<11>
新祭月七日。ついに戦場に動きがあった。
一部退屈に耐えられなくなった貴族の部隊が、突出してオフェリル高原に乗り込んできたのである。その数はたったの五百だったが、兵を損ないたくないエドワードにとっては、悩みの種だった。
指揮官である貴族だけを斬りたいのだが、貴族は後方に控えていて動かない。けしかけるだけ、けしかけて高みの見物を決め込もうと言ったところだろうか。
「どう思う、ジェラルド、フレイ?」
高原の詳細な図を眺めながらエドワードは二人の自治領主を見上げる。高原はかなりの広さを誇る。春になると沢山の牛や馬を放牧する柵が立つこの高原なのだが、今は草原と点在する林や森の黒々とした姿しかない。
新祭月の始まりに降った雪は、もう綺麗に解けていた。新祭月に入ってから、ここオフェリル高原は、ずっと好天に恵まれているのだ。
それなのに、指揮官クレメンスの病状に一喜一憂して全く動かないことに、貴族の指揮官が耐えられなくなったようだ。
ため息をつくエドワードに答えたのは、元王国軍総司令官だったジェラルドだった。
「貴族だけを討ち、兵士を助けるのも一つの手だ。だがそれを露骨にやりすぎると、我々が何かを待っていることを知られてしまう」
「そうか……戦うしかないか……」
もうはったりだけでは通用しない状況になっているのだ。正面切ってぶつかることで、兵士たちを怯ませることだって必要だ。これはもう、単純な人取りの争いではない。戦争なのだ。
それもエドワードたちが始めた戦争だ。
初めから血塗られた道であることなど覚悟していた。だが実際にこうしてはったりだけで戦力をそぐことの出来ない状況になると、どうにかならない物かと考えてしまう。エドワードにとって最高の勝利は、事前に策を弄してでも、戦わずして勝つことなのだ。
だが戦いは戦いだ。相手が誰であっても勝たねば先がなくなる。ここで未来を絶たれるわけにはいかない。
「ここにギルとリッツがいないのが救いかもしれん」
笑みを浮かべてジェラルドが呟く。
「そうだな。リッツが俺やジェラルドを超えたならギルと二人揃えば殺しすぎるよ」
自分で口にしたくせに、ふと脳裏に何も知らずに嬉しそうに、書いた文字を見せて喜んでいたリッツが浮かんだ。
まだ子供のようにたどたどしい字ではあったが、『エドワード』と『リッツ・アルスター』と自分とエドワードの名前を書いたリッツは、本当に嬉しそうにエドワードに掲げて見せたのである。
たまに考えるのだ。あのまま何も言わずにリッツと別れていたならば、リッツはどうなったのだろう。
もしかしたらもっと幸せな人生を生きられたのではないかと。
その反面、エドワードは気がついている。生きろと言って手を取ったエドワードから離れて、今のリッツは生きていけない。もっと生きる意味を自分で見いださない限り、生も死もエドワードに任せてしまうだろう。
血塗られた道でも、孤独に苛まれるよりもましだと、リッツは今も思っているのだろうか。
「エド、どうした」
「いや、何でもない。とりあえずこちらは全力で向かい合うしかないんだろう?」
気を引き締めてエドワードは図面を見つめ直した。農家の人々が現在も使っている、農家同士の境界線の引かれた物だ。林の位置、木の位置までしっかりと記されている。
「相手は軍人だ。貴族がトップに立っていたとしても、佐官クラスが指揮を執るならばそれなりの実力を発揮する。おそらく指揮官クラスはみな改革派だろうから、優秀な人材も多い」
「そうか……」
こちらは相変わらずの構成だ。連合軍と簡易的に呼ばれている部隊の中心になっているのは、オフェリルのカークランド率いる、アデルフィー護衛団を中心とした部隊と、グレイン騎士団である。
それに元自治領主のクロヴィス侯爵と戦うべく集まった義勇兵が、こちらの総てだ。総勢で千人ほどしかいない。数の論理で言えば、敵はこの倍。かなり不利と言うことになる。
敵は名目上、オフェリルのカークランドの身柄引き渡しを求めているから、この戦場で中心となるのはオフェリルなのだが、実際に指揮を執るのはジェラルドである。カークランドは政治に長けているが、それほど軍事に長けてはいない。
今回、エドワードはジェラルドの副官として、この戦場に立っている。エドワードの立場は未だにジェラルドの隠し子であり、騎士団員のままだからだ。
視線を先ほどから黙ったままのカークランドに向けると、カークランドは静かに首を振った。どうやら専門外の事には口を出すつもりがないらしい。
「エド。お前はどう攻める?」
不意に聞かれて、エドワードは考え込んだ。今の部隊編成、そして人数。敵は軍人だ。これだと出来る事が限られている。
「正面から打って出るわけにはいかないだろうな。林や森を効果的に使って、ゲリラ戦法で攻めるしかないと思うけど……」
いいながらエドワードは図面に指を滑らせる。
「でも真っ直ぐに向かってこられたら、足止めできないな。正面には部隊を置かないと不審がられる。中央に軍を集める様に見せかけて、騎兵と弓兵を中心に、森に潜んで攻撃させるのが、最もダメージを与えやすい。混乱したところを、中央で餌になっていた部隊が叩く」
指で軽く敵の本陣を叩く。
「偵察部隊が報告してきたところだと、騎兵が恐ろしく少ないらしいから、電光石火で中央を落とされることはないだろうし。これでどうかな、ジェラルド」
見上げると、ジェラルドが腕を組んだ。
「確かにそれは確実な戦法だろう。だが我々ならばもう一手間加えられるぞ」
生徒に教えを諭す教師のように笑うジェラルドに、エドワードは図面を見つめ直した。敵の方ばかり見ていたから、次は自分の部隊を見直してみる。
「ああ、そうか。敵に比べて俺たちは騎兵の数がかなり多いんだ」
元々グレインは馬の産地である。その上、オフェリルに来るには、どうしても馬が必要で、必然的にグレイン騎士団のほぼ全員が馬を持っていることになる。
「ということは……戦場が混乱した隙に、グレイン騎士団の一部隊だけで、手薄になった貴族の本陣を叩ける。そういうことかい、ジェラルド」
「そういうことだ。貴族さえ討ってしまえば、戦場は混乱する。もともと貴族に脅された兵士だ。喜んで戦っている者は少ない。そして我々は、殲滅戦をしたいわけではない」
「貴族が落ちたことを宣言し、敵を逃がすんだな。ということは迅速であればあるほど、兵士を失わずにすむということになる」
エドワードは図面に目を落とした。点在する森の中で数カ所が高原へと突出している。ここで罠を張り、混乱する敵を深追いせずに、逃げる戦法が分かり易い。
そして迅速を持って行動する騎兵部隊は、敵にほど近い場所に潜み、チャンスを狙って一気に攻めるのが理想だ。
「弓兵は、少ないんだろう?」
顔を上げると、ジェラルドが頷いた。
「そうだな。グレイン騎士団はそのほとんどが騎兵だ。弓を使う者もいるが、総数は多くない。そちらはどうだ?」
ジェラルドがカークランドに尋ねたが、カークランドは微かに笑うと後ろに控えていた妻を呼んだ。
「……マディラ」
「はい、あなた」
マディラ・カークランド伯爵夫人は、実質アデルフィー護衛団を仕切る武人である。エドワードが地図を広げているテーブルまでやってくると、マディラは地図を見つめた。
「アデルフィー護衛団には弓兵がおります。もちろん森の深いオフェリルですから、弓を使える者も沢山います。飛び道具でしたら義勇兵が得意です。投石が一番の武器ですから」
マディラの指が地図をなぞった。
「あまり遠くに弓兵を配置されると、個別に撃破されてしまう可能性がありますね。彼らは戦いの専門家ではありませんもの。義勇兵は、かなり中央の部隊に近いところに置いて頂かなくては逃げられないでしょう」
マディラが指さしたのは、現在の陣営から一キロほど先の牧草地だった。拓けた牧草地の両側には、長く伸びる森が広がっていて、敵が直接こちらに攻めてくるには、真っ直ぐ拓けた牧草地しか通れない状況だ。地形で言えば、谷底と変わらないだろう。
「そこが最適だね」
「ええ。私はそう考えます。それからもう一つ提案がございます」
微笑みながら申し出たマディラに、カークランドが慌てた。
「まてマディラ。お前、自分が敵の後陣を攻めに行く気だな?」
先ほどの話をマディラは聞いていたらしい。
「いけませんこと?」
「駄目だ。危険すぎる。だって君は女性じゃないか!」
この状況に置いてあまりにそぐわないカークランドの一言に、エドワードは苦笑し、ジェラルドは肩をすくめた。どうやら本当にカークランドは軍事に向いていないらしい。
だが一番呆れた顔をしたのは、マディラだった。
「……あなた。あなたがなさろうとしていることに、女性だの、危険だからやめろなどと言うことがありますの?」
「……いや……だが……」
「負ければ戦力の補充をする事も出来ず、しかもアデルフィー護衛団を危険にさらすことになります。その上、あなたを引き渡さねばならないのですよ?」
黙ってしまったカークランドに、マディラはたたみかける。
「あなたが捕らえられ、王都で処刑されるようなことになってご覧なさい。私は抗議のために、単独でシアーズに飛び込んで王宮に火を放ちますよ?」
「……それはやめてくれ」
ため息を着いたカークランドの方にジェラルドが手を置いた。
「安心しろフレイ。この場所に慣れている夫人には同行をお願いしたいが、アデルフィー護衛団だけ危険を犯させるたりはしない」
「ではどうするんだジェリー」
眉を寄せながら尋ねたカークランドに笑みを返しながらジェラルドが視線を向けたのは、エドワードの方だった。
「エド、行ってくれるか?」
見つめるジェラルドの視線を受け止めて、エドワードは頷いた。
「行くよ。第三隊を貸して欲しい」
「もともと第三隊はお前の護衛部隊だ。マルヴィルと共に敵の後陣を討て」
「了解」
「私とカークランドは、中央で囮になる。無名のエドとマディラが餌となるより敵を釣りやすいだろう」
ジェラルドが懐から懐中時計を取り出した。エドワードも同時に取り出す。
「現在は七時半だ。敵は昨夜、ここからかなり先に陣取ったが、今は動いていない。中央の囮部隊は朝食を取るふりをして悠長に待つことにしよう。エドは本陣より右回りに即刻第三隊と共に後方へ回れ。マディラは弓兵を連れて森へ先回りし、左回りに後陣へ迎え。手薄になった隙を突き、両側から敵貴族を挟撃するんだ」
「了解」
「敵が動くのを待つことを基本とするが、午前十時を過ぎた段階で動きがなければ、我々中央部隊が打って出る。時計を合わせておけ」
「はい」
エドワードは時計をジェラルドと合わせると、天幕を出た。この天幕はエドワードとジェラルド、カークランド、マディラが使っている大きなものだ。騎士団の面々はそれぞれ部隊ごとに二から三個の小型の天幕に別れて泊まっている。
エドワードは迷うことなく、真っ直ぐにグレイン騎士団第三隊の天幕に向かった。
一方、コネル・サウスフォードは、寒空の下で馬上の人となっていた。新祭月一日から体調が優れずに寝たきり状態だったクレメンスだったが、部下の貴族たちが半数近く、出陣したと聞いて寝てはいられなくなったのだ。
彼の親派や、毒を盛った当の本人ヴェラに介助されて馬車に乗り込みながら、クレメンスが怒鳴る声が聞こえてくる。
「このクレメンスを差し置いて、敵陣に討って出るとは何事ぞ! 功を焦りおってっ!」
コネルはうっすらと冷笑する。どうやらクレメンスは、自分以外が功績を挙げることをよしとはしないようだ。
クレメンスのような男は軍内部に掃いて捨てる程いる。軍籍がありながらも軍の鍛錬や演習に一切参加せずにいる、典型的な、名義上の貴族軍人だ。
「閣下」
馬を並べていたチャックに呼ばれて振り向くと、そこには数人の部下がいた。全員が改革派で、それぞれの指揮する部隊をまとめる佐官たちだ。
「出られるのですか?」
真っ直ぐに見つめられ手コネルは苦笑した。
「出るしかないだろうな。俺はクレメンス伯の参謀なんだから」
「では我が隊が警護を……」
「駄目だ。この戦いで俺にはお前たちの指揮権がない。俺はクレメンスと一蓮托生さ」
今回の作戦ではコネルはクレメンスの参謀としてクレメンスの側に控えているのだが、本来のコネルは今回の部隊に参加する大半の兵士を束ねる指揮官である。
勝手に出陣した貴族たちが連れて行ったのは、コネルの部隊ではなく、少なくともクレメンスよりは軍の仕事をしている貴族たちの部隊の兵士だ。
「先に出た部隊ですが、その数たったの五百です。モーガン元帥に敵うはずはありません」
「分かっているチャック。俺の部隊じゃなくとも、見捨てはしない」
コネルはクレメンスを馬車に乗せてから、表情をなくして佇んでいるヴェラに目をやった。コネルの視線に気がついたのか、ヴェラが無表情のままゆっくりと近寄ってくる。
「君は危険だから戻っていなさい」
優しく忠告するチャックを無視して、ヴェラはコネルを見上げた。
「ふふ。今日でこの仕事は終わりよ、コネル」
妖艶な微笑みを浮かべたヴェラに、チャックと部下たちが一歩下がる。哀れな美少女の仮面をあっさり脱ぎ捨てたヴェラに、コネルは肩をすくめる。
「……新祭月二日が作戦決行日ならば、成功していれば今日には着くだろうな」
「あら、まだ仮定なの? 着くわ、絶対に。ギルが仕事をやり損なうことなどないんだもの」
「でも決行するのはあのリッツとか言う若造だろう?」
「あ~ら、若造とはお言葉ねぇ。リッツは確かに子供でお馬鹿さんだけど、あれでもう百十二年も生きてるのよ? それに比べたら、あなたも私も赤ん坊じゃない」
意表を突かれてコネルは黙った。精霊族だとは聞いていたが、まさかそんな年だとは思わなかった。見た目の通り二十歳そこそこぐらいの印象しかなかったのだ。
「それは驚いた。だが成功するかな?」
「以外と心配性なのね。皮肉屋のコネル・サウスフォード中将。じゃあ、いい事を教えてあげる」
そういうとヴェラは小さく手を振った。館の影から背の高い女性が姿を現す。
「あれは……ベネットとかいう……」
目を見開いていると、大柄な女性は長い足で足早にやってきた。
「そうよ。ベネットよ~。よろしくぅ~」
コネルは言葉を失った。病か怪我のせいで話すことが出来ないといっていたベネットは、女性の口調で、男の声でコネルに話しかけたのだ。
事前に承知していたコネルは思わぬ低音に少々身を引いたぐらいで済んだが、後方の部下達がざわついた。
「お、男!?」
「まさか男とは……」
その声に、ベネットがくるりと部下の方を向いて口を尖らせる。
「んまぁ~失礼ね~。あたしは女よ、女。ちょっと体を間違えて生まれちゃっただけ」
それを男というのではないだろうかと、口に出しかけてやめた。
今この場でそんなことを言うだけ時間の無駄だ。
「それで何を教えてくれるんだ?」
何事もなかったように無視してヴェラを見ると、ヴェラは楽しげにベネットを見上げた。
「あれ、出してあげて。今後の計画を立てるのに必要でしょうし」
「いいわよぉ」
ベネットは、ドレスの胸元から、折りたたまれた書状を取り出した。それは以前ヴェラに渡された物と同じ紙に書かれた書状だった。
「見ても?」
「ええ。あなた宛。今朝届いたわ」
頷きながら広げると、そこにはギルバートの字ではなく、妻イライザの美しい手蹟で文字がしたためられていた。
「……なるほど、もう近くにいるんだな……」
呟くと、内容に目を通す。
新祭月の脱出は成功したようだが、一部王都に残りたいと申し出た者がいること、その人物のリストがあった。
『残ることを決めた夫人や家族の夫に、それをお伝えくださいませ。その方たちが家族と離散して戦場に残るか、それとも貴族と共に王都へお帰りになるか、それを自らの考えでお決めくださいますよう、お願いいたします。それが決まらなければ、我々がそちらへ参ることが出来ないのです。決してそれに対して、あなたは命令をしたり、口を挟んではいけませんよ』
昔から年上としてコネルをいさめる立場にあったイライザの文章はきっぱりとしていて、相変わらずだ。コネルは手紙を畳んだ。
「今、彼女たちはどこに?」
「ここから一時間もかからないところで待機している。家族が残った人たちが考えられる時間は短いわ。今は九時だから……そうね、十一時までに決断して頂戴。私とベネットは、これからダグラス隊に戻って、出発の合図をしてくるから」
「つまり君たちがここを離れた時点から、二時間後に、家族がこちらに着くと言うことか」
「ええ。私たちがここを発ったら、もうその時間は動かない」
きっぱりとした口調に、コネルは頷く。
「つまり、貴族を一部のみ生き残らせ、家族の元に帰る選択をしたものを落ち延びさせられるように、二時間で段取りを付けろってことだな?」
「ええ。クレメンスの息子を残すといいわ。昨夜、父親の目を盗んで私に手を出してきたから、たっぷりと毒を仕込んでやったの。遅効性の毒だから、後腐れなく王都に着いてから突然死するはずよ」
「……恐ろしいな」
「あらいけない? ベッドが私の戦場よ」
ヴェラのすみれ色の瞳が鋭く光る。コネルとは住む世界が違うのだ。それがよく分かった。
コネルは小さく息をつくと、ヴェラとベネットを見た。
「これからシアーズに家族が残った者たちに、どうするか選択をさせる。ありがとう、ヴェラ」
軽く頭を下げると、ヴェラはくるりときびすを返した。ふわふわの銀の髪が、柔らかく揺れる。
「お礼をいうなら隊長にして。私は隊長の手足に過ぎないのだから」
言いながらも振り返ることなく、ヴェラは歩いて行く。その足取りはいつもの優雅さはなく、どちらかと言えば乱雑だ。
「あの子、お礼を言われ慣れてないから照れてるの。可愛いでしょ?」
「え……?」
思わぬ言葉に、コネルは目を見張った。ベネットはそんなコネルにウインクをしてヴェラを追うように去っていった。
二人を見送っている時間も惜しい。コネルはすぐに二人から視線を離して、呆然と立ち尽くしている部下たちを見た。
「チャック」
「は」
「将官と佐官の中からこの五人に、夫人が脱出を断った旨伝えてくれ。戻る者はクレメンスの息子と共にシアーズに落ち延び、残る者は戦闘後、俺の元へ来るように伝えてくれ。今後の選択は各自に任せる」
「はっ……」
チャックが頭を下げて、コネルの元から下がる。同じようにここに集まっていた部下たちも、静かに今回の戦闘で与えられた自分の持ち場に戻った。
コネルは空を見上げる。
新祭月に入ってからずっと好天だったのに、曇りつつあった。
午前九時半。王国軍オフェリル討伐隊が動いた。
準備を完璧に整えていた連合軍も、それに答えるように戦場を駆ける。
その状況をつぶさに観察しながら、エドワードは敵本陣の近くに待機していた。緩やかな高低差のある高原の中でも少々小高い場所にいると、戦場の様子がよく見える。
「どうするかね、エド」
元は職業軍人であったマルヴィルに尋ねられて、エドワードは苦笑した。
「ジェラルドもマルヴィルも、露骨だな。戦術を決めていながら俺に尋ねる」
「ははは。私は軍人だったが、小麦農家歴の方が長い。私の戦術など、当てにしないでくれ」
マルヴィルは軽く笑うが、どう考えてみてもこの場で出来る事は一つだ。
「でもやることは一つだろう?」
「その通りだ。だがエドが目立たねば意味がない」
「……目立てか……。今まで目立たずにと言われてきたから分からないな」
「それは冗談かい? 昔から君はよく目立っていたよ。ティルスを考えてごらん。エド以上に目立つ存在がいたかね?」
何となく不本意だったエドワードは、子供の頃から知っているマルヴィルに、小さく反論する。
「……リッツ」
「ああ、確かにな。リッツはでかいし、うるさい」
笑いながらマルヴィルが時計を見る。エドワードもそれにならって時計を取り出して時間を見た。
午前十時。戦闘が始まって、三十分だ。
上から見ていると、戦場の混乱がよく分かる。
敵はやはり待ち伏せにやられて数を減らしつつあり、ジェラルドが統率する連合軍側が圧しているのが分かる。
だが敵の武装は、寄せ集めの連合軍とは違う。
武器や防具、戦闘能力は、やはりユリスラ軍が勝る。特に防具の存在は、やはり王国軍が上だ。連合軍は身を守ることが得意ではない。
このまま連合軍の兵士を減らすわけにも、ユリスラ軍の兵士を減らすわけにも行かない。
第三隊の偵察係が、遠眼鏡で眼下に貴族の陣営を見下ろしている。エドワードはその報告を待った。しばらくして偵察係がマルヴィルとエドワードの前にやってきた。
「報告します。貴族たちは遠眼鏡で戦場を見ながら、酒盛りをしています」
「……酒盛り……」
「はい。これでは戦場がまるでショーですな……」
憎々しげに吐き捨てた偵察係は、ティルスの住民だった。貴族の庶民を人とも思わない態度を、いたいほど痛感している一人だ。
エドワードは小さくため息をついた。
「兵士は上官の嗜虐趣味を満たすためにいるのではないだろうに」
「どうするね、エド」
「そんなにショーが好きなら、もっと間近で見させてやるさ。行こう、マルヴィル」
「了解した。全員騎乗! 敵陣地へ突入する!」
マルヴィルの号令に、全員が声を上げた。第三隊は皆、事が起きるまでティルスで農業を兼業していた者たちだ。
彼らは故郷を焼き討ちされて失った。その復讐を果たすことは復讐を呼ぶが、貴族という制度に対しての怒りは革命に繋がる。
騎馬に慣れた第三隊は、一瞬にして馬上に飛び乗った。マルヴィルがエドワードを見つめた。マルヴィルはエドワードの元で隊を指揮するという形を取ろうとしているのだ。
エドワードはマルヴィルの目を見つめて力強く頷いた。頷き返したマルヴィルの声が響く。
「突撃!」
マルヴィルの指示の元、小高い丘から、グレイン騎士団第三隊が、一気に貴族の陣地に殺到する。それに呼応し、反対の丘からはマディラ率いるアデルフィー護衛団が駆け下りてきた。
エドワードはその先頭に立っていた。敵が目の前に迫るのを確認し、剣を抜き放つ。
「な、何事だ!」
ワイングラスを倒して叫んだ貴族の首を、エドワードはひと思いにはね飛ばした。恐怖を浮かべる間もなく、首を失った男が地に倒れた。
「我々はグレイン騎士団だ。特権階級の元に民衆を苦しめるお前たちに制裁を加える」
エドワードは、とっさのことに動けない貴族たちに、朗々と宣言した。貴族たちの顔に怯えが走る。
「な、グレイン騎士団だと!」
おののく貴族たちの前に、馬上から剣を下げたマディラが立った。
「同じく、アデルフィー護衛団だ。我々を導く新たなる自治領主、カークランド様を引き渡すことはせぬ!」
「おのれ! 平民どもめ!」
貴族たちが剣を抜く。
「相手は平民だ。何を恐れることがある! 斬り捨てよ!」
剣を構えて叫んだ貴族たちの護衛として残されていた兵士たちが、ゆっくりと立ち上がった。その中の一人と目が合う。
彼らは疲れ切っている。おそらくろくな待遇を受けていないのだろう。だが、ここで彼らを助けることは出来ない。先に貴族を切り伏せ、後方から敵本隊を挟み撃ちにしなければならないのだ。
何か方法はないのか。
考えていたエドワードに、数人の兵士たちが斬りかかってきた。貴族であってもシアーズに住み、軍籍を持つ者の中には剣技を得意とする者もいる。
攻撃を剣で受け、エドワードは兵士を見つめる。兵士の目がたじろいだ。
エドワードは受け止めた力を逸らして、流れるままに剣を振るった。目の前の兵士が、血しぶきを上げて倒れる。
「……悪いが、俺は結構強いぞ?」
軽く脅しながら周りを見渡すと、兵士がじりじりと下がっていく。
護衛に残された兵士は、五十人以上もいる。だが貴族の数は二十人にも満たないだろう。ならば貴族を先に討てばいい。
エドワードは目の前の兵士を蹴散らして剣を抜きつつも、兵士の後方に下がろうとする貴族たちの間に飛び込んだ。
「兵士に用はない。用があるのは、人の死を楽しむ貴族だ」
宣言しながら、エドワードは剣を振るった。貴族がまた一人、エドワードの駆る馬の足下に倒れ伏す。
剣を振るいながら、エドワードは兵士たちに、注意を払った。貴族を守るべく忠義を果たそうとする者たちが大半だ。
彼らは貴族を置き去りにして逃げても、他の貴族に罰を与えられ、処刑されることを知っているのだ。だから常に、逃げ場がない。
グレイン騎士団もそれなりに強いはずだが、兵士たちも実力がある。敵のほとんどが改革派というのは、本当のことなのだろう。
狭い天幕の近くでの乱戦となった。
アデルフィー護衛団は、ユリスラ兵たちとの戦いに苦戦している。
今まで彼らが相手にしてきたのは、所詮、クロヴィスに飼われていた貴族たちであり、戦闘の専門家ではなかった。だが兵士たちは戦うことのプロである。
このままアデルフィー護衛団と兵士たちがつぶし合うのは、労力と命の無駄だ。
エドワードは三人目の貴族を切り伏せてから、馬上で声を上げた。
「ユリスラ軍の兵士たちに聞きたい。このまま貴族を守り抜きシアーズに帰って、君たちの未来は拓けるか?」
兵士たちの顔に戸惑いが生まれる。
「何を言い出すか、この小僧!」
斬りかかってきた貴族から身を躱し、エドワードは馬首を巡らせて貴族を一刀のもとに切り伏せる。
「平民である限り未来がないと思っているのなら、それは間違いだ。諦めない限り、切り開ける未来はある」
堂々と宣言したエドワードの後ろから感じた気配に剣を振るいかけたが、その前に貴族は音を立てて倒れた。その後ろにはマルヴィルがいる。
エドワードの意図を汲んで、騎士団は貴族を相手にしていた。
「我々グレイン・オフェリル連合は、特権階級として、民の命を自らの欲のみで、いたずらに虐げる貴族の横行を許さない。共に未来を拓きたい者は、その剣を捨てろ」
事実上の降伏勧告だった。
だが貴族はいきり立つ。
「我ら貴族は国王陛下の元、ユリスラの平穏をになっておるのだ! 貴様ごときに何が分かるか!」
貴族の叫びに、エドワードは毅然と返した。
「貴族の作り出す平穏は、貴族のための平穏でしかない。総ての民衆のためにある平穏とは、特権階級によって作られるものではなく、我々自らの手で作り出すものだ」
「平民ごときが何を言うか! 国家を動かすのは我々でなくてはいかんのだ! ユリスラ王国を国王陛下と共に動かせるのは、我々貴族だ」
叫びながら男が、エドワードに向かって走り込んで来た。エドワードはその剣を受け止める。
鈍い輝きを放って、剣と剣とがぶつかり合う。血走った目をした貴族を見下ろしながら、エドワードは構えた剣に力を込めた。
「違う。国を動かすのは人だ。人の強い想いだけが国家を動かす。貴族であれ、王族であれ、平民であれ、真の平穏を望む者こそが、この国を動かし、国家を変えるんだ」
エドワードは、剣を押し戻した。貴族の男が後ろに大きく傾ぐ。
「我々はこの国を変えるために、ここに来た!」
エドワードのふり降ろした剣に切り裂かれ、男は仰向けに血しぶきを上げながら倒れる。男の断末魔の呻きだけを残して、静まりかえっている。
「共に未来を拓きたい者は、剣を捨て投降しろ。貴族と共に今のユリスラで生きたい者は、去れ」
エドワードの言葉に男たちの手の中から、剣が滑り落ちていった。地面に落ちた剣の音が、この場の勝利を告げた。
動揺する貴族を、グレイン騎士団が次々に討ち取っていく。エドワードは時計を見る。十時半だ。
たったの三十分で、後方部隊の殲滅が終わった。
「グレインの陣地は後方にある。アデルフィー護衛団と共に来るといい。我々連合軍は、喜んで君たちを受け入れる。まず君たちに必要なのは、温かいスープだろう?」
穏やかに笑いながらエドワードが告げると、男たちは力なく笑って頷いた。
「グレインもオフェリルも、酪農地帯だ。暖かなミルクスープを用意してある。マディラ、頼めるか?」
「ええ。お任せくださいませ、エドワード様」
恭しく頭を下げられて、エドワードは苦笑した。だがこうして無駄にしている時間はない。
「行こうかマルヴィル、ジェラルドがやきもきしている」
その言葉に兵士たちが目を見張り、そして力なく肩を落とした。
ジェラルドとは王国軍の元総司令官にして元帥であるジェラルド・モーガンであることぐらい、すぐに分かるだろう。
ジェラルドが軍の改革派として、平民を登用していたのはよく知られている事実だ。
「了解。本隊の援護に向かう」
マルヴィルと共に、エドワードは馬首を未だ戦いの続く本隊のいる戦場へと向けた。
「これは……どういうことだ……」
馬車を背にして呻くクレメンスの後ろで、コネルは感心していた。
先行した五百の軍勢は跡形もなくなっている。戦死者はその場に残されていたが、負傷者すらも戦場にはいない。
そっとコネルは時計を取り出した。現在、十一時半。もうすぐ家族がオフェリルの区境に現れる頃だろう。そうなればこの手でクレメンスを討つことが出来る。
「説明を……誰か説明をせよ」
クレメンスの病で元々白い顔が、みるみる青ざめていく。
「サウスフォード子爵、どうなっておるのか? 五百もの我が軍勢は、一体どこに行ってしまったのだ?」
「……はて、どうなっているのやら、小官には考えも及びませぬ」
思い切りとぼけると、クレメンスは怒りを露わにコネルを睨み据えた。
「貴様、何か知っておるのか!?」
「存じませぬ。先行された皆様が、さらにオフェリル深くに軍を進めたのではありませんか?」
更にとぼけると、クレメンスは震える手でコネルの襟元を掴んだ。軍服の元々絞まっている襟元を握られれば苦しいはずだが、クレメンスにはそれほどの力も残ってはいないらしい。
「ではあれは何だ! 分かっておるのだぞ! あそこにいるのは、かのジェラルド・モーガンとフレイザー・カークランドではないか! 奴らは貴様の元上官だろうが!」
「失礼ながらクレメンス伯。小官の上官は、ジェラルド・モーガン元帥閣下でして、カークランド伯はよく存じ上げませぬ」
「な、何を……」
「ですが、そうですね。あそこに元帥閣下がおられると言うことは……我が軍は無くなってしまったようですね。こう……煙のように、パッと」
クレメンスの前で拳を開いてみせると、クレメンスがコネルの顔面を殴りつけた。
「閣下!」
チャックの声が聞こえたが、コネルは冷笑する。
「痛いじゃありませんか、クレメンス伯」
「貴様……貴様……裏切ったのか!?」
全身を振るわせるクレメンスに、コネルは冷ややかに笑う。
「裏切る? いいえ。小官は裏切ってなどおりません。元々あなたには、何の忠誠も持ち合わせておりませんので」
クレメンスがよろめき、コネルの側を一歩離れた。コネルはそんなクレメンスに笑みを浮かべる。
「大体ね、親の看病に街へ戻りたいという少女を息子と二人で強姦するような上官、願い下げです。そんな上官に従ったら、小官は妻に口を利いても貰えません。何しろ妻は、クレメンス伯と同じく、伯爵家の出ですので」
軽く肩をすくめると、クレメンスが目を見開いた。
「……貴様の背後にいるのは……グラント・サウスフォードか? 伯爵でありながらイーディス妃に逆らった、あの愚か者に命じられたか?」
血走った目で、口元から泡をふきながら、クレメンスがよろめき、後ずさる。権力が効かないとなれば、怯えるしかない愚か者をコネルはじっと見下ろす。
コネルは貴族であり、子爵であるが……。
「こうなりたくはないものだ」
その時、後方で場違いに高らかなラッパが鳴り響いた。振り返ると、戦場から少し離れた街道の上に、四頭立ての大きな四台の馬車と、馬上の人影がある。ラッパを吹き鳴らしたのは、馬上の男だった。
馬車の屋根の上には、旗代わりに夫人用の絹の下着がはためいている。その下着に見覚えがあったコネルは、額を押さえた。
あれはコネルの妻、イライザが好んで身につけている、シルクのシュミーズだ。そういえばギルバートは、無類の女好きだった。
「イライザ……何かされてないだろうな……」
ボソッと呟いたコネルには見向きもせずに、クレメンスは馬車を凝視している。
「あれは……あれは何だ? 援軍か? いや、敵なのか? サウスフォード子爵!」
こちらを向き直ったクレメンスの目の前で、コネルはゆっくりと剣の柄に手をかけた。
「き、貴様、何を……」
「そうだ、伯。先ほど小官に、誰が裏にいるかと聞きましたね。お教えしますよ」
「な、何を……」
「……俺の直属の上官は、今も昔も、ギルバート・ダグラス、ただ一人です」
言葉と同時に、コネルは剣を抜き、一瞬にしてクレメンスに斬りつけた。腹から肩まで斬りあげられたクレメンスは、信じられぬという顔で自分の傷口に触れる。
流れ出る血が体を染め、足下にしたたるのを見て、クレメンスは悲鳴を上げた。
「死ぬ、死んでしまう! 誰か、誰か私を助けよ!誰か!!」
クレメンスの口からも鮮血が溢れた。
動けないから近くに寄せよといった馬車が徒となり、味方からは何が起こっているのか全く見えていないだろう。
「そういった平民を、あなたは助けたことがありますか?」
よろめき、地に伏したクレメンスは、全身から血を流しながらも、助けを求めて虚空に手を伸ばす。
「誰か……誰か……!」
「助けを求める平民をあなたは平気で愚弄し、殺しますね。必死で抗う少女を暴力で押さえつけたように。それに比べれば、俺は優しい。あなたを更にいたぶる気はありませんのでね」
真っ赤な血を溢れさせ、ゴボゴボと泡をふきながら、のたうつクレメンスの手が、やがて地面に落ちた。
「人を呪わば穴二つって言葉、知ってます? クレメンス伯。タルニエンでは、よく知られた言葉のようですよ。真理ですな」
死んだクレメンスに小さく告げると、コネルはまだ何も知らずに待機している兵士たちの前に立った。兵士たちも先ほどのラッパと馬車に気がついているようで、不安げに顔を見合わせている。
「みな聞け」
コネルは全員に向けて声を張り上げた。
「クレメンス伯爵は死んだ」
全員がざわめく。
「俺が殺した」
まだ残っていた貴族たちがいきり立った。だがコネルは迫って来る貴族に怯むことなく、兵士たちに言葉をかける。
「俺は今後、連合軍側に付く。連合軍は特権階級を笠に着る貴族たちと戦い、民衆に幸福をもたらすために戦っている。
俺は貴族だ。生まれながらに特権を持っていた貴族だ。だから俺の言葉なんぞ、なんぼのもんだと思うだろう。だが俺は貴族として王族に従い、民衆を迫害することを、決して認めない」
ざわめいていた兵士たちが、静まりかえった。迫り来る貴族たちの刃が、目の前で鈍い光を放つも、コネルは凛として前を向き、兵士たちを見渡した。
「我、コネル・サウスフォードは、これより民衆の平和と、ユリスラの平穏のために、ジェラルド・モーガン、ギルバート・ダグラス、フレイザー・カークランドと共に、ユリスラの平和のための戦いに投じる」
コネルは剣を抜き、空に向かって捧げた。
「共に来る者は来い!」
「貴様! 子爵の分際で!」
目の前に迫っていた貴族の姿が、ゆっくりと倒れて消える。コネルの前で剣を戻したのはチャックだった。コネルに斬りかかろうと剣を抜いた貴族たちが、次々と直属の部下たちに討たれていく。
「去る者は去るがいい。シアーズへ戻り、我々改革派は、もはやユリスラ軍にあらずと、我らを苦しめるイーディス偽妃に伝えろ」
コネルの言葉に、兵士たちの一部が逃げ出した。斬られることはなかった貴族も、必死で後方へ逃げ出していく。
彼らが荷を置いていた街には、ヴェラの毒を仕込まれた息子もいる。彼らはクレメンスの息子も連れてシアーズに戻るだろう。
コネルは大きく息をついた。
もう戻れない。
たとえ王の子がどんな男であったとしても、もう後には引けないのだ。
視線を今までの敵であった、グレイン・オフェリル連合軍に向ける。遠くごま粒ほどにしか見えないが、ジェラルドの隣には、金の髪をした青年が立ち、こちらを見ているのが分かった。
……あれが……エドワード・バルディアか……。
未来を託す存在にコネルは、視線を外すことが出来なかった。
エドワードは、敵軍の中から自分を見つめる気配に気がついた。まだまだユリスラ軍が遠く顔はよく見えないが、その気配の鋭さを感じることは出来る。
あれがジェラルドとギルバートが話していた、ユリスラ軍に残っていた改革派の幹部、コネル・サウスフォードなのだろう。
じっとその相手を見つめていたエドワードだったが、耳に懐かしい声が聞こえた気がして、街道の方へと目をやった。
まだ遠い街道の上を、大きな馬車がゆっくりと進んでいる。あの馬車が戦闘の幕引きになったのだから、あそこに乗っているのは、正面の討伐隊に加えられた改革派の夫人たちだろう。
その馬車の隣を歩いていた馬が、突然こちらに向かって走り出してきた。馬上にいるのは黒髪の男だ。
その姿に、エドワードは口元を綻ばせた。
「……リッツ……」
そういえば森育ちのリッツは、かなり目がいいのだ。
リッツは迷い無く馬を駆り、こちらに駆けてくる。このままでは、森にぶつかると思ったところで、リッツは意外な行動に出た。
身軽に馬から飛び降りたのだ。
曲芸師のような身のこなしはいつものこととはいえ、疾走する馬から飛び降りるなんて無茶が過ぎる。
主を失った馬は、高原を風のように駆けていく。その馬の行方に目を向けた一瞬のうちに、目の前にリッツの姿があった。
「お前! 何を……!」
危険を諫めようとした瞬間に、一点の曇りもない、満面の笑みを浮かべた、自分よりも大きいリッツに、がっしりと抱きつかれてしまった。
「エドっ!」
子供のようなリッツに、エドワードは身動きがとれなくなる。
「本物だ、本物のエドだ!」
全身全霊の力を込めて飛びついてこられたから、ものすごい重さだ。だが今まで自分が取ってきた立場と態度から、ここで無様に転がれるかと、全身の力を込めて必死で踏ん張る。
「おまっ、重いっ……!」
「やっと会えたぜ、エド! 会いたかったんだ!」
無邪気に懐いて頬をすり寄せてくるリッツに、エドワードはため息をついたが、同時にどうしようもないほど自分が安堵している事に驚いた。
離れていた六ヶ月で、リッツが変わってしまったのではないかという、漠然とした不安を抱いていたことに、自分で気がついたのだ。
ギルバートの書状で、リッツがタルニエン流の体術を会得し、剣技がとっくにエドワードやジェラルドを追い抜いていること、女遊びが激しいことを知っていた。
だからエドワードの中で気がつかないうちに、リッツに対する不安が強くなっていたのだ。
人は変わる。
エドワードは自分が、権力者となり変わることを恐れている。だからこそ、身勝手ではあるが、友には変わらない存在があって欲しい。
リッツは変わっていない。それだけで嬉しかった。
「重いぞ、リッツ」
「ずっとシアーズに一人だったんだからな。これぐらい我慢しろよな」
子供の理屈をいいながらも、リッツは離れそうにない。エドワードは苦笑した。
「子供だな」
「うるせぇ。すっげえ寂しくて、すっげぇつまんなかったんだぞ。しかも何度も死にかけたし。最悪だぜ、ダグラス隊」
むくれているくせに離してくれそうにないリッツに戸惑いながら、エドワードは自分の手が緊張して行き場を失っていることに気がつく。
今まで周りの人間はみなエドワードに遠慮がちで、こんな風にされたことがなかったから、この手の行き場が分からないのだ。
だがその手をゆっくりと、リッツの背に伸ばした。
今まで誰かをこうして抱きしめた事なんてあっただろうか。誰かを特別だと示してしまえば、周りに対して示しが付かないと、手を伸ばすことをやめていなかっただろうか。
一瞬考えたが、エドワードはふと力を抜く。
そうだった。リッツはシアーズでエドワードのために英雄になって来てくれたのだ。ならば別に遠慮する必要なんてない。
いいのだ。リッツはこれから演じる英雄という大役の片割れなのだから。
エドワードは力を込めてリッツを抱きしめ、力強く背中を叩いた。
「お帰り、リッツ」
「ただいま、エド!」




