↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
二度目の初恋  作者: ぽむぽむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/10

第二章 やり直しの春

 六畳の部屋に戻ると、壁に建築家のポスターが貼ってあった。自分で貼ったことを覚えている。角が一つ剥がれ、押し入れには母が持たせた毛布があった。

 母に電話をかけた。

「何。お金?」

 元気な声だった。最初の人生では、八年前に亡くなっていた。

 悠人は受話器を握ったまま黙った。

「もしもし?」

「いや。声、聞きたくて」

「変な子。ご飯食べたの?」

 電話を切ったあと、布団に顔を埋めた。妻だけではなかった。失ったものが、あちこちに戻っていた。これを奇跡と呼ばずに何と呼べばいいのだろう。

 机のノートに、日付を書いた。

「2026年11月22日

午後7時12分 交差点 トラック」

 その下に、太い字で書いた。

「車に乗らない」

 たったそれだけだと思った。27年後、あの交差点を通らなければいい。妻の死を避けるために、人生のすべてを変える必要はない。

 大学へ行く前、悠人は自分の学生証を何度も見た。

 写真の顔は若かった。頬に、まだ少し丸みがあった。髪も多かった。鏡を見ても、そこに45歳の自分はいなかった。

 だが、手を動かすと、長年の癖が出た。

 鉛筆の削り方。図面を押さえる指の位置。定規を置く角度。

 体が若くなっても、記憶が体の使い方を変えるのだと思った。

 授業では、知っている話が多かった。だが、知っていることを聞き直すと、以前は聞き流した部分が耳に入った。

 教授は、建物の寿命について話した。

 長く残ることだけが価値ではない。使われ方が変われば、建物も変わる。最初の設計を守ることと、そこに暮らす人を守ることは、時に違う。

 悠人はノートを取った。

 前の人生で、同じ授業を受けたはずだった。だが、この言葉は覚えていなかった。

 涼介が隣で眠っていた。彼は肘で起こした。

「何だよ」

「大事な話」

「全部大事だろ、授業は」

 涼介はそう言って、また目を閉じた。

 悠人は笑った。

 この親友も、まだ、知らない時間を生きている。

 授業のあと、二人は食堂へ行った。涼介は財布を忘れたと言った。悠人は立て替えた。

 前の人生でも、同じことがあった気がした。

「お前、昔からそうだよな」

 言うと、涼介は首を傾げた。

「まだ一週間しか知らねえだろ」

 悠人は黙った。

 親友にとって、自分はまだ、知り合ったばかりの同級生だった。

 妻だけではない。すべての関係を、もう一度始めなければならなかった。

 それは、嬉しいことでもあり、寂しいことでもあった。

 数日後、図書館で詩織を見つけた。絵本の棚の前にしゃがんでいた。

「水野さん」

 振り向いた顔を見ただけで、胸が苦しくなった。

「あ。春日くん」

 名前を覚えていてくれた。その当たり前のことが嬉しかった。

「その絵本、好きなんだね」

「家がずっと同じ場所で、季節を見てるの。建築やってる人なら、好きだと思う」

 悠人は笑った。昔も同じ話をした。27年前には、何と返したのだったか。

「俺、いつかそういう家を作りたいんだ」

「知ってる」

 詩織はすぐに本を閉じた。

「新歓で言ってた気がして」

 言っていなかったと思う。けれど、その疑問よりも、彼女とまた話せる喜びの方が大きかった。

 日曜日、サークルの街歩きに誘った。古い洋館の前で、悠人は窓の配置を説明した。朝日が階段の踊り場に落ちるように、左右をずらしてある。

「詳しいね」

 45歳まで建築士をしていたのだから当然だった。だが、十八歳の自分には、まだそこまでの知識はなかったはずだ。

「昔、好きな人に同じ話をしたことがあって」

 言ってから後悔した。

「18歳なのに、昔?」

「高校のとき」

「その人、何て言った?」

 悠人は洋館を見上げた。

「いつか私の家も、そうやって作って、って」

 詩織の鉛筆が止まった。

「幸せな人だね」

 小さな声だった。

 恋をやり直すことは、思っていたほど簡単ではなかった。

 悠人は詩織の好きな飲み物を知っていた。苦手な食べ物も、締め切り前に爪を噛む癖も知っていた。けれど、18歳の詩織が今何を考えているかは、知らなかった。

「ミルクティー、砂糖なしでいい?」

 ある日、彼女は注文する前の悠人を見た。

「どうして決めちゃうの?」

「好きだろ」

「今日はココアが飲みたい」

 悠人は黙った。詩織は怒ってはいなかった。ただ、不思議そうだった。

 未来の妻を知っていることと、目の前の彼女を知っていることは、同じではなかった。

 その日から、悠人はなるべく聞くようにした。何が飲みたい。どこへ行きたい。絵本を描くとき、何がいちばん難しい。

 詩織は少しずつ話した。好きなものを描くのと、誰かに読んでもらえるものを描くのは違うこと。家族には就職を勧められていること。自分の絵が、本になるところを見てみたいこと。

 悠人は、将来彼女が成功することを知っていた。それでも、今の不安を軽く扱ってはいけないと思った。

「読ませてよ。できたら」

「笑わない?」

「笑うところなら笑う」

 詩織が笑った。

 5月の終わり、詩織が初めて悠人の部屋へ来た。

 サークルの資料を借りるためだった。涼介も来るはずだったが、急に用事ができたと言って、駅前で二人を置いていった。あとで聞くと、用事はなかった。

 悠人は前の晩、部屋を片付けていた。45歳の記憶があっても、18歳の部屋の散らかり方は変わらなかった。床の上の製図道具を机へ移し、机の上の教科書を床へ戻した。最後には、見えないところへ押し込むしかなかった。

 詩織は靴をそろえ、入口で少し立ち止まった。

「入っていい?」

「そのために来たんだろ」

「そうだけど」

 彼女は笑って、窓際の座布団に座った。

 悠人はお茶を淹れた。急須の茶葉を入れすぎて、苦くなった。詩織は一口飲み、何も言わなかった。

「苦い?」

「ちょっと」

「淹れ直す」

「いいよ。眠くならなそう」

 机の上のノートに目が留まった。悠人はすぐに閉じた。事故の日付を書いたノートだった。

「秘密?」

「まだ見せられない図面」

「建築の人って、何でも図面って言えば隠せるんだね」

 詩織はそれ以上見ようとしなかった。その優しさに、悠人は安心すると同時に、少し後ろめたくなった。

 資料を探している間、彼女は壁のポスターを見ていた。

「この家、どこにあるの」

 悠人は説明した。説明が長くなった。詩織は途中で口を挟まず、頷いて聞いていた。

「退屈だった?」

「ううん。好きなものを話すとき、声が変わるんだね」

「どう変わる」

「急がなくなる」

 悠人は自分の声を意識した。妻を救う方法を考えているとき、彼はいつも急いでいた。27年も先のことなのに、今日のうちに答えを出さなければならない気がしていた。

 詩織は窓を開けた。薄いカーテンが揺れた。

「いい部屋」

「狭いよ」

「でも、外が見える」

 彼女はそう言って、窓の下の道を眺めた。自転車が通った。買い物袋を提げた人が歩いた。特別な景色ではなかった。

 悠人は、その横顔を見た。

 この先、妻が何度も窓のそばに立つことを知っていた。原稿に行き詰まったとき。雨が降り始めたとき。夫の帰りが遅い夜。

 だが、今、彼女が何を見ているかはわからなかった。

「何かある?」

「ないよ」

「じゃあ、何見てるの」

 詩織は振り向いた。

「何もない時間」

 その答えが、悠人には不思議だった。

 帰り道、駅まで送った。改札の前で、詩織が鞄から小さな紙を出した。

 くまの絵だった。製図板に向かって、眉を寄せている。

「さっき描いた」

「俺?」

「うん」

「こんなに丸くないだろ」

「顔じゃなくて、雰囲気」

 悠人は紙を受け取った。

 最初の人生では、同じ絵をもらっただろうか。覚えていなかった。覚えていないだけなのか、この人生で初めて描かれたのかも、わからなかった。

 未来を知っていると思っていたのに、妻からもらった小さな紙一枚のことを知らなかった。

 電車が来た。

 詩織は扉の前で振り返った。

「お茶、次は少し薄くしてね」

 悠人は頷いた。

 その夜、事故のノートを閉じて、絵を机の前に貼った。

 7時12分を避けるためだけに、彼女と付き合うのではない。そう思いたかった。

 6月、雨の日の街歩きが中止になった。

 悠人は、予定どおり詩織を誘った。二人で古い商店街を歩いた。傘を一つにする理由はなかったので、それぞれの傘を差した。並ぶと傘の縁がぶつかり、離れると声が聞こえにくかった。

「難しいね」

 詩織が言った。

「何が」

「一緒に歩くの」

 悠人は歩幅を小さくした。彼女も少し速く歩いた。しばらくすると、傘はぶつからなくなった。

 商店街の端に、閉じた玩具店があった。ガラス越しに、古い人形が並んでいた。

 詩織はその前で立ち止まった。

「この店の人、どこへ行ったんだろう」

「引っ越したんじゃないかな」

「人形は、待ってるみたい」

 悠人は店を見た。彼には、閉店した建物にしか見えなかった。

 詩織の目を通すと、同じ場所に別の物語が生まれた。

 彼女はスケッチブックを出そうとした。雨が紙に落ちた。悠人は自分の傘を傾けた。

「濡れるよ」

「少しだけ」

「俺が持つ」

 二本の傘を片手ずつ持った。うまく持てなかった。詩織は笑いながら、急いで線を引いた。

 その絵を見て、悠人は思った。

 救うべきなのは、妻の命だけではない。

 こんなふうに立ち止まり、見つけ、描く時間も、彼女の人生なのだ。

 そう思ったことを、彼は後の人生で、何度も忘れてしまう。

 夏の花火大会で告白した。返事は、はい、だった。彼女は俯いたまま、しばらく顔を上げなかった。

「泣いてる?」

「花火が目にしみただけ」

「花火はしみないよ」

「私には、しみるの」

 悠人はその手を握った。もう二度と離さないと、声には出さずに誓った。

 告白したあとの夏休み、二人は遠くへ旅行するほどのお金を持っていなかった。

 悠人は模型材料にお金を使い、詩織は画材と本に使った。涼介は、恋人ができたなら少しは遊びに使えと言ったが、自分も千夏を誘うためにアルバイトを増やしていた。

 二人は、電車で行ける海へ出かけた。

 朝早い電車は空いていた。詩織は窓際に座り、悠人は隣に座った。彼女は鞄からスケッチブックを出したが、しばらく描かなかった。

「描かないの?」

「今日は、見てから」

 悠人は頷いた。

 海へ着くと、風が強かった。砂が靴に入った。詩織は靴を脱ぎ、波打ち際まで歩いた。

 悠人は少し離れてついていった。

 彼女が振り向いた。

「来ないの?」

「濡れる」

「濡れても乾くよ」

 悠人は靴を脱いだ。

 冷たい水が足首に触れた。彼は思わず声を出した。詩織が笑った。

 二人は、特に何もしなかった。砂の上に座り、駅で買ったおにぎりを食べた。海を見た。船が遠くを通った。

 悠人は、こんな日が前の人生にもあったかどうか、考えた。

 あったような気がした。なかったような気もした。

 記憶は、写真のように残っていなかった。楽しかった日ほど、具体的な言葉や順番が曖昧だった。事故の瞬間だけが、異様にはっきりしていた。

 彼は、その不公平さに腹が立った。

 どうして、失った瞬間ばかりが残るのだろう。

 詩織はスケッチブックを開いた。海ではなく、悠人の足を描いた。

「何で足」

「濡れてるから」

「海の方が、絵になるだろ」

「今日は、こっち」

 彼は笑った。

 詩織の絵には、濡れた足と、その横に置いた靴があった。特別なものは何も描かれていなかった。だが、彼はその絵を見ると、今日の冷たい水を思い出せる気がした。

「写真、撮っていい?」

 悠人が聞いた。

「私?」

「絵と、君」

 彼女は少し照れた。スケッチブックを胸の前に持った。

 悠人は、使い捨てのカメラを構えた。

 一枚しか撮らなかった。撮り直すことを考えなかった。

 帰りの電車で、詩織は眠った。頭が少しずつ悠人の肩へ寄った。彼は動かなかった。肩が痛くなっても、そのままにした。

 前の人生では、妻が車の中で眠ると、彼はラジオの音を小さくした。長い時間のあとに身についた習慣だった。

 今は、18歳の彼女が隣で眠っている。

 未来の妻を取り戻したのではない。

 目の前の人と、初めての夏を過ごしている。

 そのことを、悠人はようやく少し感じた。

 秋、写真ができた。

 詩織は、海の写真を見て笑った。

「目、閉じてる」

 悠人は写真を見た。確かに、彼女は瞬きをしていた。

「撮り直せばよかった」

「いいよ。笑ってるのは、わかる」

 彼は写真を机の前に貼った。

 事故のノートは引き出しに入れた。

 未来を忘れたわけではなかった。だが、今日を未来のためだけに使わない日が、少しずつ増えた。

 その増えた日々が、後の別れをさらに辛くした。

 人生は、二度目でも長かった。

 2年生の秋、サークルで大学祭の展示を作った。

 古い街の模型と、そこに暮らす人の絵を組み合わせる企画だった。悠人が建物を作り、詩織が人を描いた。涼介は予算を管理すると言ったが、途中から飾りを買いすぎ、千夏に帳簿を取り上げられた。

 悠人は模型の縮尺を細かく決めた。屋根の角度。窓の幅。道の曲がり方。前の人生の仕事の経験があったので、ほかの学生より早く作れた。

 詩織の絵は、なかなか進まなかった。

「人が大きすぎる」

 悠人は言った。

「この家に入らない」

 詩織は紙を見た。

「入るための人じゃない」

「でも、模型だろ」

「模型の中の話」

 二人は、初めて、作品のことで言い合いになった。

 悠人は、正しい縮尺でなければ不自然だと思った。詩織は、正しい縮尺では表情が見えないと言った。

 涼介は、どちらでもいいと答えた。千夏は、どちらでもいいなら二人が作る意味がないと言った。

 その夜、四人は展示室に残った。

 悠人は、小さな家の窓を切り抜いた。詩織は、窓の中に人の顔を描いた。

 やはり、大きすぎた。

 だが、窓を覗くと、誰かが暮らしているように見えた。

「外から見る模型じゃなくて、覗く模型にしたら」

 千夏が言った。

 涼介が、机の上の模型を少し低い台へ移した。

 悠人はしゃがんだ。窓の中の人と、目の高さが合った。

 家の形だけを見ていたときには、気づかなかった。

 人の顔があると、同じ模型が、生活のある場所に変わった。

 彼は、詩織を見た。

「これで、いいかもしれない」

 彼女は、少し笑った。

「大きすぎる?」

「まだ少し」

「少しなら、いい」

 翌日、子どもを連れた人が展示へ来た。

 子どもは、模型の窓を覗いた。中の人を見つけ、別の窓へ移った。家の外観を見ずに、部屋から部屋へ、物語を追うように歩いた。

 悠人は、その動きを見ていた。

 自分が正しいと思った模型では、起きなかったことだった。

 展示の終わりに、詩織が言った。

「一緒に作るの、難しいね」

「うん」

「でも、一人ではできなかった」

 彼は頷いた。

 その夜、四人で食事をした。予算が余らなかったので、安い店だった。涼介が、俺の管理がよかったと言った。千夏が、私が止めたからだと答えた。

 詩織は、窓を覗いた子どもの絵を描いた。

 悠人は、模型の一部を持ち帰った。小さな窓と、その中の顔。

 後の人生で、その模型は何度も失われた。

 だが、二人で作ることの難しさと、面白さは、記憶の中に残った。

 卒業を前に、詩織の父親が東京へ来た。

 就職の話をするためだった。詩織は、悠人にも会ってほしいと言った。

 悠人は、前の人生で何度も会った義父の顔を思い出した。最初の挨拶は厳しかった。結婚式では泣いた。家へ来ると、庭の木を気にした。

 その記憶があったので、彼は少し油断していた。

 喫茶店で、父親は悠人を見た。

「建築を勉強しているそうですね」

「はい」

「卒業後は」

 悠人は就職先を話した。

 父親は頷いた。次に詩織を見た。

「お前は、どうする」

 詩織はカップに触れた。

「絵本を描きたい」

「それは聞いた。生活は」

 彼女は黙った。

 悠人は、彼女が将来成功することを言いたくなった。大丈夫です。彼女の本は売れます。名前が残ります。

 言えなかった。

 父親は、詩織の夢を嫌っているのではなかった。生活ができるかどうかを心配していた。

 未来を知る悠人には、その心配を簡単に越えられるように見えた。だが、父親には今の娘しか見えない。

「僕も、彼女の本を読みたいと思っています」

 悠人が言った。

 父親は彼を見た。

「読みたいことと、生活を支えることは、違います」

 その通りだった。

 悠人は、妻を救う計画ばかり考えていた。二十七年間の生活を、当然続くものとして扱っていた。

「アルバイトをしながら、描きます」

 詩織が言った。

「期限を決めて」

「期限が来たら、どうする」

「そのとき、考える」

 父親は眉を寄せた。

「今、考えておくことだろう」

 詩織は顔を上げた。

「考えてる。でも、まだやってないことを、今、諦める答えにしたくない」

 悠人は彼女を見た。

 彼女は、誰かに守られるのを待っている人ではなかった。

 自分の未来を、自分で選ぼうとしていた。

 その夜、二人は駅まで歩いた。

「お父さん、怖かった?」

「少し」

「ごめんね」

「謝らなくていい」

 詩織は頷いた。

「あなたが、大丈夫って言わなくてよかった」

 悠人は驚いた。

「言ってほしかったんじゃないの」

「言われたら、嬉しかったと思う。でも、何が大丈夫なのか、私にもわからないから」

 彼女は街灯の下で立ち止まった。

「一緒に考えてくれる方が、嬉しい」

 悠人は、その言葉を覚えた。

 覚えたのに、何度も、自分だけで大丈夫な未来を作ろうとした。

 詩織は新人賞に落ちた。落選の封筒を、食卓の上に裏返して置いた。

「私、向いてないのかな」

「向いてるよ」

「どうしてわかるの」

 わかる、と言いたかった。未来では君の本を読んで、子どもたちが笑う。書店の棚に君の名前が並ぶ。

 けれど、そう言ってしまえば、彼女の努力まで決まったものにしてしまう。

「俺は、続きを読みたい」

 詩織は封筒を見た。

「それ、慰め?」

「注文」

 彼女は翌朝、机に向かった。

 大学を卒業し、働き始めた。知っているはずの仕事にも失敗した。記憶にある図面を再現しようとして、敷地の条件が違うことに気づいた。未来の知識は、今を省略するための道具にはならなかった。

 働き始めて二年目、悠人は初めて自分の名前が入った小さな改修図面を持ち帰った。

 詩織は夜遅くまで原稿を描いていた。部屋には、二人分の机があった。悠人の机には定規と計算用紙。詩織の机には筆と、水の入った瓶。食卓は、たいていどちらかの仕事に占領されていた。

「見て」

 悠人が図面を広げると、詩織は筆を置いた。

「できたの?」

「まだ施工前。でも、通った」

 彼女は署名欄を見つけた。

「春日悠人」

 声に出して読んだ。

「名前がある」

「あるよ」

「すごいね」

 悠人は笑った。褒められることに慣れているつもりだった。45歳の記憶の中では、何度も仕事を完成させていた。それでも、18歳からやり直した人生で初めて名前を残すことは、別の嬉しさがあった。

 詩織は冷蔵庫を開けた。

「何か、乾杯できるもの」

「水でいい」

「それじゃ、いつもと同じ」

 結局、二人は牛乳で乾杯した。グラスをぶつけると、白い液体が少しこぼれた。詩織は笑いながら拭いた。

 そのあと、彼女は自分の原稿を伏せた。

 悠人は、その動きに気づいた。

「見せてよ」

「まだ」

「俺のは見たのに」

「あなたのは、通ったんでしょ」

 彼女の声が硬くなった。

 悠人は言葉を止めた。

 彼は未来の成功を知っていた。だが、今の彼女には、まだ一度も本が出た経験がなかった。悠人の喜びを祝うことと、自分の不安を消すことは、同じではない。

「ごめん」

「謝らないで。お祝いなのに」

 詩織は笑おうとした。笑えなかった。

 二人はしばらく、机を挟んで黙った。

 悠人は原稿を見せろと言うのをやめた。代わりに、仕事の図面を片付けた。食卓を空けた。

「何か食べよう」

「牛乳飲んだ」

「牛乳は晩ご飯じゃない」

 夜の商店街で、値引きされた弁当を二つ買った。帰り道、詩織が言った。

「羨ましかった」

「うん」

「あなたの名前が、仕事の紙にあって」

「うん」

「羨ましいって思った自分が、嫌だった」

 悠人は袋を持ち替えた。

「俺も、君が本を出したら、羨ましいと思うかもしれない」

「本当に?」

「たぶん。俺の建物は、持って帰れないから」

 詩織は少し笑った。

「模型なら持って帰れる」

「模型じゃ住めない」

 その夜、二人は食卓で弁当を食べた。原稿は見せてもらえなかった。だが、翌朝、詩織は伏せた紙を表に返していた。

 詩織の最初の本が出た日、二人は書店を三軒回った。

 一軒目には置いていなかった。二軒目には一冊あった。三軒目では、店員が棚の場所を教えてくれた。

 詩織は、遠くから見ていた。

「取らないの?」

 悠人が聞いた。

「自分の本を、自分で取るの、変じゃない?」

「変じゃない」

 彼は一冊取った。

 表紙に、彼女の名前があった。

 水野詩織。

 彼は、その文字を指でなぞった。

 前の人生では、何冊も彼女の本を見た。だが、初めての一冊が店の棚にあることは、何度経験しても特別だった。

 レジへ持っていくと、詩織が止めた。

「家にあるよ」

「これは、ここで買う本」

 彼女は少し笑った。

 店員が袋に入れた。悠人は、袋を丁寧に持った。

 帰り道、詩織は何度も振り返った。

「まだ、あるかな」

「一冊しかなかったから、俺が買ったらない」

「そうだった」

 二人は笑った。

 家へ戻ると、悠人は本を食卓に置いた。

 詩織は、しばらく表紙を見ていた。

「お父さんに、送る」

「喜ぶよ」

「わからない」

 彼女はそう言ったが、声は明るかった。

 数日後、父親から電話が来た。

 悠人は別の部屋にいた。詩織の声だけが聞こえた。

「うん。届いた?」

 長い沈黙。

「うん」

 また沈黙。

「ありがとう」

 電話を切ったあと、彼女は部屋へ来た。

「何て?」

「本になったんだな、って」

 悠人は頷いた。

「それだけ?」

「それだけ」

 詩織は笑った。目が濡れていた。

 それだけの言葉を、何年も待っていたのだと思った。

 彼は、彼女の肩を抱いた。

 成功を知っていることは、待つ時間を短くすることではなかった。

 今の彼女が待ち、今の父親が言う。その一度を、未来の記憶で代わりにすることはできなかった。

 2006年、結婚式の日取りを決めた。

「11月22日で」

 プランナーの言葉を、悠人は遮った。

「6月にしてください」

 詩織が振り向いた。

「11月がいいって、二人で決めたよね」

「6月もいいだろ」

「理由は?」

「俺が憧れてるんだ。六月の結婚式に」

 嘘をつくとき、悠人は妻の目を見られなかった。彼女はしばらく黙っていた。

「悠人くんが、そうしたいなら」

 その言葉に救われた。救われたと思った。

 庭のある家を建てた。窓は左右非対称にした。桜の苗木を植えた。詩織の絵本が出版された。涼介と事務所を開いた。二人は喧嘩もした。仲直りもした。幸福は、奇跡よりずっと地味な姿で積もっていった。

 最初の家を建てるとき、二人は、窓の位置より先に、朝の過ごし方を話した。

 詩織は、起きてすぐ仕事をする日があると言った。悠人は、朝食を食べてから出たいと言った。

「別々になるね」

 彼女が言った。

「毎日、同じ時間じゃなくてもいい」

「でも、会えない朝が続いたら」

 悠人は、食卓と仕事部屋の間の壁を少し開ける案を描いた。

 詩織は、原稿を描きながら、台所の音を聞ける。悠人は、食事をしながら、妻がいることを感じられる。

「見える方がいい?」

 彼が聞いた。

 詩織は考えた。

「全部見えなくていい。音がするくらい」

 彼は、開口を少し小さくした。

「こう?」

「うん」

 二人は、図面の上で暮らしを試した。

 喧嘩した日もあった。

 悠人は、洗面所を一つでいいと言った。詩織は、絵の具を洗う場所を別にほしいと言った。

「台所じゃ、駄目?」

「食べる場所だから」

「費用が」

「私も、出す」

 彼女の声が硬くなった。

 悠人は、家を自分が作ってあげるものだと思っていたことに気づいた。

 妻も、お金を出し、意見を出し、そこで暮らす。

 彼は図面を戻した。

「もう一度、考えよう」

 詩織は頷いた。

 完成した家には、仕事部屋の隅に小さな流しがあった。妻は最初にそこで筆を洗った。

 水が流れる音を、悠人は台所で聞いた。

 二人の生活が、別々の音を立てながら、同じ家の中で始まった。

 その音を、彼は好きになった。

 知っていることと、できることは、同じではなかった。

 結婚して何年か経ったころ、悠人の母が入院した。

 最初の人生では、病気が見つかるまで時間がかかった。悠人はそれを覚えていた。早めに検査を勧めれば、何かが変わるかもしれないと思った。

「大げさな子」

 母は電話で笑った。

「一度だけでいいから」

 悠人は頼んだ。

 検査のあと、母は入院した。治療が始まった。前の人生より長く生きられるかどうか、誰にもわからなかった。

 悠人は病室へ通った。母は詩織を見ると、いつも悠人の子どものころの話をした。

「この子、家の絵ばかり描いてたのよ。窓が多すぎて、壁がなかった」

「今も、窓の話ばかりします」

 詩織が言うと、母は笑った。

 悠人は二人を見ていた。失われた時間を取り戻せた気がした。だが、母はやがて亡くなった。前の人生と同じ日ではなかった。最期の言葉も違った。

 未来を知っていても、別れをなくすことはできなかった。

 葬儀のあと、詩織が悠人の上着を受け取った。彼は畳の上に座り、母の湯呑みを見ていた。

「もっとできたことが、あった」

 詩織は隣に座った。

「何が」

「わからない。でも、あったはずなんだ」

 彼女はすぐに否定しなかった。

「そう思うよね」

 その答えに、悠人は顔を上げた。

「大切な人がいなくなると、できなかったことばかり数えるんだと思う」

 詩織は湯呑みを見た。

「でも、今日、お母さんの友達が言ってた。あなたがよく来てくれて、嬉しそうだったって」

 悠人は目を閉じた。

 救えなかった命にも、一緒に過ごせた時間はある。

 そのことを母の死から学びかけたのに、妻の死の前では、どうしても受け入れられなかった。

 そして、2026年11月22日が来た。

 悠人は休みを取った。車の鍵を引き出しにしまい、玄関の戸締まりを確かめた。

「今日は家にいよう」

「記念日でもないのに?」

「のんびりしたいんだ」

「いいよ」

 夕方から風が強くなった。悠人は窓の鍵を確かめた。妻が料理を作る間、何度も時計を見た。

「怖い夢を見たんだ」

 食卓で、やっと言った。

「この日に、君がいなくなる夢」

 詩織はグラスを置いた。

「夢の中の私、最後に何て言ってた?」

「また、はじめまして、しようね、って」

 彼女は目を伏せた。

「守ろうとしてくれて、ありがとう」

 7時10分。胸が痛んだ。

 庭の桜が大きく揺れていた。20年で、思っていたより高く育っていた。

「窓から離れろ」

 詩織は立ち上がった。悠人の方へではなく、窓と悠人の間へ歩いた。

「20年、ありがとう」

 風の音が変わった。

 幹が裂ける音を、悠人は初めて聞いた。窓が砕けた。詩織の両手が悠人の胸を押した。床に倒れ、顔を上げたとき、彼女は枝とガラスの下にいた。

 時計は7時12分。

 車に乗らなかった。交差点へ行かなかった。結婚記念日まで変えた。

 それなのに、妻の手はまた冷えていった。

「もう一度」

 今度の願いには、祈りよりも怒りが混じっていた。

 桜の下へ戻ると、悠人は紙コップを握り潰した。

 18歳の詩織が振り向いた。涙を浮かべて、また、はじめまして、と言った。

 悠人は笑えなかった。

 運命は、道を一本変えれば避けられるものではなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。