中編
現実の太陽はとうに昇りきっているはずだ。でも、ボクたちの夢の中は夜のままだった。一度は顔を出した白い光も、未羽の存在で行き場を失ったように暫く彷徨った末に消えていった。その間も、未羽はずっと一心に星空を見上げていた。
「…時間、あるんだよね」
「そうだね。いつまでかは分かんないけど、私が起きなきゃいけなくなるまでは」
未羽が星空に向かって手を伸ばす。白くて細い指の隙間から、明るい星の光が零れ落ちる。
ボクもゆっくりと目を細めた。
「海って見たことある?」
「ううん。写真でしか」
ボクが夢にこんなに干渉するなんてほとんどないから、なんか緊張するな。
「前に他の子の夢で見た海、綺麗だったな。…キミにも、見て欲しい」
そう言うと、彼女はにっこり笑った。太陽みたいな笑顔だなと思ったら、自分は太陽を嫌っていたはずなのにと少し不思議な気持ちになる。
「いいね、行こう。でもちょっと、この格好で海は変かな?」
言われてみれば、病室で寝ているそのままであろうパジャマ姿は流石に海には似つかわしくないかも。思わずふふっと笑ってしまった。
「パジャマパーティーも悪くないけど、海はこういう服で行くもの。そうだよね?」
一瞬で白いワンピースと麦わら帽子に早着替えした未羽も悪戯っぽく笑う。
「本当に、ここでは何でも思った通りになるね。身体も軽いし、普通の女の子になったみたい。夢ってこんなに楽しいものだったんだ」
「…うん。それじゃ、行こうか。」
静かだった空に波の音が響き、潮のにおいがつんと鼻をくすぐってくる。突然明るくなる視界に目を閉じた。しばらく経ってから目を開けると、そこにはきらきらと光を反射しながら揺らめく限りない海が広がっている。星空も、いつの間にか青空に変わっていた。
「…これが、海…?」
隣の未羽がどこか茫然としたように呟く。
「広い…でっかい…眩しい。これ、全部水なの?すごい、動いてる!海は世界の七割って、本当だったんだ!海って…本当にあるんだ!ねえ、これ 触れる?水に触っていい?海の水はものすごくしょっぱいって聞いたことがあるんだけど、ほんとなのかなぁ‼」
眩しい光をその瞳に反射させて興奮しきった様子の彼女は、一気にまくしたてるとボクの答えも聞かず波打ち際へ走っていった。途中で慣れない砂浜に足を取られ、「へぶっ」と転んで楽しそうに笑っている。それから海水につけた指先をなめて、「うわっ、めっちゃしょっぱい!塩辛い!」 と叫んで飛び跳ねているうちに波に巻き込まれて、もう全身びしょびしょ。
「なんか…濡れたら吹っ切れた!道連れだ!くらえっ‼」
一歩引いて観察していたつもりなのに急に全力で水をかけられて、「ぴぎゃっ」とボクも変な声が出た。
濡れたら羽目が外れる。…確かにそうかも。
そこから先はもう、めちゃくちゃだった。二人で水をかけ合って、お腹が痛くなるまで笑った。
ボクが終わりを意識せずにその瞬間を楽しめたのなんて、いつぶりかな。
それから3週間とちょっと。ボクと未羽は飽きもせず夜空を眺めたり、いろんな場所に行ったりして過ごした。未羽は大人びて達観したところもある子だったけど、好奇心旺盛で新しい世界の前ではとっても嬉しそうにはしゃぐ。子供らしい面もたくさんあって、ボクはどんどん彼女が好きになっていた。夢の相手じゃなくて、友達。そう感じ始めていたと思う。
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そんなある日。いつものように並んで座って空を見上げていると、知らない声が聞こえてきた。
「未羽…大丈夫?そろそろ起きてくれないと、もうこんなに長く…未羽、起きてっ」
焦ったような心配そうな、大人の女の人の声だ。多分未羽のお母さんだと、すぐに分かった。
「…そっか。ここに来てからもう3週間くらいだっけ。そろそろ戻らないと、心配かけすぎちゃうよね…」
そう言う未羽に、ボクはすぐには返事ができなかった。ぎゅっと手を握りしめる。声が震えないようにすごく注意を払って、ゆっくり口を開く。
「…そうだね。また、夜になったら戻ってこれるよ。だから、行ってきたら?」
結局、特別だと思っていた未羽にもいつも通りの嘘をついてしまう。それが精一杯だった。
「ん。起きても特にすることないし、何時間か経ったらまた戻ってくるよ。お母さんにも大丈夫だって言っておく。じゃあね」
待って。「また後で」はないんだよ。目が覚めたら、君はボクのことを忘れてしまうんだよ。喉まで出かかった言葉は、伝えられないまま心の底に重く沈んだ。
久しぶりの、何もない白。それが前よりももっと寂しく感じる。
「…もう会いたいよ。ねえ、帰ってきてよ」
そう言いながら指先に力を込めてみる。一瞬だけ小さな青空が灯って、すぐに消えた。
何も、変わっていないな。
「シエルはさ、なんか願い事ないの?」
前に未羽に訊かれたことが蘇ってくる。あの時は思わずぎくりとしてしまった。なんの躊躇いもなく核心を突いてきたから。
「こんなに何でもできる世界にいるのに、キミはいつもちょっと物足りなさそうだよね。自分の願いは叶えられないの?」
あの時のボクはなんて返したんだっけ。
「…ボクはあくまでも、皆の夢を助ける立場だから。ボク自身が夢を見たりとかは、あんまりないかな」
ボクたち夢の妖精は、夢に描かれないと存在すら分からない。一人でできることなんて何もない。
本当のボクは、からっぽ。
それを嫌というほど思い知らされるから、この時間が嫌いなのかもしれない。
次に誰かに描いてもらえるのは、いつになるかな。そう思いながらじっとしていたはずが、それは予想よりもずっとすぐにやって来た。
「シエル、ただいまー」
想像もしていなかった、未羽の帰還という形で。
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ボクは茫然としていた。驚けばいいのか、喜べばいいのかも分からずただポカンとしていた。
「えっと、おかえり…?」
挙句の果てに出てきたのはこんな気の抜けたおうむ返しの言葉だけ。でも、未羽はそんなことお構いなしだった。
「お母さんにシエルの話してきたよ。未羽が楽しそうでよかったって喜んでくれた。これからもたまに目を覚ましつつなら、今みたいにしてていいって!」
何事もなかったようにけろりとした様子を見ていたら、ボクもちょっとずつ冷静になってきた。
恐る恐る訊いてみる。
「未羽、ボクのこと本当に覚えているの?」
「え?何言ってるの。三週間も一緒にいたんだよ?星を見たのも、海で遊んだのも、延々やったしりとりもちゃんと覚えてるよ」
心底不思議そうな顔をされた。
夢の妖精のことは誰も覚えていられないはず。どれだけ長く夢の中で過ごしても、目覚めた時間がどんなに短くても、だ。それなのにどうしてこの子は当然の顔をしてボクを忘れていないと 言うんだろう。
そんなボクの困惑を見透かしたように未羽が説明を付け加えてくれた。
「私の病気は脳の病気でね。そのせいなのかは分かんないけど、ちっちゃい頃から幽霊とか、私にしか見えないモノに出会うことがあるんだ。シエルもそんな存在かなって思ってたんだけど、違った?」
まさか、そんな風に思われていたとは。っていうか幽霊って本当にいたんだ。
「うん。ボクはキミだけじゃなくて沢山の子たちの夢に関わってる。でも、その子たちはみんなボクのことを忘れちゃうんだ。一回起きてまた戻ってきたのはキミが初めてだから、びっくりしてる」
未羽も暫く目をぱちぱちとして、それから嬉しそうに笑った。あの、太陽みたいな笑顔が開く。
「そっかあ。じゃあ、シエルは私の中だけの存在じゃないんだ。こういうのは初めてだし、なんか…すごい嬉しい」
それを聞いた途端、ボクの心が強く共鳴するのが分かった。自分にしか分からないことがある寂しさ。それを理解してくれる相手を見つけた喜び。そういうものを、ボクはここで初めてちゃんと噛み締められた。




