<12>
オフェリル高原の戦いが終わった一週間後、ようやく戻ったグレインでささやかな祝賀会が開かれた。
戦いで連合側に付いたのは約千六百人ほどだ。これで連合軍側の戦力はようやく、二千六百人ほどになる。
今後戦闘を重ねるごとに、投降者、義勇兵を受け入れなければならないが、当分の間はこのままの体勢で、訓練を中心に練兵をしていくのだという。
その軍の中には、毛色の変わった二十人もいる。当然のことながら、ダグラス隊である。
グレインのモーガン邸にある大広間では、現在立食のパーティの真っ最中である。リッツは軍の人間と少し異なった立ち位置にいるため、気がつくとダグラス隊と一緒にいるのだ。
穏やかに笑みを浮かべるエドワードは、現在ジェラルドと共に、新しく戦力として加わったユリスラ軍の将官たちと話をしている。ジェラルドを挟んで反対側には、いつもの侯爵令嬢を演じるパトリシアの姿がある。
パトリシアは帰ってきたリッツを見て、お帰りと一言言っただけで、特に何も無かった。何だかそれが寂しくて、近くに寄れない。
アルバートは改革派の軍人たちの落ち着き先を手配するのに大わらわで、本日はこの場にいないし、シャスタの姿も見えない。
せっかくグレインに帰ってきたのに、誰も相手にしてくれないので、早い話がリッツはむくれているのである。
「君は本当に、エドワード氏の可愛い飼い犬だね」
眼鏡の奥の細目を更に細めたファンに言われて、リッツは言葉に詰まった。
「何だよファン。俺のどこが飼い犬だよ」
「あれあれ? 飼い主が相手してくれないとふて腐れてるのは、誰かな?」
「……そんなんじゃねえよ」
むくれながら抗議すると、ベネットに肩を抱かれてしまった。女の格好をしているくせに、リッツと大差ない身長をしているのだ。
「無理しちゃってぇ。エドワードに、嬉しそうに飛びついちゃってスリスリしてたじゃなぁい?」
「うっ……それは……」
「二十歳過ぎた男が、男に頬をスリスリなんて、飼い犬でもなければあり得ないわよぉ。でもあれじゃあんた、飼い犬と言うよりも、ペットよねぇ?」
「ううっ……」
エドワードを見た時の極度の喜びから、ついつい無意識でやってしまったことなのだが、徐々に頭が冷えてくると、恥ずかしくて仕方ない。ダグラス隊の面々にガキといわれて怒るくせに、あの行動はまるっきり子供だった。
エドワードは今まで通りにリッツと普通に接しているし何も言ってこないから、呆れ返られたということはなさそうだ。でもそれをやってしまったリッツの方が、後悔しきりなのだ。
あんなに大勢がいる前で、大喜びでしっぽを振ってじゃれまくってどうするのだ。仮にもシアーズで英雄を演じてきたというのに。
そんなリッツの忸怩たる思いを知っているから、ダグラス隊の面々は、リッツを格好の標的にしておもちゃにしている。
「ムキになって否定してるけどねぇ、リッツ。ペットじゃないなら怪しいわよぉ~?」
妙な目で見られて、リッツはベネットに噛みついた。
「誰がどう怪しいんだよ?」
「リッツが怪しいわよぉ。もしかしてエドワードって、リッツの飼い主じゃなくて、リッツのダーリンなのぉ?」
本気で全身に鳥肌が立った。
「やめろって! お前と一緒にするな!」
「ああ怖い。可愛くないわ」
ベネットとのやりとりに、ラヴィが微笑んでいる。ラヴィはよっぽどのことがない限り、穏やかに微笑んでいるのだ。
「ラヴィも笑ってないで止めてくれよ」
「そうかい? 二人とも仲良しだなと思ってね」
「仲良しなもんか! そういえばジェイは?」
「酒探し。飲み尽くしそうな勢いだね」
「へぇ……」
ジェイの酒の飲み方はザルだ。どれだけ呑んでも全く顔に出ない。それどころかタガーを投げる手はどれほど酔ってもぶれることはない。
ジェイと同じく酒好きのエンは、この場にそぐわないと、台所に追いやられている。さすがにモーガン邸で女性の尻を触られたら、フォローのしようがない。
ギルバートとソフィアは、コネルと一緒に立ち話をしていて、リッツはどうもダグラス隊の暇人ぐらいしか相手がいない。
「そうむくれないの、ユリスラでは英雄になったんでしょ?」
ふわふわの銀髪をなびかせてヴェラが微笑む。オフェリル高原の戦いで、一番の功労者はヴェラだと、先ほどベネットに聞いた。あまりにヴェラらしい活躍に、リッツは言葉もでなかった。
そのヴェラも、シャンパングラスを手にご満悦といった体である。
「ねぇねぇ、リッツをちゃんと見てた人誰? リッツの英雄っぷりが聞きたぁ~い」
すみれ色の瞳を輝かせて、甘えた声でヴェラがいうと、微笑んでいたラヴィがにっこりと荷物から何かを取り出した。
「おっ、お得意の絵画だね?」
ファンが尋ねると、ラヴィは照れながら大きなスケッチブックを見せてくれた。そこには色々な人物の絵が描かれている。
パラパラと捲る中には、ギルバートやソフィア、その他ダグラス隊の絵も描かれている。軽くスケッチしただけのものもあれば、綺麗に彩色されたものもある。その総てが滅多に見られない一場面ばかりでとても面白い。
大口をパカッと開けて大あくびをしているヴェラ。飛刀の手入れをしていて手を切った情けない顔のファン、化粧がとれてパニックになるベネット……その総てが、ものすごく巧いのだ。
「……ラヴィって、絵描きなの?」
「趣味だよ。絵描きになりたかったけど、生活のためにいつの間にか傭兵になってたんだ。油絵の具は持ち歩けないから、せめてスケッチブックだけでもってね」
「ふうん。色はどうやって付けてるの?」
「ファンに教わったタルニエンの水彩顔料を使ってる。携帯できて便利だよ」
捲っていくページの中に、傷だらけになって床に座り込んで、頬を膨らませてむくれている自分の姿があって力が抜ける。なるほど、ラヴィの目から自分はこう見えていたらしい。
「これ、いつ描いたの?」
「君が僕に完膚無きまでに負けた時だね。あまりに可愛かったから残して置いたんだ」
「……だからさ、何でダグラス隊の奴らは、こんなに俺をガキ扱いするんだよ」
むくれると、全員が一斉にリッツを見た。そして口を揃えて告げる。
「ガキだから」
「うっ……」
返す言葉も無い。
「ああ、これだよ。襲撃もなくてここまでの道中暇だったから彩色までしたんだ。あまりに印象的だったから、総て描き付けておきたくて」
ラヴィが広げたページを見て、リッツは言葉を失った。
そこにいたのは自分だった。
派手な道化の服、血塗られた剣、そして真っ直ぐに立った長い耳。
でもいつもの自分ではなく、明らかに光の一族として、リッツに冷たくも正しい判定を下す、長老のように理知的で冷たい目をしていた。
「これリッツ? 馬鹿っぽくも子供っぽくもなくて、いつもよりも百倍増しにいい男じゃない」
覗き込んだヴェラが感心した声を上げると、ベネットもため息をついた。
「本当ねぇ~。見られなくて残念だわぁ。いつもこんなにいい男だったら、ヴェラにクスリ貰って襲ってやるのに~」
リッツは自分の絵を凝視していた。二人の軽口は耳を素通りしていく。
ただ、怖かったのだ。精霊族に認められず迫害される身分である自分が、こんなにもリッツを、罪の子であると斬罪する人々に似た目をしているのが。
「お、こりゃあ巧く描けてるじゃねえか」
後ろからひょいっとギルバートがスケッチブックを持ちあげた。
「見てみろ、エドワード。お前の片腕の勇姿を」
ハッと気がついた時には、そのスケッチブックをエドワードがじっと見ていた。
「エド、見ない方が……」
ラヴィの絵はリッツの苦痛をそのままうつしだしている気がして、リッツはおずおずと申し出たのだが、エドワードは何も言わずリッツに頷いた。こうなると、黙っているしかない。
エドワードはダグラス隊のような軽口を叩くでもなく、黙ってそれを見ている。
やがて顔を上げたエドワードは、リッツをじっと見つめた。リッツは何も言えずにエドワードを見つめ返す。エドワードはラヴィにスケッチブックを返して、リッツの肩を叩いた。
「リッツ」
「うん」
「すまなかったな。こんな顔させて」
リッツは拳を握りしめた。エドワードは、リッツが精霊族に蔑まれて、孤立して生きてきたことを知っている。リッツの苦しみを知っている。だからこの絵のリッツが、何を参考にして精霊族を作り上げたのか一目で分かったのだ。
「……いいんだ」
「リッツ?」
「いいんだって。俺、英雄になるって、お前のために英雄になってやるって言ったじゃんか。今頃そんなことを後悔しねえよ」
空元気だったが、リッツはエドワードに向かって笑顔を作った。心配をかけさせたら、エドワードがリッツに何かを命じにくくなる。
エドワードはこれから益々動きにくい立場になるのだから、リッツのことで心配して欲しくない。
リッツの誤魔化しに気がついたのか、エドワードは静かに微笑んだ。分かった上で何も言わずにリッツの肩を叩く。リッツがホッとしていると、ヴェラがラヴィに明るく訊いた。
「じゃあ、リッツの台詞、どんなだったの? 英雄が顔だけ勝負って言うわけ無いわよね?」
「ああ……だけど……」
優しいラヴィがリッツとエドワードのやりとりに気を遣って言いよどむと、何故がギルバートがほくそ笑みながら胸を張った。
「ギル?」
見上げるリッツに向かって笑みを返して、ギルバートが口を開いた。
「人間よ。つまらぬ身分に縛られ、愚かにも無為に傷つけ合う人間よ」
朗々と語られた言葉にリッツはギョッとする。自分が言った言葉だ。
「ぎ、ギル!」
「お前たちに我々は警告を与える。私はリッツ・アルスター。一族を守り、戦うべく運命づけられた精霊族の戦士だ」
「やめて、やめてくれ、ギル!」
必死で止めようとした瞬間に、リッツはファンとソフィアに体術をかけられて思い切りひっくり返る。
「ふ、二人がかりなんて、卑怯だぁ……!」
「いいから、聞いてな」
何故かリッツの背に座り、悠々と足を組んだソフィアに制止され、リッツは床に突っ伏した。ギルバートの言葉は続く。
「お前たちの愚かさは、やがてユリスラを混乱へと導くことになるだろう。
我らには国の痛みが聞こえる。我らには精霊の嘆きが聞こえる。この国が辿るべき未来に暗雲が立ちこめているのを感じ取ることができる。
我らが遠い過去に人の王と交わした契約を忘れてはいないか。建国の時、人間は我々に幸福なる世界を誓ったはずではなかったのか。ならばこの怒りに満ちた精霊の気配はいかなることか。
人間が誓った国家の幸福が破られたのならば、我々は再び、このユリスラを、一族が共に生きられる地にするために戦わねばならない」
そこまで朗々と宣言したギルバートが、ソフィアに組み敷かれたままのリッツを見下ろした。
「この先はお前が言うか? お前の本心はこの先だけだろ?」
「……やだよ、恥ずかしい……つうか、もう、俺、ものすごく恥ずかしくて……死にそう……」
「面白い奴だ。では代わりにお前の新建国宣言の続きを読み上げてやろう」
「新建国宣言?」
聞き返したリッツを無視して、ギルバートは言葉を発する。その声は大広間に響き渡った。
「私は、我らと人とが共に暮らすこのユリスラの未来のために、私の選んだユリスラの誠の王と共に戦う。人間よ、それを肝に銘じておくがいい」
ざわついていた広間が、いつの間にか静まりかえっていた。リッツはもう、ぐうの音も出ない。
この静寂を破ったのは、素っ頓狂なヴェラの声だった。
「すっご~い。あの顔でこの宣言をしたわけ? やるじゃないリッツ! 毒盛らないで一回やらせてあげるわよ?」
「……やだ。ヴェラ絶対に嘘だもん。絶対毒盛るし」
「何よ、意気地無し」
子供のように舌を出したヴェラに、ギルバートが大笑する。
「確かに立派な宣言だった。ユリスラ王国建国宣言の中にも、似たような精霊族の宣言があるから、俺は笑ったぞ」
「へ? そうなの?」
そんなこと、リッツは全く知らない。知らないで作り上げた言葉なのだ。
「知らねえであれを言い切るとは、お前もおもしれえな」
ギルバートに笑い飛ばされてむくれる。
「結局馬鹿にしてるんじゃん」
「馬鹿にしてないさ。だが最後の文句は笑ったがな。あれを読み解くと、結局いつものお前の言葉と同じだ」
ギルバートは笑いながら、何故か呆然としているエドワードに尋ねた。
「分かるか、エドワード?」
「……いや」
「最後の一文をこいつの言葉に直すと、こうなる。『俺はエドワードを王にする。覚えとけ』だ。丁寧に言うだけで箔が付くが、言っていることはいつもと変わらねえ。なあ、リッツ?」
完全に読まれていたから、リッツはぐうの音も出ない。ソフィアは上からどいてくれたが、もうどうにでも成れと、再び床に突っ伏した。
「だそうだ、エドワード。お前は精霊族のリッツ・アルスターの誠の王になれるか?」
問われた意味が分からず、リッツは顔を上げてエドワードとギルバートを見る。エドワードは真剣な面持ちで微かに俯いていたが、やがていつもの自信に満ちた笑みを浮かべた。
「なってみせるさ。リッツの演じた英雄にふさわしい、ユリスラの誠の王に」
きっぱりとした宣言と共に、エドワードはリッツに手を伸ばした。
「ちゃんと英雄を演じていたじゃないか、リッツ。ありがとうな。これなら俺が立派に見えるよ」
「エドはいつも立派じゃん」
出会った時から眩しいぐらいに、真っ直ぐリッツの前に立っている。
「そうでもないさ。だがまあ、本当によかった。俺は正直、お前が心配だったよ」
リッツはエドワードの手を取って、起き上がった。体に付いた埃を払う。
「どうせ俺がガキだからとか、エドも言うんだろ」
ダグラス隊にこの六ヶ月の間さんざん子供扱いされていたから自然にそう言うと、エドワードが苦笑した。
「ダグラス隊からみれば、俺だってガキだろうよ。俺にまでひがむな、相棒」
そういえばそうだった。馬鹿扱いはされていたけれど、エドワードに子供扱いされることは、最近あまりなかった。
「じゃあ、何を心配してたんだ?」
「お前が自分の苦痛を引き受けることだ。精霊族を演じるのはきつかっただろう?」
リッツは言葉に詰まる。きつかったと言うよりも、自分が道化であることを、絶対に得られない立場を演じることが嫌だった。でも幾度もギルバートに確認されたように、リッツは覚悟を決めている。
もう迷ってはいられない。
「俺は平気さ。だってまだまだ英雄演じなきゃならないんだろ?」
「……まあ、そうなるな」
「じゃあいいよ。どうせ精霊族の誰も、ユリスラの事なんて知らずにいるだろうしね」
へらへらと笑いながら言うと、ギルバートが突っ込んできた。
「お前の父親が知ることになるんだろ?」
そういえばギルバートには、そう口を滑らせたことがあった。
「うん。まあ、そうだね。親父は精霊族と人間の交易や交渉を全部担当してるから、自然とユリスラのことは耳に入ると思うよ」
「リッツのお父さん、見たい! どんな人なの?」
楽しげにヴェラに尋ねられて、リッツは考え込んだ。一言で言うと、非常に難しい。
「俺の親父は、見た目は典型的な精霊族だよ。風と木の精霊使いで、金髪、緑の瞳、長身、耳は俺よりもでかくて、蝶の羽根みたいだ」
「へぇ。本当に羽ばたく蝶の耳なんだね、精霊族は」
感心したようにファンが頷く。リッツには当たり前の事だが、ここにいる全員がリッツ以外の精霊族を見たことがないのだと気がつく。だが父親が典型的精霊族であるのは姿だけだ。
「だけど親父、ちょっと変なんだ。子供の頃森から迷い出て、人間に育てられたから、ものすごく食い意地が張ってて常にふざけてて、息子の俺をおもちゃぐらいにしか思ってない」
「意外……精霊族で食い意地が張ってるなんて、リッツだけかと思ったわ」
ヴェラに突っ込まれて、リッツは憮然とする。
「親父の影響だよ。俺の喰おうとしてる物を片っ端から先に喰おうとするんだぜ? しかもアップルパイ一つで、息子を家から追い出すってどういうことだっての……あ……」
ついつい口が滑った。焦るリッツを見て、この状況を黙っているダグラス隊ではない。
「アップルパイ一つで、息子を家から追い出すって……なにかな?」
眼鏡の奥の目を更に細めてファンが微笑む。本当に言わなくていい事を言ってしまった。
「そ、それは聞かなかった事にしてくんない?」
思わず愛想笑いを浮かべてダグラス隊を見たのだが、全員が嫌な笑みを浮かべてリッツを見ている。助けを求めてエドワードを見たのだが、エドワードまで興味津々と言ったていでリッツを見ていた。
「そういえば俺は、お前が家を出てきた理由を聞いていなかったな」
「エドまで!」
思わず逃げ腰になると、後ろからがっしりと押さえられてしまった。振り向くとそこには酒瓶を抱えたジェイがいる。
「面白そうな話だな。混ぜてくれ」
「ジェイまで!?」
完全に取り囲まれて、リッツは観念した。本当にくだらない事だから、絶対に口にしたくなかったのだが、こうなれば仕方ない。
「……家出してきたんだ、俺……」
ぼそりと呟くと、エドワードが真っ直ぐにリッツを見た。
「だから、その理由は? 俺は今まで、百歳を越えても親といるのはどうかと思って、百十歳で家を出た、としか聞いてないぞ?」
「そ、それも本当だよ! もうそろそろ人間の社会を見たいと思ってたんだ。だけどきっかけが無くて……その……」
リッツは観念した。
「夕食のアップルパイを、親父と俺とどっちが食うかで喧嘩になって、親父が自業自得で椅子を倒した隙を狙って喰ったら……ずっと親父に嫌味を言われ続けるからカッとして……」
「……家を出たのか?」
「うん。で、行き倒れて、エドに拾われたんだ」
目の前のエドワードが、目をしばたかせた。
「じゃあ俺は、アップルパイで喧嘩して家出したお前を、英雄にしたということか……」
「……うん」
何となくいたたまれなくて、エドワードを見ていると、エドワードが俯いた。
「エド?」
エドワードの肩が小刻みに震えている。心配になってエドワードの顔を覗き込もうとした瞬間、エドワードが吹き出した。それが徐々に爆笑へと変わっていく。
「え、エド?」
エドワードがこんなに笑っているのを見たことが無くて、焦るリッツの周りで、ダグラス隊の面々も、大笑している。
「だから言いたくなかったんだってば!」
顔を真っ赤にして叫ぶと、益々彼らの爆笑を誘う。恥ずかしさに憮然としていると、やがて笑いすぎて目の端に堪っていた涙を拭いたエドワードが、リッツの肩を叩いた。
「では俺は、アップルパイに感謝しよう。最後の一切れがなければ、俺は最も信頼する友を得ることが出来なかったのだからな」
「うっ……」
きっかけはなんであれ、その言葉は嬉しい。嬉しいけれど、恥ずかしすぎる。
「もう、いいだろ! 俺、何か喰ってくる!」
火照った顔を冷やすために、リッツはずかずかと食事の並んでいるテーブルに向かった。このままいると、ダグラス隊のおもちゃになってしまう。
エドワードまで悪のりしてくると、始末に負えない。ダグラス隊には逆らえても、リッツがエドワードに逆らうことなど出来ないのだから。
ダグラス隊と談笑しているエドワードの声を背中に聞きながら、リッツはテリーヌを皿に盛り、ローストビーフを皿に盛る。こうなったら高い物ばっかり喰ってやる。
そう思いながら、ローストビーフを口に入れた時だった。和やかな場の空気を、駆け込んできた人物が破った。
「マルヴィルさん! サリーが……サリーが!」
悲鳴に近い声で叫んだのは、シャスタだった。広間が水を打ったように静まる中でマルヴィルがシャスタの元に走り寄る。
「どうした?」
「サリーが自殺を図ったんです! 血が、止まらない!」
リッツはとっさにギルバートの方を見ていた。
「ギル、エンを借りるよ!」
「まだ厨房にいる。連れて行け」
「ありがとう」
リッツは皿を置き、シャスタとマルヴィルの元に駆け寄っていた。動揺しているシャスタに、リッツはかがみ込んで話しかける。
「シャスタ、厨房に医者がいる。酔っ払いだけど、腕は確かだ」
「リッツさん、僕は……どうしたら!」
「とにかく落ち着け。俺もエンに死にかけたところを何度も助けて貰ってる。大丈夫だ」
力強く言うと、シャスタは小さく頷いた。
「……はい」
「よしっ! おじさん、とにかく俺も行くよ。エンだけじゃ心配だし」
「頼むよ」
青ざめた顔のマルヴィルに頷くと、リッツは厨房に駆け込んだ。小柄で白髪のエンは、まるで猿のように背中を丸めて酒を飲み、いつも通り真っ赤な顔でぶつぶつと文句を言っている。厨房に魅力的なお尻がないことを愚痴っているようだ。
「エン!」
「なんじゃ、リッツか。つまらん。わしに何か用か?」
「急患。自殺者が出たんだ。出血がひどいらしい」
リッツの言葉に、エンが酒を飲んでいたとは思えないように、すっくと立ち上がった。常に肌身離さず身につけている、黒い医療用鞄を手に、リッツを見上げる。
「案内せい、リッツ」
「大丈夫かよ?」
「当たり前じゃ! 急ぐんじゃろうが!」
一喝されて、リッツは頷く。
「おう。シャスタ!」
「はい先生、こちらです!」
焦ったようにシャスタが台所を飛び出していく。小柄なエンが早足でその後を追っていく。エンは自分の仕事となれば、人が変わったように勤勉になる。
シャスタが案内したのは、リッツがいつも寝泊まりする部屋のある、同じ階だった。先ほど荷物を下ろしてすぐに下に降りてしまったから、この階にサリーがいるなんて思わなかった。
扉の中に入ったエンに続き、部屋に入ったリッツは絶句した。ベットの上で、全身を自分で切りつけたサリーが、血まみれで倒れていたのだ。
「これはいかんな。傷は浅いが、多すぎる」
呟いたエンが医療鞄を置き、サリーの前で手を合わせた。タルニエン独特の挨拶を元にしたエンの精霊魔法の詠唱が流れ出す。
「安らぎと癒しを司る水の精霊よ。その加護を我に授けよ」
少し酒に焼けたかすれた喉から紡ぎ出された詠唱と共に、エンの指先から冷たい光があふれ出す。その光を両手にたたえて、エンは意識を失っているサリーの上に少しづつ垂らしていく。
青い光は、水滴のようにサリーへこぼれ落ち、サリーの傷口を包み込んでいく。エンの額には、汗が浮いていた。
しばらくしてエンは両肩の力を抜いた。
「やれやれ、終わったぞい」
ため息をついたエンが、リッツとシャスタを振り向く。
「精霊魔法ですむぐらいの怪我じゃった。怪我自体は問題がないが、これが自殺というなら、錯乱状態になって全身を傷つけたという状況になる。この娘、しばらく見張る必要があるじゃろう」
安堵でシャスタが崩れ落ちた。
「サンキュー、エン」
リッツが声をかけると、出て行きかけていたエンが振り返った。
「なぁに、わしはこの仕事を愛しとるからな。お前もいつでも死にかけていいぞ」
「……やだよ」
「つまらん。その娘を着替えさせてやれ。それから部屋を徹底的に家捜しして、危険物を絶対に持たせるな。ガラス製品も置くな。それから金属製の棒も厳禁じゃ。分かったか? そこの少年」
エンに話しかけられて、シャスタは座り込んだまま頷いた。
「じゃあそれは私の役目ね」
いつの間にか来ていたパトリシアが、あっさりとそう言うと部屋に入ってくる。
「女の子の着替えは私がやるわ。とりあえず、リッツ、サリーを抱き上げてて」
「おう」
命じられるままに、リッツはぐったりと意識のないサリーを抱き上げる。あまりにも軽く、あまりにもやつれていて驚く。リッツはてきぱきとシーツを変えているパトリシアに尋ねた。
「何があったんだ? どうしたんだよ、サリーは」
「……あなたと同じよリッツ」
「俺と?」
意味が分からずに聞き返すと、パトリシアがため息をつきながら振り返った。その目に深い悲しみと、苦悩がある。
「ローレンが死んだ時のあなたは、こうだったのよ? でもあなたは立ち直り、サリーはあの日からずっと、このままなの。いいえ、もっとひどいわ。だってこの子、あなたと違って周りの状況が見えているんですもの」
「見えている?」
「ええ。だから自分が何も出来ないことを責め、更に自分を追い詰めていくのよ。みんながこの国の未来のために一生懸命なのに、生きる価値のない自分が何故生きているのかって」
「そんな……」
「ローレンの代わりに死ねるなら、死にたかったっていうのが、サリーの口癖よ。あなたがいなかった半年で、この状態は悪化し続けているわ」
リッツは言葉を失った。もうあれから六ヶ月以上経っている。つまりサリーはそれだけの間このままだと言うことだ。
「パティ……」
「……あなたも同じなら、この子のことが分かるかしら」
呟いたパトリシアの顔を、リッツは真っ直ぐに見つめる。
「同じ?」
「そうよ。あなたも、同じように死のうとしたじゃない」
リッツは言葉を失った。そうだった。リッツは三日の間飲まず食わずで、じっと自分が死ななかったことを後悔し続けていたのだ。
「着替えさせるから、出ていて」
パトリシアに促されて部屋を出たリッツは、扉の前にシャスタとエドワード、そしてマルヴィルがいることに気がついた。
「……どうだ?」
エドワードに尋ねられて、首を振る。
「錯乱状態で、自分に斬りつけたって感じだ。体の前面がひどいよ。綺麗にエンが治したけど」
「……そうか……」
ため息をついたエドワードが、小さく呟く。
「実はな、リッツ。俺とシャスタは今、この部屋には入れないんだ。俺たちが入ると、サリーは錯乱状態になる。今看病しているのは、パティなんだよ。パティとはぽつりぽつりだが話すらしい」
沈んだ声に、リッツはエドワードとシャスタを見た。先ほどまでの楽しいパーティの雰囲気など、どこにも感じられない。
「リッツ。サリーの話を聞いてくれないか? 炎の中で同じ思いをしたお前ならば、サリーの苦しみを理解できるかも知れない」
エドワードの言葉に、リッツは頷いた。




