第二章 やり直しの春
六畳の部屋に戻ると、壁に建築家のポスターが貼ってあった。自分で貼ったことを覚えている。角が一つ剥がれ、押し入れには母が持たせた毛布があった。
母に電話をかけた。
「何。お金?」
元気な声だった。最初の人生では、八年前に亡くなっていた。
悠人は受話器を握ったまま黙った。
「もしもし?」
「いや。声、聞きたくて」
「変な子。ご飯食べたの?」
電話を切ったあと、布団に顔を埋めた。妻だけではなかった。失ったものが、あちこちに戻っていた。これを奇跡と呼ばずに何と呼べばいいのだろう。
机のノートに、日付を書いた。
「2026年11月22日
午後7時12分 交差点 トラック」
その下に、太い字で書いた。
「車に乗らない」
たったそれだけだと思った。27年後、あの交差点を通らなければいい。妻の死を避けるために、人生のすべてを変える必要はない。
大学へ行く前、悠人は自分の学生証を何度も見た。
写真の顔は若かった。頬に、まだ少し丸みがあった。髪も多かった。鏡を見ても、そこに45歳の自分はいなかった。
だが、手を動かすと、長年の癖が出た。
鉛筆の削り方。図面を押さえる指の位置。定規を置く角度。
体が若くなっても、記憶が体の使い方を変えるのだと思った。
授業では、知っている話が多かった。だが、知っていることを聞き直すと、以前は聞き流した部分が耳に入った。
教授は、建物の寿命について話した。
長く残ることだけが価値ではない。使われ方が変われば、建物も変わる。最初の設計を守ることと、そこに暮らす人を守ることは、時に違う。
悠人はノートを取った。
前の人生で、同じ授業を受けたはずだった。だが、この言葉は覚えていなかった。
涼介が隣で眠っていた。彼は肘で起こした。
「何だよ」
「大事な話」
「全部大事だろ、授業は」
涼介はそう言って、また目を閉じた。
悠人は笑った。
この親友も、まだ、知らない時間を生きている。
授業のあと、二人は食堂へ行った。涼介は財布を忘れたと言った。悠人は立て替えた。
前の人生でも、同じことがあった気がした。
「お前、昔からそうだよな」
言うと、涼介は首を傾げた。
「まだ一週間しか知らねえだろ」
悠人は黙った。
親友にとって、自分はまだ、知り合ったばかりの同級生だった。
妻だけではない。すべての関係を、もう一度始めなければならなかった。
それは、嬉しいことでもあり、寂しいことでもあった。
数日後、図書館で詩織を見つけた。絵本の棚の前にしゃがんでいた。
「水野さん」
振り向いた顔を見ただけで、胸が苦しくなった。
「あ。春日くん」
名前を覚えていてくれた。その当たり前のことが嬉しかった。
「その絵本、好きなんだね」
「家がずっと同じ場所で、季節を見てるの。建築やってる人なら、好きだと思う」
悠人は笑った。昔も同じ話をした。27年前には、何と返したのだったか。
「俺、いつかそういう家を作りたいんだ」
「知ってる」
詩織はすぐに本を閉じた。
「新歓で言ってた気がして」
言っていなかったと思う。けれど、その疑問よりも、彼女とまた話せる喜びの方が大きかった。
日曜日、サークルの街歩きに誘った。古い洋館の前で、悠人は窓の配置を説明した。朝日が階段の踊り場に落ちるように、左右をずらしてある。
「詳しいね」
45歳まで建築士をしていたのだから当然だった。だが、十八歳の自分には、まだそこまでの知識はなかったはずだ。
「昔、好きな人に同じ話をしたことがあって」
言ってから後悔した。
「18歳なのに、昔?」
「高校のとき」
「その人、何て言った?」
悠人は洋館を見上げた。
「いつか私の家も、そうやって作って、って」
詩織の鉛筆が止まった。
「幸せな人だね」
小さな声だった。
恋をやり直すことは、思っていたほど簡単ではなかった。
悠人は詩織の好きな飲み物を知っていた。苦手な食べ物も、締め切り前に爪を噛む癖も知っていた。けれど、18歳の詩織が今何を考えているかは、知らなかった。
「ミルクティー、砂糖なしでいい?」
ある日、彼女は注文する前の悠人を見た。
「どうして決めちゃうの?」
「好きだろ」
「今日はココアが飲みたい」
悠人は黙った。詩織は怒ってはいなかった。ただ、不思議そうだった。
未来の妻を知っていることと、目の前の彼女を知っていることは、同じではなかった。
その日から、悠人はなるべく聞くようにした。何が飲みたい。どこへ行きたい。絵本を描くとき、何がいちばん難しい。
詩織は少しずつ話した。好きなものを描くのと、誰かに読んでもらえるものを描くのは違うこと。家族には就職を勧められていること。自分の絵が、本になるところを見てみたいこと。
悠人は、将来彼女が成功することを知っていた。それでも、今の不安を軽く扱ってはいけないと思った。
「読ませてよ。できたら」
「笑わない?」
「笑うところなら笑う」
詩織が笑った。
5月の終わり、詩織が初めて悠人の部屋へ来た。
サークルの資料を借りるためだった。涼介も来るはずだったが、急に用事ができたと言って、駅前で二人を置いていった。あとで聞くと、用事はなかった。
悠人は前の晩、部屋を片付けていた。45歳の記憶があっても、18歳の部屋の散らかり方は変わらなかった。床の上の製図道具を机へ移し、机の上の教科書を床へ戻した。最後には、見えないところへ押し込むしかなかった。
詩織は靴をそろえ、入口で少し立ち止まった。
「入っていい?」
「そのために来たんだろ」
「そうだけど」
彼女は笑って、窓際の座布団に座った。
悠人はお茶を淹れた。急須の茶葉を入れすぎて、苦くなった。詩織は一口飲み、何も言わなかった。
「苦い?」
「ちょっと」
「淹れ直す」
「いいよ。眠くならなそう」
机の上のノートに目が留まった。悠人はすぐに閉じた。事故の日付を書いたノートだった。
「秘密?」
「まだ見せられない図面」
「建築の人って、何でも図面って言えば隠せるんだね」
詩織はそれ以上見ようとしなかった。その優しさに、悠人は安心すると同時に、少し後ろめたくなった。
資料を探している間、彼女は壁のポスターを見ていた。
「この家、どこにあるの」
悠人は説明した。説明が長くなった。詩織は途中で口を挟まず、頷いて聞いていた。
「退屈だった?」
「ううん。好きなものを話すとき、声が変わるんだね」
「どう変わる」
「急がなくなる」
悠人は自分の声を意識した。妻を救う方法を考えているとき、彼はいつも急いでいた。27年も先のことなのに、今日のうちに答えを出さなければならない気がしていた。
詩織は窓を開けた。薄いカーテンが揺れた。
「いい部屋」
「狭いよ」
「でも、外が見える」
彼女はそう言って、窓の下の道を眺めた。自転車が通った。買い物袋を提げた人が歩いた。特別な景色ではなかった。
悠人は、その横顔を見た。
この先、妻が何度も窓のそばに立つことを知っていた。原稿に行き詰まったとき。雨が降り始めたとき。夫の帰りが遅い夜。
だが、今、彼女が何を見ているかはわからなかった。
「何かある?」
「ないよ」
「じゃあ、何見てるの」
詩織は振り向いた。
「何もない時間」
その答えが、悠人には不思議だった。
帰り道、駅まで送った。改札の前で、詩織が鞄から小さな紙を出した。
くまの絵だった。製図板に向かって、眉を寄せている。
「さっき描いた」
「俺?」
「うん」
「こんなに丸くないだろ」
「顔じゃなくて、雰囲気」
悠人は紙を受け取った。
最初の人生では、同じ絵をもらっただろうか。覚えていなかった。覚えていないだけなのか、この人生で初めて描かれたのかも、わからなかった。
未来を知っていると思っていたのに、妻からもらった小さな紙一枚のことを知らなかった。
電車が来た。
詩織は扉の前で振り返った。
「お茶、次は少し薄くしてね」
悠人は頷いた。
その夜、事故のノートを閉じて、絵を机の前に貼った。
7時12分を避けるためだけに、彼女と付き合うのではない。そう思いたかった。
6月、雨の日の街歩きが中止になった。
悠人は、予定どおり詩織を誘った。二人で古い商店街を歩いた。傘を一つにする理由はなかったので、それぞれの傘を差した。並ぶと傘の縁がぶつかり、離れると声が聞こえにくかった。
「難しいね」
詩織が言った。
「何が」
「一緒に歩くの」
悠人は歩幅を小さくした。彼女も少し速く歩いた。しばらくすると、傘はぶつからなくなった。
商店街の端に、閉じた玩具店があった。ガラス越しに、古い人形が並んでいた。
詩織はその前で立ち止まった。
「この店の人、どこへ行ったんだろう」
「引っ越したんじゃないかな」
「人形は、待ってるみたい」
悠人は店を見た。彼には、閉店した建物にしか見えなかった。
詩織の目を通すと、同じ場所に別の物語が生まれた。
彼女はスケッチブックを出そうとした。雨が紙に落ちた。悠人は自分の傘を傾けた。
「濡れるよ」
「少しだけ」
「俺が持つ」
二本の傘を片手ずつ持った。うまく持てなかった。詩織は笑いながら、急いで線を引いた。
その絵を見て、悠人は思った。
救うべきなのは、妻の命だけではない。
こんなふうに立ち止まり、見つけ、描く時間も、彼女の人生なのだ。
そう思ったことを、彼は後の人生で、何度も忘れてしまう。
夏の花火大会で告白した。返事は、はい、だった。彼女は俯いたまま、しばらく顔を上げなかった。
「泣いてる?」
「花火が目にしみただけ」
「花火はしみないよ」
「私には、しみるの」
悠人はその手を握った。もう二度と離さないと、声には出さずに誓った。
告白したあとの夏休み、二人は遠くへ旅行するほどのお金を持っていなかった。
悠人は模型材料にお金を使い、詩織は画材と本に使った。涼介は、恋人ができたなら少しは遊びに使えと言ったが、自分も千夏を誘うためにアルバイトを増やしていた。
二人は、電車で行ける海へ出かけた。
朝早い電車は空いていた。詩織は窓際に座り、悠人は隣に座った。彼女は鞄からスケッチブックを出したが、しばらく描かなかった。
「描かないの?」
「今日は、見てから」
悠人は頷いた。
海へ着くと、風が強かった。砂が靴に入った。詩織は靴を脱ぎ、波打ち際まで歩いた。
悠人は少し離れてついていった。
彼女が振り向いた。
「来ないの?」
「濡れる」
「濡れても乾くよ」
悠人は靴を脱いだ。
冷たい水が足首に触れた。彼は思わず声を出した。詩織が笑った。
二人は、特に何もしなかった。砂の上に座り、駅で買ったおにぎりを食べた。海を見た。船が遠くを通った。
悠人は、こんな日が前の人生にもあったかどうか、考えた。
あったような気がした。なかったような気もした。
記憶は、写真のように残っていなかった。楽しかった日ほど、具体的な言葉や順番が曖昧だった。事故の瞬間だけが、異様にはっきりしていた。
彼は、その不公平さに腹が立った。
どうして、失った瞬間ばかりが残るのだろう。
詩織はスケッチブックを開いた。海ではなく、悠人の足を描いた。
「何で足」
「濡れてるから」
「海の方が、絵になるだろ」
「今日は、こっち」
彼は笑った。
詩織の絵には、濡れた足と、その横に置いた靴があった。特別なものは何も描かれていなかった。だが、彼はその絵を見ると、今日の冷たい水を思い出せる気がした。
「写真、撮っていい?」
悠人が聞いた。
「私?」
「絵と、君」
彼女は少し照れた。スケッチブックを胸の前に持った。
悠人は、使い捨てのカメラを構えた。
一枚しか撮らなかった。撮り直すことを考えなかった。
帰りの電車で、詩織は眠った。頭が少しずつ悠人の肩へ寄った。彼は動かなかった。肩が痛くなっても、そのままにした。
前の人生では、妻が車の中で眠ると、彼はラジオの音を小さくした。長い時間のあとに身についた習慣だった。
今は、18歳の彼女が隣で眠っている。
未来の妻を取り戻したのではない。
目の前の人と、初めての夏を過ごしている。
そのことを、悠人はようやく少し感じた。
秋、写真ができた。
詩織は、海の写真を見て笑った。
「目、閉じてる」
悠人は写真を見た。確かに、彼女は瞬きをしていた。
「撮り直せばよかった」
「いいよ。笑ってるのは、わかる」
彼は写真を机の前に貼った。
事故のノートは引き出しに入れた。
未来を忘れたわけではなかった。だが、今日を未来のためだけに使わない日が、少しずつ増えた。
その増えた日々が、後の別れをさらに辛くした。
人生は、二度目でも長かった。
2年生の秋、サークルで大学祭の展示を作った。
古い街の模型と、そこに暮らす人の絵を組み合わせる企画だった。悠人が建物を作り、詩織が人を描いた。涼介は予算を管理すると言ったが、途中から飾りを買いすぎ、千夏に帳簿を取り上げられた。
悠人は模型の縮尺を細かく決めた。屋根の角度。窓の幅。道の曲がり方。前の人生の仕事の経験があったので、ほかの学生より早く作れた。
詩織の絵は、なかなか進まなかった。
「人が大きすぎる」
悠人は言った。
「この家に入らない」
詩織は紙を見た。
「入るための人じゃない」
「でも、模型だろ」
「模型の中の話」
二人は、初めて、作品のことで言い合いになった。
悠人は、正しい縮尺でなければ不自然だと思った。詩織は、正しい縮尺では表情が見えないと言った。
涼介は、どちらでもいいと答えた。千夏は、どちらでもいいなら二人が作る意味がないと言った。
その夜、四人は展示室に残った。
悠人は、小さな家の窓を切り抜いた。詩織は、窓の中に人の顔を描いた。
やはり、大きすぎた。
だが、窓を覗くと、誰かが暮らしているように見えた。
「外から見る模型じゃなくて、覗く模型にしたら」
千夏が言った。
涼介が、机の上の模型を少し低い台へ移した。
悠人はしゃがんだ。窓の中の人と、目の高さが合った。
家の形だけを見ていたときには、気づかなかった。
人の顔があると、同じ模型が、生活のある場所に変わった。
彼は、詩織を見た。
「これで、いいかもしれない」
彼女は、少し笑った。
「大きすぎる?」
「まだ少し」
「少しなら、いい」
翌日、子どもを連れた人が展示へ来た。
子どもは、模型の窓を覗いた。中の人を見つけ、別の窓へ移った。家の外観を見ずに、部屋から部屋へ、物語を追うように歩いた。
悠人は、その動きを見ていた。
自分が正しいと思った模型では、起きなかったことだった。
展示の終わりに、詩織が言った。
「一緒に作るの、難しいね」
「うん」
「でも、一人ではできなかった」
彼は頷いた。
その夜、四人で食事をした。予算が余らなかったので、安い店だった。涼介が、俺の管理がよかったと言った。千夏が、私が止めたからだと答えた。
詩織は、窓を覗いた子どもの絵を描いた。
悠人は、模型の一部を持ち帰った。小さな窓と、その中の顔。
後の人生で、その模型は何度も失われた。
だが、二人で作ることの難しさと、面白さは、記憶の中に残った。
卒業を前に、詩織の父親が東京へ来た。
就職の話をするためだった。詩織は、悠人にも会ってほしいと言った。
悠人は、前の人生で何度も会った義父の顔を思い出した。最初の挨拶は厳しかった。結婚式では泣いた。家へ来ると、庭の木を気にした。
その記憶があったので、彼は少し油断していた。
喫茶店で、父親は悠人を見た。
「建築を勉強しているそうですね」
「はい」
「卒業後は」
悠人は就職先を話した。
父親は頷いた。次に詩織を見た。
「お前は、どうする」
詩織はカップに触れた。
「絵本を描きたい」
「それは聞いた。生活は」
彼女は黙った。
悠人は、彼女が将来成功することを言いたくなった。大丈夫です。彼女の本は売れます。名前が残ります。
言えなかった。
父親は、詩織の夢を嫌っているのではなかった。生活ができるかどうかを心配していた。
未来を知る悠人には、その心配を簡単に越えられるように見えた。だが、父親には今の娘しか見えない。
「僕も、彼女の本を読みたいと思っています」
悠人が言った。
父親は彼を見た。
「読みたいことと、生活を支えることは、違います」
その通りだった。
悠人は、妻を救う計画ばかり考えていた。二十七年間の生活を、当然続くものとして扱っていた。
「アルバイトをしながら、描きます」
詩織が言った。
「期限を決めて」
「期限が来たら、どうする」
「そのとき、考える」
父親は眉を寄せた。
「今、考えておくことだろう」
詩織は顔を上げた。
「考えてる。でも、まだやってないことを、今、諦める答えにしたくない」
悠人は彼女を見た。
彼女は、誰かに守られるのを待っている人ではなかった。
自分の未来を、自分で選ぼうとしていた。
その夜、二人は駅まで歩いた。
「お父さん、怖かった?」
「少し」
「ごめんね」
「謝らなくていい」
詩織は頷いた。
「あなたが、大丈夫って言わなくてよかった」
悠人は驚いた。
「言ってほしかったんじゃないの」
「言われたら、嬉しかったと思う。でも、何が大丈夫なのか、私にもわからないから」
彼女は街灯の下で立ち止まった。
「一緒に考えてくれる方が、嬉しい」
悠人は、その言葉を覚えた。
覚えたのに、何度も、自分だけで大丈夫な未来を作ろうとした。
詩織は新人賞に落ちた。落選の封筒を、食卓の上に裏返して置いた。
「私、向いてないのかな」
「向いてるよ」
「どうしてわかるの」
わかる、と言いたかった。未来では君の本を読んで、子どもたちが笑う。書店の棚に君の名前が並ぶ。
けれど、そう言ってしまえば、彼女の努力まで決まったものにしてしまう。
「俺は、続きを読みたい」
詩織は封筒を見た。
「それ、慰め?」
「注文」
彼女は翌朝、机に向かった。
大学を卒業し、働き始めた。知っているはずの仕事にも失敗した。記憶にある図面を再現しようとして、敷地の条件が違うことに気づいた。未来の知識は、今を省略するための道具にはならなかった。
働き始めて二年目、悠人は初めて自分の名前が入った小さな改修図面を持ち帰った。
詩織は夜遅くまで原稿を描いていた。部屋には、二人分の机があった。悠人の机には定規と計算用紙。詩織の机には筆と、水の入った瓶。食卓は、たいていどちらかの仕事に占領されていた。
「見て」
悠人が図面を広げると、詩織は筆を置いた。
「できたの?」
「まだ施工前。でも、通った」
彼女は署名欄を見つけた。
「春日悠人」
声に出して読んだ。
「名前がある」
「あるよ」
「すごいね」
悠人は笑った。褒められることに慣れているつもりだった。45歳の記憶の中では、何度も仕事を完成させていた。それでも、18歳からやり直した人生で初めて名前を残すことは、別の嬉しさがあった。
詩織は冷蔵庫を開けた。
「何か、乾杯できるもの」
「水でいい」
「それじゃ、いつもと同じ」
結局、二人は牛乳で乾杯した。グラスをぶつけると、白い液体が少しこぼれた。詩織は笑いながら拭いた。
そのあと、彼女は自分の原稿を伏せた。
悠人は、その動きに気づいた。
「見せてよ」
「まだ」
「俺のは見たのに」
「あなたのは、通ったんでしょ」
彼女の声が硬くなった。
悠人は言葉を止めた。
彼は未来の成功を知っていた。だが、今の彼女には、まだ一度も本が出た経験がなかった。悠人の喜びを祝うことと、自分の不安を消すことは、同じではない。
「ごめん」
「謝らないで。お祝いなのに」
詩織は笑おうとした。笑えなかった。
二人はしばらく、机を挟んで黙った。
悠人は原稿を見せろと言うのをやめた。代わりに、仕事の図面を片付けた。食卓を空けた。
「何か食べよう」
「牛乳飲んだ」
「牛乳は晩ご飯じゃない」
夜の商店街で、値引きされた弁当を二つ買った。帰り道、詩織が言った。
「羨ましかった」
「うん」
「あなたの名前が、仕事の紙にあって」
「うん」
「羨ましいって思った自分が、嫌だった」
悠人は袋を持ち替えた。
「俺も、君が本を出したら、羨ましいと思うかもしれない」
「本当に?」
「たぶん。俺の建物は、持って帰れないから」
詩織は少し笑った。
「模型なら持って帰れる」
「模型じゃ住めない」
その夜、二人は食卓で弁当を食べた。原稿は見せてもらえなかった。だが、翌朝、詩織は伏せた紙を表に返していた。
詩織の最初の本が出た日、二人は書店を三軒回った。
一軒目には置いていなかった。二軒目には一冊あった。三軒目では、店員が棚の場所を教えてくれた。
詩織は、遠くから見ていた。
「取らないの?」
悠人が聞いた。
「自分の本を、自分で取るの、変じゃない?」
「変じゃない」
彼は一冊取った。
表紙に、彼女の名前があった。
水野詩織。
彼は、その文字を指でなぞった。
前の人生では、何冊も彼女の本を見た。だが、初めての一冊が店の棚にあることは、何度経験しても特別だった。
レジへ持っていくと、詩織が止めた。
「家にあるよ」
「これは、ここで買う本」
彼女は少し笑った。
店員が袋に入れた。悠人は、袋を丁寧に持った。
帰り道、詩織は何度も振り返った。
「まだ、あるかな」
「一冊しかなかったから、俺が買ったらない」
「そうだった」
二人は笑った。
家へ戻ると、悠人は本を食卓に置いた。
詩織は、しばらく表紙を見ていた。
「お父さんに、送る」
「喜ぶよ」
「わからない」
彼女はそう言ったが、声は明るかった。
数日後、父親から電話が来た。
悠人は別の部屋にいた。詩織の声だけが聞こえた。
「うん。届いた?」
長い沈黙。
「うん」
また沈黙。
「ありがとう」
電話を切ったあと、彼女は部屋へ来た。
「何て?」
「本になったんだな、って」
悠人は頷いた。
「それだけ?」
「それだけ」
詩織は笑った。目が濡れていた。
それだけの言葉を、何年も待っていたのだと思った。
彼は、彼女の肩を抱いた。
成功を知っていることは、待つ時間を短くすることではなかった。
今の彼女が待ち、今の父親が言う。その一度を、未来の記憶で代わりにすることはできなかった。
2006年、結婚式の日取りを決めた。
「11月22日で」
プランナーの言葉を、悠人は遮った。
「6月にしてください」
詩織が振り向いた。
「11月がいいって、二人で決めたよね」
「6月もいいだろ」
「理由は?」
「俺が憧れてるんだ。六月の結婚式に」
嘘をつくとき、悠人は妻の目を見られなかった。彼女はしばらく黙っていた。
「悠人くんが、そうしたいなら」
その言葉に救われた。救われたと思った。
庭のある家を建てた。窓は左右非対称にした。桜の苗木を植えた。詩織の絵本が出版された。涼介と事務所を開いた。二人は喧嘩もした。仲直りもした。幸福は、奇跡よりずっと地味な姿で積もっていった。
最初の家を建てるとき、二人は、窓の位置より先に、朝の過ごし方を話した。
詩織は、起きてすぐ仕事をする日があると言った。悠人は、朝食を食べてから出たいと言った。
「別々になるね」
彼女が言った。
「毎日、同じ時間じゃなくてもいい」
「でも、会えない朝が続いたら」
悠人は、食卓と仕事部屋の間の壁を少し開ける案を描いた。
詩織は、原稿を描きながら、台所の音を聞ける。悠人は、食事をしながら、妻がいることを感じられる。
「見える方がいい?」
彼が聞いた。
詩織は考えた。
「全部見えなくていい。音がするくらい」
彼は、開口を少し小さくした。
「こう?」
「うん」
二人は、図面の上で暮らしを試した。
喧嘩した日もあった。
悠人は、洗面所を一つでいいと言った。詩織は、絵の具を洗う場所を別にほしいと言った。
「台所じゃ、駄目?」
「食べる場所だから」
「費用が」
「私も、出す」
彼女の声が硬くなった。
悠人は、家を自分が作ってあげるものだと思っていたことに気づいた。
妻も、お金を出し、意見を出し、そこで暮らす。
彼は図面を戻した。
「もう一度、考えよう」
詩織は頷いた。
完成した家には、仕事部屋の隅に小さな流しがあった。妻は最初にそこで筆を洗った。
水が流れる音を、悠人は台所で聞いた。
二人の生活が、別々の音を立てながら、同じ家の中で始まった。
その音を、彼は好きになった。
知っていることと、できることは、同じではなかった。
結婚して何年か経ったころ、悠人の母が入院した。
最初の人生では、病気が見つかるまで時間がかかった。悠人はそれを覚えていた。早めに検査を勧めれば、何かが変わるかもしれないと思った。
「大げさな子」
母は電話で笑った。
「一度だけでいいから」
悠人は頼んだ。
検査のあと、母は入院した。治療が始まった。前の人生より長く生きられるかどうか、誰にもわからなかった。
悠人は病室へ通った。母は詩織を見ると、いつも悠人の子どものころの話をした。
「この子、家の絵ばかり描いてたのよ。窓が多すぎて、壁がなかった」
「今も、窓の話ばかりします」
詩織が言うと、母は笑った。
悠人は二人を見ていた。失われた時間を取り戻せた気がした。だが、母はやがて亡くなった。前の人生と同じ日ではなかった。最期の言葉も違った。
未来を知っていても、別れをなくすことはできなかった。
葬儀のあと、詩織が悠人の上着を受け取った。彼は畳の上に座り、母の湯呑みを見ていた。
「もっとできたことが、あった」
詩織は隣に座った。
「何が」
「わからない。でも、あったはずなんだ」
彼女はすぐに否定しなかった。
「そう思うよね」
その答えに、悠人は顔を上げた。
「大切な人がいなくなると、できなかったことばかり数えるんだと思う」
詩織は湯呑みを見た。
「でも、今日、お母さんの友達が言ってた。あなたがよく来てくれて、嬉しそうだったって」
悠人は目を閉じた。
救えなかった命にも、一緒に過ごせた時間はある。
そのことを母の死から学びかけたのに、妻の死の前では、どうしても受け入れられなかった。
そして、2026年11月22日が来た。
悠人は休みを取った。車の鍵を引き出しにしまい、玄関の戸締まりを確かめた。
「今日は家にいよう」
「記念日でもないのに?」
「のんびりしたいんだ」
「いいよ」
夕方から風が強くなった。悠人は窓の鍵を確かめた。妻が料理を作る間、何度も時計を見た。
「怖い夢を見たんだ」
食卓で、やっと言った。
「この日に、君がいなくなる夢」
詩織はグラスを置いた。
「夢の中の私、最後に何て言ってた?」
「また、はじめまして、しようね、って」
彼女は目を伏せた。
「守ろうとしてくれて、ありがとう」
7時10分。胸が痛んだ。
庭の桜が大きく揺れていた。20年で、思っていたより高く育っていた。
「窓から離れろ」
詩織は立ち上がった。悠人の方へではなく、窓と悠人の間へ歩いた。
「20年、ありがとう」
風の音が変わった。
幹が裂ける音を、悠人は初めて聞いた。窓が砕けた。詩織の両手が悠人の胸を押した。床に倒れ、顔を上げたとき、彼女は枝とガラスの下にいた。
時計は7時12分。
車に乗らなかった。交差点へ行かなかった。結婚記念日まで変えた。
それなのに、妻の手はまた冷えていった。
「もう一度」
今度の願いには、祈りよりも怒りが混じっていた。
桜の下へ戻ると、悠人は紙コップを握り潰した。
18歳の詩織が振り向いた。涙を浮かべて、また、はじめまして、と言った。
悠人は笑えなかった。
運命は、道を一本変えれば避けられるものではなかった。




