呑気な冒険者たちシリーズ読者さんのための莫逆の誓いプロローグ
エドワードは、いつものように来慣れたクレイトン邸の門をくぐった。アンナとジョーが軍学校に入学して一月、彼女たちの課題のために毎週土の日の日が暮れるとこの家に呼ばれるようになったため、すでに家人もエドワードの存在には慣れっこだ。最初にこの家を訪れた時には、国王であるエドワードにアニーやエヴァンスは驚き、ジョーに至っては石像のように固まったものだったが、今はそんなこともなくなった。
出迎えてくれたアニーに手土産を渡すと、いつものように案内を待たずにさっさと談話室へと足を進める。エドワードにとってこの家は今や、第二の自宅だった。といっても第一の自宅は王宮だから自宅と呼べるものではないだろう。どちらかといえばこの家はエドワードにとって国王になる前に自分が住んでいた自宅を思わせる。
規模はこちらの方が格段に大きいし、自分が生活をしていたのはその家の離れで小屋のようなものだったから比べものにならないが、何よりもこの家にはエドワードの席があり、そして昔と変わらない友がいた。それだけでもエドワードにとって、この家に安らぎを感じる十分な理由になる。
何しろエドワードの唯一無二の友であるリッツは、三十五年もの間、自分の前から行方をくらましていたのだ。おかげで国王としてかぶりにかぶった猫の皮は膨大な厚さになり、息苦しいことこの上なかった。その皮をまとめてリッツに放り投げ、子供のように言い合うことで、エドワードは自分個人を取り戻したのだ。それをリッツ本人は知らないだろう。何しろリッツの中では三十五年前のエドワードと現在のエドワードは連続していて、三十五年の間のエドワードは見事に欠落しているからだ。
王宮ではいまだそんなことができないから、この家はある意味、元国王でも、大公でもなく、エドワード個人でいられる場所なのである。そしてアンナとフランツは、共に旅をした仲間であり、部下でもなければ、臣下でもない。国王のエドワードを幸いにもほとんど知らず、どちらかといえばリッツの友として理解しているから、エドワードはあえて国王然とせずにすむ。つまりは自分の息子や、孫といるよりも遙かに楽なのだ。
そんなことをいってしまえばおそらくグレイグはみるみる不機嫌になるのだろう。最近ではましになったが、息子のジェラルドはエドワードの功績や、実績を見て萎縮し、親子というよりも臣下のようにエドワードに仕えていた部分があった。グレイグは伝説にも成る祖父のことを尊敬し、国王としてのエドワードを信奉している部分がある。そんなグレイグにリッツの頬をつねって怒鳴り合っている姿など見せられるわけもない。
実際にリッツと親しく親交を深め始めたジェラルドは、エドワードの前でも笑顔を見せることが多くなり、臣下として萎縮していた姿は少しずつ陰を潜めていった。そのことだけでもリッツに感謝しているが、そんなことを正面切ってリッツにいうのは何となく気恥ずかしく、いまだそのことを告げていない。
「やれやれ」
エドワードは小さくため息をついて苦笑する。どうやら成長していないのはリッツだけではないらしい。エドワードもまた、リッツがいない間は外面ばかりが成長していて、本当のところは成長していないのかもしれなかった。年を追うごとに人を扱うことや、妥協しつつも物事を進めることなどは格段に腕を上げてきたのだが、こと親しい人々の対しての感情はどうやら昔のままだ。
アンナたちの前で昔のことを語り始めてから、エドワードはそんなことに気がついていた。今までもふとしたきっかけで昔のことを思い出してはいたが、こうして順をたどってリッツと共に過ごしたあの日々を追うことなどなかったから、こうして振り返ることで心がふと現在ではなく過去へと戻ってしまうのだ。
何気なく談話室の扉を開けた瞬間、アンナとリッツの叫び声が同時に上がった。また二人の邪魔をしたかと思った次の瞬間、思い切り油断していたエドワードは顔面に強烈な水の玉の一撃を食らって転倒していた。そのまま目の前が暗くなる。
どれぐらい意識を失っていたのか、ゆっくりと目を開くと目の前にリッツの顔があった。
「大丈夫か?」
心配そうというよりも不安でいっぱいといった顔で、エドワードを見つめるリッツのその顔に見覚えがあった。エドワードに何かがあると、リッツはいつもこの不安な顔をする。昔はほんのり目の端に涙をためて『無茶するなよ! 心配させるなよ!』とエドワードを怒っていた。無茶して心配させるのはどっちだ、と時には口に出してリッツをからかったものだった。
そういえば内戦の時に一度、エドワードはリッツの前で死にかけたことがある。意識を失い、次に目を覚ました時、リッツはこんな顔をしていたのだ。その上、エドワードの命に別状がないと分かった瞬間に、子供のようにポロポロと大粒の涙をこぼしたのだ。
あの頃のエドワードは、不安いっぱいのリッツを前にすると、決まってリッツにしていたことがあった。再会してからもリッツにそんな顔をさせたことが二、三度あったが、残念ながら昔のようにはできなかった。お互いに三十五年の空白は長かったからだ。
でもこうして昔を語っているとなんだか無性に懐かしくなり、あの頃のように黙ったままリッツの頭にそっと手を乗せて優しく撫でる。昔ならそうすると、リッツは余計に泣いたものだった。
「! 何を……!」
やはりあの頃と違って焦って固まるリッツに、思わず笑っていた。
「もう泣かないんだな、リッツ」
「うっ……」
「昔はよく泣いていたのにな」
「ううっ……」
思い切りリッツが怯む。その隣でアンナが不思議そうにリッツを見上げた。エドワードはソファーでゆっくりと体を起こす。どうやら扉を開けた直後に水の球を食らい、リッツがソファーまで運んでくれたらしい。水の球の直撃を受けたというのに服は全く濡れていないのは不思議だった。自身の状態を確認している間もアンナはリッツを質問攻めにしていた。
「泣くの、リッツ?」
「なっ、泣くかよ!」
「リッツが泣いてるのって想像つかないなぁ~」
小首をかしげるアンナに、リッツが顔を赤くしている。
「だから泣いてねえって!」
アンナに向かって力説するリッツに、笑いをこらえきれずに尋ねる。
「昔話をしていると、お前がよく私の前で泣いていたことを思い出すな。お前の泣き虫はいつ治ったんだ?」
「な、泣き虫っていうな!」
傭兵隊長を務めて帰ってきたリッツは、昔の性格をきれいに大胆不敵な仮面の下に隠しているのだ。アンナには多少素直に自分の姿を見せているとはいえ、それだけは知られたくないのだろう。
「余計なことをいうなよ、エド!」
「悪いな。懐かしくなって」
「何が?」
「昔お前が私にすがって、子供みたいにわんわん大泣きをしていたことを思いだしてな」
「え、エドっ!」
「ええっ! リッツが子供みたいに大泣き!?」
素っ頓狂なアンナに、頷いてみせる。
「そうだよ、アンナ。なかなか可愛らしかったぞ。『エドが死んだりしたら、俺、どうしたらいいんだよ』と泣きながら取りすがられたからな」
「あ……、なんだか想像つきました」
「おやおや、同じことを言われたことがあるかな?」
「ありますよぉ。泣いてないけど『お前がいないと、俺は生きられないんだぞ』って」
「成長しない男だな」
「成長してないんですか。そっかぁ……泣き虫で甘えっ子なのかぁ……」
「こらこらそこ! 納得するとこじゃないだろ!」
むきになって否定するリッツに、エドワードはおかしくなった。今はまだ恋人ごっこでしかないアンナだが、これが本当に恋人になり、妻になっていく課程でおそらくアンナ相手に、リッツはますます自分自身を見せていくようになるのだろう。そうなればきっとリッツの感情的な部分が元に戻っていくに違いない。
そうなればきっと、アンナも泣き虫のリッツを見ることになるのだろうと、何となくそんな気がした。
「……ところで、リッツ、アンナ。二人ともいつもみたいに騒ぐ前に、陛下に言わないといけないことがあるんじゃないか」
恐ろしく冷静沈着な声が二人の後ろからかかった。視線を向けると、長い前髪が半分かかった銀縁眼鏡をぎらりと光らせ、静かに腕を組んだまま佇むフランツの姿がある。怒りを湛えるその姿を見て、リッツとアンナがくるりとエドワードに向き直り、深々と頭を下げた。
「ごめん、エド!」
「ごめんなさい、エドさん!」
「まさかお前に当たるとは思わなかったんだ。俺が避けちまったから……」
「違うよ! 私が気がついてやめてればよかったんだもん」
「いや、俺がお前を怒らせるようなことを……」
アンナとリッツが謝り合い始めた。このままでは埒があかない。
「フランツ、説明してくれ」
「はい。陛下とリッツの話を聞いていて、僕はソフィアさんの技を使えるようになりたいと、練習したんです」
「……ソフィアの技?」
「炎の球を小さく圧縮して、白球にする技です。少し難しくて、手間取っていますけど、少しだけ圧縮する方法を見つけました
「ほう……」
「一緒に練習していたアンナも水の球でそれを挑戦していて、やはりアンナの方が上達が早いんです。八割方は完成しています」
アンナを見ると、アンナはうれしそうに頷いた。やはりアンナは女神と同一の存在だけあって、精霊を本気で操れば、おそらく高位の正神殿の神官でも敵わないだろう。
「それでどうしてこうなったのかね?」
「それが……アンナがあまりにコントロールが悪いから、リッツがそれをからかって」
「そうなんです! ひどいんですよ、リッツ! 方向音痴だからとか、地図が読めないから仕方ないとか、そういうことを言ってからうんですよ! 地図読めないんじゃなくて、読み方知らなかっただけなのに!」
なるほど、何となく読めてきた。
「……それで?」
「絶対に当てられるっていったら、リッツがやってみろって。だからリッツに向かってぶつけようと思って水の球を……」
「……そこに私が入ってきたと言うことか……」
「家の中でやることじゃないと言ったのですが、けんか腰になった二人には全く聞こえませんでした。リッツにぶつける分にはいいけど、よりにもよって陛下にぶつけるなんて……」
「ごめんなさい!」
「……なるほど、事情はよくわかった」
深々と頭を下げたアンナの横で、肩をすくめたリッツに、エドワードは黙って手招きした。不審そうな顔をしながらもリッツがこちらに歩み寄る。さらに手招きをして手の届く範囲までこさせると、リッツの頭に左手を乗せた。
「なっ……」
また撫でられるのかと焦るリッツの額を、空いている利き手の人指し指で思い切りはじく。すさまじい音がしてリッツが悶絶した。
「いってぇぇぇぇぇぇっ~」
「馬鹿が。真面目に練習しているアンナをからかい、それを私にぶつけさせた罰だ」
「いてぇよ! 額割れるだろ!」
「割れるか、石頭が」
突き放すようにいうと、のたうつリッツを無視して、目を丸くしているアンナににっこりとほほえみかける。
「アンナ、コントロールぐらい気にするな。数をこなせば当たるようになる。何事も反復練習がもっとも重要だ」
「はい!」
「フランツもだ。もしあのソフィアの技を使いこなせれば、強力な武器になる。いざという時には使えるだろうからな」
「いざという時……?」
眉を寄せるフランツに静かにほほえむ。
「外敵の侵入、闇の一族の罠、天変地異。そして内戦。その局面を考えるのはほかならぬ君自身だ。フランツ」
「……肝に銘じておきます」
深刻に頷いたフランツに頷き返すと、談話室の扉が勢いよく開け放たれた。そこには髪から水滴をしたたらせるジョーの姿があった。ジョーは相変わらず全身傷だらけのようだ。
「遅くなりました! って、あれ? 何かあったの?」
不思議そうにこちらの四人をみたジョーに、アンナが笑顔を見せる。
「何でもないよ。さ、今日のお話を聞かせてください、エドさん、リッツ」
アンナの言葉を待っていたかのように、アニーがいつもの支度を始めた。エドワードが持参したワインボトルとチーズの盛り合わせがリッツとエドワードのところに、フランツの前にはお茶となにやらクラッカーのような物、そしてアンナとジョーの前にはジュースとお菓子が置かれる。アニーはこの屋敷に取り憑いているから、屋敷の中の出来事をほとんど把握しているのだ。
いつもの自分の席に座ったエドワードの目の前には、未だ赤くなった額をさするリッツの姿がある。むくれたように軽く口をとがらせて額をさするリッツは、あの頃と全く変わらない。ふとエドワードは赤ワインのボトルに移った自分の姿を見つめた。
六十を過ぎ、老人である自分は、リッツの目にどう映ってるんだろうかと思ったのだ。友が昔のままの姿で、昔のようにいてくれることをエドワードは正直にありがたいと思っている。だがリッツは年を取ったエドワードを見て、一度は生きることを放棄し、共に死ぬことを望んだ。
あの時は軍医長とアンナがいたから命をつなぐことができた。でももしあの後、アンナがリッツと共に人生を生きていくと決めてくれなければ、そしてリッツがアンナを愛さなければ、リッツはきっと幾度でもエドワードと共に死ぬことを望んだだろう。
それを思うと、自分の老いが少々重い。
「エド?」
「……ああ、すまん。私も年を取ったと思ってな」
苦笑しながら告げると、昔のように目を丸くしたリッツに、まじまじと見つめられつつ首をかしげられた。
「何いってんだよ。エドが年食ったって、俺、気にしてないぞ?」
穏やかにそういったリッツに、アンナの中にある光のかけらが見えた。アンナの持つ太陽のような暖かい光は確実にリッツの心を温めている。
「だってエドはエドだ。俺にとってはずっと変わらない」
「そうか……」
「珍しいじゃん。エドが年のことを気にするなんて。もしかすると、ちょっと気にしてたりしたのかよ?」
「気にしてはいなかったぞ」
先ほどまでは。続く言葉を飲み込みつつ、肩をすくめる。
「ちょっと俺が若いのがうらやましいだろ?」
いつもの人を食ったような笑みを浮かべたリッツが、エドワードに顔を寄せてそう言い出した。いつも軽く嫌みを言うから仕返しのつもりだろうが、そんなことには動じるエドワードではない。
「そうだな。いつまでも子供なお前に言う愚痴ではなかったな」
「……どうせガキだよ」
むくれたリッツの言葉が懐かしくて、エドワードは吹き出してしまった。その言葉も口調も、リッツがよくむくれてダグラス隊の面々に言っていたのと変わらなかったからだ。
「さてさて、いつまでも無駄話をしていないで、そろそろ本題に入ろうか。私が王太子宣言をしたところまで話したのだったね?」
フランツに確認すると、フランツは頷いた。そう、ここまで話すと、あとは本当に戦乱の話となる。エドワードの王太子宣言から、革命戦争が始まっていくのだから。
「では今宵の話を始めよう。今までは攻防戦が主だった我々が、ついに王都シアーズへと、王位を目指して進攻し南下を始めた最初の戦闘の話だ」
「……いよいよ始まるんですねぇ……」
アンナが真面目な顔でペンを手に取った。
「そうだ。そして泣き虫で、旅に出た当初のアンナと同じように、地図も読めなかった精霊族の英雄の話も……」
「エドっ!」
慌てて言葉を遮ろうとするリッツを無視して言葉を続ける。
「その舞台は、ファルディナ自治領区ファルディナ」
「! ファルディナ!?」
「そうだよ、アンナ。君やフランツと初めて会ったあの街だ」
エドワードはそういうと、ふてくされたまま目の前でワインのボトルからコルク栓を抜いているリッツに一瞬目をやった。リッツはエドワードの視線に気がつかない。そのリッツに、心の中で静かに告げる。
そして……三十五年の空白を経て、ようやくお前をこの手に捕まえた街だ。
内戦の始まりの街であり、再び出会えた友との冒険の旅の始まりの街、ファルディナ。
エドワードにとってこの地は、重要な人生の転機を迎える運命の地なのだ。
「王国歴一五三五年四月、我々革命軍は王都を目指し、ファルディナ攻略作戦を開始した」
鮮やかな色彩を持って、過去はエドワードの前に再び姿を現す。




