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燎原の覇者シリーズ第4巻『莫逆の誓い』の始まりです!
ついに始まる内戦。その初めの街ファルディナのお話です。
前巻で自分の寿命の恐れに気がついてしまったリッツは?
そしてそれを知りつつも何も言えなかったエドワードは?
本格化する内戦と葛藤の第4巻の始まり始まり。
王国歴一五三五年五月一日の夕刻。
リッツは、ファルディナ自治領区ファルディナの街にいた。街にあふれる日雇い労働者や、おこぼれを狙う酔いどれたちがあふれる、街の中心の居酒屋の片隅に陣取って、安酒を飲みながら街を観察しているのだ。
一緒にいるのは、もう馴染みになってしまったファンとラヴィだ。何故だかこの二人は、ギルバートの指示によってリッツに付けられることが多い。エドワードに言わせると、表向きは英雄になっているリッツの護衛ではないかとのことだった。確かに遠隔攻撃を得意とするファンと、直接攻撃を得意とするラヴィのコンビがいれば、無敵に近い。
でも正直リッツは少々不本意だった。確かに二人がいれば心強いが、自分で自分の身を守れるぐらいには強くなったつもりでいたのだ。だがリッツにとって師匠でもあるギルバートの命令には逆らえない。
考えても見れば、一人で街中に潜入しろといわれても時間の潰し方に困る。それならば不本意であっても、いてもらえた方がありがたい。
「フェイ、どうかしたの?」
ラヴィに気遣うように話しかけられて、顔を上げる。リッツの偽名はシアーズに引き続きフェイで、肩書きはファンの弟だ。
「何?」
「いや、ウィンナーをそんなにぐさぐさにしてどうするのかと思ってさ」
「え? あ……」
手元を見ると、盛り合わせの最後の一本が悲惨なことになっていた。考え事をしていたせいで、無意識につつき回していたらしい。
「あ~あ、もったいない」
つぶやきながらぐしゃぐしゃになったそれを口に放り込む。肉汁はほぼ無くなっていたが、味はそれほど変わらない。
「もしかして、耳飾りがきつい?」
大柄なラヴィに身をかがめて聞かれて小さく首を振り、横髪をかき上げて見せた。ラヴィが真剣にそれをチェックしてほっとしたように笑う。
「鬱血もしていないようだね」
「うん。前に耳を半分に折りたたまれた時より格段に快適だよ。さすがダグラス隊の芸術家ラヴィだ」
「褒めても何も出ないよ」
笑いながらも機嫌良くラヴィがグラスに酒を注いでくれた。ラヴィは傭兵の自分を褒められるよりも、芸術家であることを褒められた方が嬉しいのだ。
そっと耳のあたりに手をやると、体温でほんのりと暖かくなっていた金属に触れる。顔の横にはいつもならピンと立った長い耳があるのだが、それに手が触れることはない。耳の上半分が黒く塗られた細い鋼で編まれた小さな篭に、目立たないように収まってるからだ。そのおかげで傍目から見れば特徴的な耳の存在は分からなくなっている。
この篭は頭のラインに沿うように作られていて、耳を収めると長めの髪に紛れて全く見えなくなる仕組みだ。この篭は左右繋がっていて、細い鋼が後頭部を通っている。この鋼も黒く塗られているから、髪に紛れて見えない。
鍛えられた柔らかいが頑丈な最高級の鋼を使って作られたその品には、細かなすかしが入っていて、実用性だけではなく、芸術性も高い。
「だけど本当に器用だね、ラヴィは」
「ありがとうフェイ」
大きな体のラヴィは、本当に嬉しそうに晴れやかに笑う。傭兵で金を貯めたら、工房を作るのがラヴィの夢なのだ。
そもそもこの耳篭は、リッツがダグラス隊と騎士団第三隊の統合部隊である遊撃隊に配属になってすぐに、ラヴィがリッツ用にと丹精込めて作ってくれた物である。英雄を演じてしまった手前、リッツはそのまま耳をさらして歩けなくなった。ユリスラ全土に運ばれた新聞で似顔絵が出回ってしまった現在、耳をさらして歩くことは自分の正体をさらして歩くことと同意だ。
だが騎士団の制服を着ていたり、作戦行動のために変装をしているときに常に帽子をかぶるのは面倒だったのだ。
でもこれを付けていれば、帽子をかぶらなくても普通に街を歩けるし、頭にぴったりと合ったこの形ならば、剣を手にして戦っても落ちることもない。帽子をかぶる習慣が無かったリッツにとって、面倒この上なかった帽子から解放されたのは、本当嬉しい。
とはいえ、この耳篭が必要なのは今のうちだけだろうとギルバートは言う。今後事態が進むに従って、配属に関係なくエドワードの傍らにいることになるからだそうだ。そうなれば必要とされるのは個人としてのリッツではなく、精霊族の戦士リッツだから、耳を隠す必要がなくなるのである。
今はまだ普通の遊撃隊員として過ごすリッツには、この耳飾りが不可欠だ。耳さえ隠してしまえば、リッツはただの背の高い黒髪の若者でしかないのである。何しろ似顔絵は精霊族を演じていた時の冷たく硬質な印象であるが、普段はこんな風にだらけているからだ。
「じゃあどうしたの? 元気ないみたいだけど」
「別に、そんなこと無いよ」
小声で否定して注がれた酒に口を付けると、クスッとファンが笑った。
「何だよファン」
「どうせまた、飼い主がいなくてふてくされてるのさ。そうだろ?」
からかい口調のファンに文句を言おうと思ったが、本当にその通りだから何も言えずに口を閉ざし、文句を酒で流し込む。
「折角シアーズから帰ってきたっていうのに、たった三ヶ月しかエドワードと一緒にいられなかったから、このエドワードの子犬は拗ねてるんだろう?」
「うっさいファン」
「図星指されて反撃もできないみたいだね」
「だから犬じゃねえって、友達だ!」
ファンにそう言って舌を出すとラヴィの目の前にあったボトルを手に取り、グラスに満たした。水で増したんじゃないかと言うぐらいに、薄くてぬるい麦酒だ。
ファンの言うことは半分図星で半分外れだ。確かにエドワードの近くにいられないことが不満ではあるし、少し寂しい。シアーズでコネルに宣言したように、この身をもってエドワードを守る気でいたし、王太子として世間に宣言をしたエドワードは常に危険にさらされる可能性が高いから、離れる気はなかったのだ。
だが最重要拠点となるファルディナの地を、最も少ない被害しか出さずに、街を壊すこともなるべくせず、しかもここに陣取っている自治領主たちを追い出す作戦の中で、リッツがこうしてエドワードの近くから離れることが必然とされたのである。
大きくため息をついて残っていた付け合わせのキャベツの酢漬けをつついていると、突然飲み屋の扉が開け放たれた。
扉の向こうには、揃いの服に身を包んだ男たちがいる。その姿には見覚えがあった。グレインにもいた、駐留部隊の制服だ。
もしかしてリッツたちの存在が知られたのだろうか。そう思って隠したまま剣の柄に手をかけ様子をうかがう。
緊張感漂う店内に入り込んできた男が、店の中をぐるりと一瞥する。その目つきには暖かみというものが感じられなかった。
剣の柄にかける手に汗がにじむ。緊張感で体を硬くしていると、駐留部隊の男たちが一人の男を見つけて取り囲んだ。
「貴様がトムか?」
名を聞かれた瞬間に、男が飛び上がった。
「……! しまった」
叫んで逃げ出そうとする男に容赦なく駐留部隊が襲いかかる。その間、賑やかだった安居酒屋が一人の客も存在しないかのように静まりかえった。
机が倒れ、グラスが床ではじける音と、男の悲鳴、そして駐留部隊の男たちの怒声だけが、うつむき自分の手元だけを見ている客たちの間を飛び交っている。それは一種、異常な光景だった。
やがて駐留部隊の男たちは、トムと呼ばれた男を引きずるように店を出て行った。最後の最後まで抵抗し、助けを求めるトムの声だけを残して、店に平穏が戻る。すると意味が分からず固まったままのリッツだけを取り残して、凍ったように動かなかった酒場の空気が動き出した。
まるで先ほどの光景が、つかの間に見た白昼夢のように、酒場の中は先ほどまでと変わらない。男たちは相変わらず騒ぎ、妙に浮かれ騒いでいる。
その中で緊張感を持っていつでも抜けるように身構えていたリッツだけが、時間に置き忘れられたように固まっている。まるで目の前で安っぽい芝居を見せられたような気分だ。
「……何が……どうなってんの?」
剣からようやく手を離して小声でファンに尋ねると、ファンは手元のつまみをつつきながら、かなり小声で答えてくれた。
「この街では自治領主や貴族、王族を悪く言うのは御法度だ。もしそれが駐留部隊の耳に入ったら、今みたいに連れて行かれちゃうからね」
「え? 何で駐留部隊が?」
グレインでは駐留部隊は騎士団と違い、平穏な時代は憲兵のような役割をし、自治領区の治安維持に努めていた。その印象が強かったから、人さらいのようなこの状況が上手く理解できなかったのだ。
「だから治安を守ってるんだろう」
何気なくファンが答えた。
「治安を?」
「そうさ。治安を守るためには、犯罪の目を摘んでおけばいい。違うかい?」
ファンに問われて頷く。
「明らかに分かる犯罪の目ならね。だけど今は何も起こってなかったし、連れて行かれた奴が何かしたわけじゃないじゃん?」
だからこそこの突然起こった出来事が理解しかねるのだ。
「まあ、普通ならあの男は罪に問われることをしたわけじゃないよ。だけどこの街では、治安を乱す行為をしたのさ」
淡々といいながらファンは麦酒に口を付ける。ファンの向こうに、浮かれ騒ぐ男たちの姿が見える。
「……? 意味がわかんねえけど?」
「だろうね。まあ簡単に言えば、この街で守られる絶対の存在は市民じゃなくて自治領主なんだよね。この街の法は、自治領主を守るためにだけ存在するわけだ」
「は?」
ますますもって理由が分からない。自治領主を守ることと治安維持の何が共通するというのだろう。
「考えてごらんよ。領主がいなくなったら治安が乱れるだろ? だったら自治領主は絶対にいなくならないように大事にしなくてはいけない。だから自分を大切にしなさいって、自治領主は考えたわけだ」
「身勝手だなぁ……」
ぼやきながら麦酒に口を付けると、ファンは眼鏡の奥の目をかすかに細めて冷ややかに笑う。
「まあね。じゃあどうやって自治領主である自分を守ればいいかと考えた時、思いついたわけさ。自分を悪く言うものは皆捕らえてしまえばいい。不平不満は芽の内に根こそぎ抜いてしまえば、反乱が起きる要素など何もない」
「そんなの……」
少々声を荒げて反論しかけたリッツの前で薄笑いしながら、ファンは自分の唇に指を当てて黙るように示しながら言葉を続ける。
「現にファルディナは治安がいい。確かに浮浪者は多いし難民も多いけど、犯罪を働こうというものはいない。何せ喧嘩の理由を聞かれたなら『あいつが領主様の悪口を言ったから』といえば、相手が極刑だ」
唖然としながらファンを見つめる。
「証拠は?」
「そんなもんいらないさ。疑わしきは極刑だから」
「……極刑って、死刑?」
「そう。即切り捨て。領主の悪口を言えば処刑、貴族や王族の悪口を言えば処刑、貴族からものを奪ったら処刑、貴族にくってかかったら処刑」
「……な……」
「場合によったら、貴族にぶつかって服を汚しただけで斬り殺された人もいる。失礼な行為だってね。それがここファルディナの街さ」
言葉が出てこない。そんな横暴な話があるだろうか。もしジェラルドだったら、自治領主など文句を言われて当然の職業だと笑うだけだろう。
なのにこの街ではすべて極刑なのだ。
「ファン、それって……」
「平穏、結構なことじゃないか」
笑みを浮かべて肩をすくめたファンの目を覗き込んで尋ねる。
「……本気で言ってる?」
「ああ。僕は嫌だけど。でもそれが平和のためだって考えている人間も少なからずいる。だから先ほどのようなことが起こるんだ」
淡々とそう言いながら、ファンは片手をあげて麦酒の追加を注文する。ホール係が新しい瓶をテーブルに置く。愛想よく受け取ったファンに重ねて尋ねた。
「さっきみたいな事って?」
小声で尋ねると、ファンは自分で注ぎながら、周りに気をつけて声を潜めて説明を続けてくれた。
「さっきのこととはつまり、密告さ。ありとあらゆるところに、いると言っていいだろうね。そしてもし自治領主のことを悪く言うものがいたら、治安を乱した罪で殺されるらしい」
「それだけで!?」
「そ。それだけで。つまりこの街の自治領主は、よくできた監視の仕組みを作ったわけさ。密告者ならば浮浪者や難民でもつとまる。そして彼らは金を貰って暖かな一晩の宿を得る。だから密告はなくならず、反乱を企てるものもいない」
ファンの皮肉な笑みと細い目を更に細めた動作に、何となく寒気がして周りを見渡してしまった。ファンはこの安い酒屋にも監視者はいると思っているのだ。リッツから見ればどう見ても普通の人々が集まっているが、先ほどの駐留部隊が来たと言うことは、この中に密告者がいる可能性が高い。
きょろきょろしていても怪しまれると、自分のグラスに目を落としたとき、ふとグレインの駐留部隊を思い出した。彼らは騎士団と合同訓練を行ったとき、リッツの剣の相手をしてくれたこともある。そんな彼らがこんな風に動くなんて信じられない。
それに駐留部隊って、元々ユリスラ軍が持っているもので、そんな風には使えないはずだ。
「そういえば駐留部隊って、そんな組織だっけ?」
「この街ではね。だからこの街の至る所に恐怖が渦巻いている。人々は逆らうことなど出来ないのさ」
「恐怖で人を支配してるんだね」
「その通り。時には子供の代わりに罰を受けて殺される親もいる」
「え……?」
「子供の目の前で。そしてこの街の治安はよくなる。自治領主のいいようにね」
「……ひどすぎだよ、それ」
目の前にありありとその光景が浮かんで、リッツは目をきつく閉じた。なるほどギルバートがこの街をよく見ておけといったのは、こういう事情を知っておけということだったのだ。
ギルバートはいつもリッツに街の人々を見るようにと命じる。今までは何気なく観察してきただけだったが、この街で初めて人々がいかに酷い生活を送っているのかを知った。
ここファルディナはまともな方かと思っていたら、これは酷すぎる。治安の良い街の現実がこれだというのなら、治安の良さは人々の平穏と同じではないということだ。
なるほど、一見豊かで治安のいいファルディナからオフェリルやサラディオに難民が流れ込むのは、恐怖に支配されるのが辛いからなのだろう。恐怖や力で人を支配したって、その人の心の奥深くに怒りの炎はくすぶり続けているのだから。
貴族以外を貴族とみなさない貴族たちに憤ったが、今ここで憤っても仕方ないことも分かっている。だから今は待つしかないのだ。
ギルバートからの連絡を。
時は一月ちょっとさかのぼる。
エドワードとリッツが二人で一週間の休暇を終えて、シャスタとパトリシアと共にグレインに戻った翌日、三月二十六日に、喪に服したグレインのモーガン邸の会議室で改めて進攻作戦の作戦会議が開かれた。
すべては王太子宣言を終えたあとに動くと思っていたリッツだったのだが、ジェラルドやギルバートはもう作戦を考えてすでに動き出していたのである。何も知らなかったリッツとは対照的に、一緒に遊びほうけていたはずのエドワードは事前に聞いていたらしく、あっさりと作戦会議に馴染んでいる。どうやら事前にジェラルドと大まかなことを決めていたらしい。
会議室の大きなテーブルに広げられたのは、ファルディナ自治領区の地図だった。二枚の巨大な地図だ。一枚はファルディナ自治領区全体図で、もう一枚はファルディナの街の見取り図だ。シアーズに行く途中と帰ってくる途中の二回ファルディナを通過してきたリッツだから、街や街道の様子は少し分かっているが、自治領区全体を見たのは初めてだ。
よくよく考えてみると、リッツはグレイン自治領区の地図を見たこともないし、オフェリルの地図を見たこともなかった。地図自体を見ることも少ないが、その地図は街道と街が書かれているだけで、山や森の詳しい情報など書いていない。
でもこの地図には山の高さや、街の人口などが書かれている。こんな精密な地図を見るのは初めてだった。
身を乗り出して地図を覗きこむ。文字が読めるようになっているから、どこが旅人の街道で、どちらが南で北で、どちらがシアーズでどちらがグレインかよく分かる。なるほど確かに文字が読めることは、生きていく上で最も重要なようだ。
「珍しいか、リッツ?」
地図の上に指揮棒を走らせようとしていたジェラルドに問いかけられて、正直に頷く。
「うん。こんなに詳しい地図があるんだね」
「ああ。これはユリスラ軍の作戦図だからな」
「作戦図? なにそれ?」
「簡単に言えば敵の侵略を受けた場合、どこで食い止め、どこで攻撃をするのかの作戦を練るための詳細図だ」
「ふうん。じゃあこれ、ユリスラに戦争を仕掛ける人に渡ったら大変だね」
深々と納得すると、全員から苦笑された。
「俺何か変なこと言った?」
笑われる意味が分からずに隣のエドワードに尋ねると、エドワードは笑いながら肩をすくめた。
「まさに今、俺たちが王国を攻めるのに使ってる」
「あ……そっか」
言われてみればグレイン・オフェリル連合軍改め革命軍は、これからユリスラ王国軍と戦おうとしているのである。
「てめえは本当に馬鹿ガキだな」
にやにや笑いながらギルバートにからかわれてむくれる。
「しょーがねえじゃん、知らねえんだもん」
するとギルバートの近くに座っていたコネルが大きくため息をついた。
「やれやれ。一人の英雄は頭脳明晰な人格者だが、もう一人の頭の中身は、海綿のようだな」
「海綿?」
からかい文句であることは間違いないが、聞き慣れない言葉に聞き返すと『皮肉屋』とあだ名されるコネルは口の端をかすかに持ち上げて笑う。
「紙を大量に処理する政務官が水を含ませて使う、中身がすかすかな綿みたいなもののことさ」
「中身すかすか……?」
「そう。確か元は海の中で岩に張り付いてふらふら揺れてるもんらしい。お前さんの頭の中身と同じじゃないのかい? それとも空っぽだったかな?」
完全に馬鹿にされている。コネルは元々皮肉屋らしいが、なぜか初めて会った時から、どうもリッツを見るとこうして皮肉を言いたくなるらしい。何しろお互いに出会いの印象はよくないのだ。
だがシアーズからグレインに戻ってくる道中で、サウスフォード夫人イライザから聞いたコネルの話を思い出した。
「馬鹿にすんなよ、恐妻家!」
「言葉を慎め! 愛妻家だ!」
「恐妻家じゃんか! イライザさんにいろいろ聞いちゃったからな~だ」
舌を出すと、コネルは青筋を立てた。
「このくそガキが!」
「へへ~んだ」
コネルに向かって勝ち誇ると、予想外の方向から一撃頭に食らう。痛みのあまりに机に撃沈すると、その頬をぎゅっとつままれた。
「お前はいつまで遊んでるんだ、リッツ」
笑顔のくせにかすかに青筋を立てたエドワードだった。水色の瞳が鋭く輝いている。その目はいくらたった一人の親友とはいえ、恐ろしい。
「いたひ、いたひよぉ、エド~」
「時間は売るほどある訳じゃないんだぞ。中将と遊びたいならあとでたっぷり遊んでもらえ。今は会議中だ。黙っておく時だろう?」
「分かった、わかりまひた~」
半ば痛みで涙目になりながら頷くと、ぼそっとコネルの笑みを含んだつぶやきが、人間よりいい耳に入った。
「しつけられてるな」
反射的にコネルを睨むと、エドワードの長い指がリッツの頬をいったん強くひねってから離した。その痛みに撃沈していると、リッツの頭上でエドワードが微笑みながらコネルに一言言うのが聞こえた。
「しつけが行き届いていなくて申し訳ないね、中将。でも作戦会議に不要なお遊びをこいつに仕掛けるならば、同罪になるが?」
顔を上げると、コネルが何ともいえない顔で口をつぐんだところだった。
「……」
「そうだろ。ギル」
「リッツの飼い主はエドワードなら、こいつに制裁を加えるのは、イライザか? あいつはリッツを可愛がってたからな。夕食ぐらい抜かれることを覚悟しとけ」
「閣下!」
コネルは悲痛な声を上げた。コネルの妻イライザは、馬車での道中一番年若く見えるリッツに、いろいろな話をしてくれたのだ。それをダグラス隊はみんな知っている。
「冗談だ、冗談。さあ楽しい余興の時間は終わったようだから、話を続けてもらおうか、ジェリー」
役者のようにおおらかに笑い、ギルバートがジェラルドに促す。
「了解した。やれやれ。我が革命軍には緊張感という物がかけるようだな」
冗談交じりに言いながら、ジェラルドは指揮棒を地図に戻した。リッツも痛む頬をさすりながら地図に視線を戻した。
ファルディナ自治領区には、二本の街道が交わって通っている。メインの一本は通称シアーズ街道だ。南は王都シアーズ、北はサラディオに通じている。地図上の街道を眺めつつ、リッツは実際に見た光景を思い出す。
シアーズ街道は、王国で一番大きな街道で大型の馬車が三台ほど並べる道幅を持つ街道だ。森に囲まれている場所が多い街道なのだが、その中にも丘に囲まれた場所、坂道、草原地帯があり、崖が近い場所もある。
少し森に入ったところを川が流れていて、森を抜けるまでは飲み水にも苦労はしない。馬で旅をしてもとても心地よく走れる街道だ。
そしてもう一本はオフェリルと王国西部セクアナ自治領区を結ぶ街道だ。こちらの道もオフェリルからファルディナまでは通ったことがあるから想像がつく。ファルディナを出てからいくつかの小さな村や街を通り、オフェリル高原を越えてオフェリル第二の都市アデルフィーへ至り、オフェリルの街に着く道だ。
ファルディナから向こう、セクアナ方面には行ったことがない。リッツの行動範囲は、王国中央部と北部に限られているのだ。ぼんやりと思い出しているリッツに関係なく、ジェラルドの淀みない声が聞こえている。
「我々革命軍は、王都シアーズへ打って出る際、ここファルディナがもっとも大きな拠点となる。シアーズへ行軍を進める以上、サラディオ、グレイン、オフェリルと直接街道で結ばれたこの地は、必要不可欠だ」
断言したジェラルドに、カークランドが尋ねる。
「セクアナはどう出てくる? 街道で直接つながっていることはオフェリルもセクアナも同じだろう?」
カークランドは現在、補給部隊の指揮と、占拠後の街の経済立て直しを担当している。ファルディナを占拠した後、そこを立て直す計画を立てねばならない立場なのだ。
「ファルディナを自軍の領地にした後、セクアナにかき回されてはたまらんな。街の立て直しは安定の中にしかないぞ?」
気むずかしげに眉を寄せるカークランドの表情は、まさに理屈屋フレイと呼ばれるにふさわしい姿だ。ジェラルドとギルバートと同い年だというのに、一人だけ焦げ茶の髪に白髪が混じっているのは、きっとこの性格故だろう。そんなカークランドにジェラルドは頷く。
「当然、考えている。セクアナへ抜ける道はシアーズ街道よりも細く、万が一にもセクアナ自治領主が攻めてきた場合でも、十分に街道両側に広がる森を利用して撃退できるだろう。ファルディナを占拠し、王都防衛隊ファルディナ駐留部隊を味方に付けられたなら、彼らをその任に当たらせ、できなかったらこの地を革命軍の人員を割いて防衛させるさ。だが心配は今の段階で不要だろう」
顔を上げたジェラルドの目がギルバートの上でとまる。
「セクアナの状況を、ギル」
「ああ。セクアナは現在、グレインに敵意を持ってはいないようだ。元々セクアナの自治領主は病弱で政治嫌いときている。あの街の自治は、部下である男爵家と子爵家に託されていて、彼らもまた権力闘争に興味は無い。何しろ西に大貴族が自治領主のルーイビル、東に横暴なファルディナを抱えていつも板挟みだった」
何かを思い出したのか、ギルバートはかすかに笑みを浮かべた。
「しかも南のアンティル貴族たちから、米の価格競争でずいぶんと大変な目に遭わされているようだからな。これは内偵させている者からの情報だ」
楽しげなギルバートと対照的に、カークランドはこつこつとペン先で机を叩きながら無表情に頷く。
「なるほど。それならば隣区が気になり、他の自治領区まで気は回らんな」
「そういうことだ」
自信たっぷりにそういったギルバートに、リッツは尋ねる。
「じゃあさ、仲間に引き入れちゃえないの?」
「無理だな」
「どうしてさ?」
敵の敵は味方、じゃないのだろうか。
「彼らに平民と共に戦おうという気概はまるでないからさ。自治権を取り上げて、引退して静かに暮らせれば、自治領区がどうなろうと気にもしないだろうよ」
まるで見てきたようにさらりと答えたギルバートに目を丸くする。なぜそんなことを知っているのか、リッツには見当もつかない。
「ギルって、遠見の技でも持ってんの?」
「遠見の技?」
「うん。俺の親父が持ってたんだ。離れた街の様子とか森の中とかをその場にいながら見られる、風の精霊使いの技の一つなんだ」
再び説明を止めてしまった形になったが、ジェラルドは快くギルバートに頷いた。苦笑しながらギルバートが説明してくれる。
「俺にはダグラス隊以外にも情報収集や情報操作に使う手駒があって、戦いで有利に物事を運べるように手配をしてある」
「手駒?」
「そうだ。長きにわたる王国軍勤めは無駄ではなかったということさ」
「あ……」
その一言で納得した。ギルバートが言っている手駒とは、どうやらユリスラ軍に残されているギルバートの配下らしい。
「軍にはギルのスパイがいっぱいなんだ」
「……お前は少し語彙に気を遣え」
あきれかえった顔でギルバートが肩をすくめる。その横には素知らぬ顔のソフィアがいた。ソフィアは遊撃隊第一隊となったダグラス隊の指揮官だ。第二隊はマルヴィルが指揮を執り、この二隊をまとめるのがギルバートだった。
リッツは一応ギルバートの副官ということになっているのだが、どう考えても飾りだろう。
「もういいか、リッツ」
「うん。ありがとう、おっさん」
素直に頷くと、ジェラルドが何事もなかったように言葉を続ける。
「セクアナの件は、ファルディナ後に改めて当たることとする。今はファルディナだ」
笑みを浮かべて全体を見渡したジェラルドに頷く。同じようにエドワードも小さく頷くと、目の前の地図を見つめた。再びジェラルドの説明が始まる。
「ファルディナの自治領主はスティーヴンス侯爵。彼は疑り深いことで知られていて、そのためかなり強力な自前の護衛団を持っている。補佐をしていたのはダグラス男爵家だったが今は補佐家はない」
ジェラルドの言葉に、ついついギルバートのつぶれた左目を見つめる。この傷を負うことになった事件で、ダグラス家は取りつぶしになったのだ。
「その代わり、ファルディナでは二つの伯爵家が大きく幅をきかせている。北部ブルガンの街にはジョエル伯爵家。そして南部アーケルにはデラノ伯爵がいる。それぞれの補佐家は男爵家だ。その下に子爵家がついているし、オフェリル同様王国騎士の称号を持つものも少なくない。この三家が自営のための私兵を持っている。他の貴族たちはそれぞれこの三家いずれかに属していて、個別の私兵集団を抱えている者はいない。つまりファルディナを守っているのはこの三家の私兵集団と、王都防衛隊ファルディナ駐留部隊だ。我々は王都へ進撃するから、今回の戦いでは当然ファルディナ駐留部隊も敵となる。ただ数だけを見れば侮れないだろうし、市街戦になり市民の犠牲者を出すことも好ましくない」
言葉を切り右手に持った指揮棒の先を左手で軽くはじきながらジェラルドがエドワードを見た。
「さてこの場合はどうすべきかな、エド」
「また作戦を決めているのにこちらに振るんだな」
苦笑しながらエドワードが肩をすくめる。
「考えはあるだろう?」
「あるさ。戦略も戦術も高名な指揮官にたたき込まれたからね」
いたずらっぽい目で口元に笑みを浮かべジェラルドを見てから、小さく肩をすくめたエドワードが迷い無く話し出す。
「こちらの戦力は、ファルディナの私兵集団と駐留部隊を併せたよりも遙かに多い。でも実際新兵のほとんどが戦場経験など無い義勇兵だ。だからもし市街戦になり、全面的にこの三家の部隊とぶつかると、状況が降着し、ファルディナの街自体に被害が及ぶと考えられる」
いつものように通る声で意志を持ってエドワードの言葉が続く。リッツはよく分からないままにその声に耳を傾けた。
「一番いいのは、ブルガンとアーケルそれぞれに伯爵たちを戻し、彼らが帰ってくる前にスティーヴンス侯爵を倒すことだ。それからファルディナを占拠後それぞれブルガンとアーケルの伯爵を、革命軍を二つに分けて倒しに行くというのが通常のやり方だろうな」
そういったエドワードに、ついつい尋ねる。
「どうやって故郷に帰らせんだ? 帰ってくれってお願いしたって聞いてくれねえじゃん?」
「あたりまえだろう。だから今のうちに仕掛けをしておかないといけないんだ」
「仕掛け?」
「そうだ。それぞれを地元に帰すために、仲違いをさせるのさ」
「どうやって?」
「おそらく……噂を使ってだ。そうだろう、ギル?」
静かに笑みを浮かべたエドワードに見つめられてギルバートは唇を楽しげにつり上げた。
「その通りだ。現在ダグラス隊の内偵者たちが、ファルディナで活動を始めてる。ファルディナには色々と顔が利くからな。作戦通りの状況にするのは俺たちに任せてもらおうか」
「それは心強いな」
自信に満ちたギルバートに笑みを浮かべて頷いたエドワードは、再び全員を見回す。
「三家の部隊を各個撃破するにしても、順序が重要だ。市街戦にならないよう、自治領主をどちらかの伯爵家と戦うよう仕向けてほしい。これもギルに頼めるかな?」
「おやすいご用だ。エドワードはどちらの伯爵家と侯爵を争わせたい?」
「そうだな……できれば北部ブルガンだ。北部へ行く方が街道の道幅が狭い。少人数で撃破できる可能性が高いだろうな。侯爵が伯爵家を攻めるならばおそらく私兵集団だけでは足りないだろうから、そこを利用できる。ジェラルドはどう思う?」
「私もエドワードと同意見だ。何しろダグラス隊が今までの戦闘では暴れ足りないのだろう?」
意味ありげなジェラルドの言葉に、ギルバートが笑う。リッツにはエドワードの選択も、ジェラルドの言葉もよく分からない。でも一つ分かるのは、確実に戦いが始まろうとしていることだけだ。
「情報戦の仕上げと、事前準備は遊撃隊全員で当たりたい。ファルディナに少しずつ人員を送り込み、最終的に作戦発動前に全員がファルディナに潜伏している状況を作るつもりだ」
「ギル」
「なんだリッツ」
「俺は、どうすんの? ギルの副官扱いなんだろ?でも俺、エドのそばがいいんだけど……」
遠慮がちに希望を言ってみる。話の流れからして、リッツがこの場に残る選択肢は低そうな気はしているのだが、リッツはエドワードの隣にいたいのだ。
「お前がエドワードに懐いているのはよく知っているが、お前には作戦上、遊撃隊にいてもらう」
「あ~、やっぱりなぁ……」
本気でがっかりして、ため息をつきながら突っ伏すと、隣のエドワードがリッツの頭に手を乗せて軽く叩く。暖かな感触に目だけ上げると、エドワードが笑みを浮かべていた。
「この作戦はそう長丁場じゃないさ。少しぐらい我慢しろ。俺もお前を涙をのんで手放すさ」
「エド……!」
「ちゃんと俺にたまったストレスは、お前が帰ってくるまで他人にぶつけないで取っておくからな」
あっさりとそういったエドワードの口元には、からかい成分たっぷりの笑みを浮かんでいる。思い切り遊ばれているのに気がついてむくれた。
「俺はお前のストレスのはけ口か!?」
「ああ、悪い。俺の犬だったか?」
「馬鹿エド! いいですよ、分かりましたよ、遊撃隊で別行動取りますよ~だ」
「そうしてくれ、馬鹿リッツ」
「馬鹿って言うなよ!」
「始めに言ったのはどっちだ、馬鹿」
子供の言い合いを始めた二人に、会議室の面々が忍び笑いを漏らす。
リッツとエドワードの最近のやりとりは、こんなことがかなり多い。エドワードはアイゼンヴァレーから帰ってきて以後、かなり遠慮が無くなったのである。エドワードが正直にこうして感情をぶつけてくることが、リッツはかなり嬉しい。
きっと二人で休暇を取った最後の日、エドワードがパトリシアとシャスタに語った『手を伸ばしてもいい人だっていた。それに気がつかなかったな』とはこういうことだったのだろう。
エドワードはきっと、リッツ以外の信頼する人々にかすかにでも手を伸ばそうとしているのかもしれない。
それとも……リッツがアイゼンヴァレーで『夢から覚める』と口走ってしまったことを気にして、あえて明るくしているんだろうか。
かすかに不安を覚えてエドワードを見ると、エドワードの目が柔らかく細められた。今まで言い合いをしていたのに、リッツの不安をちゃんと受け止めて笑ってくれているのだ。
まったく、エドワードには敵わない。
「ガキどものけんかが終わったところで、遊撃隊の行動に話を戻すぞ。俺とリッツ、ラヴィとファン以外全員をエドワードの王太子宣言までに、数人ずつ、避難民を装ってファルディナに送り込む」
「? 何で俺は後なの?」
意味が分からず正直に聞くと、ギルバートだけではなく、全員に呆れられてしまった。エドワードにはため息をつかれる始末だ。
「え? 何? 俺変なこと言った?」
きょろきょろと見渡すと、ちょうど目があったパトリシアがため息混じりに答えてくれた。
「あなたものを考えてる? 思考を惜しむと馬鹿になるわよ?」
「何だよパティ。嫌み言わなくてもいいじゃんか」
むくれてパトリシアを見据えると、パトリシアは大きくため息をついてエドワードを見遣った。
「エディ。少し勉強させて方がいいんじゃないかしら? このままお馬鹿ではあなたの相棒はつとまらないんじゃなくて?」
「……かもしれんな」
「何だよ何だよ! みんな分かったような顔して」
頬を膨らませて抗議すると、エドワードの手がわざとらしいため息混じりに肩に乗った。
「リッツ」
「何?」
「俺は、グレインの民衆を前に、自分が正当な王太子であると宣言するわけだ。それは理解しているな?」
「当たり前だろ」
「では、その時お前はどこにいるべきだか分かっているか?」
「どこに?」
本当に分からずに首をかしげると、全員がため息をついた。
「な、何だよ~?」
「精霊族の戦士リッツ・アルスターは、誠の王を選ぶために北へ行ったんだったな?」
「うん。そういうことになってるよな」
「そして俺はその北の地で、自分が王太子であると宣言するわけだが、その時お前はどこにいるべきだ?」
「……あ……」
ようやく気がついた。言われてみれば簡単なことだった。
「俺、お前と一緒に全員の前に立って無いと駄目じゃん!」
全員の口から再びため息が漏れた。完全に呆れられているようだ。
「……何のために英雄になってきたのよ」
呟かれたパトリシアに言い返す言葉もない。パトリシアの言うように思考を惜しまないようにしなければ。今まで以上に馬鹿になったら困る。
落ち込んで小さくなるリッツを責めるでもなく。ジェラルドが再び指揮棒を取り出した。
「さて、リッツが自分の立場を理解したところで、そろそろ作戦の説明を始めようではないか」
こうして話された作戦は、リッツにとっては驚きの連続だったのである。
この会議以後、マルヴィル率いる遊撃隊第二隊がまずグレインから姿を消し、次にソフィアを含む第一隊が姿を消した。そして王太子宣言の二日後、リッツはラヴィに作ってもらった耳篭を装着してグレインを発ち、三日後にはファルディナへとたどり着いていたのである。
それから一週間と数日。リッツはこうしてファルディナで安酒を飲み、儲け話を探す浮浪者を装ってファルディナの街を観察していたのである。
今日もこれで一日が終わるのかなと思っていると、突然テーブルにみすぼらしい男が割り込むようにやってきて座った。
「景気のいい話はないかい、兄ちゃんたちよ」
男はそう言いながら、片手をあげてビールを注文した。おそらくこちらに払わせる気だ。そう思って男を睨み付けたのだが、男は顔色一つ変えない。顔が煤けているところを見ると、煙突掃除夫かもしれない。
「酒ぐらい自分の金で飲めよな」
まっすぐに見据えたまま言うと、汚れた男はにんまりと笑った。
「つれねえなぁフェイ。汗水流して情報取ってきてんだ。酒のいっぱいぐらい黙っておごれよ」
そのどこか妙に明るい口調に聞き覚えがあった。まじまじと見つめると、やはりリッツの知っている顔だった。
「チノ!」
「よう。ようやく気がついたのか。ファンとラヴィはとっくに気がついてるぞ」
皮肉な笑いを浮かべながら落とされた視線の先には、先ほどまでファンが食べていた料理がある。どうやらファンが快く回したらしい。ラヴィのチーズもチノの前にあった。
「言ってくれよ!」
憮然とするリッツとは対照的に、残り物をありがたく頂くような顔をしながら、チノは声を潜めた。
「馬鹿だねぇ。注意力が足りなすぎだよ、フェイ。悪意や危険ってのは普通の日常の片隅に潜んでいるんだぜ?」
「そうなの?」
軽く聞き返すと、チーズを囓りながらチノはリッツを横目でちらりと見る。リッツは今までの生活の中で特殊な状況にならない限り危険が襲ってくることはなかった。
唯一の例外が、シアーズで過ごした日々だ。この時ばかりは自分の命を守るために、毎日神経を使っていたものだった。
「危険だと分かっている中で危険がおそってきたって、それは対応できる。でも日常の危険ほど対応が遅れるもんさ。だから日常でも気を配っとけよ。もし俺が、お前がリッツ・アルスターだと知っていて近づいてきた敵ならば、お前はもう死んでるぞ?」
チノの言葉と同時に、ちくりと膝に何かが刺さった。
「いてっ……」
反射的にテーブルの下を見ると、先ほどまでリッツがオリーブを食べるのに使っていたピックを持ったチノが、リッツの足を軽く刺していた。
「……いつの間に……」
「剣技ばかりうまくなっても、駄目ってことだ。注意力は生きるための必須条件だぜ、フェイ」
「……うん。分かってるつもりなんだけど……」
シアーズでは傭兵たちに隙あらば命を狙われていたから、注意力は最高に高かったのだが、グレインに帰ってからは少し注意力に欠けているところはあるかもしれない。確かに注意力がなければ、エドワードを守れないし、そもそも自分が生きられない。それはとっても困る。エドワードが王位に就くまでリッツには死なない義務がある。
でも自分の実力が上がっている自信もある。一瞬の隙を突かれても反撃できるはずだ。
「だけどさ、反撃して倒せればいいんじゃねえの?」
「……おやおや。強さに溺れると、怪我をするよ」
かすかに唇に笑みを浮かべて、ちらりとリッツを見て笑ったチノは再び料理へと目を向けた。しばらく無言がこの場を支配する。
安酒場の決して上品とはいえない冗談が飛び交う雰囲気を何気なく眺めていると、残っていた料理を食べ終え安酒をあおったチノは、人心地ついたのかゆっくりと立ち上がった。
「兄さんたち、酒ありがとうよ。なぁなぁ、いい女がいる場所があるんだが、これからどうだ? 俺の馴染みだ、安くするぜ?」
今までの潜めた声とは違い、朗らかにチノが声を上げた。周りの人々はそんなチノを、あざ笑うかのように口の端をつり上げて笑っている。するとファンは、人のいい顔をして立ち上がった。
「本当かい? それはいいな。ファルディナにきてから女を抱いてないんだ。欲求不満だよ」
「……ファン?」
「折角の誘いだ、行こうぜ?」
明らかにいい人を装っているファンに戸惑っていると、ラヴィが静かに立ち上がり会計を済ませ始めた。こうなればリッツも立ち上がるしかない。
チノに続いて店を出る時、周りにいた酔っぱらいたちのささやき声が耳に入ってきた。彼らは皆、チノが流しの娼婦の元に客を連れて行き金を脅し取る、たちの悪い客引きだと思っているようだった。
確かにこの状況では、そう見えるだろう。そしてファンは正直に、その客引きに引っかかった哀れな客に見えた。
酒場を出ると、四月のまだ冷たい風に小さく身を震わせる。暖かく賑やかだった酒場から出ると、静まりかえった街はまるで別世界だ。グレインのように明るく街を歩き回り人の数は少ない。先ほど聞いた密告者の目を恐れて人が出歩かないのだろうか。それともあの駐留部隊と鉢合わせるのを避けているのだろうか。
酒場を出てからチノに促されるまま、数本の細道を通り、暗がりへ、暗がりへと移動していく。居酒屋を出たときの朗らかな印象はすでに欠片もなく、辺りに注意を払いながら、ファンとラヴィも黙ったままチノの後を追った。
やがて四人は、馬車が通れる幅があるというのに人影が無い道へとたどり着いた。周りを見渡すようにその通りへと出たチノが近寄っていったのは、立派な二頭立ての箱馬車だった。貴族が乗るような、黒光りする箱馬車だ。
街のあちこちに灯っているオイル灯の中でかすかに浮かび上がる馬車の中の人影は、身なりの整った紳士だった。シルクハットの影が揺らめくように揺れている。
チノは人目がないことを確認して馬車の扉を開き、リッツたちに乗るよう命じる。黙って乗り込んだファンとチノに戸惑っていると、ラヴィが笑みを浮かべてリッツを馬車に押し込んだ。
よろめきつつ入ったその中は薄暗く明かり一つ無いが、かなり広い。新祭月の脱出劇の際に婦人たちが使った大型の馬車に比べれば小ぶりではあるが、リッツたち全員が乗れるほどだ。
おずおずと座席に座ったリッツとは対照的に、チノは馬車に乗り込むやいなや、素早く黒い御者の服に着替えて馬車の御者台に回る。次の瞬間には、鞭を振るう音と、馬の荒い呼吸に続いて馬車は動き出していた。
人通りの少ない静かな石畳の路地を、馬の規則正しい足音が鳴り響く。戸惑うリッツを乗せて、馬車が走り出したのだ。
「何、何だよいったい?」
困惑しながら見回すと、目の前に座っていたシルクハットの紳士が、堪えきれないといったように吹き出した。それからリッツをからかうように笑いながらそのシルクハットをゆっくりと取る。
「てめえを誘拐してみたんだ、リッツ」
「! ギル!」
そこにいた身なりの整った紳士はギルバートだった。だがいつもとはあまりにも違うその姿に、開いた口がふさがらない。
いつもは櫛をちゃんと入れているのかと思われるほどに堅く癖のある煉瓦色の髪は、油で綺麗に塗り固められている。なめらかな黒のスーツに、宝石の入ったピンで留められたシルクのスカーフを締め、つぶれた左目をしゃれた眼帯で覆ったその姿は、まさに貴族そのものだ。
「うわぁ……ギル、貴族みたい……」
「知らなかったのか? 俺は生まれてから数年前まで貴族だったのさ」
冗談交じりの口調で肩をすくめたギルバートは、隣に座っている黒縁眼鏡をかけ、薄茶色の髪を結った堅苦しげな女性に目をやった。
「こいつの衣装を」
「ああ。リッツ、これを着な」
そのぞんざいで冷静沈着な口調で分かった。
「……ソフィア?」
「そう。私以外誰がいる?」
「え、だって、髪の色が……」
「染めたに決まっているだろう? あの髪色は目立つからね」
口調はソフィアだが、堅苦しそうな女性秘書のイメージは変わらない。
「ほら、早く着替えな」
ソフィアに促されて、リッツは慌てて受け取った服を広げる。そこには前にパトリシアが見繕ってくれて、アイゼンヴァレーに特使として出かけた時以後着ていなかった、あの藁色の上下と、上品な濃茶色上着があった。そして磨き上げられて光っている革靴もある。
「うわぁ……またこれ着るの?」
「リボンタイは結べるね?」
「……結べないや。エドにやってもらってた」
「仕方ないね。着替えたら結ってやるから、さっさと着替えな」
「あ、うん」
「それから、髪をちゃんと梳かしな。そんなに乱れた髪の貴族はいないよ」
「へ? 貴族? 俺が?」
あまりに意外な言葉にギルバートを見ると、ギルバートは心から楽しげに笑った。
「そうさ。お前は本日、フェイ・ダグラスだ。つまり俺の息子さ」
「ギルの息子!?」
あまりにも意外すぎる役割におののくと、楽しげにギルバートが笑い、綺麗にそられた自分の顎を満足げにゆっくりと撫でた。
「そうだ。年齢的には問題ないだろう。だからな、お前の役割は貴族然とした顔で俺の後ろで黙ってみてるこった。分かったか?」
「分かんねえよ……」
こう言われたからには、この馬車の中できっと詳しい説明を聞くことはできないだろう。だとしたら覚悟を決めて、貴族のふりをするしかない。説明はしかるべき時にギルバートがしてくれるだろう。
リッツはため息をつきながらも、着ていた上着を脱ぎ捨てた。




