第五章 出会わない人生
河川敷の桜は、満開だった。
音の割れたラジカセが、古い曲を流していた。新入生たちが紙コップを手に、ぎこちなく笑い合っていた。
7回目の春。
その花見に、悠人の姿はなかった。
桜の木の下に、詩織が立っていた。
彼女は何度も、何度も、土手の階段の方を振り返った。人が下りてくるたびに顔を上げ、違う人だとわかると、また視線を落とした。
「水野さん、だっけ? 誰か待ってるの?」
声をかけたのは、千夏だった。のちに詩織の親友となる彼女も、この日はまだ、名前を覚えたばかりの同級生だった。
「……ううん。来るはずの人が、いて」
「彼氏?」
「まだ、会ったこともない人」
「何それ」
詩織は腕時計を見た。ラジカセの曲が、終わった。
少し離れたところで、涼介がポケットベルを睨んでいた。
「悠人のやつ、何してんだよ。絶対行くって言ってたくせに」
詩織は、その名前に、はっと顔を上げた。
「……今、悠人って」
「ん? ああ、同じ学科のツレ。来るって言ってたんだけどな」
詩織は、しばらく黙り込んだ。
やがて、小さく、小さく、つぶやいた。
「……そっか。今度は、そうするんだね」
「え?」
「なんでもない」
詩織は桜を見上げた。花びらが一枚、頬に落ちた。
彼女はそれを払おうともせず、ただ、目を閉じた。
同じ日の夕方、悠人はカーテンを閉め切った部屋で、膝を抱えて座っていた。
ドアを激しく叩く音がした。
「悠人! いるんだろ! なんで来なかったんだよ!」
悠人は答えなかった。
「……可愛い子、いっぱいいたのによ。お前の好きそうな、絵描いてる子とか」
悠人は強く目をつむった。
「……具合悪いなら、言えよな。ポカリ、置いとくぞ」
ドアの外で、何かを置く小さな音がした。足音が遠ざかっていった。
悠人は、ドアに額をつけ、声を殺した。
詩織と出会わない。
それだけを、彼はこの人生の目標にした。
生まれて初めて、愛する人から逃げるための人生だった。
机の上にノートを置いた。
「会わない」
一行だけ書いた。その下に、理由を書こうとした。
「君を生かすため」
書いてから、消した。
その言葉を見ていると、自分が正しいことをしていると思い込めそうだった。
正しいかどうかは、まだわからなかった。
彼は、消し跡のある紙を閉じた。
7度目の人生で、悠人は図書館の絵本の棚に近づかなかった。
食堂では壁に向かって座った。サークルを辞めた。涼介には、勉強に集中したいと言った。
「お前、そんな真面目なやつだったか」
親友は笑った。何も知らない笑いだった。
一週間後、建築書の棚で詩織に会った。
「あの。春日くん、ですよね」
彼女は絵本を抱えていた。
「文学部の、水野です。新歓、来なかったですよね。真壁くんが、探してました」
「……興味なかったから」
「そうですか」
悠人は頷いた。顔を見ないようにした。
「この絵本、知ってますか」
彼女が表紙を見せた。
「知らない」
「家が、季節を見てるお話で」
「興味ないんだ」
声が硬くなった。詩織の指が、本の端を握った。
「そうですか」
悠人は歩き出した。背中に彼女の視線を感じた。足が、重かった。
それでも彼女は何度か話しかけた。学内の掲示板の前。食堂の入口。雨の日の正門。
「どうして避けるの」
6月の雨の中で、詩織は傘を差していなかった。
「避けてない」
「目が合うと、泣きそうな顔をする」
悠人は傘の柄を握った。抱き寄せたかった。濡れた肩に上着をかけたかった。
「君みたいな人、苦手なんだ」
詩織が動かなくなった。
「人の心に、ずかずか入ってくる人。迷惑なんだよ」
自分の声を聞くのが苦しかった。けれど、やめなかった。
「もう話しかけないでくれ」
雨が彼女の髪から落ちた。
詩織は、ゆっくり頷いた。
「……うん。わかった。春日くんが、そうしたいなら」
その言葉を、何度聞いたことだろう。
結婚式の日を変えたとき。家を建てたとき。外国へ行ったとき。病院に入ったとき。
悠人は、妻が何でも受け入れてくれる人なのだと思っていた。だが、今の彼女の顔を見て、初めて気づいた。受け入れるたび、何かを飲み込んでいたのかもしれない。
「ごめんなさい」
詩織は頭を下げた。
謝るのは自分だった。そう言えなかった。
彼女が去ったあと、悠人は傘を落とした。追いかけようとする足を、拳で叩いた。
雨の日に詩織を拒んだあと、悠人は涼介に呼び出された。
親友は、食堂の奥の席にいた。いつものように笑わなかった。
「何を言った」
悠人は、答えなかった。
「詩織ちゃん、千夏のところにいる。ずっと泣いてる」
彼は、机の下で拳を握った。
「俺に言うことじゃない」
涼介の顔が変わった。
「お前が泣かせたんだろ」
悠人は頷いた。
「謝る」
「謝れば、戻るのか」
彼は首を振った。
涼介は、椅子に深く座った。
「嫌いなら、嫌いでいい。でも、お前、嫌いな顔してない」
悠人は窓を見た。
雨がまだ降っていた。
「何があったのか、言えないのか」
彼は頷いた。
親友は、長く黙った。
やがて、食堂の人が皿を下げに来た。二人は少し体をずらした。周りの席では、学生たちが普通に話していた。
悠人は、その普通の中に戻れない自分を感じた。
涼介が言った。
「俺、お前の味方ではいたい。でも、何をしても味方するとは言えない」
彼は顔を上げた。
「わかってる」
「詩織ちゃんを傷つけたことは、俺も嫌だ」
「うん」
「でも、お前を一人にしていいとも思えない」
悠人は、目を閉じた。
親友は、正しい答えを持っていなかった。
それでも、両方を見ようとしていた。
そのことが、彼にはありがたかった。
秋、京都の大学へ移る手続きをした。
東京にいると、会いたくなる。会えば、また始まる。離れるには、距離が必要だった。
翌年の3月、涼介が駅まで見送りに来た。
「何考えてるのか、全然わかんねえ」
「頼みがある」
「何だよ」
「水野詩織って子。幸せかどうか、たまに教えてくれ」
涼介は口を開き、閉じた。
「振った相手だろ」
「頼む」
「好きなのか」
悠人は答えなかった。
涼介は深く息を吐いた。
「月に一回、手紙書く。電話だと、お前、途中で切りそうだから」
新幹線が動き出した。悠人は窓の外を見なかった。
京都に着いた最初の夜、悠人は荷物をほどかなかった。
段ボールを机代わりにして、駅で買った弁当を食べた。味がしなかった。箸を置き、窓を開けた。細い路地に、自転車が一台止まっていた。どこかの家で食器を洗う音がした。
東京と違う音だった。
違う音の中にいれば、妻を思い出さずに済むと思っていた。だが、食器の音を聞くと、詩織が皿を拭く姿を思い出した。窓を閉めると、彼女が窓を開ける姿を思い出した。
場所を変えても、記憶は置いてこられなかった。
翌朝、涼介から電話が来た。
「着いたか」
「着いた」
「飯は」
「食べた」
「何」
「弁当」
「今日の朝は」
悠人は答えなかった。
涼介は、ため息をついた。
「駅のパン屋、もう開いてるだろ。買ってこい」
「母親かよ」
「母親に言うぞ」
悠人は笑った。笑ったあと、涙が出た。
涼介は気づいたようだったが、何も聞かなかった。
「昼も食えよ」
電話が切れた。
悠人はパンを買いに行った。店員に二つですかと聞かれ、反射的に頷いた。袋を受け取ってから、一人なのだと気づいた。
部屋に戻り、一つを食べた。もう一つは夕方まで机にあった。
京都の最初の冬、悠人は風邪をひいた。
熱が出て、授業へ行けなかった。布団の中で、窓の外が暗くなるのを見ていた。
前の人生では、詩織が薬を買ってきた。水を置き、食べられるものを作った。彼は、それを当然のように受け取った。
今は、自分で起きなければならなかった。
台所へ行き、水を飲んだ。冷蔵庫を開けた。何もなかった。
涼介に電話しようとして、やめた。東京から来てもらうようなことではない。
近くの店へ行った。
歩くだけで疲れた。買い物袋が重かった。部屋へ戻ると、しばらく床に座った。
妻がしてくれたことは、愛情という大きな言葉だけではなかった。
店へ行く。水を置く。洗い物をする。
具体的な時間と、具体的な手間だった。
彼は、そのことを失ってから知った。
翌日、母から電話が来た。
声を聞いて、風邪だと気づかれた。
「ちゃんと食べた?」
「少し」
「一人だからって、適当にしないで」
悠人は頷いた。
母は、近くに誰かいるかと聞いた。
彼は、いると答えた。大学の人たち。仕事で会った人たち。
だが、頼ることができるかどうかは、別だった。
数日後、同じ授業の学生が、資料を持ってきた。
「先生が、渡してって」
彼は礼を言った。
相手は、机の上の食べ物を見て、笑った。
「これだけ?」
悠人は頷いた。
「次、買い物行くとき、何か買ってきますよ」
彼は、お願いしますと言った。
その言葉を言うまで、少し時間がかかった。
妻を守るために一人になることを選んだ。
だが、誰にも助けてもらわないことまで、選ぶ必要はなかった。
新しい大学では、誰も彼を知らなかった。
若い学生たちが将来の話をした。どんな建物を作りたいか。どこで働きたいか。海外へ行きたいか。
悠人は、どの質問にも答えられなかった。
彼はすでに、建築士になった。事務所を開いた。家を建てた。外国で働いた。けれど、今の自分の将来には、妻がいなかった。
将来を失うことは、仕事を失うことではなかった。
誰に、完成したものを見せたいのか。その相手がいないことだった。
製図室で、彼は夜遅くまで線を引いた。図面に集中している間だけ、時間が進んだ。集中が切れると、また1999年の雨の日へ戻った。
君みたいな人、苦手なんだ。
自分の声が、耳の奥に残っていた。
あの言葉を消すために、もう一度戻ることはできなかった。戻れば、また彼女に会ってしまう。
悠人は、鉛筆を強く握った。
線が濃くなりすぎた。消しゴムで消すと、紙が毛羽立った。
消した跡は、なくならなかった。
京都では、古い町家の改修を学んだ。柱の傷。土壁の匂い。何代もの人が暮らした家には、自分が設計した頑丈な家になかった柔らかさがあった。
壊れないことと、生きられることは違う。
職人の一人が、古い梁を撫でながら言った。
「傷があるから、使い方がわかるんや」
悠人はその言葉を覚えた。
町家の現場で、悠人は棟梁の大槻に会った。
大槻は、図面を見てから、悠人の手を見た。
「線は上手やな」
「ありがとうございます」
「でも、線の向こうの人が、まだ薄い」
悠人は意味がわからなかった。
現場の家主は、70代の女性だった。二階へ上がるのが辛くなったので、一階で暮らせるようにしたいと言った。
悠人は効率のよい案を描いた。廊下を短くし、寝室を奥へ移し、水回りをまとめた。
女性は図面を見て、困った顔をした。
「ここに、座れなくなるんやね」
彼女が指したのは、庭に面した小さな場所だった。
「別のところに、椅子を置けます」
悠人が言うと、女性は頷いた。だが、嬉しそうではなかった。
大槻は図面を畳んだ。
「明日、朝に来てみ」
翌朝、悠人は家へ行った。
女性はその場所に座り、庭を見ていた。手には湯呑み。隣に、誰も座っていない座布団があった。
「夫が、ここに座ってたんです」
彼女は言った。
「朝、庭を見て、何も言わへん。私も、何も言わへん。それで、朝が始まる」
悠人は空の座布団を見た。
「もういないんやけど、ここに座ると、同じ朝になる気がして」
女性は少し笑った。
「変でしょう」
悠人は首を振った。
変ではなかった。
彼も、妻のいない世界で、妻といた場所を探していた。
事務所へ戻り、図面を描き直した。動線は少し長くなった。効率は下がった。だが、庭に面した場所は残った。
大槻は新しい図面を見て、頷いた。
「家は、便利な箱だけやない」
悠人は、地下室の家を思い出した。
安全な箱を作り、その中に妻を置こうとした。彼女がどこに座り、何を見て、どんな朝を始めたいのか、十分に聞かなかった。
家を完成させた日、女性は新しい床をゆっくり歩いた。
庭の前で座った。
「ここ、残してくれたんやね」
悠人は頷いた。
「ありがとうございます」
礼を言われたとき、胸の奥が少し温かくなった。
妻を救うためではない仕事で、誰かの生活に役立った。
そのことが、彼には久しぶりだった。
帰り道、大槻が缶コーヒーを渡した。
「砂糖、入ってる方でええか」
悠人は受け取った。
「はい」
「若いのに、よう疲れた顔するな」
彼は笑った。
「そうですか」
「休むのも仕事や」
大槻は、自分の話を少しした。若いころ、仕事ばかりして家に帰らなかったこと。妻に怒られたこと。子どもの運動会を一度見逃し、その一度を何年も言われたこと。
「建物は、後から直せる。人との時間は、そうはいかん」
悠人は缶を握った。
自分は、人との時間を何度も直した。直したつもりだった。だが、そのたび、別の時間を失っていた。
大槻はそれを知らなかった。
知らないからこそ、その言葉は、悠人に届いた。
月に一度、涼介の手紙が来た。
「詩織ちゃん、絵本のサークルを作った。千夏と一緒に」
「新人賞を取った。くまとうさぎの話」
「最近、サークルの先輩と付き合ってるらしい。桐谷さん。医者になった」
悠人は同じ手紙を何度も読んだ。嬉しいはずだった。彼女が生きて、自分のいないところで幸せになっている。
けれど、嬉しいだけではなかった。
京都の暮らしが3年目に入ったころ、アルバイト先の設計事務所の女性に食事へ誘われた。
仕事の打ち合わせのあとだった。二人で図面を直し、遅くなったので、近くの店へ入った。
相手は、悠人の仕事をよく見ていた。線が丁寧だと言った。人の話を聞くとき、時々、別の場所を見ているとも言った。
悠人は、笑ってごまかした。
食事は楽しかった。
そのことに、彼は驚いた。
詩織のいない時間に、誰かと笑うことができる。仕事の愚痴を言い、相手の話を聞き、同じ料理を食べる。
それは、裏切りではないはずだった。
帰り道、相手が言った。
「また、行きませんか」
悠人は頷きかけた。
そのとき、詩織の顔が浮かんだ。
彼女が生きている。別の場所で、別の人と暮らすかもしれない。それでも、自分の中では妻だった。
「すみません」
彼は言った。
相手は立ち止まった。
「好きな人がいるんですか」
「います」
「付き合ってる?」
「いいえ」
「待ってる?」
悠人は答えられなかった。
待っているわけではない。戻ってきてほしいと思ってはいけない。自分から離れたのだから。
相手は、少し笑った。
「じゃあ、何をしてるんでしょうね」
責める声ではなかった。だが、その問いは、彼の胸に残った。
悠人は、申し訳ないと言った。
彼女は首を振った。
「謝らなくていいです。でも、私と食事した時間まで、なかったことにしないでください」
彼は顔を上げた。
「楽しかったでしょう」
「はい」
「私もです。それは、それでいいと思います」
彼女はそう言って、駅へ歩いていった。
悠人は、しばらくその場にいた。
誰かを愛し続けることと、ほかの時間を生きないことは、同じではなかった。
彼は、少しずつ、妻のいない人生を生きる方法を学んだ。
休日に散歩した。映画を見た。大槻と食事した。母へ電話した。
楽しい日もあった。
そのたび、詩織を忘れたわけではないと、自分に説明した。
やがて、説明しなくてもいい日が来た。
だが、11月22日が近づくと、すべてがまた、あの時刻へ引き寄せられた。
彼の人生は、完全に止まってはいなかった。
完全に進んでもいなかった。
書店で詩織の本を見つけた日、悠人は棚の前から動けなくなった。
くまとうさぎが、桜の野原で向かい合っていた。
うさぎは春になるたび、くまに会いに行く。くまは冬に眠って、うさぎを忘れる。
最後のページで、うさぎは笑っていた。
悠人は本を閉じた。レジまで歩く間、何度も涙を拭った。
大槻の仕事を手伝うようになってから、悠人は古い建物の取り壊しにも立ち会った。
残せる家ばかりではなかった。
雨が入り、柱が傷み、住む人がいなくなった家。改修するには費用がかかりすぎる家。
ある現場で、家主が最後に部屋を見たいと言った。
悠人は一緒に入った。
家主は、空の壁を見ていた。家具は運び出され、畳の上に日焼けの跡が残っていた。
「ここに、娘の背を測った線があったんです」
彼は柱を指した。
鉛筆の小さな線が何本もあった。日付が書いてあった。文字は薄くなっていた。
悠人は、写真を撮りましょうかと聞いた。
家主は頷いた。
撮った写真を見て、少し笑った。
「これで、持って帰れますね」
悠人は、その言葉を覚えた。
建物を残せなくても、そこにあった時間を持って帰る方法はある。
彼は、妻との写真を思い出した。
今の人生には、その写真がなかった。だが、記憶の中には、窓の前の妻がいた。卵を焼く妻がいた。花火を見上げる妻がいた。
彼は、その夜、ノートに死ではない記憶を書いた。
好きだった朝食。喧嘩した理由。初めての本を買った店。旅行で迷った道。
書いていると、妻の死だけで埋まっていたページに、生活が戻ってきた。
彼は泣いた。
泣きながら、少し笑った。
思い出すことが、いつも傷を開くことではない日が、初めて来た。
2004年の冬、詩織から初めて手紙が届いた。
封筒の差出人を見たとき、悠人は玄関に立ったまま動けなくなった。
涼介の字ではなかった。丸い文字。最後の線が少し右へ流れる、見慣れた字だった。
封を切るまで、一時間かかった。
中には、絵本の刊行を知らせる短い文章があった。サークルの人たちに送った案内だと書いてあった。
「京都でも、売っていると思います」
その一行を、何度も読んだ。
彼女は、彼が京都にいることを知っていた。涼介から聞いたのだろう。特別な意味はない。そう自分に言い聞かせた。
最後に、小さなうさぎが描いてあった。
「お元気ですか」
悠人は便箋を買った。
元気です。出版おめでとうございます。読ませていただきました。
そこまで書いて、止まった。
敬語が不自然だった。だが、昔のように話すこともできなかった。
何度も書き直した。
「とても、いい本でした」
その言葉は本当だった。けれど、それだけでは足りなかった。
君が描いたものを、何度も読んだ。君が生きていることが、嬉しい。君に会いたい。会ってはいけない。
書けない言葉ばかりが増えた。
結局、短い返事を出した。
投函したあと、すぐに後悔した。もっと冷たくすべきだったかもしれない。返事をしない方がよかったかもしれない。彼女の人生に、また自分の影を置いてしまった。
一週間後、涼介から電話が来た。
「返事、出したんだな」
「何で知ってる」
「詩織ちゃんが、嬉しそうにしてた」
悠人は受話器を握った。
「そうか」
「お前、何やってんだよ」
涼介の声には、怒りより困惑があった。
「好きなら、会えばいい。会いたくないなら、何でそんな声する」
悠人は答えられなかった。
「俺、あの子に何て言えばいい」
「何も」
「何もって、一番難しいんだぞ」
電話を切ったあと、悠人は机の引き出しに手紙をしまった。
その引き出しは、仕事の資料を入れる場所だった。やがて、資料よりも詩織の本や手紙が増えた。
手紙をしまった翌週、悠人は、詩織の本を母へ送った。
自分で書いた短いメモを添えた。
「大学の知り合いが出した本です」
母から電話が来た。
「優しい絵ね」
「うん」
「この人、前に話してた子?」
悠人は、どの話をしたのか思い出せなかった。今の人生で母に話したことと、別の人生で話したことが、時々混ざった。
「そうかもしれない」
「そうかもしれないって、変な返事」
母は笑った。
彼は、笑えなかった。
「大切な人なの?」
悠人は、しばらく黙った。
母は、返事を急がなかった。
「大切です」
彼は、ようやく言った。
「じゃあ、大切にしなさい」
「離れた方がいいことも、ある」
母は、少し声を落とした。
「相手が、そう言ったの?」
悠人は首を振った。電話なので、母には見えなかった。
「違う」
「あなたが決めたのね」
「うん」
母は、長く黙った。
「お母さんには、事情がわからないから、正しいかどうかは言えない。でも、あなたが大切だと思う人にも、考える力はあるでしょう」
悠人は目を閉じた。
その言葉は、何度も聞いたはずだった。
涼介から。千夏から。妻自身から。
それでも、彼は、自分が知っている死を理由に、相手が選ぶ余地を狭くした。
「いつか、話せるといいね」
母は言った。
悠人は頷いた。
電話を切ったあと、彼は、送らなかった長い手紙を読み直した。
そこには、彼女への願いがたくさん書いてあった。
彼女への問いは、一つもなかった。
彼は、便箋の端に、鉛筆で一行足した。
「君は、どうしたい」
その手紙も、送らなかった。
だが、その一行は、後の人生で、ようやく声になる。
新しい同僚に、家族の本ですかと聞かれた。
悠人は、知り合いの本です、と答えた。
知り合い。
20年暮らした妻を、その言葉で呼ぶ人生を、自分で選んだ。
2008年11月、出張で東京へ来た。
仕事が終わると、足が河川敷へ向かった。少しだけ。桜の木を見るだけ。そんな言い訳をしながら橋に立った。
木の下に、二人がいた。
詩織と、桐谷湊。
湊が小箱を出した。片膝をついた。
悠人には声が聞こえなかった。けれど、何を言っているかはわかった。
詩織が口元を押さえた。何かを話した。湊は頷き、もう一度話した。
やがて、詩織が頷いた。
二人が抱き合った。
悠人は欄干を握った。手の甲が白くなった。
よかった、と心の中で言った。
これで君は死なない。
よかった。
何度言っても、体が納得しなかった。
雨が降り始めた。橋の下で、詩織が顔を上げた。悠人は一歩退いた。彼女に見つかってはいけなかった。
その夜、ホテルで涼介に電話した。
「詩織ちゃん、結婚するぞ」
「知ってる」
「何で」
「手紙で聞いた気がして」
嘘だった。
「お前、大丈夫か」
「大丈夫」
「その声で言うな」
悠人はベッドの端に座った。
「よかったんだよ」
電話の向こうで、涼介が黙った。
悠人は、泣いていることを悟られないように、受話器を少し離した。




