第六章 遠くから、君を
結婚式の招待状は、涼介の封筒に入って届いた。
「お前の分も出欠出しといた。来い」
悠人は封筒を伏せた。翌朝、表に返した。出席しない理由を考え、どれも嘘だとわかった。
教会では最後列に座った。柱の陰だった。隣の千夏は、悠人を見てすぐに顔を背けた。
「よく来られたね」
涼介が止めた。
「詩織、あのあと一週間、ご飯食べなかったんだよ」
悠人は頭を下げた。
「すみません」
扉が開いた。
白いドレスの詩織が現れた。
何度も見た姿だった。だが、祭壇の前にいるのは自分ではなかった。自分の隣にいるのは妻ではなく、怒っている妻の親友だった。
湊は詩織を見て、深く息をした。緊張しているのがわかった。悠人はその表情を見て、少しだけ救われた。彼女を大切にしてくれる人なのだ。
誓いの言葉。指輪。拍手。
悠人は手を上げた。二度、三度、叩いた。音が小さかった。
二人が戻ってきたとき、詩織と目が合った。
彼女の足が一瞬止まった。
湊が何かを尋ねた。詩織は首を振り、微笑んだ。光の中へ歩いていった。
裏庭で、悠人はネクタイを緩めた。
涼介が来た。
「ほんとは好きなんだろ」
「振ったんじゃない。逃げたんだ」
「何から」
「俺がそばにいたら、彼女は死ぬ」
涼介は笑わなかった。意味はわからなくても、冗談でないことはわかったらしい。
その夜、悠人はすべて話した。
未来を証明するために、まだ起きていない出来事をいくつか書いた。涼介は紙を折って財布に入れた。
「すぐには信じられない」
「わかってる」
「でも、お前が27年を6回生きたって言うなら、今の俺より年上なんだな」
「そうなる」
「そのわりに、飯の食い方は変わんねえ」
悠人は笑った。久しぶりに、胸を痛めずに笑った。
涼介はグラスを置いた。
「お前の人生、どこにある」
「彼女が生きてる世界に、俺もいる。それで十分だ」
「嘘つけ」
言い返せなかった。
「運命なんて、一人で殴っても倒れねえんだよ。二人で殴れば、倒れるかもしれないだろ」
「お前と?」
「俺でもいい。でも、お前がいちばん話すべき相手、俺じゃないだろ」
悠人はグラスの氷を見た。
詩織に話すことは、彼女の人生を取り戻すことではなく、彼女の今の幸福を壊すことになると思った。
だから、話さなかった。
結婚式のあと、千夏から電話が来た。
「涼介に、何か話した?」
悠人は答えを選んだ。
「少し」
「私には言えないこと?」
「まだ、うまく説明できない」
千夏はしばらく黙った。
「詩織のこと、好きなんだよね」
悠人は否定しなかった。
「だったら、何で」
同じ問いを、何度も聞かれた。誰もが、同じところで立ち止まった。好きなら、なぜ離れるのか。
彼は、好きだから、としか答えられなかった。
「あなたが傷ついてるのは、わかった」
千夏が言った。
「今日、教会で見て。でも、詩織も傷ついた。そのことは、忘れないで」
「忘れてません」
「湊さんも、これから傷つくかもしれない」
悠人は目を閉じた。
自分が消えれば、誰も傷つかないと思っていた。だが、消えることにも跡が残った。
「私、あなたを責めたいだけじゃないの」
千夏の声が少し柔らかくなった。
「何があったのか、わからないから、責めるしかなくなるんだよ」
悠人は、申し訳ないと言った。
彼女は、謝るだけじゃ何もわからない、と答えた。
その電話のあと、悠人は涼介に頼んだ。
「俺のこと、詩織に話さないでくれ」
涼介はすぐには返事をしなかった。
「わかった。でも、俺はお前の監視役じゃない。あの子の人生を、お前に報告するだけの人にもなりたくない」
悠人は頷いた。
それから手紙は少なくなった。
少なくなったことを、彼は寂しいと思った。だが、寂しさを埋めるために親友の時間を使ってはいけないことも、少しずつわかり始めた。
2011年、悠人は仕事で大きな失敗をした。
古い建物の改修で、現場の状態を見誤った。図面を直す必要があり、工期が延びた。家主は怒った。大槻は、言い訳をせずに頭を下げた。
悠人も頭を下げた。
事務所に戻ると、大槻は彼を叱った。
「知ってるつもりで、見てへんかったやろ」
その言葉は、仕事の話だった。だが、悠人には別の意味でも刺さった。
前の人生で見たことがある。だから、今も同じだと思った。
建物も、人も、そうではなかった。
悠人は翌日、もう一度現場へ行った。柱の一本一本を見た。床の下を覗いた。家主の話を聞いた。
修正した図面は、前より時間がかかった。
その仕事が終わった夜、彼は詩織の本を開いた。うさぎが、くまに会いに行くページだった。
自分は、彼女を知っているつもりで、何を見ていなかったのだろう。
問いは浮かんだ。
答えを求めるために東京へ行くことは、まだできなかった。
歳月が流れた。
悠人は町家の再生で賞を取った。授賞式には一人で行った。テレビで詩織の読み聞かせを見た。子どもたちが笑っていた。画面の中の彼女は、ちゃんと年を取っていた。
そのことが嬉しかった。
涼介と千夏が結婚した。今度は未来の助言なしだった。悠人はスピーチで泣いた。千夏は、そんなに泣くなら自分も結婚しなよ、と言った。
悠人は笑ってごまかした。
毎年11月22日、鴨川の橋で7時12分を待った。まだ2026年ではない。それでも時計を見るのをやめられなかった。
詩織と湊の最初の家は、病院に近い小さなマンションだった。
湊は帰りが遅かった。詩織も原稿を描いていると、夜と朝の区別が曖昧になった。二人は食事の時間を決めたが、守れない日も多かった。
冷蔵庫に、メモを貼った。
「スープ、温めてください」
「今日は先に寝ます」
「新しい本、机に置きました」
湊は、最後のメモを見ると、夜中でも本を開いた。
翌朝、詩織に感想を言った。
「ここ、好きだった」
彼が指したのは、うさぎが一人で道を歩くページだった。
詩織は少し驚いた。
「どうして」
「会いに行くって、相手がいるだけじゃできないでしょう。歩く方にも、勇気がいる」
彼女は本を見た。
湊は、物語を自分の言葉で読んだ。悠人のように、絵の中の家や窓を先に見つける人ではなかった。
その違いが、彼女には新しかった。
ある夜、詩織が締め切りに間に合わず、泣いた。
湊は、どうすればいいかをすぐに言わなかった。
「話す? それとも、静かにしてる方がいい?」
彼女は、静かにしていてほしいと答えた。
湊は頷き、台所で食事を作った。鍋の音がした。彼女は机に向かった。
しばらくすると、泣き止んだ。
食事のあと、彼女は言った。
「ありがとう」
「何もしてない」
「何も決めないでいてくれた」
湊は、少し考えた。
「決めてほしい日もあるでしょう」
「ある」
「そのときは、言って」
彼女は頷いた。
二人の暮らしには、確かに幸福があった。
それを、悠人を忘れられないという理由で、全部偽物にしてはいけないと思った。
だが、幸福があるからといって、秘密が消えるわけではなかった。
11月22日になると、詩織は河川敷へ行った。
湊は、最初は一緒に行こうと言った。彼女は、一人で行きたいと答えた。
彼は受け入れた。
3年目にも、5年目にも、同じやり取りをした。
10年目、湊はもう誘わなかった。
詩織は、その変化を寂しいと思った。
自分が断り続けたのに。
その矛盾を、彼女は言えなかった。
ある年、河川敷から帰ると、食卓に二つの湯呑みがあった。
湊は眠っていた。仕事で疲れていたのだろう。彼女は起こさなかった。
湯呑みの一つは冷めていた。
彼女はそれを温め直した。
自分が守ろうとしている人は、遠くにいる。
自分が今、待たせている人は、目の前にいる。
その二つの事実を、同時に見なければならなかった。
詩織は、湊の肩に毛布をかけた。
彼が目を開けた。
「おかえり」
彼女は、ただいまと答えた。
その言葉を、あと何回言えるのか、数えないようにした。
そのころ東京では、詩織が毎年同じ河川敷に通っていた。
湊は、帰ってきた妻にお茶を淹れた。
「今年も桜の木?」
「ごめんね」
「年中行事だね」
彼はそう言って笑った。詩織は湯呑みを両手で包んだ。
「来年、どうしても行かなきゃいけない場所があるの」
湊は急須を置いた。
「その人のところ?」
詩織は頷けなかった。否定もできなかった。
結婚前、忘れられない人がいると伝えていた。湊は、その人の分まで幸せにするとは言わなかった。自分の分だけ、幸せにさせてほしいと言った。
その言葉に、彼女は救われた。
同時に、救われるたび、彼を傷つけているような気がした。
「何も聞かずに、行かせてくれる?」
湊はしばらく窓を見ていた。
「聞かないことと、何も感じないことは、違うよ」
詩織の手が止まった。
「ごめんなさい」
「謝ってほしいわけじゃない。帰ってきてほしいんだ」
彼女は返事ができなかった。
2015年、大槻が現場を減らすと言った。
体が以前のようには動かなくなったのだと、笑って説明した。
悠人は、もっと手伝うと言った。
大槻は首を振った。
「手伝ってもらうのは、助かる。でも、減らすのは、俺が決めたことや」
彼は黙った。
大槻は、作業場の棚を見た。
長年使った道具が並んでいた。柄の色が変わった金槌。何度も研いだ刃。名前の消えかけた箱。
「使わへん道具が増えたら、若い人に渡した方がええ」
悠人は、古い定規をもらった。
端に、小さな傷があった。
「これ、まだ使えますね」
「使えるから、渡すんや」
大槻は笑った。
悠人は、礼を言った。
その定規で、最初に描いたのは、古い家の窓だった。
前の人生の記憶にはない仕事だった。
自分がこの人生で出会った人から受け取った道具で、この人生の建物を描く。
そのことが、彼には大切だった。
繰り返しの中にも、初めてのことはあった。
すべてを前の人生の代用品にしなくてもよかった。
大槻は数年後に亡くなった。
悠人は葬儀へ行った。家族に、仕事でお世話になったと伝えた。定規のことを話すと、息子が、父は道具を人に渡すのが好きだったと言った。
悠人は頷いた。
彼は、師を救うために巻き戻そうとは思わなかった。
その人が生きた時間を、消したくなかった。
妻に対しても、いつか同じように考えられるのか。
彼は、答えを出さなかった。
2018年、悠人の母が亡くなった。
この人生では、検査を早めに勧めた。病院へも通った。できることをしたつもりだった。それでも、別れは来た。
葬儀の帰り、涼介が京都まで一緒に来た。
部屋に入ると、親友は冷蔵庫を開けた。
「何もねえな」
「買い物してない」
「いつから」
悠人は答えなかった。
涼介は近くの店へ行き、食材を買ってきた。台所で鍋を探し、見つからず、悠人に聞いた。
「どこ」
「下」
「下って、全部下だろ」
二人は少し笑った。
鍋が煮えるまで、涼介は母の話をした。大学のころ、悠人の実家で食事をご馳走になったこと。何度もおかわりを勧められたこと。金髪を見て、頭皮は大丈夫なのかと真顔で聞かれたこと。
悠人は忘れていた。
母のことを思い出すと、最期の病室ばかりが浮かんだ。涼介は、その前の母を覚えていた。
「お前のお母さん、よく笑ったよな」
「うん」
「お前の話で」
悠人は頷いた。
食事のあと、涼介は流しに皿を置いた。
「詩織ちゃん、来たがってた」
悠人は顔を上げた。
「千夏から聞いた。お母さんのこと、覚えてるって」
この人生で、詩織が母に会ったことはなかったはずだった。
悠人は、その矛盾をすぐに考えなかった。涼介が言い間違えたのだと思った。大学のどこかで会ったのかもしれない、とも思った。
「来なくてよかった」
彼は言った。
涼介は、少しだけ眉を寄せた。
「本当に?」
悠人は頷いた。
親友はそれ以上聞かなかった。
その夜、悠人は母の遺品を整理した。古い写真の中に、大学時代の自分がいた。隣に涼介がいた。詩織はいなかった。
別の人生の写真には、彼女がいた。
その写真は、もうどこにもなかった。
記憶だけが残ることは、保存されることではなかった。見せることも、分けることもできない。覚えている自分がいなくなれば、全部消える。
悠人は写真を箱へ戻した。
2020年の冬、悠人は、仕事の帰りに小さな食堂へ通うようになった。
店主は、彼が何をしている人か、最初は知らなかった。いつも同じ席に座り、同じ定食を頼む客として覚えた。
ある日、店の窓の建て付けが悪いという話になった。
悠人は見た。古い木枠が少し歪んでいた。
「直せる?」
店主が聞いた。
「僕が直接は。でも、頼める人はいます」
彼は職人を紹介した。
窓が直ると、店主は、これで冬が少し楽になると言った。
悠人は、いつもの席で食事をした。
新しい窓から、通りが見えた。仕事帰りの人が歩いた。自転車が止まった。店の灯りが、外へ少し広がった。
店主は、代金を少し安くしようとした。
悠人は断った。
「紹介しただけです」
「それが、助かったんだよ」
彼は礼を言った。
その店で、彼は何度も食事をした。
妻の本を読んだ日もあった。仕事に失敗した日もあった。母を思い出して、黙っていた日もあった。
店主は、詳しく聞かなかった。
「今日は、いつもの?」
そう聞いた。
悠人は頷いた。
自分の人生の全部を説明しなくても、座れる場所がある。
そのことが、彼を支えた。
東京へ戻る前、彼は店へ挨拶に行った。
店主は、寂しくなると言った。
悠人も、寂しいですと答えた。
京都の27年は、妻のいない空白だけではなかった。
そこにも、人がいた。仕事があった。温かい食事があった。
その時間を、妻に会えた喜びのために、なかったことにしてはいけなかった。
2022年、町家の仕事で賞を取った。
授賞式のあと、会場の外で写真を撮った。ほかの受賞者には家族がいた。悠人は同僚に撮ってもらった。
携帯の画面を見て、送る相手を探した。
涼介へ送った。すぐに、おめでとう、と返ってきた。千夏からも返事が来た。
そのあと、悠人は詩織の連絡先を開いた。
送らなかった。
ホテルへ戻り、賞状を机に置いた。
嬉しかった。確かに嬉しかった。だが、その嬉しさを一番に伝えたい相手が、世界のどこかで別の暮らしをしている。
彼は窓を開けた。
街の音が入ってきた。
遠くから見守るだけで十分だと、何度も言った。その言葉は、願いであって、事実ではなかった。
2026年4月、東京へ戻る日、悠人は京都の部屋の鍵を返した。
管理人は、長かったですね、と言った。彼は、はい、と答えた。
部屋の中は空だった。机を置いた場所に、床の色の違いが残っていた。窓の下に、古い釘の穴があった。詩織の本の案内を、一度だけ壁に貼った跡だった。
彼は、その穴を指で触れた。
ここで、何度も妻を思い出した。何度も、忘れようとした。仕事をし、食事をし、風邪をひき、母を失い、師を失った。
妻のいない人生を選んだつもりだった。
だが、妻のいない人生だけを生きたわけではなかった。
管理人が、窓を閉めた。
「次の人が、来週入ります」
悠人は頷いた。
自分の時間が終わった場所で、別の人の時間が始まる。
それは、寂しいことだった。だが、悪いことではなかった。
駅へ向かう前に、食堂へ寄った。店主は、弁当を作っていた。
「電車で食べな」
悠人は代金を払おうとした。店主は、今日はいいと言った。
彼は礼を言った。
袋は温かかった。
電車の中で、弁当を開けた。いつもの味だった。彼は、ゆっくり食べた。
東京へ近づくほど、胸が重くなった。
詩織に会うかもしれない。会わないかもしれない。彼女が生きている街へ戻る。
そのことだけで、27年の決意が揺れた。
携帯に、涼介からメッセージが来た。
「着いたら、連絡しろ」
悠人は、わかったと返した。
今の人生の親友が、今の自分を待っていた。
彼は、窓の外を見た。
知らない建物が増えていた。知っている道が変わっていた。
時間は、彼が立ち止まっている間にも、進んでいた。
彼は、その進んだ街へ、ようやく戻った。
東京に着くと、悠人は涼介に連絡した。
涼介が共同事務所を開こうと言った。京都で一人きりの悠人を放っておけない、と。
「今年だけは、東京にいたくない」
「だからだよ。一人で待つな」
悠人は折れた。詩織に会わなければいい。東京は広い。
引っ越しの段ボールを開けていると、最初の依頼人が来た。
桐谷湊だった。
「小児病棟に、子どもたちの図書室を作りたいんです」
悠人は手にした模型を落とした。
湊は拾って机に置いた。
「妻に監修を頼んでいます。絵本作家で、水野詩織という名前で描いています」
悠人は涼介を見た。親友は目を逸らさなかった。
逃げ続けた27年の終わりに、運命は、いちばん優しい顔をして扉を叩いた。




