第七章 光の入る窓
悠人は依頼を断ろうとした。
「打ち合わせは俺が出る」
涼介は言った。
「お前は図面だけ引けばいい。詩織ちゃんと会わなくていい」
「どうして、こんなことをする」
「お前が27年、自分の人生を設計してこなかったから」
机に患者の子どもたちの写真が並んでいた。一人の少女が、詩織の絵本を抱えていた。
「ひかりちゃん。7歳」
涼介が言った。
「秋に手術がある。それまでに、図書室を作りたいんだって」
悠人は写真を手に取った。
守るための家を作ったことはある。だが、誰かが生きるための場所を、ここ何年も本気で考えていなかった。
図書室の最初の打ち合わせには、病棟の看護師も出席した。
悠人は窓を広くする案を見せた。子どもたちが朝の光の中で本を読める場所。詩織が好きだった洋館の窓を、少し思い出していた。
看護師は図面を見て、すぐに頷かなかった。
「本棚の前に、車椅子が二台来たら、通れますか」
悠人は寸法を見た。
「一台なら」
「一台だけとは限らないんです」
涼介が図面に印をつけた。
別の看護師が言った。
「横になったまま来る子もいます。座れる子だけの部屋にしたくない」
悠人は顔を上げた。
写真で見た子どもたちは、みんな笑っていた。彼は、その笑顔から部屋を考えていた。だが、笑っていない時間にも、その子たちはここにいる。
「見せてもらえますか」
彼は言った。
「普段、どう使っているか」
打ち合わせのあと、談話スペースを見た。
本棚の上段には、誰も取れない本があった。椅子は軽すぎて、立ち上がるときに動いた。窓の前には物が置かれ、外が見えにくかった。
子どもが本を一冊落とした。看護師が拾った。別の子が、同じ本を見たいと言った。
悠人は、図面の中に人を置いていた。だが、実際の人は、図面の通りには動かなかった。
事務所へ戻ると、窓の案を一度消した。
涼介が驚いた。
「お前の好きな窓だろ」
「好きな窓を作る仕事じゃない」
悠人は鉛筆を置いた。
「子どもが使う部屋を作る仕事だ」
言ってから、少し胸が痛んだ。
妻のための家を作ったときにも、同じことを言うべきだった。
自分の恐怖を消す家ではなく、妻が暮らす家。
彼はその違いを、27年かけて学び直していた。
予算の問題もあった。
広い窓。低い本棚。動かしやすい椅子。すべてを入れると、予定を超えた。
悠人は自分たちの報酬を下げようと言った。
涼介は首を振った。
「善意で全部埋めるな」
「子どものためだろ」
「子どものためでも、仕事は仕事だ。俺たちが倒れたら、次の仕事ができない」
悠人は黙った。
涼介は図面を広げた。
「削るんじゃなくて、組み替える。そこがお前の仕事だろ」
二人は夜まで考えた。
既存の棚を使えるところは使った。大きな窓を一枚ではなく、位置をずらした二つにした。家具の形を単純にした。
結果は、最初の案よりよかった。
一人で全部引き受けることは、いつも最善ではなかった。
悠人はそのことを、仕事では理解できた。
妻のことでも理解できるかどうかは、まだわからなかった。
5月、現場の寸法を測りに行った。
ひかりが点滴スタンドを引いて来た。
「おじさん、何してるの」
「図書室を作る準備」
「大きい?」
「そんなに大きくはできない」
彼女の顔が曇った。
「でも、窓を大きくする」
「なんで?」
「本を読むところに、朝の光が入るように」
ひかりは窓を見た。
「朝、好き。夜は、病院の音がいっぱい聞こえるから」
悠人はメジャーを止めた。図面には、そういうことは書いていなかった。
「くまとうさぎの本、知ってる?」
「知ってる」
「うさぎ、ばかだよね。くまが忘れちゃうのに、何回も会いに行く」
「ばかだな」
「でも、かっこいい」
ひかりは笑った。
「図書室ができたら、一番に一緒に読んでね」
小指を差し出された。悠人は約束した。
湊は、図書室の工事中、病棟で小さな読み聞かせの会を開いた。
詩織は別の仕事で来られなかった。代わりに、看護師が本を読んだ。
悠人は、棚の位置を確かめるために残っていた。
子どもたちは、話の途中で口を挟んだ。
くまは、なぜ忘れるのか。うさぎは、なぜ怒らないのか。春は、いつ来るのか。
看護師は、答えを一つに決めなかった。
「どう思う?」
子どもたちに聞いた。
ひかりは、うさぎは怒っていると思うと言った。
悠人は驚いた。
「笑ってるよ」
別の子が言った。
「笑ってても、怒るよ」
ひかりは答えた。
その言葉に、彼は詩織の顔を思い出した。
何度も、笑っていた。
受け入れていた。
だが、怒っていなかったとは限らない。
彼は、妻の優しさを、感情のない従順さと取り違えていたのかもしれなかった。
読み聞かせが終わると、ひかりは本を閉じた。
「くまも、何かすればいいのに」
悠人は頷いた。
「そうだな」
「おじさん、くまの味方?」
彼は少し考えた。
「前は、そうだったかもしれない」
「今は?」
「うさぎの話も、聞きたい」
ひかりは、よくわからないという顔をした。
湊が笑った。
「本を読む人にも、いろんな人生がありますからね」
悠人は、その言葉を聞いて、湊を見た。
彼もまた、この本を、妻と暮らした時間の中で読んでいる。
同じ本が、三人の間で違う意味を持っていた。
屋上で湊と話した。
「春日さんは、ご結婚は?」
「してません」
「お忙しいんでしょうね」
「守りたい人がいて。その人のそばには、いられないので」
言ってから、しまったと思った。
湊は缶コーヒーを開けた。
「妻にも、忘れられない人がいるんです」
悠人は顔を上げなかった。
「平気なんですか」
「平気ではないですよ」
湊の声は穏やかだった。
「一緒に暮らしている人が、自分の知らない場所で悲しんでいる。そこへ行けないのは、寂しいです」
悠人は何も言えなかった。
「でも、僕と過ごした時間まで嘘だったとは思いたくない」
湊は病棟の窓を見た。
「毎年、11月22日に河川敷へ行くんです。誰かを待っているみたいに」
悠人の手の中で、缶がへこんだ。
設計は進んだ。
悠人は朝の光の角度を何度も確かめた。車椅子の子が本棚に手を伸ばせる高さ。点滴スタンドを置いても通れる幅。横になったまま窓の外を見られる椅子。
窓を左右に少しずらした。
涼介が図面を見た。
「お前の癖だな」
「昔、好きな人に話したんだ」
「この人生で?」
「違う」
涼介は、それ以上聞かなかった。
7月、詩織が図面を見た。
千夏は彼女の前にコピーを広げた。詩織は窓の位置に指を置いた。
「誰が描いたの」
「真壁と、春日くん」
詩織は署名をなぞった。
「近くに、いたんだ」
千夏はその声を聞いて、27年前の雨の日を思い出した。食べられなくなった友人。何も説明しない男。
「まだ好きなの?」
詩織は図面から目を離さなかった。
「会わなきゃいけないの。今年」
「湊さんは?」
「大切な人」
「じゃあ、春日くんは?」
詩織は答えなかった。
千夏は怒りたかった。けれど、友人の指が震えているのを見て、言葉を飲み込んだ。
図書室の計画が固まるころ、悠人はひかりの母親と話した。
母親は、いつも子どもの前では明るかった。だが、その日は廊下の窓の前で、黙って立っていた。
悠人は声をかけるか迷った。
母親の方が気づいた。
「図書室、楽しみにしています」
「もう少しです」
「ひかりが、家の部屋も変えたいって言うんです。窓の前に本棚を置かないように」
悠人は笑った。
「模型で、何度も試してました」
母親も笑った。
そのあと、二人は黙った。
悠人は、手術の話を聞きたくなった。だが、母親が話すまで待った。
「帰ったあとの部屋のことを話すと、嬉しいんです」
彼女は言った。
「でも、怖くもなる」
悠人は頷いた。
「もし帰れなかったら、その部屋を、どう見ればいいんだろうって」
彼は、妻の机を思い出した。
誰かが戻るために作った場所が、その人の不在を示す場所になる。
その怖さを、知っていた。
「怖いですね」
悠人は言った。
大丈夫です、とは言わなかった。
母親は、少し息を吐いた。
「皆さん、大丈夫って言ってくれるんです。ありがたいんですけど」
「はい」
「大丈夫じゃないかもしれないって、考える自分が、悪い母親みたいに思えて」
悠人は首を振った。
「大切だから、怖いんだと思います」
母親は窓の外を見た。
「春日さんも、誰かのことが怖いんですか」
彼は、少し遅れて頷いた。
「はい」
それ以上は話さなかった。
二人は、違う人を心配していた。違う事情を抱えていた。だが、窓の前で黙って立つ時間を、少しだけ分け合えた。
その夜、悠人は図面に小さな変更を加えた。
子どもの椅子の横に、大人が座れる場所を作った。
子どもだけが、図書室を必要としているのではない。
待つ人にも、息をつける場所が必要だった。
涼介は変更を見て、頷いた。
「いいな」
悠人は、久しぶりに、自分の仕事を好きだと思った。
工事が始まると、ひかりは毎週、進み具合を聞きに来た。
「今日は何ができた?」
「床」
「昨日も床って言った」
「床にも、いろいろあるんだ」
彼女は納得しなかった。
悠人は小さな模型を持ってきた。ひかりは本棚を指で動かそうとした。
「取れる?」
「取れない」
「本当の本棚も?」
「本当のは動かせる」
「じゃあ、こっちも動く方がいい」
悠人は笑った。
翌週、模型の本棚を動かせるようにした。ひかりは嬉しそうに、窓の前へ置いた。
「そこだと、光が入らない」
「じゃあ、ここ」
彼女は何度も置き直した。
悠人は見ていた。自分の図面を、7歳の子が変えている。以前なら、説明して元に戻したかもしれない。
今は、なぜそこへ置きたいのかを聞いた。
「友達と一緒に見るから。向こうからも来られる方がいい」
彼はその位置を覚えた。
ある日、ひかりが来なかった。
看護師に聞くと、今日は体調がよくないと言われた。悠人は模型を持ったまま、廊下に立った。
病室へ行っていいか尋ねた。今は休ませたい、と言われた。
彼は頷いた。
会いたいから会うのではない。相手の時間がある。
当たり前のことを、ここでは何度も教えられた。
模型を看護師に預けた。帰り道、彼は自分がひかりの病気についてほとんど知らないことに気づいた。湊に説明を聞いても、治療を決めるのは自分ではない。
自分にできることは、部屋を作ることだった。
できることが限られているのは、無力であることと同じではなかった。
翌週、ひかりが戻ってきた。
「おじさん、帰っちゃったんだって」
「休んでたから」
「模型、見た」
「どうだった」
「本棚、いい」
彼女はそう言って、小さな折り紙を渡した。
くまだった。
悠人は受け取った。折り目が少し曲がっていた。
「ありがとう」
「おじさん、くまに似てる」
その言葉に、彼は少しだけ息を止めた。
詩織も、同じことを言った。
ひかりは彼の顔を見て、首を傾げた。
「嫌だった?」
「違う。嬉しい」
彼は折り紙を鞄の中の、つぶれない場所に入れた。
九月、湊が工事中の部屋を見に来た。
「妻が、窓を気に入っていました」
悠人は壁を見た。
「よかったです」
「春日さん」
呼ばれて、振り向いた。
湊は少し考えてから言った。
「仕事を頼んだこと、迷惑でしたか」
「いえ」
「時々、帰りたそうな顔をするので」
悠人は否定しようとして、やめた。
「少し、事情があって」
「妻に関係することですか」
彼は答えられなかった。
湊は、目を逸らさなかった。
「僕も、知らないことが多いんです。妻と十七年暮らしていても」
その言葉には、怒りが少し混じっていた。
「でも、知らないまま大切にすることと、知らなくていいと思うことは、違う気がします」
悠人は頷いた。
「そうですね」
湊は、まだ何かを言いたそうだった。だが、病棟から呼ばれ、戻っていった。
悠人は窓の位置を確かめた。
自分が残した線が、別の夫婦の暮らしにも触れている。
彼は、そのことを知らないふりでは済ませられなくなっていた。
完成を前に、図書室の名前を決めることになった。
病院の担当者は、いくつかの案を持ってきた。悠人は、建築の仕事としては、名前まで考えたことがなかった。
ひかりは、窓の部屋、と言った。
別の子は、本の家、と言った。
看護師は、どちらもいいと言った。
湊は、子どもたちが呼びやすい名前がいいと言った。
詩織は、紙に二つの名前を書いた。文字の横に、小さな窓と本を描いた。
子どもたちは、絵を見て、また別の案を出した。
話は、なかなかまとまらなかった。
悠人は、決めてしまいたくなった。工事の予定があり、看板を作る時間も必要だった。
涼介は、もう少し待とうと言った。
「名前を呼ぶのは、俺たちじゃないから」
悠人は頷いた。
最後には、正式な名称とは別に、子どもたちが好きに呼べることになった。
ひかりは、窓の部屋、と呼び続けた。
別の子は、本の家、と呼んだ。
同じ場所に、二つの名前があった。
悠人は、それで困らないことを知った。
一つに決めることで、わかりやすくなることはある。だが、一つに決めないことで、残せるものもある。
妻を愛している。湊も妻を愛している。妻は、湊との暮らしに幸福があった。
その事実を、一つの正しい恋の物語にまとめようとすれば、誰かの時間が消えてしまう。
彼は、名前の紙を見ながら、そんなことを考えた。
完成の日、子どもたちは、好きな名前で部屋を呼んだ。
悠人は、どちらにも返事をした。
10月、図書室が完成した。
朝の光が床を横切り、小さな椅子の上に落ちた。ひかりが車椅子で一番前に座った。
悠人は入口の柱の陰にいた。
詩織が読み聞かせに来た。
27年ぶりに近くで見る彼女は、目尻に小さな皺があった。声は変わっていなかった。子どもたちに話しかけるときだけ、少しゆっくりになる。
「あるところに、冬になると全部忘れてしまう、くまがいました」
悠人は目を閉じた。
「うさぎは、春になるたび、くまに会いに行きます。はじめまして、って」
ひかりが振り向いて、悠人に手を振った。
「何回でも、好きな人に会えるから」
詩織の声が少し震えた。
読み聞かせのあと、悠人は急いで廊下に出た。
「あの」
足が止まった。
詩織が近づいてきた。
「素敵な図書室を、ありがとうございました」
「いえ」
「この窓、朝日が子どもたちの手元に落ちるんですね」
「そういう癖なんです」
「癖」
彼女はその言葉を、確かめるように繰り返した。
二人の間は2メートル。手を伸ばしても届かない。けれど、27年の距離に比べれば、あまりに近かった。
詩織は悠人の顔を見た。
「どこかで、会いましたか」
悠人は息を止めた。
その問いが、大学で会ったことを指していないと、なぜか思った。
窓の外で、桜の葉が一枚落ちた。




