エレベーターとスカーフ
「なにも、会社休まなくてもよかったんじゃないか?」
こもれび病院の廊下を歩きながら、真一は、呆れ顔で遥香を見下ろした。
今日は、ついに総司が一般病棟の個室に移ることになっていた。それに合わせて遥香は時間休暇を取ったのだった。
「総司くんって、何だか一人にしておけないんだよね」
「へえ?」
真一は、歩く速度を緩めた。
「この間も、ロールパン嬉しそうに食べててね。"ぱん、好きです"とかいうから、後10個くらい食べて欲しいなって思っちゃった」
遥香はそう言って、
「一般個室に移ったら、もっといろんな物見られるよね」
と、弾けるような笑顔を真一に向けた。
真一は家族で見ているテレビにラブシーンが流れたときのような、気まずい顔をしている。
「やだ、恋愛的な意味で見てるわけじゃないよ。総司くんだってそんなつもりないんだし」
「……どうだかな」
遥香は兄妹にだけ見せる顔で、幼い頃のようにけらけら笑っている。
ちょうど看護師に伴われた総司が廊下にいた。彼は遥香を見つけると、ぱっと目を輝かせた。
ずっとビニールカーテン越しだったから、隔たりがなくなった今、彼の表情の変化もくっきり見えた。
「総司くん、お昼なんだった?」
挨拶も早々にいつもの会話に入る。
話のネタにと遥香から提案して、食べたものを聞くのが恒例になっていた。
「今日はぱすたでした」
「フォーク使えた?」
「はい、この間使い方を教えていただきましたので」
総司は、くるくるとパスタを巻くジェスチャーをして、スプーンのほうが簡単なんですけどね、と苦笑した。
彼は使ったことのない道具に果敢にチャレンジする。幕末の人間だけれど、柔軟に現代に馴染もうとしているようだった。
エレベーターを待っている間もおしゃべりを続けていると、
看護師が、「仲良しなんですねぇ、彼女さん?」と訊いた。
遥香は「彼女っていうのは、お付き合いしてる女性ってことだよ。わかるかな」と総司に通訳した。
「遥香殿が……?」
看護師に言われた意味を理解したらしい総司は、ぶんぶん頭を振った。
「遥香殿と僕がお付き合いだなど、とんでもないです」
あまりに全力で拒否され、遥香は胸がチクッとした。
彼にとって、自分と恋人同士になるというのはそんなに有り得ないことなのか。
(いや、ないか。別の時代の人だしね……うん)
勝手に納得しているところへチンッとエレベーターが到着し、総司と奥に乗り込んだ。
扉が閉まるときに彼の肩が跳ねたから、遥香は総司にバッグにつけているスカーフを差し出した。
「怖ければ、これに掴まってたら?」
入院初めこそ総司は強がっていたが、最近は知らないことを恐れても、遥香が笑わないとわかり、わりかし素直になっていた。
そっと総司はスカーフを握った。
真一と看護師は前を向いている。
手をつないでいるわけでもないのに、後ろを振り向かれないかどきどきした。
(なんでだろう……)
振り向かれたら、兄にからかわれるとでも思ったのだろうか。
エレベーターに乗っている時間がすごく長く感じて、モーター音しか聞こえない。
早く目的階に着いてほしいような、そうでないような。
チンッという音とともに総司の手がスカーフから離れていく。
やっぱりまだ着いて欲しくなかった気がして、遥香は最後にエレベーターを降りた。
(看護師さんが「彼女?」なんて聞くから、変なこと考えちゃった)
「どうかされました?」
「ううん、何も」
胸のあたりを押さえて総司に続いた。
遥香がいつも見る総司は、座る姿や寝姿ばかりだった。
だから、前を歩く彼の背が意外と高い、ということを今知った。
移った部屋はこじんまりとした個室で、病院らしい真っ白な壁に囲われていた。
遥香は落ち着かずに窓辺に立って外を見下ろした。
「あれは、なんですか?」
「あれは、ビルだよ。建物」
真一と看護師はいつの間にか部屋を出ていた。
総司は遥香の隣に立ち、窓へおでこがつくほど身を寄せた。
「城よりずっと高い建物がこんなにたくさんあるのですね」
全部、陰圧室からは見られなかった景色だ。遥香はわくわくしてきた。
この窓の外には広い世界が広がっているんだよと伝えたくなって、ゆっくりでいいんだ。と息を吸った。
「一般病棟への移動、おめでとう総司くん」
向き合うと、彼は何か言いたそうに遥香を見た。
「総司くん……?」
名前を呼んでも何も返ってこない。
いつものかわいい笑みが消えている。
こんなに見つめられてしまうと、先程のエレベーターでの、妙な気持ちがよみがえる。
さっきと違うのは、今ここには二人しかいないということ。
静かで、白くて、つんと消毒液の匂いが漂う清潔な空間。
遥香の呼吸が乱れた。
そのとき、スマホが鳴った。
「ごめんね、ちょっと……」
部屋の隅に行って、電話を取る。
課長からの呼び出しだった。
「急ぎの仕事が出来ちゃった。もしかしたら、しばらくここに来られないかも」
総司は顔の前で手を振った。
「いえ、僕のことは気にせずに、お役目を全うされてください」
相変わらず真面目な口調で、遥香は繁忙期への憂鬱も忘れて和んだ。
「遥香殿、お逢いできないのであれば……先程の手ぬぐいをいただけませんか?」
「これ? いいよあげる」
遥香はスカーフをバッグから解いて手渡した。
総司はそれを丁寧に畳んで手のひらに乗せて眺めている。
「嬉しいです。これを遥香殿だと思って大切にします」
「そう……?」
エルメスのスカーフでもないのになんだか申し訳なくなった。
「手ぬぐいが欲しいなら今度もう少し良いのもってきてあげるよ」
「いえ、これがいいのです」
またさっきみたいな、息がしづらくなるほどの熱い視線。
廊下で音がした。急がなければと思い出し、「また来るから」とソファの上のカバンをとった。
廊下には真一がいた。
「おう、もう帰りか。そろそろ総司くんの退院後の行き先も決めたいから連絡する」
「わかった。決まりそう? 施設」
「あぁ、ここから近いところに入れそうだ。じゃあまたな」
遥香はバタバタと病院から出た。




