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二度目の初恋  作者: ぽむぽむ


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3/10

第三章 壊れない家

3度目の春、悠人は大学の保健室へ行った。

 胸の痛みのことを話した。痛むのは、27年後だとは言わなかった。時々、胸が苦しくなるとだけ言った。

 担当者は、今の体の状態を聞いた。睡眠。食事。運動。最近の心配事。

 悠人は、心配事はあると答えた。

「話せることですか」

 彼は首を振った。

 相手は、それ以上聞かなかった。

「体のことは、体のこととして確かめましょう。心配があることも、なかったことにしないで」

 悠人は頷いた。

 検査では、今すぐ説明できる異常は見つからなかった。彼は安心しなかった。だが、誰かに胸が苦しいと話せたことだけは、少し楽だった。

 帰り道、詩織に会った。

 彼女は、彼の顔を見て、何も聞かずに隣を歩いた。

「どこへ行く?」

 悠人が聞いた。

「あなたが帰るところまで」

「用事は」

「あとで」

 二人は駅まで歩いた。

 彼は、保健室へ行ったことを話した。詩織は頷いた。

「大丈夫だった?」

「今は」

「今は、大丈夫なんだね」

 彼女は、その言葉を少し違う形で返した。

 悠人は顔を上げた。

 今は、という言葉を、彼は不安のために使った。妻は、今の安全を受け取るために使った。

 同じ言葉でも、向きが違った。

 彼は、少しだけ息を深く吸った。

 だが、その安心は長く続かなかった。

 夜、図面を描き始めると、また、二十七年後の死が近くなった。

 彼は安全な家を考えた。

 考えている間、妻の隣を歩いた午後のことを、忘れた。

 三度目の人生で、悠人は建築に救いを求めた。

 窓を小さくした。庭に木を植えなかった。丘の上に頑丈な家を建て、地下に避難室を設けた。図面を引いている間だけ、胸の奥の恐怖が静かになった。

 詩織は模型を見て言った。

「私の机は、どこ?」

「地下にも置ける」

「絵を描くのに、光がほしい」

「照明は十分に入れる」

「太陽の光」

 悠人は鉛筆を置いた。

「君を守る家なんだ」

「私、守られるためだけに生きてるわけじゃないよ」

 その言葉を、悠人はわかったつもりで聞いた。窓を一つ増やした。けれど、本当に聞くべきだったのは、窓の数ではなかった。

 家が完成するまでの間、詩織は何度も現場へ来た。

 最初は嬉しそうだった。自分の仕事部屋の壁に手を当て、ここに本棚を置く、と言った。悠人はその位置を図面に書き込んだ。

 次に来たとき、窓が予定より小さくなっていた。

「変更したの?」

「少し」

「どうして」

「安全のため」

 詩織は窓の前に立った。外の景色が、額縁の中に押し込められたように見えた。

「私に、聞いてくれてもよかった」

 悠人は図面を広げた。

「ここを広くすると、別の部分も変えなきゃいけない」

「図面の説明じゃなくて」

 彼女の声は静かだった。

「私の部屋の話だから」

 悠人は口を閉じた。

 職人が二人のそばを通った。何も聞いていないふりをして、工具を運んでいった。その気遣いが、かえって恥ずかしかった。

 帰りの車で、詩織は窓の外を見ていた。

「怒ってる?」

「少し」

「君のために作ってるんだ」

「わかってる」

「だったら」

「わかってるから、言いにくいの」

 赤信号で止まった。

 悠人はハンドルを握ったまま、彼女を見た。

「私が何を言っても、あなたの努力を否定したことになる気がする」

 詩織は膝の上で手を組んだ。

「明るい部屋がほしいって言うと、安全を考えてない人みたいになる。外へ出たいって言うと、あなたを困らせる人になる」

 悠人は返事ができなかった。

「守ってくれるのは、嬉しい。でも、私の希望が全部わがままになるなら、その家で、どう暮らせばいいの」

 信号が青になった。後ろの車が短く警笛を鳴らした。

 悠人は車を出した。

 その夜、図面を直した。窓を少し大きくした。妻の机を地上階に戻した。だが、11月22日だけは地下へ下りてもらうと決めていた。

 彼は譲歩したつもりだった。

 本当は、妻の望みを聞くことと、自分の計画に余白を作ることを、取り違えていた。

 引っ越しの日、涼介が手伝いに来た。

「家というより、金庫だな」

 冗談だった。悠人は笑わなかった。

 涼介は詩織の顔を見て、すぐに言い直した。

「いや、格好いいよ。映画の秘密基地みたいで」

 詩織は礼を言った。

 夕方、段ボールがまだ積まれた台所で、三人は出前を食べた。涼介はいつものように喋った。悠人は、家の構造を説明した。詩織は食器を片付けた。

 涼介が帰ると、家は急に静かになった。

 窓が小さいと、夜の音も遠くなるのだと、悠人は初めて知った。外で車が通っても、ほとんど聞こえなかった。妻が別の部屋にいると、紙をめくる音さえ聞こえなかった。

 守られている。

 そう思おうとした。

 けれど、家の中の静けさは、時々、誰も住んでいない建物のようだった。

 数日後、詩織が窓辺に小さな鉢を置いた。白い花が咲いていた。

「何、それ」

「花」

「土、こぼれるよ」

「受け皿がある」

 彼女はそう言って、水を注いだ。

 悠人は、また何かを注意しようとして、やめた。

 花は安全の役には立たなかった。けれど、その花があるだけで、部屋は少し人の住む場所に戻った。

 11月22日、地下室の扉を閉めた。

 水も食料もある。電話も通じる。火も使わない。風も木も車も届かない。

 7時11分、悠人は胸を押さえて膝をついた。

 詩織が抱きしめた。彼女の腕の中で、痛みが少し遠のいた。

「大丈夫」

 彼女はそう言った。悠人が顔を上げると、妻の額に汗が浮いていた。

 7時12分、詩織の体から力が抜けた。

 救急車を呼んだ。地下室の扉を開けた。頑丈な家は、妻の命を守ることも、妻を外へ運ぶことも、何一つ助けてくれなかった。

 医師は原因がわからないと言った。

 地下室で妻を失ったあと、悠人は地上へ上がれなかった。

 救急隊が来て、医師が説明をし、涼介が駆けつけた。その間、彼は階段の途中に座っていた。

 自分で設計した階段だった。段差も、手すりの位置も、知っていた。

 それなのに、上がる方法がわからなかった。

 涼介は、何も知らない人生の涼介だった。

「何があった」

 悠人は答えなかった。

 親友は隣に座った。しばらく、二人で壁を見た。

「俺、何かできるか」

 悠人は首を振った。

 涼介は立ち上がらなかった。

 何もできないと言われても、そばにいることをやめなかった。

 やがて、悠人は言った。

「この家、俺が作ったんだ」

「知ってるよ」

「安全だと思った」

「お前のせいじゃない」

 悠人は首を振った。

 原因がわからない。だから自分のせいではない。

 その理屈は、彼の胸に届かなかった。

 妻は、窓のある部屋を望んだ。彼は地下へ連れていった。そこで妻が死んだ。

 それだけが、彼にとっての事実だった。

 涼介は、家の鍵を預かると言った。

「今日は、うちに来い」

 悠人は首を振った。

「一人にするなって、千夏が言ってる」

 彼は、初めて顔を上げた。

 詩織の親友は、妻のいない夜を自分も過ごすのに、悠人のことまで考えていた。

 彼は、礼を言おうとした。

 言葉が出なかった。

 その夜、涼介の家へ行った。千夏が食事を出した。彼は食べられなかった。千夏は無理に食べろとは言わなかった。

「ここに置いておく」

 そう言って、皿に蓋をした。

 悠人は、その蓋を見ていた。

 食べられない自分のために、食べられる時間を待つ人がいる。

 彼は、少しだけ箸を取った。

 夜中、目を覚ますと、隣の部屋で千夏が泣いていた。涼介の声が聞こえた。

 悠人は布団の中で目を閉じた。

 自分だけが妻を失ったのではない。

 だが、巻き戻せば、二人の悲しみも消えると思った。

 翌朝、もう一度と願った。

 次の春、涼介は何も知らずに笑っていた。千夏は詩織と並んで話していた。

 悠人は、その光景を見て安心した。

 同時に、前の夜に皿を置いてくれた千夏へ、礼を言う機会がなくなったことを知った。

 繰り返すたび、救われた記憶だけが、自分の中に残った。


 4度目には、国を変えた。

 バンコクの空は、東京より低く見えた。窓の外に洗濯物が揺れ、屋台の湯気が上がっていた。詩織は辛いソースをかけすぎて、涙を浮かべながら笑った。

「逃げてきたのに、私、楽しい」

「逃げたわけじゃない」

「そういうことにしておこうか」

 悠人は現地の設計部で働いた。言葉の違いに苦労し、職人たちの手振りを見ながら図面を直した。妻は街の色を描いた。絵本のうさぎは、いつの間にか南国の花を持つようになった。

 バンコクで暮らし始めて2年目、詩織が小さな展示会に誘われた。

 日本語の絵本を置く店の片隅だった。大きな催しではなかった。机を二つ並べ、壁に原画を数枚掛けるだけだった。

 詩織は何日も前から準備した。現地の言葉を少しずつ覚え、短い挨拶を紙に書いた。悠人は、仕事のあとに会場の配置を考えた。

「この机、入口に近すぎないか」

「子どもが来たら、見える方がいい」

「人が通る」

「通って、見てくれればいい」

 妻は、今度は自分の意見を譲らなかった。

 悠人は頷いた。地下室の家での喧嘩を、彼女は覚えていないはずだった。だが、彼だけは覚えていた。今度は、先に決めないようにしたかった。

 当日、雨が降った。

 来るはずだった人が何人か来なかった。詩織は時計を見て、笑った。

「雨だから」

「残念だったな」

「まだ終わってないよ」

 彼女は原画を一枚ずつ直した。

 午後、母親に連れられた小さな子が来た。絵本の言葉は読めないようだった。けれど、くまと、うさぎの絵を指さし、何かを言った。

 詩織はしゃがんで、子どもの目の高さに顔を合わせた。言葉はうまく通じなかった。彼女はくまの顔を真似て、両手を頬に当てた。子どもが笑った。

 悠人は少し離れたところで、その様子を見ていた。

 妻が笑うと、周りの人も笑った。彼女の本は、彼の知っている未来の外でも、人に届いていた。

 帰り道、詩織は濡れた原画の包みを抱えていた。

「来てよかった」

「海外に?」

「今日、ここに」

 彼女はそう言った。

 悠人は、いつも27年後の一点から人生を眺めていた。妻は今日の午後のことを話していた。

 その違いが、時々、彼を救った。時々、彼を苛立たせた。

「ずっと、ここで暮らしてもいいと思う?」

 悠人が聞いた。

 詩織は少し考えた。

「私は、どこでも描けると思う。でも、あなたは?」

「君がいれば」

「私のことじゃなくて、あなたの仕事」

 彼は黙った。

 現地での仕事は面白かった。だが、逃げてきたという気持ちが消えなかった。自分が本当にこの街を選んだのか、妻の死を避けるためにここへ来ただけなのか、わからなかった。

「場所を好きになってもいいんだよ」

 詩織が言った。

「何から来たかより、ここで何をするかで」

 悠人は彼女を見た。

 何から来たか。

 その言葉が引っかかった。

「俺、逃げてるように見える?」

 妻は原画の包みを抱え直した。

「時々、まだどこかへ行こうとしてる顔をする」

 悠人は返事をしなかった。

 展示会の翌月、詩織は現地の絵を描く人たちの集まりへ行った。

 悠人も誘われたが、仕事があった。彼女は一人で出かけた。

 帰ってくると、鞄の中に、知らない人が描いた小さなカードが何枚もあった。

「交換したの」

 詩織は言った。

 悠人はカードを見た。街の屋根。猫。果物。人の手。

 彼女の絵とは、線も色も違った。

「話せた?」

「少し。言葉は、あまり」

「困らなかった?」

「困ったよ」

 彼女は笑った。

「でも、困ったら、描いた」

 一枚の紙に、いくつもの絵が重なっていた。詩織が描いたくまの横に、別の人が鳥を描いた。その下に、誰かが家を描いた。

 悠人は、その紙を見ていた。

 自分がいない場所で、妻の世界が広がっている。

 嬉しいはずだった。

 だが、少しだけ寂しかった。

 彼は、妻を遠い国へ連れてきた。自分が守れる場所へ移したつもりだった。だが、妻はその場所で、自分の友人を作り、自分の時間を持った。

「次は、あなたも来る?」

 詩織が聞いた。

「仕事がなければ」

「なくても、無理しなくていいよ」

 彼女はカードを机に並べた。

「私、一人でも行けるから」

 悠人は頷いた。

 その言葉を、信頼として受け取る練習が必要だった。

 一人でも行ける。

 自分がいなくても、妻は生きられる。

 それは、自分が必要ないという意味ではなかった。

 夜、コンドミニアムの窓から街を見た。車の灯りが続いていた。屋台の明かりが消え、人が帰っていった。知らない言葉の生活が、彼らの下で続いていた。

 この街は、自分たちを救うために存在しているのではない。

 当たり前のことだった。だが、悠人はその当たり前を、何度も忘れた。

 妻は机に向かっていた。展示会で笑った子どもの絵を描いていた。

 彼はその背中を見た。

 死から遠ざけようとして、彼女の人生まで遠ざけてはいけない。

 そう思った夜にも、彼はカレンダーの十一月に赤い丸をつけた。

 それでも11月が近づくと、悠人は日本時間を計算した。

 2時間。たった2時間だった。時計をずらしても、あの瞬間は同じ世界のどこかにある。

 11月22日、午後5時11分。胸の痛みが来た。

 詩織は驚かなかった。悠人の手を取り、両手で包んだ。

「大丈夫。私がいる」

 5時12分。彼女は静かに倒れた。

 雨が窓を叩いていた。知らない街でも、雨の匂いは同じだった。

 バンコクから戻った春、悠人は自分の記憶を疑った。

 本当に四つの人生を生きたのか。

 夢を見たのではないか。

 妻の死を、違う形で何度も想像しただけではないか。

 彼はノートに、細かいことを書いた。建物の名前。仕事で会った人。妻の本の題名。母が最後に食べたもの。

 書いているうちに、混ざっている記憶があることに気づいた。

 6月の結婚式と、11月の結婚式。

 庭に桜がある家と、ない家。

 千夏が泣いた日と、笑った日。

 どれも本当だった。だが、順番を確かめるための写真はなかった。

 彼は、記憶だけを根拠に未来を変えようとしていた。

 その危うさを、初めて怖いと思った。

 大学の図書館で、時間についての本を探した。難しい言葉が並んでいた。読み進めても、自分の経験を説明する文章は見つからなかった。

 彼は本を閉じた。

 自分の身に起きたことを、既に誰かが知っているとは限らない。

 その孤独は、妻を失う孤独とは別のものだった。

 帰り道、涼介が声をかけた。

「最近、何読んでるんだ」

「時間の本」

「建築じゃなくて?」

「うん」

 親友は、少し首を傾げた。

「面白い?」

「わからない」

「わからないのに、読むのか」

 悠人は笑った。

「わかりたいから」

 涼介は頷いた。

「じゃあ、俺にも話してみろよ。わかるかもしれない」

 その言葉が、きっかけだった。

 彼は、信じてもらえる証拠を探してから話そうと思っていた。

 だが、話してから一緒に考えることも、できるのかもしれなかった。

 五度目の春、悠人は涼介に話した。

 学生街の喫茶店で、ナポリタンが冷えていった。

「45歳から戻ってきた。妻が4回死んだ」

 涼介はしばらく黙ったあと、言った。

「うん、病院行こう」

「今夜10時、お前の実家から電話がある。おばあちゃんが骨折して入院したって」

 涼介の顔が変わった。

「そういう冗談、やめろ」

「冗談じゃない。大丈夫だ。長生きする」

 その夜、二人で電話を待った。十時、電話が鳴った。涼介は受話器を置き、悠人を見た。

「もう一回、最初から話せ」

 悠人は話した。車。桜。地下室。バンコク。話しているうちに、どこで何を失ったのかわからなくなった。すべての人生で同じ妻を失ったのに、それぞれ別の妻を失ったようでもあった。

 涼介は途中で一度も笑わなかった。

「一人じゃ、もう無理なんだ」

 悠人が言うと、彼は頷いた。

「じゃあ、二人で考えよう」

 涼介は、最初の作戦会議で、悠人のノートを勝手に持ち帰った。

「なくすなよ」

「なくさねえ。お前、同じところばっかり読んでるから」

 翌日、ノートには付箋が増えていた。

「確かめたこと」

「推測」

「まだ試していないこと」

 悠人は、付箋を剥がそうとした。

「俺のノートだぞ」

「お前の命の話でもあるだろ」

 涼介は椅子に座った。

「詩織ちゃんが必ず死ぬって、お前は書いてる。でも、正確には、今まで4回死んだ、だろ」

「同じことだ」

「同じじゃない。必ずって書いたら、考えるのをやめる」

 悠人はノートを見た。

 4回の死を、4回の観察として扱うのは残酷だった。妻は実験の結果ではない。だが、悲しみだけで考えていても、同じところを回るばかりだった。

「原因不明の心停止って書いてあるけど、原因がないとは書いてない」

 涼介が言った。

「何が言いたい」

「わからないことを、わかったことにするなって言いたい」

 悠人は付箋を剥がすのをやめた。

 それから、二人は週に一度会った。大学の課題をやり、食事をし、ノートを広げた。涼介は時々、未来の話を聞きたがった。

「俺、建築士になってる?」

「なってる」

「金持ち?」

「そこそこ」

「千夏ちゃんと、どうなる?」

 悠人は笑った。

「それは自分でやれ」

 涼介は不満そうにした。だが、未来を聞くより、現在の彼女に話しかける方が難しいことを、すぐに知った。

 悠人は、親友の失敗を何度も見てきた。だから助言したくなった。だが、今回は少し控えた。

 未来を教えることは、相手の不安を消すとは限らない。相手が自分で選ぶ余地を消してしまうこともある。

 そのことを、彼は詩織に対しては、まだ十分にできなかった。

 ある晩、涼介が聞いた。

「詩織ちゃんには、何で話さない」

「怖がらせたくない」

「お前は怖がってるだろ」

「俺だけでいい」

 涼介は箸を置いた。

「それ、格好いいと思って言ってる?」

 悠人は顔を上げた。

「思ってない」

「じゃあ、何で」

「彼女が知ったら、27年、死を待つことになる」

 涼介は黙った。反論するには、話が重すぎた。

 やがて、彼は言った。

「俺は、詩織ちゃんの代わりには決められない」

「俺だって」

「でも、お前は決めてる」

 悠人は何も言えなかった。

 その夜、ノートに新しい項目を書いた。

「詩織に話す」

 翌朝、その項目を消した。

 消し跡は残った。涼介は見つけたが、何も言わなかった。

 その人生では、病院を選んだ。何年もかけて協力を頼み、検査を重ねた。妻の体には異常がなかった。悠人の胸にも、原因は見つからなかった。

 病院での検査を始めたころ、詩織は、最初は協力的だった。

 悠人が心配していることを知っていた。体に異常がないとわかれば、彼が少し安心すると思った。

 だが、異常がないとわかっても、悠人は安心しなかった。

 次の検査を探した。別の医師に相談した。説明を聞き直した。

 詩織は、待合室で雑誌を閉じた。

「いつまで、続けるの」

 悠人は彼女を見た。

「安心できるまで」

「何がわかったら、安心できる?」

 彼は答えられなかった。

 妻が2026年11月22日の7時12分を越えれば、安心できる。

 それ以外の答えはなかった。

 だが、それを言わなかった。

「念のためだよ」

 詩織は頷いた。頷いたあと、窓を見た。

 待合室の窓には、空しか見えなかった。人が暮らす家も、木も、道も見えない。病院の中にいると、外の生活が遠くなった。

「私、病気じゃないんだよね」

 彼女が言った。

「今のところ」

 悠人は答えた。

 その言葉に、詩織は少し顔を伏せた。

 今のところ。

 元気であることさえ、彼の中では仮の状態だった。

 帰り道、二人は公園へ寄った。

 子どもがボールを追いかけていた。犬を連れた人が歩いていた。ベンチに座ると、詩織は鞄から小さな本を出した。

「読んでいい?」

「うん」

 彼女は読み始めた。悠人は隣で、時計を見た。

 詩織がページをめくるたび、彼は目を上げた。生きている。呼吸している。指が動いている。

 彼女は、読まれているのではなく、確かめられていることを感じた。

「悠人くん」

「何」

「今日は、本を読んでる私でいい?」

 彼は顔を上げた。

「死ぬかもしれない私じゃなくて」

 悠人は息を止めた。

 詩織は本を閉じた。

「あなたが、そういう目をするから」

 彼は、謝った。

 そのあと、時計を見ないようにした。

 見ないようにしていることが、また、妻に伝わった。

 二人は、同じベンチに座っていた。だが、同じ午後を過ごしてはいなかった。

 当日、詩織はベッドの上で苦笑した。

「どこも悪くないのに、病人みたい」

「一日だけ」

「うん。悠人くんが、そうしたいなら」

 廊下に涼介がいた。スタッフが待機していた。悠人は妻の手を握った。

 7時10分、詩織が言った。

「私がいなくても、ご飯食べてね」

「やめろ」

「夜更かししないで。涼介くんと喧嘩したら、先に謝って」

「やめてくれ」

 彼女はそれ以上言わなかった。

 7時11分、悠人が床に崩れた。詩織はベッドから下りた。看護師が止めるより早く、悠人を抱いた。

 二人の胸が重なった。痛みが引いた。そのかわり、妻の呼吸が浅くなった。

「詩織?」

 7時12分。電子音が変わった。

 人が走った。悠人は引き離された。医師の背中しか見えなかった。涼介が肩をつかんだ。何かを言っていたが、聞こえなかった。

 夜、屋上で涼介が言った。

「お前の胸の痛み、いつもなのか」

「ああ」

「詩織ちゃんが死ぬと、消える?」

 悠人は頷いた。

「怖いんだと思う。体が覚えてるんだ」

 涼介は何か言いかけ、やめた。

 病室に戻ると、千夏が妻のそばにいた。膝の上に、古い革の手帳があった。悠人を見ると、彼女はそれをバッグにしまった。

「ごめん。守れなかった」

「春日くんのせいじゃない」

 千夏の声も掠れていた。

 悠人は妻の頬に触れた。ここまで来ても、まだ、もう一度と言える自分がいた。諦めることは、妻を見捨てることのように思えた。

 白い光が来た。

 桜の下で、悠人は目を閉じたまま立っていた。ラジカセの歌。涼介の声。紙コップの薄い感触。

 彼女を見るのが怖かった。

 生きている妻を見るたび、その先の死まで見えるようになっていた。

 それでも目を開けた。

 詩織が泣いていた。

 彼女も、何かを失ったような顔をしていた。


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