黒猫
その日、時計の針は既に13時を回っていた。
「こんにちは、体調はどう?」
病室に入った遥香が手を振ると、沖田はベッドに寝たまま微笑んだ。
排痰のケアをしてもらい胸が楽だという。薬で高熱も下がっているようだ。
遥香は午前中、警察に行っていた。
沖田は"総司"という名前だけを覚えている身元不明者として届け出た。
下手に沖田総司だと話して周囲を驚かせれば、治療の妨げになるかもしれない。それは避けたい、という真一の提案だった。
遥香はタイキの件も相談し、警察から注意勧告をしてもらうことになった。
沖田はふむふむと、高く結った髪を揺らしてうなずいた。
「町奉行から指導がされるのならば、多少は安心です。ですが、遥香殿は今日から家へ戻られるのですよね」
「ちゃんと奉行所が見回りしてくれるみたいだし、総司くんは寝ててね?」
"警察がパトロールしてくれる"と言おうとしたはずが、総司に合わせ、遥香の口調は自然と古語になっていた。
「遥香殿をお守りすると約束しましたのに……このような有様で、面目次第もございません」
総司は管に繋がれた点滴スタンドを恨めしそうに見上げた。
「この棒さえなければ」と、本気で思っていそうな顔だった。遥香はくすくす笑いそうになるのを堪えた。
「武士って皆そうなの? それとも総司くんだけ?」
「困っている婦女子がいれば、武士たるもの、放ってはおけません。新選組の同志も同じようにするはずです」
真一が言っていたが、新選組は剣で京都の治安を守る、現代のおまわりさん的な存在らしい。
――トントン
急ぎ気味なノックののち、ガウンとマスクを付けた真一が顔を出した。
「治療方針は後で話すが、十分治療できる範囲だよ。遥香はソーシャルワーカーの対応を頼む」
ふわふわしていた部屋の空気が、シャキッと締まる。
「そういえば、なんで総司くんが月見野神社のおまもりを持ってたの?」
お守りは洗いざらしたような生成りの布で、手のひらサイズ。
今遥香たちの実家で売られているものとは異なるが、
シンプルな満月と波の刺繍は、月見野神社の神紋だ。
(……古いものなのに、どっかで見た気がする)
「これは昔、人にもらったものなのです」
おまもりを返してもらった沖田は、大切そうに刺繍を撫でている。
「総司くん、どうやってタイムスリップしてきたの?」
今更ながら気になった。
真一は、それも聞かないでよく信じたなと呆れ顔をしている。
「だって……総司くんには危ないところを助けてもらったし。悪い人じゃないでしょ」
「お前、いつか痛い目見るぞ……それで、総司くんはどうやって幕末からここへきたんだ?」
「あの日、僕は月見野神社へ参拝したのです」
沖田が神社へ行ったのは、丸い月が黄金に輝き、地上すれすれに降りていると錯覚するほどの夜だったという。
「命尽きるまでお役目を果たせるように……と祈ってたところ、不思議な声が聞こえ、気がついたら遥香殿の家へ倒れておりました」
沖田は、病院のベッドに腰掛けたまま淡々と話してくれた。
彼は今、二十代前半。
先程遥香が調べた情報では、沖田は結核にかかり27歳で亡くなったとあった。
(私と同い年で死んじゃったんだ……)
こんなに若いのに、病気のことで悩んで神社を訪れていたのだと思うと、遥香はきゅっと胸が締め付けられた。
不思議な声は
――"そなたの願いを叶えよう"
――"長くは留まれぬ"
の二つを総司に告げたという。
真一が渋い顔をする。
「長くは留まれない? 結核の治療は半年は見てほしいんだが……」
「願いを叶えてくれるって言ったなら、総司くんが治るまでは、現代にいさせてくれるんじゃないの?」
うーん、と三人で考え込む。
帰る方法があるのか、強制送還なのかはわからないが、ひとまず治療を進めて、
体調が良くなってから考えようということになった。
真一の目は夜通しの勤務明けで充血していた。
遥香は途端に申し訳なさでいっぱいになった。
「お兄ちゃん、ありがとう。私一人じゃ、何にもできなかった」
珍しく素直になった妹に、真一はふっと表情を和らげた。
「遥香は昔から言いだしたら聞かないからな。見た目とは逆で」
「失礼ね」
遥香は胸までの茶髪を低い位置で緩く結っている。目が丸く色白で童顔なこともあり、周りからは良く、おっとりしていると言われる。
中身は少々異なるわけだが。
意外な顔をした総司に向けて、真一は「頑固なんだよ」と笑う。
「小さい頃も、捨て猫を拾ってきて、"飼うと許してくれるまで帰らない"と言い張って本当にいなくなったんだ」
「それで、どうなったのですか?」
「夜まで近所総出で探したよ。散々探しても見つからなくて……結局朝になったら神社で大の字で寝てたんだ」
「僕も昔猫を飼っていました。遥香殿は、困っているものを置いておけないのですね」
総司の尊敬のまなざしが痛くて、遥香はまつ毛を伏せた。
「……そんな、立派なものじゃないよ」
あの日、目覚めた遥香の腕から黒猫はいなくなっていた。
大雪の日だった。
「暖房もない神社で、遥香ちゃんよく無事だったわね」と驚く大人たちの中で、遥香は猫がいなくなった悲しみで泣きじゃくっていた。
母は、「この雪だもの。もうあの猫は見つからないと思うよ」と静かに言った。
幼くてほとんど忘れてしまったけれど、 雪の冷たさと、猫を救えなかったという痛みだけは今でも鮮明に覚えていた。
「遥香殿?」
不安そうな声に、遥香はハッと笑顔をつくった。
病人に心配させるわけにはいかない。
行ってくる、とソーシャルワーカーの元に向かった。




