第四章 500キロの距離
6度目の人生で、涼介を信じさせるために、また同じ電話を待った。
何度も助けてもらった親友は、毎回、初めて話を聞く。悠人だけが、その友情の続きを生きていた。
「前の俺、役に立ったか」
電話のあと、涼介が聞いた。
「立ったよ」
「詩織ちゃん、死んだんだろ」
「お前がいなきゃ、俺が壊れてた」
涼介は黙ってコップに水を注いだ。悠人の前に置いた。
「今の俺も、使え」
喫茶店で、過去の人生を並べた。結婚式の日。家。国。病院。どれを変えても、死は同じ時刻に来た。
涼介が年表の端を指した。
「変えてないものが、もう一個ある」
「時刻?」
「お前だ。毎回、詩織ちゃんの隣にいる」
悠人は年表を見た。確かに、すべての場所に自分がいた。
5度目の人生の若いころ、涼介と千夏の結婚式は、予定より小さくなった。
二人は、仕事と家族の事情で、招待する人を減らした。涼介は、派手な式にしたかったと言った。千夏は、あなたが派手なら式は小さくていいと答えた。
悠人は、会場の飾りを手伝った。詩織は、招待状に小さな絵を描いた。
式の前日、四人は会場に残った。
涼介は、椅子の数を何度も数えた。千夏は、席札を並べた。詩織は、花の向きを直した。
悠人は、親友の結婚式を何度も見ていた。
だが、この式は、前のどの式とも違った。
「緊張してる?」
彼が聞くと、涼介は頷いた。
「当たり前だろ」
「お前、そういうの平気そうなのに」
「平気そうにしてるだけだ」
親友は、席札を一枚持った。
千夏の名前があった。
「この人と暮らすって、俺、まだ、ちゃんと想像できてない」
悠人は、少し笑った。
「暮らしてから、わかることもある」
涼介は彼を見た。
「お前は、知ってるんだよな」
悠人は頷いた。
「でも、俺は知らない。知らないまま、決める」
その言葉に、彼は黙った。
親友は、怖くても、未来を知らないまま誰かと生きることを選んでいた。
悠人は、知っている未来を変えるために、誰かの選択を奪っていた。
翌日、式は無事に終わった。
涼介は泣いた。千夏は笑いながら泣いた。詩織は二人の絵を描いた。
悠人は、その絵を見て、思った。
この人生の親友たちにも、この人生の幸福がある。
自分の作戦のためだけに、彼らを使ってはいけない。
その決意は、11月が近づくと、また揺らいだ。
涼介は、年表を見ながら、紙を一枚取り出した。
「何を変えたかだけじゃなくて、何を見てたかも書け」
悠人は首を傾げた。
「どういう意味」
「事故のとき、どこにいた。何を見た。何を見てない」
彼は、交差点の図を描いた。車の位置。トラックの方向。妻の体。
次に、庭の図を描いた。桜の位置。窓。食卓。
涼介は、妻の動きに丸をつけた。
「毎回、詩織ちゃんが動いてるな」
「助けようとしたんだ」
「お前を?」
悠人は頷いた。
涼介は、しばらく図を見た。
「お前が危ない場所にいたのか」
「彼女が危ない場所に行ったんだ」
「同じことじゃないのか」
悠人は顔を上げた。
彼は、妻が死んだ場所を危険な場所と呼んでいた。妻が動く前に自分がいた場所を、同じようには見ていなかった。
だが、その違いを深く考えると、自分が死ぬはずだったのではないかという問いに近づいた。
彼は、その問いを避けた。
「俺は、毎回、生きてる」
涼介は頷いた。
「そうだな」
親友も、その時点では、別の答えを持っていなかった。
二人は図を畳んだ。
見落としは、情報が足りないときだけ起きるのではなかった。
見たくないことがあるときにも、起きた。
「当日だけ離れる」
涼介は言った。
「一生離れろって言ってるんじゃない。一日だ」
その案は、ほかのどんな対策より簡単で、ほかのどんな対策より怖かった。離れている間に妻が死んだら、手を握ることもできない。
けれど、もう試していないことは少なかった。
その春、詩織が中庭で絵を描いていた。くまと、うさぎ。うさぎだけが泣いていた。
「くまは冬に眠ると、全部忘れちゃうの」
「うさぎは?」
「覚えてる。春になるたび、会いに行く」
「かわいそうだな」
詩織は鉛筆を止めた。
「幸せかもしれないよ。何回でも好きな人に会えるんだから」
悠人は隣に座った。
「俺が未来から来たって言ったら、信じる?」
「信じる」
即答だった。
「どうして」
「時々、すごく遠いところを見てるから」
言おうと思った。君は死ぬ。俺は何度も戻ってきた。今度は離れようと思っている。
だが、その言葉を口にすれば、18歳の彼女に27年分の恐怖を背負わせることになる。
「未来の私は、どうなってる?」
「いい絵本作家になってる」
詩織は微笑んだ。
「それだけ?」
「俺の妻になってる」
彼女は顔を伏せた。耳が赤くなった。笑っているのか、泣いているのか、悠人にはわからなかった。
離れるという案を決めてから、悠人は詩織の予定を以前より細かく聞くようになった。
誰と会う。何時に帰る。どこへ行く。
彼女は答えた。だが、3度目に同じ質問をしたとき、原稿から顔を上げた。
「さっき言ったよ」
「確認したかっただけ」
「忘れたの?」
「いや」
詩織は筆を水に入れた。
「確認すると、安心する?」
悠人は頷いた。
「少し」
「私は、少し落ち着かなくなる」
彼は驚いた。
「疑ってるわけじゃない」
「わかってる。でも、予定が変わったら、あなたを不安にさせることになるでしょう。そう思うと、変えられなくなる」
悠人はカレンダーを見た。
自分は未来を変えようとしていた。妻の予定は変わらないようにしていた。その矛盾を、初めて言葉にされた。
「仕事の打ち合わせ、長引くこともあるの。千夏と話して、急に寄り道することもある」
詩織は机の上の紙をそろえた。
「あなたが心配してくれるのは嬉しい。でも、毎日の行き先を全部説明するのは、少し疲れる」
悠人は謝った。
そのあと、しばらく質問を控えた。控えている自分を意識すると、また苦しくなった。妻の死を防ぐことと、妻を自由にすることが、彼の中で反対のことになっていた。
涼介に話すと、親友は言った。
「27年のうち、危ないのは一分だろ」
「1分で、全部なくなる」
「だからって、27年全部をその一分に渡すなよ」
悠人は黙った。
その言葉を理解するには、さらに長い時間が必要だった。
夏、詩織の絵本の展覧会があった。
悠人は会場を設計した。壁に原画を掛ける高さを、子どもが見やすいように低くした。入口の近くに、小さな机を置いた。
詩織は図面を見て、少し笑った。
「ここ、通る人が見てくれるね」
悠人はバンコクの展示会を思い出した。
彼女は覚えていないはずだった。だが、同じ場所に同じ希望を見つけるのだと思った。
当日、会場は賑わった。
悠人は受付を手伝った。子どもが走ってきて、机の角にぶつかりそうになった。彼は反射的に腕を伸ばした。
子どもは自分で止まり、笑って向きを変えた。
詩織がそれを見ていた。
「ちゃんと、止まれる子もいるよ」
悠人は腕を下ろした。
「そうだな」
「止まれなかったら、そのとき助ければいい」
彼は頷いた。だが、妻のことになると、その順番を信じられなかった。
展覧会の終わりに、千夏が写真を撮った。
悠人と詩織が並んだ。涼介が後ろから顔を出した。千夏は何度も撮り直した。
「春日くん、もっと笑って」
「笑ってる」
「眉間が笑ってない」
詩織が悠人の袖を引いた。
「今日の顔にして」
彼は妻を見た。
「未来の顔じゃなくて」
その言葉に、悠人の表情が変わった。
千夏がシャッターを押した。
写真には、驚いた顔の悠人と、笑っている詩織が写った。
あとで彼は、その写真を何度も見た。
妻は、何を知っていたのだろう。
その問いを、彼はまだ、問いとして持つことさえ怖がっていた。
その人生では、結婚式を11月22日にした。日付を変えても意味がないのなら、妻の望む日にしたかった。
涼介と千夏も結婚した。悠人は涼介に、告白するときの言葉を少しだけ助言した。前の人生では失敗した言葉を避けた。
「未来を知ってるって、便利だな」
涼介は言った。
悠人は笑った。便利という言葉が、遠い国の言葉のように聞こえた。
2026年の秋、涼介は千夏に事情をどこまで話すかで悩んだ。
悠人は、全部は言わないでくれと頼んだ。千夏から詩織へ伝わるのが怖かった。
「俺、妻に嘘つくの、下手なんだよ」
涼介は言った。
「嘘じゃなくて、検査の結果が心配だって」
「それも、嘘だろ」
悠人は顔を伏せた。
涼介は、責めるように言ったのではなかった。だが、悠人の秘密を守るために、自分の生活にも秘密を作らなければならないことに、疲れていた。
「俺たちの記念日、先週だったんだ」
「知ってる」
「知ってるか。未来の俺の結婚式も知ってるんだもんな」
涼介は笑った。少し苦い笑いだった。
「食事してるとき、お前から電話が来た。11月の予定の確認。俺、店の外へ出て話した」
悠人は思い出した。
「千夏、何も言わなかった。でも、帰り道、誰のための記念日だったんだろうって言った」
悠人は謝った。
「謝ってほしいんじゃない。俺も、自分で出たんだから」
涼介は机に手を置いた。
「でも、俺の人生も、今しかないんだよ」
その言葉に、悠人は顔を上げた。
自分は何度も親友を取り戻せる。涼介は、そのことを知らない人生も、知っている人生も、一度ずつしか生きていない。
彼の時間を、自分の繰り返しの一部にしてはいけなかった。
「11月22日が終わったら」
悠人が言いかけると、涼介は首を振った。
「終わってからじゃなくて、今、考えてくれ」
悠人は頷いた。
その夜、千夏に電話した。
「食事の邪魔をして、ごめん」
千夏は少し驚いたようだった。
「涼介から聞いた?」
「うん」
「春日くん、何か抱えてるんでしょう」
悠人は黙った。
「詩織も、何か抱えてる。二人とも、私たちに気を遣ってるつもりで、置いていくんだね」
彼は、返事ができなかった。
千夏は声を少し柔らかくした。
「当日の食事は、ちゃんとする。詩織を一人にしない。でも、それが終わったら、話して。何が怖いのか」
悠人は、約束すると言った。
その約束を守る前に、彼はまた世界を巻き戻してしまう。
2026年11月、机に大阪行きの切符を置いた。
当日、悠人は現場の打ち合わせ。詩織は東京で涼介と千夏と食事をする。500キロ離れて、7時12分を越える。
「記念日に出張で、ごめん」
妻は洗濯物を畳んでいた。
「いいよ」
「帰ったら、食事に行こう」
「うん」
詩織は悠人のシャツを丁寧に畳んだ。いつもより丁寧だった。
大阪へ行く前の夜、詩織は悠人の鞄にシャツを入れた。
彼は自分で入れると言った。彼女は、もう入れたからと言った。
鞄の底に、薄い封筒があった。
「何、それ」
「帰ってから読んで」
悠人は封筒を取ろうとした。
詩織が手を置いた。
「今じゃない」
彼は笑った。
「記念日の手紙?」
「そういうことにして」
妻は鞄を閉じた。
悠人は、少し気になった。だが、彼女にも自分のように、記念日に伝えたい言葉があるのだと思った。
その封筒を、彼は最後まで読まない。
大阪のホテルで鞄を開けたとき、仕事の資料の下に入っていた。帰ってからという約束を守り、机に置かなかった。
夕方、現場へ行く前に、妻へ電話した。
「今から出る」
「うん」
「涼介たちと、楽しんで」
「あなたも、気をつけて」
妻の声の後ろに、何かの案内放送が聞こえた。
「外?」
「少し」
「どこ」
詩織はすぐには答えなかった。
「駅」
「早いな。食事、7時だろ」
「寄り道」
悠人は頷いた。最近、予定を細かく聞きすぎないようにしていた。
その努力が、皮肉にも、妻の移動を見逃す理由になった。
「帰ったら、手紙読むよ」
彼が言うと、詩織は黙った。
「詩織?」
「うん。読んで」
電話が切れた。
悠人は鞄を閉じた。ホテルの机の上に、妻が畳んだシャツがあった。
それを見て、少し安心した。
妻は東京にいる。自分は大阪にいる。今度は、違うことをしている。
そう思った。
当日、大阪の現場は風が強かった。悠人は足場を見上げ、妻のいない場所で妻の死を待っている自分に気づいた。
7時5分、涼介から電話が来た。
「詩織ちゃんが来ない」
悠人は返事をしなかった。
「家にもいない。電話も出ない」
「探してくれ」
声が自分のものではないようだった。
7時10分。胸が痛んだ。悠人は柵に手をついた。
そのとき、名前を呼ばれた。
詩織が走ってきた。
ありえない、と思った。東京にいるはずだった。ここに来るには、新幹線に乗り、駅から移動し、現場を探さなければならない。偶然では来られない。
「どうして」
上で金属の音がした。吊られた資材が傾いた。誰かが叫んだ。
詩織は迷わず悠人に飛び込んだ。
押された体が柵にぶつかった。鉄骨が落ちた。
7時12分。
悠人は瓦礫を動かした。指の皮が裂けた。妻の顔が見えた。
「東京にいろって」
「会いたかったの」
「こんなところまで」
「ひとりに、しないでよかった」
胸の痛みが消えていた。
妻の唇が、また、はじめまして、と動いた。
救急車の赤い光の下で、悠人は涼介に電話をした。
「俺がいるから、彼女は死ぬ」
「まだそうと決まったわけじゃない」
「6回だぞ」
電話の向こうが静かになった。
「次は、会わない」
「悠人」
「新歓に行かない。声をかけない。名前も呼ばない」
「お前の人生はどうなる」
悠人は救急車を見た。運ばれていく妻の手から、壊れた腕時計が外された。
「どうでもいい」
言った瞬間、その言葉が嘘であることを知った。どうでもよくなどなかった。妻と生きたかった。朝食を食べ、原稿の愚痴を聞き、年を取りたかった。
それを全部捨てるしかないと思った。
「もう一度」
今度は、君に会わないために。
白い光の中で、悠人は妻の名前を呼ばなかった。
目覚まし時計が鳴っていた。
悠人は、布団の中で目を開けた。天井に、見覚えのある染みがあった。
六畳の部屋。角の剥がれた建築家のポスター。母が持たせた毛布。
18歳の部屋だった。
壁の時計は、午前10時を指していた。
これまでは、いつも桜の下で目を開けた。紙コップを持ち、ラジカセの歌を聞き、涼介に肩を叩かれたところから始まった。
7回目の人生は、いつもより少しだけ早く始まった。新歓の数時間前だった。
枕元でポケットベルが鳴った。小さな液晶に、カタカナが並んでいた。
「シンカン ハジマルゾ リョウスケ」
悠人は、しばらくその文字を見ていた。
今から支度をすれば、間に合う。桜の下には、白いカーディガンの彼女が立っている。目が合えば、彼女は泣き、はじめまして、と言う。
そして27年後、7時12分に死ぬ。
悠人は、ポケットベルの電源を切った。液晶が暗くなった。
布団を頭からかぶった。
窓の外から、遠く、河川敷のラジカセの音が聞こえてきた。
悠人は布団の中で、声を殺して泣いた。




