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二度目の初恋  作者: ぽむぽむ


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8/10

第八章 うさぎの記憶

「大学で、一度」

 悠人は言った。

「あなたに、ひどいことを言いました」

 詩織は頷いた。

「雨の日。正門の前」

「ずっと、謝りたかった」

「そういうことじゃなくて」

 彼女は言いかけて、口を閉じた。

 悠人の手には紙コップのコーヒーがあった。詩織はそれを見た。

「本当は砂糖を2つ入れるでしょう。人前では、ブラックを飲むけど」

 悠人の指が止まった。

「どうして、それを」

 詩織は視線を落とした。

「そういう顔だったから」

 無理のある言い訳だった。二人とも、そのことを知っていた。

 詩織と再会した夜、悠人は、京都の部屋から持ってきた引き出しを開けた。

 2004年の手紙があった。

 封筒は、端が少し擦れていた。何度も取り出し、何度も戻した跡だった。

 彼は、もう一度読んだ。

「お元気ですか」

 その問いに、自分は何と答えただろう。

 元気です、と書いた。

 嘘だった。

 だが、元気ではないと書けば、彼女が心配する。心配すれば、会いに来るかもしれない。

 彼は、妻の行動を予測して、自分の言葉を決めていた。

 目の前の人と話すのではなく、相手を望む場所へ動かすために話していた。

 そのことを、初めて、嫌だと思った。

 机に便箋を置いた。

「今日、会えて嬉しかった」

 一行書いた。

 次に、謝りたいことを書いた。雨の日の言葉。手紙の返事。結婚式で隠れていたこと。

 書いているうちに、謝罪が、自分の苦しさを相手へ渡す文章になっていることに気づいた。

 彼は、紙を破らなかった。

 ただ、送らないことにした。

 今度は、相手の顔を見て話す。

 返事を聞く。

 自分の言葉だけで終わらせない。

 その決意は、まだ、怖さと一緒にあった。

 その夜、涼介に話した。

「砂糖2つなんて、よくいる」

「新歓で、毎回泣いてた」

「初対面の相手に泣く子も、いるかもしれない」

「6回、全部だ」

 涼介は黙った。

「何か、見落としてる」

 悠人は言った。

 その言葉を口にすると、ずっと見ないようにしていたものが、少しずつ形を持ち始めた。

 10月下旬、図書室の帰りに詩織と河川敷を歩いた。

 二人は少し距離を空けた。昔なら、何も考えずに手をつないだ距離だった。

「人生をやり直せるとしたら、何を変えますか」

 詩織が聞いた。

「何も」

「どうして」

「大切な人が、今、生きて笑ってるから」

 詩織は歩くのをやめた。

「その人は、あなたが一人でいることを望んでると思いますか」

 悠人は川を見た。

「水野さんは、幸せですか」

「湊さんは、優しい人です」

「よかった」

「優しい人だから、私が何も話さなくても、待ってくれる。でも、それに甘えていいわけじゃないんです」

 彼女は桜の幹に触れた。

「黙っていることが、相手を守ることだと思ってた。ずっと」

 悠人は彼女を見た。

「違うんですか」

「わからない。でも、黙っている間、相手は一人で考え続けるんですね」

 風が吹いた。二人の影の先だけが重なった。

 河川敷で会ったあと、悠人は事務所の古い図面を整理した。

 詩織に会う前に描いたもの。会ったあとに描いたもの。京都へ移ってから描いたもの。

 窓の位置が、どの図面にも少しずつ違っていた。

 同じ癖だと思っていた。だが、癖の中にも、時間があった。若いころは光を入れることばかり考えた。京都では、光が入らない場所に誰が座るかを考えるようになった。

 詩織の絵も、同じだった。

 彼は彼女の本を出版順に並べた。うさぎの顔。くまの手。背景の家。

 昔の本では、うさぎがくまを見ていた。新しい本では、うさぎが道の先を見ていた。

 彼女は、同じ話を繰り返しているのではなかった。

 同じ問いを、違う場所から描いていた。

 悠人は、本の奥付を見た。自分が京都で何をしていた年に、彼女が何を描いたのかを考えた。

 授賞式で一人だった年、詩織は小さな家の絵本を出していた。家の中には二つの椅子があった。一つは窓に向かい、一つは扉に向いていた。

 その絵を、彼は何度も見た。

 何かを意味していると決めつけるのは、危険だった。自分の願いを、彼女の作品へ押しつけてしまう。

 けれど、何も意味していないと片付けることも、できなかった。

 翌日、千夏に本の話をした。

「作品から、本人の全部がわかるわけじゃないよ」

 彼女は言った。

「わかってる」

「本当に?」

 悠人は黙った。

 千夏は一冊を手に取った。

「詩織は、読む子のことも考えてる。自分の悲しみを全部そのまま入れるんじゃなくて、どうしたら子どもがページをめくれるか、考えてる」

 彼は頷いた。

「だから、秘密の日記みたいに読まないでほしい」

「ごめん」

「でも、あなたに伝えたいことが、ないとも言えない」

 千夏は本を戻した。

「私、編集者としては、そこを聞かなきゃいけない。でも、友達としては、聞くのが怖い」

 悠人は彼女を見た。

「何が」

「答えを聞いたら、今までの詩織が、全部違って見えるかもしれないから」

 その怖さを、彼も知っていた。

 妻が記憶を持っているなら、自分は何度も、知っている妻に嘘をついた。妻は何度も、その嘘を受け入れた。

 自分だけが守っていたのではない。

 そう思うと、安心するより先に、恥ずかしさが来た。

 彼は、机の上の本を閉じた。

 真相を知ることは、相手を理解することの始まりであって、終わりではなかった。

 11月初旬、ひかりが絵をくれた。

 くまと、うさぎ。2匹が手をつないでいた。

「絵本だと、うさぎが一人で頑張るでしょ。だから、描いてあげた」

「二人で」

「うん。一人で頑張るの、寂しいもん」

 悠人は画用紙を受け取った。

「手術、いつ?」

「11月22日」

 指先が冷たくなった。

 ひかりは悠人の顔を見た。

「おじさんも怖い?」

「少し」

「じゃあ、お守り。ひかりも同じの持ってく」

 悠人は頷いた。

 新しい絵本の見本ができる前、詩織は印刷所へ行った。

 色の確認だった。紙に印刷された色は、原画と少し違った。青が深くなり、白い雪の影が強く見えた。

 担当者は、どちらを選ぶか聞いた。

 詩織は、二枚の紙を並べた。

 原画に近い方。印刷で見やすい方。

 千夏は、子どもが手に持つ本として考えようと言った。

 詩織は頷いた。

 自分の中の正しさを、そのまま相手へ渡すことが、いつもよいわけではない。

 彼女は、少し明るい方を選んだ。

 帰り道、千夏が言った。

「最後のページ、まだ迷ってる?」

 詩織は頷いた。

「本当は、違う終わりにしたい」

「どんな」

「二匹とも、朝を見る」

 千夏は、彼女を見た。

「じゃあ、そう描けばいい」

「描けないの」

「どうして」

 詩織は答えなかった。

 描けば、願いになってしまう。叶わない願いを、子どもへ渡してしまう。

 そう思っていた。

 千夏は、駅の階段の前で立ち止まった。

「物語は、現実に起きたことだけじゃなくて、起きてほしいことも描けるんだよ」

 詩織は顔を上げた。

「あなた、ずっと、それを描いてきたでしょう」

 彼女は頷いた。

 その夜、詩織は白い紙を出した。

 2匹が朝を見る絵を描こうとした。

 筆が止まった。

 彼女は、紙を伏せた。

 まだ、二人で生きる未来を、自分の選択として信じられなかった。

 11月の初め、詩織は千夏の家へ行った。

 原稿の打ち合わせという名目だった。だが、千夏は、彼女が原稿より多くの荷物を持っていることに気づいた。

 古い画材。資料の本。使っていない紙。

「片付け?」

 千夏が聞いた。

「少し」

「年末には早いよ」

 詩織は笑った。

 二人は机に原稿を広げた。くまが眠る冬の話だった。

 千夏は最後のページを見た。

「これで終わるの?」

「今は」

「うさぎが一人で守って、終わり?」

 詩織は頷いた。

 千夏は紙を置いた。

「私は、少し寂しい」

「そうだね」

「そうだね、じゃなくて。あなたは、どうしたいの」

 詩織は答えられなかった。

 夫を救いたい。自分が死んでも、彼に生きてほしい。

 その願いを絵本の結末にすると、うさぎが一人で消える話になる。

 子どもたちは、その話をどう読むだろう。

 大切な人を守るためには、自分がいなくなればいいと思ってしまわないだろうか。

 彼女は、原稿を見た。

 自分の選択を、美しい物語にしてはいけない。

 そう思った。

 だが、別の結末を描けなかった。

 千夏は、彼女の顔を見た。

「何か、終わらせようとしてる?」

 詩織は首を振った。

「終わらせたいんじゃない」

「じゃあ、何」

「続いてほしいの」

 千夏は黙った。

 その答えが、原稿の話だけではないことはわかった。

「詩織」

 彼女は名前を呼んだ。

「私は、あなたが続いてほしい」

 詩織の指が止まった。

「作品もだけど、あなた自身が」

 彼女は顔を伏せた。

 千夏は、問い詰めなかった。原稿をそろえ、温かいお茶を淹れた。

 その優しさが、詩織には辛かった。

 何度も、この人に救われた。何度も。でも、何も話さなかった。

「千夏、もし私が、変なことをしても」

 言いかけると、親友は首を振った。

「止めるよ」

 詩織は顔を上げた。

「約束、したでしょ」

「何も聞かずに止めないでっていう約束なら、守れないかもしれない」

 千夏の声は静かだった。

「あなたを大切にすることと、あなたの言うことを全部聞くことは、同じじゃない」

 詩織は、何も言えなかった。

 帰り際、千夏は荷物を半分返した。

「まだ使って」

「でも」

「使わないなら、そのときまた持ってきて」

 詩織は、重くなった鞄を持って家へ帰った。

 捨てようとした物が戻ってきた。

 それが、少しだけ、未来を戻されたように感じられた。

 11月10日、悠人は千夏に呼び出された。

 学生街の喫茶店はまだあった。テーブルの傷も、窓際の鉢植えも、ほとんど変わっていなかった。

 千夏は古い革の手帳を置いた。

「詩織の仕事場にあった。見ちゃいけないと思ったけど、怖くて」

 悠人は開いた。

 正の字が並んでいた。何ページにもわたっていた。

 その間に、短い文章があった。

「また、はじめまして」

「今度も、あなたは泣いていた」

「ミルクティー。砂糖なし。覚えていてくれた」

「この人生のあなたは、私から離れた」

 悠人は息を吸った。吸ったはずなのに、肺に空気が入らなかった。

 最後のページ。

「2026年11月22日

午後7時12分」

「今度こそ、あなたを」

 その先は消されていた。

「何か知ってる?」

 千夏が聞いた。

 悠人は頷けなかった。

「身辺整理みたいなことをしてるの。湊さんに手紙を書いて、原稿を片付けて。今年の初めに、秋に変なことをしても止めないでって、約束させられた」

 千夏の声が震えた。

「私、止めるべきだよね」

 悠人は手帳を閉じた。

「その日、一人にしないでください」

「春日くんは?」

「俺は、そばにいちゃいけない」

 千夏は悠人を見た。

「27年前から、同じことばかり言うんだね。自分が何をしてるか、説明しないで」

 悠人は顔を上げた。

「私たち、詩織を大切に思ってる。それなのに、あなたも詩織も、何も話してくれない」

 彼女の言葉は、責めるためだけのものではなかった。

 悠人は初めて、自分たちの秘密が周りの人を孤独にしていたことを知った。

 手帳を見た夜、悠人は眠れなかった。

 正の字の数を数えた。途中でわからなくなり、最初から数え直した。消された線があった。重ねて書かれた線もあった。

 正確な回数は、そのページだけでは決められなかった。

 彼は自分のノートを出した。

 交差点。桜。地下室。バンコク。病院。大阪。

 6つの死を書いた。

 その下に、7度目の人生と書いた。

 妻はまだ生きていた。

 生きている妻の秘密を、死んだ妻の記録と並べていることに、気づいた。

 彼はペンを置いた。

 窓の外で、車が通った。夜の事務所は静かだった。涼介は帰っていた。千夏も、きっと家にいる。詩織は、湊のいる家にいる。

 自分だけが、一人だった。

 その孤独を、彼は妻のために選んだと思っていた。だが、妻が自分を救うために同じ孤独を抱えているなら、二人は何をしてきたのだろう。

 翌朝、湊から連絡が来た。

 図書室の小さな修正についてだった。悠人は病院へ行った。仕事の話を終えたあと、湊が椅子を引いた。

「少し、話せますか」

 悠人は座った。

「妻が、最近、手紙を書いています」

 彼は手帳のことを思い出した。

「僕宛てです。封がしてあるので、まだ読んでいません」

 湊は机の上を見た。

「読んでいいのか、わからない」

「本人に聞けば」

「聞きました。あとで読んで、と言われました」

 悠人は何も言えなかった。

 湊は顔を上げた。

「あとで、という言葉が、怖いんです」

 その怖さは、医者としてのものではなかった。夫としてのものだった。

 悠人は初めて、湊が自分と同じ場所に立っていることを、はっきり見た。

 大切な人が、何かを知っている。自分には話さない。あとでわかると言う。そのあとが来る保証はない。

「僕は、妻が何を選んでも、全部受け入れられる人ではありません」

 湊は言った。

「優しい人だって、よく言われます。でも、怒ることもあります」

「そうだと思います」

「妻が帰ってこない選択をするなら、止めたい」

 悠人は頷いた。

 湊は、彼の顔を見た。

「あなたも、同じですか」

 答えは、はい、だった。

 だが、口に出すと、今まで隠していたことの輪郭が現れてしまう。

 悠人は少し遅れて頷いた。

 湊は息を吐いた。

「なら、何か知っていることがあるなら、いつか話してください」

 悠人は、話すと言った。

 いつか。

 自分もまた、その言葉で相手を待たせていた。

 事務所へ戻り、彼は手帳を開いた。

 妻を救うために必要なのは、秘密を解くことだけではない。

 自分の秘密を、終わらせることだった。

 11月19日、悠人は千夏と、古い手紙のことを話した。

 彼女は、詩織が手紙を書くとき、何度も書き直す人だと言った。

「原稿より、迷うこともある」

「何を」

「相手に、どこまで渡すか」

 悠人は、京都へ届いた手紙を思い出した。

 短い文章だった。刊行の案内。元気かという問い。

 その短さを、彼は、もう自分への気持ちがないからだと思った。

 だが、短くするために、何度も書き直したのかもしれなかった。

「言わないことも、文章に残るんだね」

 彼が言うと、千夏は頷いた。

「残る。でも、読む人が勝手に埋めることもある」

 悠人は黙った。

「だから、最後は本人に聞いて」

 彼女は言った。

「私は、詩織の代わりに答えられない」

 悠人は頷いた。

 千夏は、少し疲れた顔をした。

「二人とも、私たちに相手のことを聞くんだよね」

「ごめん」

「本人同士で話すより、安全だから」

 その通りだった。

 親友を通せば、拒まれても、少し遠くで受け止められる。相手の表情を見なくて済む。

 悠人は、妻を失うことは何度も経験した。

 妻に本当の気持ちを聞き、望まない答えを受け取ることは、避け続けていた。

 千夏は、机の上の見本紙を片付けた。

「怖くても、聞いて」

 彼は、そうすると答えた。

 11月20日、絵本の見本が届いた。

 『くまとうさぎのふゆ』。

 冬になると、くまは眠る。うさぎは知っている。この冬、くまはもう目を覚まさない。

 うさぎは何度も春をやり直した。何度も、くまを助けようとした。

 最後のページで、うさぎは眠るくまの前に立っていた。

「こんどは わたしが まもるからね」

 見返しに、手書きの献辞があった。

「7時12分の、あなたへ」

 悠人は絵本を机に置いた。

 死ぬのは、くまだった。

 自分が見てきた人生では、いつも、うさぎが死んでいた。

 なぜ、妻は逆の物語を描いたのだろう。

 悠人は胸に手を当てた。

 地下室。バンコク。病室。

 妻が抱きしめると、痛みが引いた。

 そして、彼女が倒れた。

 ずっと目の前にあったことが、初めて一つにつながった。

 悠人は、妻の名前を呼んだ。

 誰もいない事務所で、返事を待つように。


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