退院日
そこからは、遥香は仕事をこなしつつ、総司を受け入れる準備に明け暮れていた。
退院日に病室のドアをノックする。
中に入ると、彼は既に部屋をきちんと整えて、洋服に着替えていた。
シンプルな紺のポロシャツとジーパン、そしてスニーカー。
遥香じゃわからないだろうと、真一が適当に揃えてくれたものだった。
「似合ってるね」
お世辞じゃなく、和服が一番似合うだろうと思っていたから、遥香は目の前の総司に驚いていた。
長髪を高く結んでいるのは、現代では珍しいが、それ以外は街を歩いていても溶け込みそうだ。
幕末の人は背が低いと聞いたが総司は背が高い。
容姿も相まって、雑誌から抜け出たモデルのようだった。ずっと病院着だったから新鮮だ。
「洋服とは、とても動きやすいのですね」
総司は屈伸したり、肩を回したりしている。
タイムスリップしてきた時の和服は、遥香が事前に持ち帰ったから、総司の荷物は何もない。
身一つでこもれび病院の自動ドアをくぐった。
ちょうど、呼んでおいたタクシーが来た。
「すぐの距離だからね」
総司は窓から見下ろすだけだった車に乗れることに、うきうきしている。
車酔いを懸念して一応エチケット袋を渡したが、この分なら不要そうだ。
遥香はほっとして、身体を座席シートに預けた。
幕末の武士とタクシーに乗っているなんて変な気持ちだ。それどころか、これから自分は彼と同棲する。
(誰も信じないだろうな)
異性と住むというのは今まで兄以外はなかった。
だけど、あくまで同居するだけだ。緊張する必要はない。
そう言い聞かせていると、急ブレーキがかかった。
つんのめり、助手席のシートにぶつかる――と思ったのに、浮いたと思った身体は後頭部座席に押し付けられていた。
「お怪我は?」
どうやら総司が左手をあげ、遥香を止めてくれたようだった。
「すみませんねぇ、自転車が飛び出してきて」
総司は落ち着いていた。遥香の前から左腕を下ろし「ご無事で何よりです」と微笑んだ。
遥香の心臓がうるさくなった。先程の引っ掻くようなブレーキ音のせいだろうか。
(うん、きっとそう……)
事故にはならなかったので、タクシーが慎重に再発進する。ゆっくり踏まれるアクセルに、遥香は息を整えた。
「入って」
マンションに着いて、遥香は先に入ってから彼を呼んだ。玄関口で靴を揃えた総司は、うつむき加減に家へ上がった。
案内しながら部屋を進み、リビングへのドアを開く。
自分でもこざっぱりした部屋だと思う。絵も観葉植物もぬいぐるみもなくて、悪く言えば殺風景ともいえる。
「覚えてるかな? あの日総司くんここに倒れてたんだよ」
ローテーブルとソファの間の床に座り、ぽんぽんとクッションを叩く。総司はおずおずと正座した。
緊張しているのだろう。ぴんっと背筋を伸ばしている。
「服は、お兄ちゃんが揃えたのだけだと足りないよね。今度一緒に買いに行こうか」
「はい」
こちらは見ないまま、総司は食い気味に返事をした。
「お腹空いた?」「はい」
「漫画読む?」「はい」
「カラオケ行く?」「はい」
どれにも即答だ。今なら何を聞いても、間髪入れない「はい」で返ってくるだろう。
「……キスする?」
「はい」
総司は真顔だった。
きっと、彼はキスの意味もわかっていないだろう。
冗談とはいえなんてことを聞いてしまったのかと身悶えした。
(何してんのよ……)
戒めて立ち上がる。
「退院のお祝いしよっか。パエリアとアクアパッツァでいい?」
「ぱえ? あくあ……? 遥香殿、そのような異国の料理が作れるのですか?」
「簡単だよ」
そう言って遥香は台所に立った。
久々に包丁を持った。一週間ぶり、いや、一ヶ月ぶりかもしれない。
丸ごと買ってきた白身魚の目が、こちらを恨めしげに見ているようで、手が震えてしまう。
「……遥香殿?」
「へ、平気平気ッ、先に魚介を炒めようかな」
フライパンに冷凍シーフードミックスを入れる。ばちばちとけたたましい音がして油がはねた。
「あっつ……!」
ガスコンロの使い方を知らないはずの総司が見かねて火を止めてくれた。
「遥香殿、もしや……その」
遥香は観念することにした。
「……うん。ごめん、作ったことない。退院してくるからお祝いっぽいものがいいと思って……見栄張った」
総司は笑うことなく自然に包丁を持った。
「僕が作りますよ」
「駄目だよ」
「ですがこのままでは遥香殿が怪我を負ってしまいます。手順書はありますか?」
料理ごときで"怪我を負う"だなんて言われると情けない。
クックパッドを見せると、総司はどんどん料理を仕上げていく。
「え、すご。人力チョッパー? 総司くん料理の鉄人?」
「書いてある通りにしているだけですよ」
包丁だけでなく、炒める手つきもなかなかだ。
一時間もしないうちにほかほかと湯気が立つ料理が出来た。
「総司くんって他の家事もできるの?」
「はい、道場に住み込んでいたときはやっていましたから」
「私、家事全般苦手なんだ」
総司は一歩こちらに踏み込んできた。
「是非僕にやらせてください!」
「ありがとう。身体を第一に、少しずつ一緒に……お願いします」
総司は初めてお手伝いを頼まれた子供のように嬉しそうな顔をした。
(可愛いなぁ)




