退院日②
「じゃ、乾杯しよっか」
遥香はお祝い気分を出すためにワイングラス出そうと思いつき、頭上の上棚を開けて、かかとを上げた。
手だけで探るが奥がよく見えない。ふっ、と背中に気配を感じて遥香は息を止めた。
「二つでよろしいですか?」
総司が後ろからワイングラスを取ろうとしている。
身体こそくっついていないが、身長差的に、遥香は彼に包まれるようになっていた。
かかとを上げたままの不安定な体勢だったから、何かあって彼にもたれてはいけない。
上棚に両手をかけ、懸垂する前のようなポーズで固唾を飲む。
ガラスがかちゃ、と触れ合う音がした。
「じ、自分で取れるからっ」
裏返った声を気づかれたくなくて、でも多分しっかり聞かれてしまっただろうからとりあえず俯く。
「もう終わりましたよ」
上棚の扉が閉まり、静かに背中の熱が離れていく。
棚の前から動かないでいると、総司が下からのぞき込んだ。
「遥香殿? 顔が赤いですが」
「だって、総司くんが……」
近いから――
しまった、と口を塞ぐ。
せっかく彼が馴染んできているのに、また気を遣わせてしまう。
「なんでもない。私総司くんのこと弟みたいだと思ってるんだ。弟ね! 包丁さばきも上手で、背も高いし。弟が……頼りになる弟ができて嬉しい」
やたらと弟というワードを使い、早口でまくしたてる。
取ってもらったのはワイングラスなのに、立ったまま缶ビールをどぼどぼ注ぎ込んだ。
白い泡がぶわっと盛り上がる。
「弟、ですか」
総司はぽつりとつぶやく。
ビールの泡がワイングラスから溢れて、遥香の手を濡らしていくのをただ見ていた。
泡がしゅわしゅわとしぼんでいく。
その音が鮮明に聞こえる。この家はこんなに静かだっただろうか。
「……これ、運びます」
総司はふいっと目を逸らすと皿とカトラリーを持って行ってしまった。
遥香はベタベタになったグラスを置き、手を洗った。
戻ると総司はテーブルを拭き終え、台拭きを握りしめていた。なんとなく気まずい雰囲気が漂っている。
弟と言ったことが癇に障ってしまったのだろうか。
「弟って言ったの怒った? 子供扱いしたわけじゃなくって……」
まさかあなたと密着しそうで照れてましたとも言えず、遥香はワイングラスの細い脚を、手でいじいじと弄ぶ。
総司がくすっと笑う。
「怒っていませんよ」
怒っていないのか。
それならそれでいいのに、総司はさっきのことは気にしていないと分かり、なんでか複雑な気分になる。
(なんか私変だよね……?)
弟と言ったりやっぱり違うと思ったり、これでは完全にめんどくさい女だ。
「かんぱーい」
二つのワイングラスが合わさる。
遥香は一口食べてほうっとため息をついた。
「すごい! パエリアもアルデンテが丁度いいし、アクアパッツァも柔らかく蒸し上がってる」
「そんなに褒めていただけると嬉しいです」
「うん、お世辞抜きでおいしいよ」
箸が進む。ついでにお酒も進む。
「遥香殿、あまり飲むと……」
お茶を飲んでいた総司は、ペットボトルから水を注ぎ、ほのかに顔が赤くなった遥香に心配そうに手渡す。
「あはは、酔ってないから大丈夫だよ。顔に出やすいだけ。総司くんはお酒強い?」
「どうでしょうか。人並みかと」
「それ、強い人が言うやつだよ」
遥香は笑っていたと思ったら、今度は目に涙を溜め始めた。
「退院できて、本当によかったねぇ……」
総司は慌てて手拭いを出した。
遥香は頭の端で、ポロシャツにジーパンを着ていても、ハンカチじゃなくて手拭いなんだなぁ、と思いながら目尻を拭いた。
「遥香殿は、強いのだか弱いのだかわかりませんね」
「……打たれ強い方だと思うけど」
「ええ、表面上は。だけど本当は、傷つきやすいのではないですか?」
「……私が?」
総司は優しい眼差しで頷いた。
年下ということを忘れそうになるほど包み込むような大きな笑顔だ。
また涙が出そうで上を向く。
ふわっと夜風がカーテンを揺らして、初夏の湿っぽい匂いを運んでくる。
遥香はサンダルをつっかけ、10階建てマンションの8階のベランダに出て、こっち、と彼を手招きした。
すっかり暗くなった街並みに、総司は感嘆のため息を漏らす。
「高いのですね」
「星は見えないけどね」
「星は少なくとも、こちらの空は江戸より明るいです」
総司は地上にあるビルの明かりを一望して、風になびいた後ろ髪を押さえた。
その毛先が遥香の頬に当たって、くすぐったい。ベランダの手すりに腕組みしてもたれた。
幕末は電気もないだろうから、宝石箱をひっくり返したみたいに星が綺麗に見えるんだろう。
子供の頃に実家で見た星空が思い出された。今同じものを見ても、きっともう、純粋にはしゃぐことはない。
時間は一方向に流れ続けるのだから。どんなに堰き止めようとしても。
ふいに胸が締め付けられた。
"長くは留まれない"と言って総司を送り出したという不思議な声が本当なら、彼はいつか幕末に帰ってしまうのだ。
「冷えますよ」
「うん」
けれど総司も中に入ろうとはしなかった。隣にいる彼は今、何を考えているのだろう。
横顔だけではわからない。
幕末の仲間のことを想っているのだろうか。
月見野神社――遥香の実家。そこに行けば、総司が幕末に帰る手がかりが見つかるかもしれない。
けど今は、真一が書物を当たってくれている。その結果を待ってからでもいい。
急に夜冷えがして、遥香はくしゃみをした。
「入りましょう」
彼は自身の羽織りを、遥香にかけてくれた。それは出逢ったときの紺色の羽織りで、やはりあたたかかった。




