第九章 7時12分の君へ
11月21日の朝、詩織は湊のために朝食を作った。
湊は早く出る予定だった。彼女はいつもより早く起きた。卵を焼き、パンを温めた。
湊が台所へ来ると、少し驚いた。
「今日は、早いね」
「目が覚めたから」
彼は椅子に座った。
二人は、仕事の話をした。図書室のこと。ひかりの手術のこと。新しい絵本のこと。
詩織は、どの話にも答えた。だが、明日の夜の話だけは、しなかった。
湊は、食事を終えても、すぐに立たなかった。
「詩織」
彼女は顔を上げた。
「手紙、今、読んでもいい?」
彼女は首を振った。
「明日が終わってから」
湊は、長く黙った。
「明日が終わったら、君はここにいる?」
詩織は答えられなかった。
その沈黙が、答えのようになった。
湊は立ち上がった。
「僕は、君が大切だよ」
彼女は頷いた。
「知ってる」
「知ってるなら、僕が何も聞かなくていい人だと思わないで」
詩織の目に涙が浮かんだ。
「ごめんなさい」
「謝るより、話してほしい」
彼はそう言って、玄関へ行った。
詩織は追いかけた。
だが、何を話せばいいかわからなかった。
胸の奥に、言葉にできない記憶があった。今、あなたと暮らしている人生でも、別の人のもとへ行かなければならない。
その真実は、湊を傷つける。
だが、真実を話さないことも、彼を傷つけていた。
彼女は扉の前に立った。
湊は靴を履き、振り向いた。
「帰ってきて」
詩織は約束できなかった。
彼は詩織を見て、目を閉じた。
扉が閉まった。
詩織はしばらく動けなかった。
翌日の夕方、病院の屋上で詩織に会った。
悠人は手帳と絵本を持っていた。
「覚えてるのか」
詩織は手帳を見た。
「千夏ね」
「交差点。桜の木。バンコク。大阪」
彼女の顔から、笑みが消えた。
「何の話ですか」
「どうして7時12分なんだ」
風が二人の間を通った。
「新歓で、毎回泣いてた。俺を見た瞬間に」
「この人生では会ってません。あなたは来なかった」
悠人は彼女を見た。
「この人生では」
詩織は目を閉じた。
「詩織」
「名前で呼ばないで」
声が崩れた。
「呼ばれたら、全部、言いたくなる」
「言ってくれ」
「言ったら、また無茶をする」
「もう十分、無茶をした」
詩織は首を振った。
悠人は、彼女が自分と同じことをしていると気づいた。秘密を抱え、相手を守るためだと言い、自分だけで決めている。
それでも、その場では最後まで聞けなかった。
「明日だけは、俺に近づかないでくれ」
詩織は長い沈黙のあと、微笑んだ。
「春日さんが、そうしたいなら」
その言葉を、悠人はもう信じられなかった。
屋上で詩織と別れたあと、悠人は病院の階段を下りた。
エレベーターを待つことができなかった。何かをしていないと、彼女の声が頭の中で繰り返された。
名前で呼ばないで。
呼ばれたら、全部言いたくなる。
一階まで下りると、膝が震えていた。彼は壁に手をついた。
この人生では、会っていない。
詩織はそう言った。
この人生。
言い間違いではなかった。彼女は、自分が何を言ったか知っていた。
外へ出ると、夕方の空が低かった。携帯を出し、詩織の番号を開いた。
電話をかければいい。
今、聞けばいい。
指が動かなかった。
真実を聞いたら、自分の7つの人生が、すべて違う意味になる。守ったつもりの家。逃げた国。別れた27年。
それが怖かった。
悠人は携帯をしまった。
近くの喫茶店へ入った。コーヒーを頼み、砂糖を2つ入れた。誰も見ていなかった。見ていても、もう構わなかった。
カップを持つ手が震えた。
隣の席では、年配の夫婦が旅行の話をしていた。どこへ行くか、何を食べるか。夫が行き先を決め、妻が違う場所を言った。少し言い合いになり、最後には二人とも笑った。
悠人は、その普通の相談を聞いていた。
自分たちは、人生を何度もやり直した。
それなのに、死の時刻をどう迎えるか、一度も二人で相談していなかった。
彼は、カップを置いた。
明日、詩織に会ったら、最後まで聞く。
そう決めた。
だが、その決意と、明日は近づくなと頼んだ言葉が、同じ胸の中にあった。
彼はまだ、自分の恐怖を相手のための選択と呼んでいた。
夜、涼介が言った。
「運命が詩織ちゃんを連れてきたんじゃない。あの子が、自分で走ってきたんだろ」
悠人は頷いた。
「何のために走ってくるのか、聞けよ」
「聞いた。言わなかった」
「お前だって、27年言わなかった」
悠人は机の上の絵を見た。手をつないだ、くまとうさぎ。
夜遅く、悠人は母の写真を見た。
京都から持ってきた箱の中にあった。若いころの母。父と並んだ母。大学の入学式で、悠人のネクタイを直している母。
何度も母を失った。
そのたび、最期の日は違った。最後の言葉も違った。けれど、写真の中の母は、同じように笑っていた。
彼は、母の死を避けられなかった人生を、すべて失敗だとは思っていなかった。
一緒に食事をした。病院へ行った。声を聞いた。
それは、確かにあった時間だった。
妻のことになると、どうして、その考えができないのだろう。
彼は写真を戻した。
涼介がまだ事務所にいた。
「帰らないのか」
「お前が帰るまで」
「子どもじゃない」
「子どもより面倒だよ」
親友は椅子を回した。
「明日、どうする」
「ここにいる」
「ひかりちゃんの手術は」
悠人は顔を上げた。
「行くって、言ってたろ」
「言った」
「じゃあ、行けよ」
「7時12分が」
「手術は朝からだ。ずっとここで時計を見てるより、誰かのそばにいろ」
悠人は頷いた。
涼介は鞄を持った。
「俺、明日は千夏といる。お前から電話が来たら出る。でも、ずっと待機してるだけにはしない」
悠人は、ありがとうと言った。
「何の礼だよ」
「自分の生活を、続けてくれること」
涼介は少し驚いた。
「やっと、変な礼を言うようになったな」
二人は笑った。
帰り際、親友が言った。
「お前、詩織ちゃんに全部聞けよ。答えが怖くても」
悠人は頷いた。
扉が閉まった。
事務所に一人になると、彼は初めて、孤独が罰ではないことを感じた。
一人でいることを選んだ。だが、一人で考え続けなければならないわけではなかった。
11月22日、朝から病院へ行った。
ひかりの手術だった。事務所に閉じこもるつもりだったのに、約束を思い出した。一番に、一緒に本を読む。ひかりが勇気を出す日に、自分だけ逃げることはできなかった。
母親が長椅子に座っていた。
「お守りを持っていくって言ってました」
悠人は胸ポケットの画用紙に触れた。
待つ時間は長かった。何度も時計を見た。自分の恐怖と、母親の恐怖は違う。けれど、扉の向こうに大切な人がいることは同じだった。
手術を待つ間、悠人は何度も席を立った。
飲み物を買いに行った。窓の前へ行った。廊下を歩いた。戻ると、ひかりの母親は同じ椅子に座っていた。
彼は、落ち着かない自分を恥ずかしく思った。
母親の方が、彼を見て言った。
「歩いてもいいですよ」
「すみません」
「謝らなくていいです。私も、さっきまで歩いてました」
悠人は座った。
「待つの、難しいですね」
「何もできないから」
彼女は答えた。
何もできない。
悠人はその言葉を何度も聞いた。妻の死の前で、自分も何度も思った。
だが、今は椅子に座っていることにも意味があると感じた。
母親が飲み物を買いに行くとき、荷物を預かった。戻ると、場所を空けた。電話をかける間、廊下で待った。
命を救うことはできない。
それでも、待つ時間を一人きりにしないことはできた。
昼過ぎ、母親がひかりの写真を見せた。
病院の外で撮った写真だった。公園で、口の周りにアイスクリームをつけて笑っていた。
「こんなに元気な日もあるんです」
彼女は言った。
悠人は写真を見た。
病院で会うひかりしか知らなかった。彼女には、病院の外の時間もあった。
詩織にも、悠人の知らない時間がある。
当たり前のことが、また、胸に届いた。
「図書室の話、家でもずっとしてました」
母親は写真をしまった。
「手術のことを話すと怖がるので、図書室のことを話しました」
悠人は頷いた。
「未来の話が、できたんです」
その言葉に、彼は胸ポケットの絵に触れた。
自分は、未来を知っていることを、重荷として抱えていた。
ひかりは、知らない未来を、楽しみにしていた。
彼は、どちらが豊かな時間なのかを考えた。
答えは出なかった。
だが、妻と二人で知らない未来へ行きたいという願いが、初めて、死を避けたいという願いより大きくなった。
待つ時間が長くなったころ、悠人は図書室へ寄った。
誰もいなかった。窓の外は、夕方の色になっていた。
本棚の前に、ひかりが使った椅子があった。少し斜めになっていた。彼は直そうとして、やめた。
誰かが使ったあとだった。
図面どおりに戻すことだけが、よい部屋の状態ではない。
彼は椅子に座った。
子ども用なので、膝が高くなった。少し窮屈だった。窓から見える空の位置が、普段と違った。
ひかりはここから外を見ている。
詩織はここで本を読んだ。
湊はここに子どもたちの未来を置こうとした。
彼は部屋を作った。
だが、この部屋の意味を決めるのは、自分だけではなかった。
机の上にひかりの描いた家の絵があった。
二つの窓。扉。屋根。
家の前に人が二人いた。
悠人はその絵を見た。
二人でいることは、相手の前に立つことだけではない。
同じ方向を見ることでもある。
彼は、妻に近づくなと頼んだ言葉を思い出した。
また、自分だけで決めた。
また、相手を守るためだと思った。
携帯を出した。
詩織へ電話した。
出なかった。
彼は短いメッセージを送った。
「今夜、話したい。全部、聞きたい」
送信したあと時計を見た。
まだ時間はあった。
彼はその時間を信じたかった。待合室へ戻ると、母親はまだ同じ椅子に座っていた。
夕方、手術室の灯りが消えた。
医師が出てきた。無事に終わったと告げた。
母親が泣いた。悠人はその肩を支えた。何も言わずに、しばらく隣にいた。
湊が来た。
「妻が、河川敷へ行きました」
悠人は顔を上げた。
「止めてください」
「あなたなんでしょう。忘れられない人は」
答えられなかった。
「図書室の窓を見て、わかりました。妻が昔から描く家には、同じ窓がある」
湊は目を逸らさなかった。
「僕は、あなたに妻を渡しに来たんじゃありません」
悠人は息を止めた。
「妻の人生は、妻のものです。でも、何が起きているのか、僕にも知る権利はあると思う」
「説明します」
「今日が終わったら、してください。二人で」
悠人は頷いた。
「今は、行ってあげてください。あの人は、あなたを助けに行ったんだと思います」
時計は6時20分。
悠人は走った。
タクシーの中で、涼介に電話した。
「河川敷へ行く」
「行くのか」
「一人で殴っても倒れないって、言っただろ」
涼介は短く笑った。
「俺、いいこと言うな」
「この人生のお前が言った」
「じゃあ、間違いない」
河川敷にはみぞれが降っていた。
桜の下に、詩織がいた。
悠人が階段を上ると、彼女は振り向いた。
「来ちゃだめって」
「君こそ、桐谷さんのそばにいてくれって言った」
「約束はしてない」
「ずるいな」
「うん」
二人の間に10メートルあった。
7時10分。胸が痛んだ。
詩織が傘を投げた。
「悠人くん!」
走ってきた。
その向こうに、ヘッドライトがあった。ワゴン車が滑っていた。凍りかけた路面で、車体が横を向いた。
詩織が手を伸ばした。
悠人の中で、すべての場面が重なった。
運転席から覆い被さった妻。窓の前に立った妻。地下室で抱きしめた妻。大阪で走ってきた妻。
いつも、彼女は自分の前にいた。
「俺だったのか」
死ぬはずだったのは。
7時11分。悠人は詩織の腕をつかんだ。彼女が自分を押す前に、斜面へ押した。
詩織の声が聞こえた。
7時12分。白い光が悠人を飲み込んだ。
路面の冷たさを、頬に感じた。
詩織が抱き起こした。
「なんで。なんで、あなたが」
悠人は彼女の顔を見た。けがはないようだった。
「今度は、まにあった」
詩織の口が震えた。
「その言葉、言わないで」
悠人は笑おうとした。
「ずっと、俺の身代わりに」
彼女は首を振った。涙が悠人の顔に落ちた。
「今度こそって、思ったのに」
悠人は胸ポケットに触れた。濡れた画用紙があった。
「うさぎ、ひとりで頑張りすぎだよ」
詩織が、その手を握った。
「もう一度」
悠人は言った。
「今度は、君に会いに行く。守るためじゃなくて」
「うん」
「一緒に、はじめましてを」
息が浅くなった。彼女の手の感触だけが、はっきりしていた。
「今度は、二人で」
詩織の声が遠くなった。
みぞれが止まった。
悠人は、白い光の中で妻の手を離さなかった。




