいたんだ。よっぽど僕の甘い夢に心が酔いしれちゃってたんだね?」
「黙れ!あいつは今どこに……いやそれより、さっさとここから出せ!」
焦燥に駆られて、少年の前に迫り胸ぐらを掴むと、この夢の世界からの解放を要求する夏樹。
──誤った。完全に選択を誤っていた。最初からフィアワールドが、カノンを狙っていることなど分かり切っていただろう……
なのに夏樹は、自分の見ていた彼らが偽りの家族や友人であると気づいていたのに、それを必死に誤魔化して、誤魔化して、誤魔化して。
「もう手遅れだよ。残念だけど」
「………!」
その言葉を聞き、夏樹の少年を掴む手が、力無く崩れ落ちる。
目の前の少年にただの夢であったと面と向かって告げられるまでは、きっとこれが現実なのだと有り得ない期待を本気で抱いていた。
本当の現実から目を背けて、嘘に縋りつこうとした。
「もう少し、早く言ってくれれば良かったのに。まぁ束の間の夢だったけど、そんなに時間を忘れるくらい喜んでくれたなら、僕も嬉しいよ!」
…俺は馬鹿だ。焦りとは裏腹に、どうしようもない自嘲が夏樹に浮かび上がる。一抹の希望に縋った結果、自分の満たされた仮初の平穏と引き換えに、本物のカノンは…
「さて、ここからが本当の──」
「…このままじゃ、カノンも…あの化け物みたいに?」
「うん?君、何か勘違いしてない?」
少年が驚いた顔で、俯いた夏樹の顔を覗く。
「─あっ。手遅れってそういう意味だと思った?違う違う!君をここから出すって話のほうね!」
愉快そうな笑顔に変わると、少年が明るく励ますように、夏樹に話しかけてきた。
「その、カノン?は無事だよ。彼もまだ様子見しているだけ。みたいだし」
「…あいつと俺はすでにフィアワールドの能力を受けている」
「能力って『恐面世界』?」
「違う!心を繋ぐ力だ!やつはそれで人間を怪物に変える」
夏樹が危惧するのはフィアワールドの持つ人間に干渉する能力。
ジュネイスで人間や建物を、彼と同じ言葉を話す黒い怪物に変質させた光景は今も脳に焼き付いている。
あれが彼の夢覚によるものならば、一度影響を受けた夏樹とカノンもフィアワールドの好きなタイミングで怪物に変えられるだろう。
けれど少年は、そんな夏樹を見て……
「…君、何も知らないんだね。それとこれは全く別物さ。どちらも彼の求める"理解"に由来はしてるけど」
「心を繋ぐ力」と「怪物に変える力」が別物であると断言した。
「心配してたのは、女の子が怪物に変えられちゃうこと?それなら最初から君たちには効かないよ!」
「…あ?何を根拠に─」
「二人とも夢覚を持ってる」
一切の迷いがない少年。
「つまり、君たちが自分の夢を覚えている限り、それが他人の夢に変わることはないんだよ」
だからこそ、夏樹たちが、フィアワールドの手で怪物に変えられないと少年は話す。
夏樹はよく分からなかった。
夢覚を持つことと、それに何の関係があるというのか。そもそも、夢覚が理由で、怪物にならないのなら、何故フィアワールドは三人の間で心の声を繋げられたのだろう。
「…けれど、夢はいつか覚めてしまう」
そんな夏樹を前にして、少年は細めていた目を開く。
「ごめんね。本当はもっと、もっと君を幸せにしてあげたかった。でも、今日はここまでだ」
どこか距離を感じるように、寂しく目の奥を曇らせて、そう告げた。
それに、夏樹は反応する。
「急に何を…」
≪嗚呼。やはり貴方でしたか≫
すると、二人の頭に声が直接響いた。夏樹にとっても聞き覚えのあるその声は…
「…フィアワールド!」
それは忘れもしない。ふざけた仮面を被り、異形の姿をした怪物の姿。
「…あはっ。残念、もう見つかっちゃった」
《どうやって、入り込んだのかは知りませんが…ここはワタシの領域。故に退場していただきましょう!≫
フィアワールドの怒りを含んだ声と同時に、少年の身体が細かい粒子になって分解され始める。
「…君とは、もう少し話す予定だったんだけどね」
消えかける身体で少年が、夏樹のほうに目を向けて呟いた。
そして、声に釣られて空を見上げていた夏樹がそんな少年の様子に気づくと、焦ったように大声を出す。
「待て!お前にはまだ聞くことが…」
だが無常にも、少年の身体は消えていくばかり。
「大丈夫。ただ追い出されるだけだし。…そうだ最後に一つだけ、君に言っておくよ」
首から上だけになった身体で、少年が夏樹に微笑む。
『──僕の名前はピエロスター。
〈明日には忘れられるだけの凡人〉さ』
少年が自分の名前を名乗った。
そして最後、完全に消えた身体で…
「それじゃあ、またね。空亡夏樹くん」
ただ一言を残して、去っていった。
「…ピエロ、スター?」
少年の名前を反芻する。しかし夏樹には、聞き覚えのない名だった。
《さて、ようやく邪魔者がいなくなりましたね》
夏樹だけが一人残った草原で、フィアワールドの声が夏樹の頭に入ってくる。
《…お待たせしました!ずいぶんと楽しそうな世界ですが、これより本当の『恐面世界』を開始します》
空間が草原から渦巻いて、変わり始める。
「おい、フィアワールド!カノンは…」
《屈するか、乗り越えるか?貴方のトラウマ!ここから始まる、ワタシたちの理解!》
夏樹が叫ぶもフィアワールドには聞き入れられない。そして、中心で立ち尽くしながら、夏樹を基点に彼の幸せな夢は、恐怖の夢へ……
《──さぁ、参りましょう》
ーーーーーーーー
夏樹が次に気づいた時。
そこは空亡家の自分の部屋だった。
ベッドや、机、本棚などが並べられた何でもない普通の部屋。
それは彼にとっては馴染み深い、幼少期の思い出溢れる場所でもある。
…だが、その日だけは違った。
「大丈夫か、夏樹!?」
部屋へ飛び込んでくる元。
切迫詰まった様子の元に驚いた夏樹が、周囲を見渡すと、鳴り渡る残忍な破壊の音とともに、決して記憶から消えることのない炎の、家を焼く匂いの記憶が蘇ってきた。
臭く、熱く、身を焦がすような灼熱の焔。
迫りくる。全てを失った最悪の結末。
夏樹の頭に浮かぶのは、倒れた父と母、倒壊した家屋、必ず復讐すると誓った悪辣非道な男の姿。
──そして今日、悲劇が再び繰り返される。




