第一章 20年目の夜
もし、人生をもう一度やり直せるとしたら、あなたは何を変えますか。
あの日、言えなかった言葉。
素直になれなかった夜。
大切な人を傷つけてしまった、ほんの些細な選択。
きっと誰にでも、戻れるものなら戻りたいと思う瞬間があるはずです。
けれど、もし過去に戻ることができたとして、私たちは本当に、愛する人を幸せにできるのでしょうか。
同じ人と出会い、同じ人を好きになり、同じ人と人生を歩む。
その先に待つ結末を知っていたとしても、もう一度、その手を取ることができるでしょうか。
この物語は、一人の男が、最愛の人と過ごした時間を取り戻そうとする物語です。
しかし、これは単に過去を変え、悲しい運命を乗り越えるための物語ではありません。
誰かを愛するということ。
誰かと共に生きるということ。
そして、自分にとっての幸せが、必ずしも相手にとっての幸せとは限らないということ。
長い年月を共に過ごした二人にとって、初恋とは、決して遠い昔に置いてきた思い出ではないのかもしれません。
何度季節が巡っても。
何度人生が変わっても。
たとえ、すべてを忘れてしまったとしても。
もう一度、あなたに恋をする。
読み終えたとき、あなたの隣にいる大切な人との、何気ない今日という一日が、少しだけ違って見えたなら幸いです。
それでは、二人の長い、長い初恋の物語を始めましょう。
妻が死んだ夜のことを、悠人は雨の匂いで思い出す。
彼女の最後の声よりも、腕の中から失われていった温もりよりも先に、濡れたアスファルトの匂いが戻ってくる。あの夜以来、雨の降り始めには、息をするのが少し怖くなった。
けれど、あの朝は晴れていた。
2026年11月22日。目を覚ますと、隣の枕が空いていた。シーツには詩織の体の形が残っている。手を伸ばすと、まだ温かかった。
枕元に小さな紙があった。
「おはよう。20年目のあなたへ」
丸い文字。最後の「へ」だけが少し右に傾いている。絵本の原稿には何度も描き直しをするくせに、悠人へのメモはいつも一度で書いた。その無防備な筆跡が好きだった。
台所から卵を焼く匂いがした。
「記念日くらい、俺が作るって言ったのに」
「今日は私が全部やるの。20年分の感謝」
「20年分にしては、卵が一品だけど」
「愛は品数じゃありません」
詩織は菜箸を指揮棒のように振った。44歳になっても、得意げなときの口元は、大学の図書館で初めて話したときと変わらない。
悠人が椅子に座ると、彼女は背後に回った。頭をそっと抱き寄せられる。洗濯した綿と、焼いた卵と、いつもの石鹸の匂い。
「どうした?」
「覚えておきたいだけ」
「何を」
「この朝」
笑って言ったのに、指が悠人の髪に絡んだまま離れなかった。悠人はその手を軽く叩いた。こんなふうに甘えるのは珍しい。昨夜遅くまで原稿を描いていたせいだろうと思った。
壁の時計が7時12分を指した。詩織の腕が一瞬だけ硬くなった。
「冷めちゃうね」
彼女は手を離した。
朝食のあと、悠人は食器を流しに運んだ。詩織は皿を受け取ろうとしたが、彼は袖をまくって水を出した。
「今日は私が全部やるって」
「20年分の皿洗いまで、今日やることはないだろ」
詩織は少し困った顔をして、それから隣に立った。彼が洗い、彼女が拭く。二人で立つには狭い台所だった。肘がぶつかるたび、どちらかが少し体をずらす。新居を設計したとき、悠人はもっと広くするつもりだった。けれど、詩織はこのくらいでいいと言った。
あのときは、予算を気にしているのだと思った。
「台所、狭かったかな」
今さら尋ねると、妻は濡れた皿を光にかざした。
「私は好きだよ。ここ」
「もっと広ければ、ぶつからない」
「ぶつかったら、よければいいじゃない」
彼女はそう言って、悠人の肘に自分の肘を軽く当てた。
窓の外に、桜の枝が見えた。11月の桜は、絵になる木ではなかった。花もなく、葉もまばらで、細い枝が空にひっかき傷をつけている。それでも詩織は、春よりこの季節の桜をよく描いた。
「花がないと、木の形がわかるの」
いつか、そう言っていた。
悠人は濡れた手を拭きながら、その言葉を思い出した。家も同じだった。家具が入り、人が暮らす前の空っぽの部屋には、設計した者にしか見えない線が残っている。暮らしが始まると、線は見えなくなる。そこに人の癖や匂いや、置き忘れた物が重なっていく。
20年住んだ家は、もう彼だけの作品ではなかった。
冷蔵庫には、詩織が描いた小さなうさぎの磁石があった。食卓の脚には、掃除機をぶつけた傷があった。悠人の図面を置く棚には、いつの間にか妻の画材が半分を占めていた。最初は不満だった。今は、空いていると落ち着かない。
「今夜、何時に出る?」
「6時半」
詩織はすぐに答えた。
「予約は7時半だろ。早くないか」
「少し、遠回りしたいの」
「どこを」
「昔の道」
彼女は皿を棚に戻した。背中を向けたままなので、表情が見えなかった。
「新歓の河川敷?」
「ううん。今日は、車で通るだけ」
悠人は頷いた。記念日に思い出の場所を通りたくなるのは、自然なことだと思った。自分も指輪を作り直したのだから、妻にも妻の計画があるのだろう。
玄関で靴を履いていると、詩織が上着を持ってきた。
「忘れ物」
「ありがとう」
上着を受け取ると、彼女は襟の折れを直した。昔から、そういうところを気にする人だった。悠人は自分の襟がどうなっているか、たいてい知らない。
「今日は、早く帰ってきてね」
「わかってる」
「仕事が増えても」
「増えても」
「涼介くんに頼まれても」
「それは断りにくいな」
詩織が笑わなかったので、悠人は慌てて付け足した。
「帰ってくるよ。ちゃんと」
彼女は頷いた。扉を開ける前に、もう一度、悠人の袖をつかんだ。
「行ってらっしゃい」
普段と同じ言葉だった。けれど、彼女は袖を離すまでに一呼吸ぶんの時間をかけた。
通りに出てから振り返ると、妻はまだ玄関にいた。悠人が手を振ると、小さく振り返した。
それが、何かの予兆だったとは思わなかった。
20年も一緒にいると、相手のいつもと違う仕草にも、都合のよい説明をつけることができる。記念日だから。疲れているから。新作の締め切りが近いから。
その説明が正しいかどうか、確かめなくても暮らしは進んだ。
その朝も、悠人は駅へ向かった。
設計事務所に着くと、真壁涼介が悠人の机に腰掛けていた。共同経営者なのだから自分の椅子に座ればいいのに、20年近く同じことをしている。
「20年目のプレゼントは?」
悠人は引き出しから小箱を出した。細い銀の指輪。内側に、AGAIN、と彫ってある。
「もう一回プロポーズするのか。おっさんが」
「おっさんだって、していいだろ」
涼介は笑ったあと、箱を閉じる悠人の手を見た。
「詩織ちゃん、喜ぶよ」
照れくさそうな声だった。涼介は人をからかうのが上手で、褒めるのは下手だった。
「お前が新歓に誘わなきゃ、会ってなかったんだよな」
「俺に一生感謝しろ。あと今月の経費精算、今日やれ」
昼前、事務所に古い依頼人が来た。
10年前に家を改修した夫婦だった。夫は杖を使うようになっていた。妻は、持ってきた菓子の箱を涼介に渡した。
「今度は、手すりをお願いしたくて」
悠人は椅子を引いた。
夫は、昔の図面を持っていた。何度も開いたらしく、折り目が白くなっていた。余白に、妻の字で家具の名前が書き込まれていた。
悠人は図面を広げた。自分の署名があった。10年前の字だった。
「階段が、少し怖くなりまして」
夫は言った。
悠人は、手すりの位置を聞いた。どちらの手で支えるか。途中で休むか。夜にも上がるか。
妻が答えようとすると、夫が、俺が言う、と笑った。
二人は小さく言い合った。妻は、夜中に一人で上がるから心配だと言った。夫は、起こすと悪いと思うのだと言った。
悠人は二人の話を聞いていた。
同じ家に暮らしていても、同じ階段を違う意味で見ている。
夫にとっては、自分で上がりたい階段。妻にとっては、一人で上がってほしくない階段。
彼は、踊り場に小さな椅子を置く案を描いた。
「途中で休めます。下からも、座っているのが見えるように」
夫婦は図面を覗いた。
「これなら、いいな」
夫が言った。
妻も頷いた。
依頼人が帰ると、涼介が菓子の箱を開けた。
「20年後、俺たちも手すりを考えてるのかな」
「考えてるだろ」
「お前、どんな爺さんになると思う?」
悠人は少し考えた。
「窓の位置に、まだ文句を言ってる」
「詩織ちゃん、苦労するな」
二人は笑った。
悠人は、20年後の自分を想像した。髪が白くなり、歩くのが遅くなり、妻と同じ階段を上がる。
その未来は、まだ、何も疑わずに思い描けるものだった。
彼は図面の端に、依頼人の希望を書いた。
「一人でも上がれる。二人でも見守れる」
その言葉を、自分の暮らしに当てはめることは、まだ考えなかった。
スマートフォンが震えた。詩織からだった。
「今夜、運転は私がするね。あなたはワイン飲んで」
夜の運転が嫌いな妻だった。雨の日はなおさらだ。悠人は「俺が運転するよ」と返した。すぐに既読になったが、返事は来なかった。
昼過ぎ、仕事の電話の合間に、出版社に寄った妻から写真が届いた。新作の絵本の一ページ。雪の中で、うさぎが眠るくまの前に立っている。
「最後はまだ秘密」
悠人は「くまが俺なら、少し痩せさせて」と返した。詩織から笑う顔のスタンプが来た。
そのころ、出版社では早瀬千夏が、白紙の最終ページを前に眉を寄せていた。
「来月が締め切りだよ」
「わかってる」
「続編を待ってる子、たくさんいるんだから」
詩織は原稿の角をそろえた。
「もし描けなかったら、白紙のままでもいい?」
千夏は笑わなかった。大学以来の親友が冗談を言っているのではないことだけはわかった。
「何かあった?」
「今日、結婚記念日なの」
「知ってる。それは白紙の理由にならない」
詩織は腕時計を見た。小さな傷のある古い時計だった。千夏は何度も買い替えを勧めたが、彼女はいつも首を振った。
「20年って、長いね」
その言い方が妙に遠かった。千夏は、原稿の話をいったんやめた。
夕方の少し前、悠人は予定より早く事務所を出た。
駅前の花屋で、白い花を選んだ。店員に何の記念日か聞かれ、結婚20年目だと答えると、相手は少し声を明るくした。
「おめでとうございます」
知らない人に祝われるのは、照れくさかった。けれど、悪くなかった。自分たちが積み重ねた時間が、街の片隅で誰かに認められたような気がした。
帰り道、花束を持つ手を左右に替えた。右手だと人にぶつかりそうで、左手だと指輪の箱を確かめにくかった。結局、箱を鞄へ移した。
家の前に着くと、仕事部屋の窓が開いていた。
詩織が、机に向かっていた。横顔しか見えなかった。筆を持ったまま動いていない。悠人は声をかけようとして、やめた。原稿を描いているとき、妻は静かな顔で一番忙しい。
玄関を開けると、彼女はすぐに出てきた。
「早い」
「帰ってきてって言っただろ」
花を渡すと、詩織は一瞬、目を丸くした。
「どうしたの」
「20年目の花」
彼女は包装紙の上から花を抱いた。鼻を近づけ、ゆっくり息を吸った。
「ちゃんと、匂いがする」
「造花じゃないからな」
「そうだね」
詩織は笑った。悠人は、その笑い方を写真に撮りたくなった。だが、携帯を出す前に、妻は花瓶を取りに行った。
仕事部屋の机には、紙が何枚も伏せてあった。端に、書き損じた手紙が見えた。
「千夏へ」
その下は、画用紙に隠れていた。
「手紙?」
詩織は花瓶を抱えて戻った。
「たまには、書こうと思って」
「いつも会ってるのに」
「会ってると、言わないこともあるから」
悠人はそれ以上聞かなかった。自分にも、涼介に面と向かって言えないことはある。ありがとう、とか。お前がいてよかった、とか。
妻は花の茎を切った。一本ずつ長さを変え、花瓶の中で向きを直した。そうしているときの顔は、原稿に色を置くときと同じだった。
「20年って、あっという間だった?」
詩織が聞いた。
「長かったよ」
彼女が顔を上げた。
「悪い意味じゃない。いろいろあっただろ。家を建てて、事務所を作って、君の本が出て」
「喧嘩もした」
「したな」
「洗濯物の畳み方で」
「それは君が細かい」
「それはあなたが雑」
二人は笑った。
悠人は花瓶の位置を少しずらした。妻がその位置をまた少し戻した。いつもの小さなやり取りだった。
「俺は、長くてよかったと思ってる」
言うと、詩織は花の間に指を入れたまま、動きを止めた。
「そう」
声が細かった。
「私も」
そのあと、妻は顔を伏せた。花の葉を整えているのだと思った。悠人は鞄を置きに二階へ上がった。
あとで何度も、この会話を思い出すことになる。
妻は、どれほど長い時間のことを考えていたのだろう。
そのときの悠人には、まだ、想像するための言葉さえなかった。
夕方、悠人が階段を下りると、玄関に紺のワンピースを着た詩織が立っていた。
「なに、その顔」
「20年経っても、見とれるんだなと思って」
「お店で言って。ちゃんと照れてあげる」
妻は鍵を取った。悠人が手を伸ばすと、握ったまま胸元に引いた。
「今日だけは、私」
「雨が降りそうだよ」
「わかってる」
それ以上言うと、記念日に喧嘩をすることになる。悠人は助手席に回った。後から何度も、この瞬間を思い返すことになる。鍵を奪っていたら。出かけるのをやめていたら。彼女の声の震えに気づいていたら。
車に乗る前、悠人は家を振り返った。
仕事部屋の明かりが消えていた。花瓶を置いた窓だけが、外の光を受けて薄く白かった。詩織が運転席の扉を開け、彼を待っていた。
「忘れ物?」
「いや」
悠人は乗り込んだ。
妻はシートベルトを確かめた。自分のものではなく、悠人のものを。金具を軽く引き、ちゃんと留まっていることを確かめた。
「子どもじゃないよ」
「知ってる」
彼女は笑った。
エンジンがかかった。車の中に、いつもの小さな振動が戻った。悠人は、家を出るたびに感じるこの振動が好きだった。仕事へ行く朝には少し重く、旅行へ行く朝には軽く感じる。同じ機械の動きなのに、その日の気持ちで違った。
今日は、軽いはずだった。
詩織は慎重に車を出した。角を曲がる前に左右を見た。見慣れた道なのに、確認に時間をかけた。
「そんなに緊張しなくていいよ」
「久しぶりだから」
「運転、代わろうか」
「大丈夫」
彼女はすぐに答えた。
悠人は鞄の中の指輪の箱に触れた。レストランで渡すつもりだった。食事のあとがいいか、乾杯の前がいいか、まだ決めていなかった。
最初のプロポーズは、あまり上手くいかなかった。
練習した言葉を忘れ、指輪の箱を逆に開けた。詩織は笑ったあと、泣いた。悠人は、泣かせたことに慌てて、結婚してほしいと言う前に謝った。
「どうして謝るの」
彼女はそう言った。
今夜は、謝らずに言おうと思っていた。
20年、ありがとう。
これからも、一緒にいてほしい。
車が小さな坂を上った。詩織は、坂の上の家を見た。
「この家、まだあるんだね」
「知ってる家?」
「窓が好き」
悠人は見た。古い木造の家だった。二階の窓が一つだけ、少し低い位置にあった。
「階段の途中にあるんだろうな」
「朝、そこに光が入る」
「たぶん」
妻は頷いた。
その家について、昔、二人で話したことがあっただろうか。悠人は覚えていなかった。
結婚して20年。出会ってから27年。
すべての会話を覚えているわけではない。忘れた会話の上にも、暮らしは積もっている。
悠人は、忘れても大丈夫だと思っていた。
妻が覚えていてくれる。自分が忘れたことを、彼女が時々教えてくれる。それで二人分の記憶になる。
だが、その夜、彼女が覚えていたものは、彼の知らない時間だった。
車は坂を下った。
詩織が、短く息を吐いた。
悠人は、窓の外を見ていた。
車が大通りに出るころ、雨が降り始めた。ラジオから古い曲が流れた。新歓の花見で、涼介が音の割れたラジカセでかけていた曲だった。
「懐かしいな」
「涼介くん、同じところばっかり巻き戻してた」
「お前、あの日、俺にぶつかって泣いたよな」
詩織は前を向いたまま、少し笑った。
「ぶつからなくていいのに。普通に声かければよかったのにね」
「そういうの、下手なんだよ」
「知ってる」
ラジオの曲が終わると、詩織は音量を下げた。
「千夏、今度、旅行に行くんだって」
「涼介と?」
「うん。仕事が落ち着いたら」
悠人は笑った。
「それ、ずっと言ってるな」
「落ち着くのを待ってたら、行けないね」
妻は前を向いていた。
「俺たちも、行こうか」
「どこへ」
「君が描きたい場所」
詩織は少し考えた。
「知らない町」
「ずいぶん広いな」
「知らない道を歩いて、知らない店に入って、何を食べるか、その場で決めたい」
悠人は頷いた。
妻は旅行の計画を立てるのが上手だった。店の営業時間を調べ、地図に印をつけ、忘れ物を確かめる。そんな人が、何も決めずに行きたいと言うのは珍しかった。
「迷うかもしれないよ」
「迷ったら、聞けばいい」
「店が閉まってたら」
「別の店」
「雨だったら」
詩織は、少し笑った。
「傘、買おう」
悠人は妻を見た。
その答え方が、好きだった。
予定が崩れても、世界が終わるわけではない。彼女といると、そう思えた。
「来月、休み取るよ」
彼が言うと、詩織は頷いた。
「うん」
「約束」
彼女は、ハンドルを握った指に少し力を入れた。
「約束」
その言葉が、なぜか、彼には重く聞こえた。
来月の旅行。
翌朝の朝食。
来年の記念日。
未来の約束は、どれも同じ形をしていた。叶うものと、叶わないものを、言ったときには見分けられなかった。
悠人は鞄の中の小箱を確かめた。
今夜の約束は、きっと叶うと思っていた。
信号が赤になった。ワイパーが雨を払うたび、妻の横顔が暗くなり、明るくなった。
「ねえ。生まれ変わっても、私を見つけてくれる?」
「急に何だよ」
「答えて」
悠人は小箱の入った上着のポケットに触れた。
「見つけるよ。何回でも」
詩織は頷いた。頷くまでに、少し時間がかかった。
時計は午後7時11分。悠人の胸の奥を、細い針のような痛みが刺した。胃の具合が悪いのかと思った。
信号が青になった。
交差点の右側から、白い光が膨らんだ。トラックだった。こちらの信号は青なのに、光は止まらなかった。
「詩織!」
妻がハンドルから手を離した。悠人の方へ、ためらいなく身を投げ出した。
「ごめんね」
それが衝突の前に聞いた最後の言葉だった。
気がつくと、雨の中にいた。どうやって車から出たのか覚えていない。膝の上に妻がいた。頬に付いたガラスを取ろうとして、指が震えてつかめなかった。
「救急車、すぐ来るから」
詩織の唇が動いた。
「けが、ない?」
「俺はいい。お前が」
「よかった。今度は、まにあった」
今度。その言葉を聞き返す余裕はなかった。彼女の指が悠人の頬をなぞった。
「また、はじめまして、しようね」
「やめろ」
「次は、ちゃんと声かけてね」
手が落ちた。
悠人はその手を拾って頬に押し当てた。温かい。まだ温かいのだから、終わっていないはずだった。名前を呼んだ。何度呼んでも、彼女は目を開けなかった。
左手の時計が7時12分で止まっていた。
「もう一度」
誰に言ったのかわからない。
「もう一度だけでいいから」
雨粒が止まった。
空中に浮いた水滴の一つ一つに、救急車の赤い光が映っていた。音が消えた。腕の中の妻の重さだけが残り、それも白い光の中にほどけた。
次に聞こえたのは、音の割れた歌だった。
「悠人。乾杯だって」
涼介が肩を叩いていた。髪が金色だった。頬が若い。手には紙コップ。悠人は自分の指を見た。結婚指輪がなかった。
河川敷に桜が咲いていた。
1999年4月4日。大学の新歓花見。
そんなはずはない、と考える前に、悠人は彼女を探した。
白いカーディガン。胸に抱えたスケッチブック。桜の下に、十八歳の水野詩織が立っていた。
悠人は紙コップを落とした。人をかき分け、歩いた。彼女が振り向いた。
目が合った瞬間、詩織の頬を涙が伝った。
「あれ。ごめんなさい。なんでだろう」
彼女は慌てて拭った。
「はじめまして。文学部一年の、水野詩織です」
悠人は何も言えなかった。触れたかった。生きていることを確かめたかった。けれど、彼女にとって自分は、初めて会う男なのだ。
「はじめまして」
やっと言った声が、涙でつぶれた。
桜の花びらが二人の間を落ちた。詩織はそれを目で追い、そっと腕時計に触れた。




